96番 承久の乱後の権門 西園寺公経 花さそふ

今につながる西園寺家の始祖とされる公経。承久の乱またぎで一歩抜け出し後鳥羽院失脚後、京朝廷での第一人者となる。豪奢を極めた西園寺(今の金閣寺の所)を建て権勢を誇った公経、どんな人だったのでしょう。

 91九条家の  良経 が   1169生まれ
 94飛鳥井流の 雅経 が   1170生まれ
 96西園寺家の 公経 が   1171生まれ

これって何なんでしょう。ややこしくてゴチャゴチャになりますねぇ。。

96.花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

訳詩:     花を誘って庭一面に白く散らす無情の嵐よ
        この庭に白く積るものは 雪ではない
        雪ではない 降りゆくものは
        古りゆくものは
        わが齢のみ

作者:入道前太政大臣 藤原公経 1171-1244 74才 従一位太政大臣 西園寺家の始祖
出典:新勅撰集 雑一1052
詞書:「落花をよみ侍りける」

①西園寺公経
(藤原公経と言うと11世紀に居た人と混同するので西園寺と呼ぶのがいいらしい)
・父藤原実宗 - 閑院流
 藤原北家閑院流=師輔の子公季から始まる家流、道長時代は傍流であったが白河帝以降は天皇外祖父(外戚)の主流となる。
  実母が閑院流娘の天皇 白河帝 母茂子 外祖父公成
             鳥羽帝 母苡子 外祖父実季
             崇徳帝 母璋子 外祖父公実
             後白河 母璋子 外祖父公実
   →81後徳大寺実定の項、参照

・閑院流は三条家・西園寺家・徳大寺家に分れ五摂家に次ぐ家格の公家となっていく。
 西園寺家の始祖が96番歌の公経で西園寺公経と呼ばれる。
 最後の元老と呼ばれ二度総理大臣となる西園寺公望1849-1940は西園寺家第37代当主

・公経の姻戚閨閥関係、これがすごい。
 正妻=全子(源頼朝の同母妹坊門姫の娘、父は北家中御門流一条能保)
 →頼朝のかわいい姪。頼朝は婿のごとく公経を大事にしたのではないか。

 公経の娘倫子は91九条良経の子道家の妻となり頼経(鎌倉4代将軍)を生む。
 また倫子の娘竴子は後堀河帝の中宮となり四条帝の母となる。
 (外孫に4代将軍頼経と後堀河帝中宮竴子。ひ孫が四条帝)
 →これってすごい閨閥。公経が権勢を誇った理由が分かる。

・鎌倉幕府との結びつき
 頼朝の姪全子を妻に迎えたことから鎌倉幕府とは親密。親幕派。
 1219 実朝暗殺さる。4代将軍に外孫の頼経(2才)を送り込む。
 1221 承久の乱 後鳥羽院の乱の情報を事前に鎌倉に通報。乱鎮圧の功労者に。
 1222 太政大臣就任 また鎌倉との関係から関東申次に就任。
    以後10年ほど京朝廷の第一人者として君臨する。
 1231 病気により出家(出家後の様子はうかがい知れない)
 1244 没

・西園寺の名の由来は北山(今の金閣寺の所)に豪勢な西園寺を建立したことによる。
 西園寺の様子 増鏡より
  太政大臣そのかみ夢み給へることありて、源氏の中将(光源氏)わらはやみまじなひ給ひし、北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。
 西園寺に植えた桜を詠んで
  山ざくら峯にも尾にも植ゑおかむみぬ世の春を人や忍ぶと
 
  →源氏物語若紫の冒頭、源氏が10才の若紫を発見する場面が引かれている。

・公経の人物評価は毀誉褒貶相半ば。
 処世は卓越してたが閨閥を活かし幕府に追従したお陰で京での豪奢な生活は自己中心的。
 →世人のやっかみを受けるのはやむないか。でも西園寺邸はやり過ぎだったのでは。

②歌人としての西園寺公経
・多芸多才で和歌・琵琶・書に通じる風流貴公子であった。

・1200以降の数々の歌合に出詠
 新古今集に10首、新勅撰集(定家撰出)に30首他、勅撰集に114首

・定家との結びつき、、、すごい結びつき!
 公経の姉が定家の妻になり為家を生む。(定家は公経の義兄)
 公経は為家をかわいがり猶子としている。
 その為義の岳父(妻の父)が宇都宮頼綱。定家に百人一首色紙を所望した男。
 →公経は当然定家(御子左家)の大スポンサーとなっている。

 その定家が「明月記」の中で公経を「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」と評している。清盛を凌ぐ勢い、公経の権勢ぶりがよく分かる。

・公経の歌から、
 西園寺妙音堂に琵琶の道のことで祈りに行く際
  音絶えてむせぶ道には悩むとも埋れな果てそ雪の下水

・公経の歌人としての評価は高くなく、新勅撰集に30首を撰入したのも定家の個人的理由とされる。百人一首への撰入も定家との特別関係からであろう。
 →だって百人一首を頼んだのは宇都宮頼綱。猶子為家の妻の父。公経を入れない訳にはいかないでしょう。
 →百人一首90番台は人物撰でいい。承久の乱後京朝廷の太政大臣として鎌倉と政治を動かした公経が入っていることすごく重要だと思う。

③96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
・花さそう嵐 常套句ながら老いの嘆きに繋げているところが評価されている。
 権勢を極めた者が老いを迎えてこれだけはどうにもならないと嘆じた歌。

・ふりゆく 降りゆく&古りゆく

・本歌
 9花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に(小野小町)

・「花さそふ嵐」の先行歌
  花さそふ嵐や峰をわたるらん桜波よる谷川の水(金葉集)

・定家の先行歌
  春をへてみゆきになるる花のかげふりゆく身をもあはれとや思ふ(拾遺愚草)

・逆の発想の歌(桜の花よ沢山散って老いの道を隠して欲しい)
 基経40の賀での業平の歌(伊勢物語97段)
  さくら花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今集)

・90番台は91冬に近い秋、94秋、98が夏。一首は春の歌が欲しい。それも桜の歌。

 桜の歌は百人一首に6首(9花のいろは・33久方の・61いにしへの・66もろともに・73高砂の・96花さそう)。
 →「9花のいろは」で始まり「96花さそふ」で春の桜を締めくくる。何とも粋な計らいではなかろうか。

④源氏物語との関連
 さっぱり思いつきませんでした。
・春の嵐は源氏が須磨から明石に移るきっかけ手段として出てきました。
 
・老いを嘆く歌、源氏物語から探してみましたが見当たりませんでした。
 (34番歌の所で老いを嘆く歌に触れてますのでご参照ください)

 96番歌の歌意としては若菜下源氏が老いゆく自分を嘆き、若き柏木の過ちをいびる場面での源氏の気持ちかとも思うが、若菜下の場面は初春前の師走。歎きの度合いもちょっと違う気がします。

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95番 公武合体推進論者 大僧正慈円 おほけなく 

権門生まれの大僧正慈円。現実的に世相を眺め朝廷を重んじつつ武家の世を受け入れ公武合体を説いた。こういう物分りがよく徳のある人がいたから頼朝も王朝転覆は考えなかったのではないか。偉い人だと思います。

95.おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖

訳詩:    見のほど知らぬことよ さもあらばあれ
       憂き世の民に私は覆いかけるのだ
       比叡の山に住み初めのわが墨染の衣の袖を
       みほとけの冥加を念じ
       はるか 大師伝教の御跡を踏んで 

作者:前大僧正慈円 1155-1225 71才 76忠通の第六子 天台座主
出典:千載集 雑中1137 
詞書:「題しらず」

①慈円 76忠通が59才の時の第六子 摂政関白兼実の同母弟 91良経の叔父
・1155生まれ 正に武士の世の到来を告げる保元の乱の前年生まれである。
 10才で父忠通死亡 11才(13才とも)で天台宗青蓮院に入寺 13才で受戒
 →父が死んだからか。兄等がおり公卿への道が狭かったからか。
 (青蓮院は知恩院の北、今度行く中川庵から極く近い)

・比叡山に移り千日入堂、12年も山に籠り厳しい修行を積む(その間京に下りていない)。
 25才で山を下り兄兼実に隠居(天台僧を辞める)を申し出るが説得され思い止まる。
 →吉野で荒行した66大僧正行尊ほどではないが相当真面目にやったようだ。 
 →辞めようとしたのは比叡山も荒れてた、それに嫌気がさしたか。

・1192 38才で天台座主になる(頼朝が征夷大将軍になった年)
 以後政局の変遷で座主を辞めさせられたり復活したりで計四度座主になった。
 →天台宗座主の椅子も政治ポストであった。

・後白河院に続き後鳥羽院(@11才)の護持僧を務める。
 →幼少の後鳥羽帝に色々ためになる話をしたのであろう。

・僧にありながら摂政関白兼実の弟、当然政治の世界でも九条家(兼実-良経-道家)のために力を尽す。
 →九条家は頼朝派(親幕派)。公武合体を目指す。

・鎌倉は頼朝の死後、頼家・実朝と暗殺が続きごちゃごちゃになる。実朝の後の四代将軍として実朝にわずかながら血のつながってる九条道家の子頼経(2才)が送りこまれる(1219)。
 (頼経=父九条道家、父の父91良経。母倫子、母の父96公経)
 →慈円は九条家と鎌倉将軍家を結びつけるべく力を尽す。

・1220 愚管抄を著す。
【愚管抄】(広辞苑)
 鎌倉初期、日本最初の史論書。慈円の著。7巻。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明
 
 →抽象的な説明だがポイントは「公武合体こそが今執るべき道ですよ」と討幕を目論む後鳥羽院を諌める書であった(らしい)。

 保元以後ノコトハミナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ノミニテアランズル

 三種の神器宝剣のない後鳥羽院に宝剣はなくても武家が守ってくれますと説く。
 コレハ武士ノ、キミ(天皇)ノ御守リトナリタル世ニナレバソレニ代ヘテ失セタルニヤト覚ユルナリ

・1221 慈円の諌めも聞かず後鳥羽院は承久の乱へと突っ走る。
 →結果的に「武士の世」が決定づけられる。

・1225 71才で入寂。
 →後鳥羽院の隠岐配流には心を痛めたことであろう。

 慈円の一生、正に保元の乱とともに生まれ武士の世の確立(承久の乱)を見て亡くなった。承久の乱は止められなかったが、結果的には鎌倉が王朝を覆すこともなく公武合体の国体が以後幕末まで続くことになる。慈円の見通しが600年も続いたということではないか。

②歌人としての慈円
・西行に密教(天台宗)を学ぶには先ず和歌を詠めと言われて和歌に精進した。
 →いつ頃の話だろう。西行とは37才違い。西行の晩年であろうか。

・父忠通も勅撰歌人。元々和歌も能くする家系だった。秀才の慈円にしてみれば和歌の習得もお手のものだったのだろう。

・新古今集に91首(西行に次いで多い) 勅撰集合計およそ260首
 私家集に拾玉集 5414首もの歌が残る 多作家であった。
 →詠んで詠んで詠みまくった感じ。

・甥91良経主宰の九条家歌壇や後鳥羽院歌壇でも活躍。
 俊成-定家-為家の御子左家を支援、和歌に行き詰まりを感じ出家しようとした為家を思い止まらせ御子左家歌道の存続興隆に寄与した。
 →歌もできる徳の高い高僧としてアドバイスには説得力があったのであろう。

・頼朝とも交流あり。頼朝が上洛し鎌倉に帰るにあたって歌を詠みかわしている。
  慈円 東路の方に勿来の関の名は君を都に住めとなりけり
  頼朝 都にはきみに逢坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ
  →公武合体推進論者の慈円。頼朝とはいい関係にあった。

・後鳥羽院も慈円の歌を誉めている(後鳥羽院御口伝)
  大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる歌、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様を好まれき。

・仏門にあった弟に仏道にありながら歌に熱中するのを咎められて
  みな人は一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道
  →しきしまの道(色し魔の道)?

 慈円の恋歌を千人万首から引っ張り出してみた。
  わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古今集)
  →いかにもお坊さんが詠んだ恋の歌。女性の匂いが全く感じられない。

③95番歌 おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
・20代後半ないし30代前半 比叡山での修行中の歌。
 (1180-1185 源平争乱の真っ只中)
 おほけなく=身分不相応ながら 謙遜の意

・わがたつ杣
 比叡山延暦寺天台宗の開祖、伝教大師(最澄)の歌(梵語)を本歌とする。

  阿耨多羅三みやく三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ(新古今集)
  (あのくたら三みやく三ぼだい) 梵語 サンスクリット語
   最上の悟りを開いた仏さま、私が開く比叡山にお加護をいただけますように。

 95番歌により「わがたつ杣」は比叡山のことを指すようになる。

・95番歌の俊成評
  はじめの五文字より心おほきにこもりて末の匂ひまでいみじくをかしくは侍る

・「おほけなく」と謙遜しながらも「人民よわたしの覆う衣の下で安んじるがいい」とけっこうおこがましい感じの歌である。
 →でもこれぞ宗教の歌。カリスマ性がなくては宗教家は務まらない。

 仏教の力による世の平安・衆生の救済を図る。
 →若いながら「天台宗をしょって立つ気概にあふれている」(白洲正子)

 ずっと訳の分からない歌でしたが、色々調べてみて凄い歌であることに気づきました。
 百人一首中、時局を反映した歌としては一番じゃないでしょうか。

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが比叡山でしょうか。

・源氏は某の院で頓死した夕顔の四十九日の供養を秘かに比叡山にて行った。
(自ら手配して供養を行うなど初めてだったろう)

 かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめてさるべき物どもこまかに、誦経などせさせたまふ。(夕顔19)

・宇治十帖 入水した浮舟を見つけ小野の里に連れて行き面倒みたのが横川の僧都&妹尼
 最後の帖(夢浮橋)、薫は浮舟のことを聞くべく比叡山に上り中堂に参詣、横川に回って僧都に会う。出家した浮舟。逢って縒りを戻そうと考える薫。僧都が浮舟に書いた手紙は還俗を進めるものだったか否か。
 
 →宇治十帖の最後の最後は比叡山の山麓小野の里が舞台でありました。

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94番 歌鞠両道の達人 飛鳥井雅経 衣うつなり

京生まれの鎌倉育ち、鎌倉幕府創成期に京と鎌倉の橋渡し役となった飛鳥井雅経。蹴鞠(スポーツ)と和歌(文芸)の上手。ゴルフ・テニスと古典・俳句・カラオケを愛する爺にはお手本みたいな人。どんな風に文武両立してたのでしょうか。見せていただきましょう。

94.み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり

訳詩:    みよしのの旅の宿り
       吹きおろす夜の秋風
       渡ってくる砧の音の寒さよ
       ふるさとは底まで澄んで
       いにしえびとも目に顕って

作者:参議雅経(藤原雅経)1170-1221 52才 従四位下頼経の二男 飛鳥井流
出典:新古今集 秋下483
詞書:「壔衣の心を」

①参議雅経
・父は刑部卿難波頼経(受領階級)(藤原の傍流か)
 平家滅亡後父頼経は義経方につき鎌倉(頼朝)に対抗したため安房~伊豆に配流される。
 →義経につくか頼朝につくか。難しい判断だったのだろう。

・そのあおりで子の雅経は1180(11才)~1197(28才)までの少年~青年時代18年間を鎌倉留め置きの身となる。この雅経、蹴鞠&和歌に余程優れていたのであろう、頼朝に認められ蹴鞠好きの二代将軍頼家の蹴鞠の師となり、果ては頼朝の信任を得て頼朝の猶子になる。妻には鎌倉幕府の政務筆頭であった大江広元の娘が娶せられる。

 →これだけ取りたてられたのは蹴鞠・和歌の才だけではなかろう。京から来たピカピカの若者で万事に光り輝いていたのであろう。
 →11才で鎌倉に連れて来られた前から蹴鞠・和歌は習得していたのか。
  どこで誰に教わったのであろう?
 →1180~97の鎌倉と言えば源平争乱~幕府作りで蹴鞠・和歌どころではなかったろうに。

・1197 雅経の蹴鞠上手が後鳥羽院の目に留まり後鳥羽院の蹴鞠の師として京に呼び戻される。
 以後後鳥羽院の近臣として和歌・蹴鞠を武器に重用される。
 →従三位参議にまで昇る。正に芸は身を助くの典型であろう。

・長年の鎌倉在住経験から上京後も京(後鳥羽院)と鎌倉幕府との橋渡し役になり何度も京~鎌倉を往復する。
 1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導

・熊野に通いつめた(28回も)後鳥羽院に随行ししばしば熊野にも行っている。

・蹴鞠の上手で後鳥羽院から「蹴鞠長者」の称号を与えられる。蹴鞠の飛鳥井家の始祖。
 【蹴鞠】
  中国古代から。鹿のなめし革製のボールを蹴り上げ回数を競う。
  四隅に桜・柳・松・楓の木を植えその高さを目途に蹴り上げる。
  広さは5~10M四方くらい、そんなに広くない。
  サッカーのリフティングみたいなもの。4・6・8人とかの団体戦と個人戦。
  →運動神経と体力が必要。平安貴族の服装ではやりにくかったろう。

・「歌鞠両道の誉れ高く」とされる。
 平安時代 文科系科目は管弦・漢詩・和歌・書・絵
      体育系科目は弓馬・鷹狩・蹴鞠

・1121 52才で死亡。直後の同年6月に承久の変が勃発する。
 →雅経が生きていたら後鳥羽院を諌めることができたのかも。

②歌人としての雅経
・新古今集(22首)以下勅撰集に132首。家集に「明日香井和歌集」

・後鳥羽院歌壇の重鎮
 1201 和歌所寄人になりその後、新古今集撰者に任用される。
 (新古今集撰者: 源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮)
  →但し後鳥羽院が自らふるいにかけ実際には後鳥羽院撰とも謂われる。

・「後鳥羽院御口伝」
 雅経はことに案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だりとみえき。
 →「案じかへりて」=あれこれ思いめぐらし

・本歌取りの名手、詞取りの名手とされる。一方では他人の歌の詞を盗用する悪い癖があったともされる。
 →詞取り、詞盗り。紙一重である。
 →テニスの自己判定では「疑わしきはセーフ」だが、詞取りではどうであろう。
 →蹴鞠の達人にしてはスポーツマンシップに欠ける気がするのだが。

・蹴鞠を詠んだ歌
 八重桜の枝に鞠をつけて内裏にさしあげた歌
  春を惜しみ折る一枝の八重桜九重にもと思ふあまりぞ

 景勝寺の蹴鞠場の老桜が倒れ新しく植えられたのを見て
  なれなれて見しは名残の春ぞともなど白河の花の下かげ

・千人万首より本歌取りとされる歌二首

 秋は今日くれなゐくくる立田川ゆくせの波も色かはるらむ(新勅撰集)
  ←17ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは(業平)

 大江山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(明日香井集)  ←60大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立(小式部内侍)

 →本歌取り。う〜ん、巧妙ですねぇ。

③94番歌 み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり 
・吉野の里 古の都 宮滝あたり。
 →もうこの時代には天皇・上皇の吉野御幸はなくなっているか。
 →雅経も熊野には何度も行ってるが吉野には行ってないのではなかろうか。

・衣うつ=砧(木槌)で布地を打ちやわらげ、つやを出す。
 →女性の秋の夜なべ仕事。
 →トーントーンと規則正しい音。さびしげに聞こえる。
 (youtubeで見たけど時間かかりそう、大変な作業である)

・1202年の百首歌の中の一首
 一つ一つの詞使いというより全体的な流れがいいとされる。
 →「小夜ふけてふるさと寒く」「さ」と「ふ」の響きがいい。

・本歌
 み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり(古今集 坂上是則)
  →「み吉野の」と「古里寒く」はいっしょだが「衣うつ」は新鮮。まあ及第点でしょう。

 衣打つ
 風寒みわがから衣うつ時ぞ萩のしたばもいろまさりける(古今集 紀貫之)

・94番歌を下敷きにした芭蕉の句
  砧打って我に聞かせよや坊が妻(芭蕉 野ざらし紀行@吉野の奥山の宿坊)
  →吉野に来たら砧打ちと期待していたのだろう。実感である。

④源氏物語との関連
・蹴鞠と言えば六条院春の町での「唐猫騒ぎ」であろう。
 我が講読会で印象場面ベスト5に入ってる名場面です。

 三月うららかな日、六条院で蹴鞠の遊び。唐猫が御簾を引き開け、柏木は女三の宮を見てしまう。

  几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物なるべし。(若菜上37)

 →柏木と女三の宮。源氏物語第二の禁忌の恋の幕開けであります。

・衣打つ砧の音
 17才恋の暴走止まらぬ源氏が五条あたりの下町の夕顔の宿で濃密な夜を過した翌朝の風景

  白栲(たへ)の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり。(夕顔10)

 →源氏物語には珍しい庶民的な下町描写。芭蕉の奥の細道福井(芭蕉が旧知の等栽を訪ねる場面)は源氏物語夕顔のこの段を下敷きにしている。

【余計なオマケ】
 昨日で70才になりました。周りのみんなに祝福されていい気分でした。本人はまだまだ爺さんではないと思ってるのですが、やはり確実に年老いてます。今まで取れたテニスの球が取れない。お酒に弱くなった。孫が危ないことしててもすぐ駆け出せない。固有名詞は勿論普通名詞も咄嗟に出て来ない。等々。まあ年相応なんでしょうね。先日東海テレビOBの友人に借りて見た「フルーツ人生」の爺婆をお手本にほどほどに実のある人生を生きていければと思っています。

 改めて生活信条を思い返しています。
  日々を明るく穏やかに!
  家族・仲間を大切に!
  ゴルフのやり過ぎ、酒の飲み過ぎ注意!

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93番 三代将軍にして天才詩人 実朝 綱手かなしも

源実朝、昔から「大海の」の歌、大好きです。東映映画のタイトルシーン、よくぞ豪快にこんな歌詠めたものだと感心します。そんな実朝、武家のならいとは言え28才にして暗殺さる。どんな一生だったのでしょうか。

93.世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも

訳詩:    世の中はいつも変わらずありがたいものよ
       渚こぐ漁師の小舟の
       綱手ひくさまのおもしろ
       眼の奥に焼きつけておきたいほどの
       おもしろの さてまた哀しい 人のいとなみ

作者:鎌倉右大臣(源実朝)1192-1219 28才 源頼朝二男 鎌倉三代将軍 正二位
出典:新勅撰集 羈旅525
詞書:「題しらず」

①「鎌倉右大臣」
・武士としては初めての右大臣で当時の公家社会からすると尊称なのであろうが、現代人からするとピンと来ない。やはり「鎌倉三代征夷大将軍源実朝」がいいのではないか。
 →実際には鎌倉幕府が政治を牛耳っていたのだが京都朝廷からすれば「鎌倉の右大臣」、一介の臣下に過ぎないという感覚(希望的妄想)だったのだろう。
 →これが昂じて後鳥羽院の独り善がりの暴走(承久の乱)へと繋がる。

・頼朝誕生~鎌倉幕府成立~実朝暗殺~北条執権政治までの年表
1147 頼朝誕生
1159 平治の乱 頼朝@13伊豆へ配流
~~ 平家全盛 頼朝ひたすら伊豆で耐える(約20年間)
1180 頼朝、以仁王の令旨を受けて伊豆で挙兵
1185 壇ノ浦にて平氏滅亡
1187 義経征討、奥州藤原氏(泰衡)滅亡→頼朝の天下へ
   →この頃から実質的には鎌倉幕府が政治を動かしている。
1192 頼朝征夷大将軍就任(後白河院崩御の直後)
   この年に実朝誕生(政子腹の次男) 
   →一般的には「イイクニ作ろう」でここから鎌倉時代が始まったとされる。
1199 頼朝死去@53(体調崩し病死か、落馬原因説もある)
   頼朝の後を継ぎ(政子腹の)長男頼家第二代将軍に
1203 頼家を廃し実朝@12第三代将軍に
  (実朝を担ぐ北条氏と頼家の乳母系比企氏との争い)
1204 頼家、北条氏に暗殺さる。
   実朝@13新古今和歌集取り寄せ、定家に師事
1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導
1213 金槐和歌集成立(この頃で実朝、歌作を止める)
1218 実朝、右大臣就任(武士として初めて)
1219 実朝、公暁(頼家の子)に鶴岡八幡宮で暗殺さる。@28北条義時の策謀
   源氏の血は絶え、以後京からの公卿、親王が傀儡将軍となり実質北条執権政治が始まる。
1221 承久の乱(北条政子が大演説をして幕府軍がまとまる)
1225 北条政子死去

(年表をじっと見ての感想)
・頼朝は挙兵までは一介の地方豪族に過ぎなかった。以仁王の令旨&源氏嫡流の血筋で5年にして平家を滅亡させ7年で天下一となる。
 →正に武士の世のダイナミック性である。

・京と鎌倉 二つの政権。
 京の朝廷(&公家)からすれば鎌倉の臣下に政治をやらせているとの感覚。
 →万世一系の天皇家を長とする日本の国体は変わらない。

・北条(政子)の力が大きい。頼朝死後は御家人間の争いが絶えず結局源氏の血筋は実朝で断絶。承久の乱でぐらつくが政子の大演説によって幕府軍は一本化し承久の乱を平定、以後北条執権政治の世の中となる。
 →父祖からの忠臣に支えられて天下を成した家康と異なり、頼朝は伊豆での流浪生活からの這い上がり。頼朝死後は結局妻方の北条氏の天下になってしまう。53才での頼朝の死は早すぎた。

②歌人としての源実朝
・父頼朝も歌人だった(新古今集に2首入集)。実朝も若くから和歌に傾倒。
 13才時、できたての新古今集を贈られ大喜びしている。
 17才で疱瘡を病む。以後も病弱だった模様。
 18才 定家に自作の30首を送り評価を求める。定家より歌論書「詠歌口伝」を贈られる。
 20才 参議雅経、鴨長明に鎌倉で和歌の指導を受ける。
 22才 金槐和歌集成立、定家へ贈る。
 
 →和歌に対し誠に早熟、熱心である。
 →12才で将軍になったが実質は母政子と北条義時・和田義盛ら御家人が政治を行い。実朝は和歌に没頭しておればよかったのだろう。
 →23才以降は歌作が殆どない由。身辺もきな臭くなって歌どころではなかったのだろうか。

・実朝の歌は京の新古今調とは異なり新鮮な響きがある。
 
【実朝歌に対する評価(「日本文学史」小西甚一)】
 定家の系統をひかぬ歌人は存在しない、唯一の例外として、源実朝がある。この名目だけの将軍は、武家に在籍しながら、精神的には公家化した人であって、定家の指導により、歌道を熱心に修めた。しかし、実朝の歌には、当時としてたいへん異質的な歌風、すなわち万葉風がいちじるしく、どうしてそのような歌を詠むにいたったかはまだ研究されつくしていないが、とにかく異彩ではある。実朝を除けば、中世和歌即定家流ということになる。

 →古今集をボロクソにけなした子規も返す刀で実朝のことを絶賛している。

・実朝の歌から
 自然を豪快に詠んだ歌
  もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原
  箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
  大海の磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも

  →素晴らしい! いつ口遊んでも心が大きくなります。

  山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
  →後鳥羽院に忠誠を誓った歌。官位が欲しい、あくまで朝廷には従服であった。

  萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
  うば玉や闇の暗きにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる

  →世のはかなさ、あはれを詠った歌。

  時により過ぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめ給へ
  ものいはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

  →山上憶良を彷彿させる。

 すごいスケールが大きい。セコセコしていない。
 何とも言えない物悲しさが伝わってくる。
 →将軍になどなりたくなかったのであろう。京の公家に生まれたかった!

・公暁に暗殺される日に詠んだとされる(辞世の)歌
  出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
  →そう言えば24菅原道真も右大臣だった。でも出来過ぎ。後世の戯作であろう。

③93番歌
・本歌取りの手法を駆使した歌
 本歌とされる二つの歌
 十市皇女伊勢の神宮に参る赴く時に波多の横山の巌を見て吹ぶき刀自が作る歌
  川上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常をとめにて(万葉集)
 (天武と額田王の子十市皇女、大友皇子に嫁し壬申の乱で敗れ、天武の元に戻る)
  →波多の横山は小町姐さん、文屋さんの生まれ故郷

  陸奥はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(古今集 陸奥歌)

・「常にもがもな」変わらないで欲しいという願望。
  I wish it were、、、反実仮想の言い方である。

・「あまの小舟の綱手」漁師の日常の描写
 →実朝は常々鎌倉海岸を散策し海を遠望し物思いにふけったのであろうか。

・「かなしも」何がかなしいのか? →「無常のはかなさ」
 →歌全体から「もののあはれ」感が漂う。
 →三代将軍にして暗殺されるという実朝の生涯を考えると、「箱根路を」「大海の」よりも93番歌の方が代表作として相応しいのかも。

④源氏物語との関連
 ちょっと思いつきません。何せ武門のトップ征夷大将軍の歌、雅な源氏物語世界からは程遠い存在です。それにしても凡そ和歌・公家・風流と征夷大将軍とはミスマッチ。
 百人一首中京都の空気を吸ったことのない歌人はこの人だけ(平安時代以前を除く)。然も白昼公然と暗殺された男。
 →誠に異色づくめの人選です。それだけに天性の詩才は輝くものであった筈です。

松風有情さんから93番絵いただきました。大銀杏、インパクトありますね。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0144_20170225111035.jpg

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92番 沖の石の讃岐 キテレツな題詠に臨む わが袖は

源三位頼政の娘として名高い二条院讃岐。父の一生をバックとしつつ考えてみましょう。

92.わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

訳詩:    わたしの袖は そうです あの沖の石です
       潮がひいてもなお姿を現さないあの――――
       人は知らないことですけれど
       わたしの袖はあの石のように濡れつづけです。
       望みない恋のために流す涙で

作者:二条院讃岐 1141ころ~1217ころ 78才 源三位頼政の娘
出典:千載集 恋二760
詞書:「石に寄する恋といへる心を」

①二条院讃岐
・二条帝(後白河帝の次)(即位1158-65病死)に仕えた女房ということで「二条院讃岐」だが、何故「讃岐」なのか、よく分からなかった。

父が有名な源三位頼政、この父から見て行きましょう。
・父源頼政1104-1180 77才 清和源氏で源頼光の流れ
 (源頼光は65相模の父、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。同時に歌人でもあり勅撰集に3首入撰している)

・頼政も文武に秀でた気骨ある源氏として名を馳せた。
 保元・平治の乱ではうまい具合に勝者側に属し、清盛の平家政権下では源氏の長老として従三位公卿に列せられるまでなったが、所詮は中途半端な出自、出世は思うにまかせず歎き節を残している。

 人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな
 →この歌で昇殿を許されて四位に昇格

 登るべき頼りなければ木のもとに椎を拾ひて世を渡るかな
 →この歌で清盛に訴え75才でやっと従三位、公卿になった。

・ところが頼政はまだ不満があったのか以仁王を奉じて清盛に反旗を翻したが、全く問題にならず宇治平等院であっけなく自害。享年77才
 頼政辞世の句  埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける

・平家物語での源頼政
 1 巻四 「鵺(ぬえ)」
   近衛帝の時、御所に正体不明な生物が出現、これを頼政が退治した。
   其の時上下手ン手に火をともいて、これをご覧じみ給ふに、頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵺にぞ似たりける。おそろしなンどもおろかなり

 2 巻四 「宮御最後」
   壮絶な最後。頼政も歌林苑のメンバーだったことから既に85俊恵のコメント欄で紹介していますが改めて記しておきます。

   埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
  これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかってぞうせられける。其の時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をばとなふって、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治川のふかき所にしづめてげり。(
@宇治平等院 頼政享年77才)

 3 巻四 「競」
   そもそも75才でやっと清盛に三位にしてもらって念願かなった頼政が何故清盛に反旗をあげたのか。息子仲綱所有の名馬を清盛の次男宗盛が所望、仲綱と宗盛の壮絶ないやがらせ合戦が繰り広げられる。結局負けるしかなかった仲綱の悔しさが頼政挙兵の原因か、、、、と
  →どうでしょう。頼政、楽隠居で余生を過ごしておけばよかったのに。

・源頼政
 歌林苑の会衆、数々の歌合に出詠、勅撰集に59首入集
 →本来なら百人一首の撰に残ってもよさそうな歌人
 →政権に反旗を翻した謀反人の烙印がおされており、撰の対象にならず。讃岐の入選はその点の考慮もあったのかも。

以上、長々と源三位頼政について述べすみませんでした。
(この人の人生航路を辿れば保元の乱~平家滅亡までがよく分かるように思います)

・さて娘の「讃岐」
 若い時(18才)から二条帝の宮中に仕える。
 →二条帝とほぼ同年令、帝も目をかけていたのであろう(お手はつかなかったようだが)。
 →父譲りで和歌も得意、華やかな宮中勤めだったのだろう。

 25才の時二条帝が病気で崩御、宮中から退出。
 藤原重頼(受領階級の中流貴族)と結婚、子どもも成す。
 50才頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕、6年ほどで退出出家する。
 (異説もあるようだが上記多数説で考えておきましょう)
 →父(&兄仲綱)の討ち死は40才の時、ショックを乗り越え頑張ったんだなあと拍手を送りたい。
 →二条院退出後は異説があるように詳しくは分かってないようだ。重頼との結婚の経緯、子育てのことなど知りたいところ。

②歌人としての二条院讃岐
・若くして二条院に出仕、宮中歌合にも出詠。父に連れて行かれたのであろうか俊恵の歌林苑にも参加。段々と歌人として重用されていく。
 →歌合には彩りを添える存在として女流歌人が必ず必要。有名歌人を父に持ち讃岐にはひっきりなしに声がかかったのであろう(一度ブレークすると各局にレギュラー番組を持つようになる現代のタレントと同じ)

・千載集以下勅撰集に73首(父の59首より多い) 私家集「二条院讃岐集}

・歌林苑での交遊は讃岐の歌人としてのキャリア造りに貢献したのであろう。
 →90殷富門院大輔と同じである。

・(wikiより)1201後鳥羽院主催の千五百番歌合で詠んだ讃岐の「世にふる」歌はその後延々と続く本歌取りのもとになった。
   世にふるはくるしき物をまきのやにやすくも過る初時雨哉(新古今集)
  これに続いて大歌人たちが挙って派生歌を詠み、室町~江戸と下って連歌俳諧の世界でも「世にふる」が詠みこまれる。まあ一種のブームだろうか。
 →「世にふる」は9小町歌が始まりでしょうよ。

③92番歌 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
・「石に寄する恋」
 百人一首中一番キテレツな題ではなかろうか。
 「筵、網、糸、帯、玉などかなりひねりを利かした趣向も少なくない」(安東次男)

 「題詠という創作方法が、趣向をつかい果して、ついに恋と石をとりあわせるところまでたどりつかざるをえなかったことは、やはり一種の病的現象というよりほかないだろう」久保田正文(百人一首の世界)

 →こんなのを当時も「前衛運動」と呼んだのであろうか。
 →満開の花の宴で「春といふ文字賜れり」と叫んで秀逸な詩(漢詩)と作りあげる。これぞ題詠でしょうに。

・沖の石は干潮時にも水面下にあって顔を出さない。石は乾くことがない。
 私の袖も同じように乾くことはない。
 →そもそも海面から顔を出さない石なんて譬の例になるんですかね。
 →何だか発想が貧弱なような気もするのですがねぇ。

・「人こそ知らね」 一般の人を指してか、恋の相手を指してか。
 →一般の人を詠みこんでも仕方ない。やはり相手に突き付けてる感じじゃなかろうか。

・「沖の石」 二説あり
 .父頼政所領の若狭矢代の浦の沖合にある大石
 .夫重頼が陸奥守でもあったので多賀城市の沖の石

 →多賀城市の沖の石で考えておきましょうよ。
 芭蕉も奥の細道で訪ねているし私も見てきました。末の松山のご近所です。

・海中の石が乾くことはない。私の袖も、、、という歌はいっぱい詠まれている。
 先行歌
 わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし 和泉式部
 ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに 源三位頼政
 なごの海潮干潮満ち磯の石となれるか君が見え隠れする 源三位頼政
 厭はるう我はみぎはに離れ石のかかる涙にゆるげぞなき 源三位頼政
 みつ汐にかくれぬ沖のはなれ石霞にしづむ春の曙 源仲綱
 
 →頼政・仲綱のものはまあファミリー工房ということでいいとして、和泉式部の歌は出だしの五と下句の七七が殆ど同じ。まあ盗作と言われても抗弁できないんじゃないでしょうか。
 →定家ももうちょっといい歌を採ってあげたらよかったのに。

④源氏物語との関連
・源氏物語には何故か歌合の場面が登場しません。歌合に代り絵合がある。
 →その「絵合」の描写は40,41番歌の天徳内裏歌合を踏襲している。
 
・源氏和歌795首には題詠によるものというのは見当たらない。
 須磨の秋のあはれを源氏主従(源氏・良清・惟光・左近将監)で唱和し合うのはあるが、題詠ではない。
 歌の大半が個人間の歌の贈答、これぞ本来の和歌の役目ではなかあろうか。

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91番 九条家の才人貴公子 良経 ひとりかも寝む

いよいよ終盤、時代的には13世紀鎌倉歌人の歌へと入っていきます。91良経は76忠通の孫、兼実の息子、95慈円の甥にあたります。権門の摂政関白家にして和歌・漢学に秀でた優秀一族の人模様。見て行きましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:     あ 鳴いているのはこおろぎか
        寒い霜夜のさむしろに
        ただ一人 わが袖ひとつ片敷いて
        しんしんと身にしむ夜の闇の底
        うずくまって あわれ 一人寝

作者:後京極摂政前太政大臣(藤原良経)1169-1206 38才 九条兼実の次男
出典:新古今集 秋下518
詞書:「百首歌奉りし時」

①藤原良経、九条家を名乗った兼実の子(次男)なので九条良経とも呼ばれる。
 →摂政関白家の嫡流である。

・良経1169生まれ=後鳥羽院より11才年長、定家より7才年少

・忠通-基通(近衛家)-家実-兼平(鷹司家)
   -兼実(九条家)-良通(勅撰歌人、有望なるも22才で病死)
           -良経(兄亡き後九条家の嫡流となる)
 (九条家は良経の孫の代で二条家・一条家とに分流し五摂家ができあがる)
 (誠に優秀な一族。武士の世になってなければ政治の実権はこの一族のものだったろう)

・兄良通は将来を嘱望される逸材であったが22才で病死、同母弟の良経が九条家の後継者となる。以降父兼実とともに公卿に列なり(途中反兼実派の反撃で一時朝廷から追放されるがまもなく復帰)土御門帝(後鳥羽院の子)の摂政、太政大臣となる。
 
 →百人一首上の名前は「後京極摂政前太政大臣」(十字)二番目に長い
  一番長いのは祖父76忠通の十二字「法性寺入道前関白太政大臣」

・ところが摂政太政大臣として現役バリバリの1206年 38才にして急死
 暗殺説(何者かが寝所に侵入して天上から槍で突き殺したとか)もあり。
 →諸説紛々だが結局は不明。ただ尋常な病死ではなかったのだろう。

【余談 京都の朝廷公家と鎌倉幕府の関係について】
 良経が左大臣・太政大臣(1199-1206)として京都の朝廷で政治に携わっていたのは既に鎌倉に幕府ができていた時代。政権(行政・立法・司法とも)は鎌倉にあったと思うのだが京都朝廷は何をやってたのだろう。政権の実権は鎌倉にあったが形式上朝廷(天皇&公卿)のお墨付きが必要でその形式を整える役目が公卿の役割だったということだろうか。
 →この辺、どうももよく分かりません。

②歌人としての良経
・若くから和歌、書道、漢詩に堪能。博学多才の貴公子。
 特に書道は独特で天才的、「後京極流」と呼ばれた。

・83俊成を師として和歌を学ぶ。97定家は九条家の家司、定家からも学んだ。
 →御子左家に学んだ歌人であり御子左家歌道の庇護者的役割も担っていた。

 【余談 和歌道の確立と公家】
  兼実・良経の九条家の後見もあって御子左家は歌道の祖となっていく。嫡流の御子左家は二条家(五摂家の二条家とは別)と呼ばれるが定家の孫の代で冷泉家・京極家が分流し三家となっていく。
  →政治的に武家に従ずるようになった貴族・公家のアイデンティティとして和歌道が重要視されるようになっていった。

・新古今集に79首 勅撰集計319首(これは多い!) 私家集に秋篠月清集

・新古今集では和歌所の筆頭になり仮名序を執筆
 新古今集巻頭の歌は良経の歌
  春立つこころをよみ侍りける   摂政太政大臣
  みよし野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり
  →後鳥羽院の信頼が如何に厚かったかが分かる。

 後鳥羽院口伝
  故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。

・1193六百番歌合(超大規模歌合)を良経邸で開く。
 (87寂蓮と六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争(87番歌の項参照))

 →良経歌壇の主宰者として多くの歌合を主催。
 また後鳥羽院歌壇の中心人物としても後鳥羽院に貢献した。
 
・良経の恋愛結婚についてはあまりエキサイティングな話は見当たらなかったが一つ。
 頼朝の女婿一条能保の娘を妻としたが先立たれた。妻を悼んで。
  くらべこし夜半の枕も夢なれや苔の下にぞ果ては朽ちぬる
  →余程妻を愛していたのであろう。91番歌も妻を偲んでの歌との説もある。

・千人万首より一首
  かぢをたえゆらの湊による舟のたよりもしらぬ沖つしほ風(新古今集)
 →調べとして46番歌プラス祖父忠通の76番歌みたいな感じがする。

③91番歌 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
・1200年に後鳥羽院が主催した初度百首歌で詠んだ歌。後鳥羽院が本格的に和歌に取り組み始めた頃で後鳥羽院歌壇形成の契機となった百首歌。実に79首が新古今集に入集している。

・「恋」の部でなく「秋」の部に分類されている。

・「きりぎりす」は今の「こおろぎ」
 (平安王朝で「松虫」は今の「鈴虫」、「鈴虫」は今の「松虫」。ややこしい)

 きりぎりす(こおろぎ)は秋深くなると野外から家の床下にまで入り込んでくる。
  秋深くなりにけらしなきりぎりす床のあたりに声聞こゆなり
  →寝てる下から聞こえてくる。寒くなったのが実感される。

 またきりぎりすは寒くなると弱ってくる。
  きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく(西行)

・さむしろ=「寒い」・「狭いむしろ」 掛詞

・共寝では脱いだ互いの衣を掛け合って寝る。一人寝は自分の衣の半分しか敷けない。
 →なかなかうまい表現ではないか。

・「ひとりかも寝む」
 →3あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂)

・他に本歌とされる歌
  吾が恋ふる妹は逢はずて玉の浦に衣かたしきひとりかも寝む(万葉集)
  さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集)
  さむしろに衣かたしきこよひもや恋しき人にあはでのみ寝む(伊勢物語第六十三段 つくも髪)

この歌の評価はいかがでしょう。淡々とした調子の歌で恋の情熱とか恨みとか熱いものは感じられない。さりとて寒くなりゆく秋の夜を詠んだ歌としてももの足りない。何となく中途半端な歌かなと思ったのですが、、、後京極摂政殿、お怒りにならないで!

④源氏物語との関連
・秋の虫については「鈴虫」が重要で巻名にもなっている。 
「きりぎりす」はさほどでもないが「壁の中のきりぎりす」として二ヶ所登場。

 1 庶民の町にある夕顔の宿に泊まった朝の描写 
   虫の声々乱りがはしく、壁の中のきりぎりすだに間遠に聞きならひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさま変へて思さるる、、(夕顔10)

 2 大君は薫の気配に物陰に隠れ夜が明けるころきりぎりすのように姿を現した。
   明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。(総角7)
   →薫から逃げまくる大君。まどろっこしくてやきもきしたものです。

・序でに
  寝返りをするぞ脇よれきりぎりす (一茶)
  むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉 奥の細道 小松多太神社)

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90番 殷富門院(式子内親王の姉)に仕えた大輔 見せばやな 

忍恋に命を細らせた式子内親王に続くのは、式子内親王の姉殷富門院(亮子内親王)に仕えた大輔。「くれないの涙」、これも強烈な恋の歌です。

90.見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず

訳詩:     見せてあげたいこの袖を あの方に
        雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
        どれほど濡れても色まで変りはしないのに
        わたしの袖は濡れに濡れて
        紅に変ってしまった 血の涙いろに

作者:殷富門院大輔 生没年未詳 父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成
出典:千載集 恋四886
詞書:「歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる」 

①殷富門院大輔 生没年 wikiに1130-1200 こうしておきましょう。70才
・父藤原信成 勧修寺流 即ち25藤原定方の末裔
 母菅原在良の娘 即ち菅原道真の末裔
 →まあここまで下るとあまり関係ないでしょうが。

・結婚歴はない。若くから末年までずっと亮子内親王に仕える。
 →一生を亮子内親王家に捧げた人生と言えようか。

 *女房勤めとは何たるかと考えてしまう。自身のためかお家のためか。
  勤めた先が不婚を原則とする内親王家では結婚はためらわれたのであろう。
  →女房と一口に言っても身分出自も色々、能力性格もあろうし一概には言えないであろうが。

・その亮子内親王1147-1216 後白河院の第一皇女 89式子内親王の同母姉
 安徳帝、後鳥羽帝の准母 院号殷富門院(いんぷもんいん)

・百人一首の並びとしては、
  88番 皇嘉門院(崇徳院中宮)の女房別当
  89番 式子内親王(後白河院第三皇女)
  90番 殷富門院(後白河院第一皇女)の女房大輔
 女性が3人続く。それも強烈な恋の歌。
  →一つ飛ばして92番二条院讃岐も女性の恋歌。定家の意図が窺われる。

②歌人としての殷富門院大輔
・亮子内親王家を代表し数々の宮廷・貴族の歌合に出詠

・千載集を始め勅撰集に63首(定家撰の新勅撰集には15首入集)
 →定家が高く買っていたことが分かる。

・家集に「殷富門院大輔集」
 多作家として名高くついたあだ名が「千首大輔」
 →頭もきれ積極的で物怖じしない活発勝気な女性だったのだろうか。

・85俊恵法師主宰の歌林苑の常連メンバー
 歌林苑に集まった歌人
 82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明
 →一流勤め先(亮子内親王家)ということで仲間も一目おいてたのだろう。

 また86西行、97定家と交際交流している。
 →定家は大輔よりも30才も年下。多作の先輩歌人に何かと教わったのだろう。

・鴨長明は無明抄で殷富門院大輔を小侍従と並ぶ女流歌人の双璧と賞賛している。
  近く歌よみの上手にては、大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき

  *****
  小侍従1121-1201=二代の后(藤原多子)に仕えた女房歌人 勅撰集55首
  母の父は菅原在良、従って殷富門院大輔の従姉にあたる。
  平家物語巻五月見で81実定が同母姉の多子を訪れる段に登場、「待宵の小侍従」と呼ばれた。
   待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは(新古今集)
  →以上、長い余談、すみません。
  *****

・「この人は恋の歌を作らせると、時として激越で感覚がするどい。人しれぬ悲恋を経験した女性だったのかもしれぬ」(田辺聖子)
 なにかとふよも長からじさのみやは憂きにたへたる命なるべき(新古今集)
  〈あなた、どうしてそう、あたしを嫌うの? あたし、とても長くは生きていないでしょうよ、だっていつまでもこんな辛さに堪えていられないんだもの〉(田辺聖子訳)
   →確かにこんな官能的な歌、普通未婚者には詠めないでしょうにねぇ。

③90番歌 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
・「見せばやな~~」呼びかけの第一句。朗々と読みあげられると
 →「えっ、何、何。何を見せたいの?」と引き込まれてしまう。

 この「見せばやな」は「見せてさしあげたい」と言うより「ほら、よく見てよ!」という感じだろうか。

・本歌 48源重之
 松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか(後拾遺集)
 →48番で述べたが源重之は陸奥に縁が深かった。実際に雄島も訪れていたのだろう。

・「雄島の海人」はセット
 海人の生活ぶり。毎日ずぶ濡れになって魚を獲り若布を刈り塩を焼く。都人から見るととんでもないタフな生活。

・「いつも濡れてる海人の袖の色は変わらないでしょうが、私の袖は血の涙で色も変わってるんですよ」
 血の涙=漢籍からの引用 王朝では「恋の涙は血の涙」
 →技巧を駆使して本歌を超える歌とされる。定家も気に入って百人一首の歌としたのであろう。

・派生歌
  松島や雄島の海人も心あらば月に今宵袖ぬらすらん(二条院讃岐)
  袖のいろは人のとふまでなりもせよ深き思を君にたのまば(式子内親王)

④源氏物語他との関連
・紅涙
 くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき(夕霧@少女)
 →これは恋の涙ではなく源氏のスパルタ方針で六位スタートとなった夕霧が流した悔し涙。

 伊勢物語第六十九段(業平-伊勢斎宮の重要段) 
 その男(狩りの使い)が伊勢の斎宮を訪れ歌を交し合った翌日、今度こそは逢って思いを遂げたいと思ったが邪魔が入って逢えなかったというくだり。

  狩りの使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。

・源重之の歌以来歌枕となった松島の雄島、勿論芭蕉も奥の細道で立ち寄っているが、雄島では特に和歌の引用もなく塩竈から舟で松島に渡ったとすっと述べている。

日既に午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其の間二里餘、雄嶋の磯につく。
    →この後に松島の名文描写が続く。

最後に改めて89番式子内親王、90番殷富門院大輔と並べてみると結婚に縁のなかった二人の題詠とは言え恋の想いを相手に訴える強烈さにたじろぐ思いがする。

 89玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
 90見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず

松風有情さんの90番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0107_20170203125059.jpg

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89番 唯一の内親王式子 もみもみと 玉の緒を

さて式子内親王、百人一首中に内親王はこの人だけ(女帝は2持統帝の一人)。平安→鎌倉の激動期に残した数々の恋の名歌。取分け89番歌は百人一首中一二を争う人気歌(田辺)とされる。定家が恋い慕ったとも取りざたされ謡曲など文藝作品で後世に名を残した皇女。どんな人、どんな人生だったのでしょう。

89.玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

訳詩:    わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
       絶えるならば絶えておくれ
       このままこうして永らえていれば
       心に固く秘め隠しているこの恋の
       忍ぶ力が弱まって 思慮が外に溢れてしまう

作者:式子内親王 1149-1201 53才 後白河天皇第三皇女 賀茂斎院
出典:新古今集 恋一1034
詞書:「百首の歌の中に、忍恋を」

①式子 漢音で「しょくし」、呉音で「しきし」
 →どちらでもいいようだが業界では「しょくし」らしい。それでいきましょう。

・式子内親王 父は後白河天皇 母は藤原成子(閑院流季成の娘)
 →父の母(璋子)の父=公実 母の父(季成)の父=公実
 →閑院流の浸透ぶりがよく分かる。

【皇女と内親王】
 天皇の娘が皇女。その中で親王宣下を受けたのが内親王。皇女でも母の身分が低いとかの場合内親王にはなれない。

・同母姉に亮子内親王(殷富門院)、同母弟に以仁王、異母弟が高倉帝
 →何せ怪物・大天狗と畏怖された後白河院の子ども。それぞれに波乱の人生
 亮子内親王は安徳、後鳥羽、順徳帝の准母、以仁王は平家に抗し挙兵、敗死。

・11才~21才 丸十年 賀茂斎院 病を得て退下(式子は病弱だった)
 →俗世間から離れ神の妻となって神に奉仕する。
 但し洛中賀茂神社の斎院は伊勢斎宮ほどの隔絶感はなかったようだ。
 紫野斎院御所では女房・貴族たちの歌宴・楽宴もしばしば。
 (一方同母姉妹3人は伊勢斎宮に出仕している。ここは大変)

・斎院退下後は親族の御所御殿に住んだが概ね後白河院の庇護下にあった。
 この間住居は変わったが式子内親王家は姉の亮子内親王家(殷富門院)に次ぎ力を持つ存在であり、俊成は娘たちを女房として出仕させ、定家も家司として出仕させた。
 →御子左家と式子内親王との関わりである。

・親族を呪詛したと疑いをかけられたりで苦悩、浄土宗法然を戒師として出家。
 1191@43才 死去は1201@53才
 →経済的に豊かだったからこそ色んな騒動に巻き込まれたのだろう。
 →法然の教えは心に響いたようで法然を慕っていたとの説も見られた。
 →少女~青年期は神に仕え、晩年は仏に仕える。朝顔の姫君もそうだった。

②歌人としての式子内親王 
・現存する和歌は400首に満たないがその内157首が勅撰集に入集(新古今集は49首)
 私家集に「式子内親王集」(他撰) 歌合には出てない。百首歌が中心。

・俊成に師事。式子は大変な勉強家だったようだ。
 →俊成も全力投入で式子に歌を教えたのであろう。
 俊成の歌論書「古来風躰抄」は式子に差し上げたもの。

・式子は後鳥羽院には叔母にあたる。後鳥羽院は歌人としての式子を高く買っていた。
 後鳥羽院御口伝
 近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これこれ殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
 →「もみもみと」、、心を砕き言葉を考え尽して必要にして十分な様に詠むということか。叔母とはいいながら大変な誉め言葉であろう。

・式子の歌 百首歌 即ち題詠の歌が中心だが実生活に基くものもある。
 いつき(斎院)の昔を思ひ出でて
 ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ
(新古今集)

 斎院に侍りける時、神館にて
 忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの
(新古今集)

・91良経との贈答 九条家歌壇が政変で逼塞していたとき
 式子 ふるさとの春を忘れぬ八重桜これや見し世に変はらざるらん
 良経 八重桜折知る人のなかりせば見し世の春にいかであはまし

・各解説書に載せられている式子の歌。恋歌が中心。何れもすばらしい。
 はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにかよふ夢の通ひ路
 我が恋は知る人もなしせく床の涙もらすな黄楊の小枕
 見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
 生きてよもあすまで人もつらからじこのゆふぐれを訪はば訪へかし
 忘れてはうち嘆かるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
 我が恋は逢ふにもかへすよしなくて命ばかりの絶えや果てなん
 恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ
 あはれあはれ思へば悲しつひの果て忍ぶべき人誰となき身を
 しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき

 →こういう詠み方を「もみもみと」と言うのであろうか。題詠とは言え心に迫るものがある。

・定家は二十年にも亘り式子内親王家の家司として仕え、病気がちだった式子の見舞に過剰すぎるほど訪れている(式子は定家より13才年長)。ここから定家と式子内親王の恋愛説が生まれ、否定肯定入り乱れている。
 →謡曲「定家葛」
 →公平に見て定家が内親王と情を通じたなんてことはなかったであろう。
 →ただ定家が内親王に憧れ恋愛幻想を抱いていたことはあったのだろう。

③89番歌 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
・「玉の緒」=玉(魂)を繋ぎ止めてる緒、即ち命
  万葉集に多出
   玉の緒の絶えたる恋の乱るれば死なまくのみぞまたも逢はずして
   恋ふることまされば今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ

 「玉の緒」を詠んだ先行歌
   緒を弱み絶えて乱るる玉よりも貫きとめがたし人の命は(和泉式部)
   絶え果てば絶え果てぬべし玉の緒に君ならんとは思ひかけきや(和泉式部)
   →いかにも和泉式部が好みそうな詞である。

・百首歌 「忍恋」
 題詠であり観念的な歌なのだが実際にあった現実の恋のような響きである。
 →繰り返し唱えていると実にビビッドな感じが伝わってくる。

 「忍恋」 漏らしてはならない秘めねばならない禁忌の恋
      →我慢しなければならない絶えねばならない辛い恋とは違うのだろう。

・百人一首中の「忍恋」とされるのは40番歌
  忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)
  →でもこれは漏れてはいけない度合いが89番歌ほどではない感じがする。

・派生歌
  思ふことむなしき夢のなかぞらにたゆともたゆなつらき玉の緒(定家)
  →式子内親王への「忍恋」に耐えていた定家。
  →定家は万感の想いを持ってこの歌を百人一首に撰んだのであろう。

・89番歌は式子が男になり代わって詠んだ男歌だとの指摘もあった(田淵句美子)。
 →他解説書には男歌とは書かれていない。
 →確かにこういう禁忌な恋は男がするものだと思う。
 →定家の式子への想いはまさに89番歌そのものだったのかも。

④源氏物語との関連
・皇女の結婚について
 皇女は特別な存在で中々結婚は容易ではない。式子内親王の時代にあっては皇女の結婚の例はないのではないか。平安中期も皇女は不婚が原則だったと思うのだが(63道雅が三条院の皇女で前斎宮の当子内親王との密通事件を起こし三条院の逆鱗に触れたことが思い出される)、源氏物語では皇女も結構結婚している。

 →先帝の皇女藤壷は桐壷帝と結婚。桐壷の妹大宮(皇女だろう)は左大臣と結婚
 →朱雀帝の皇女女二の宮(落葉の君)は柏木と結婚。そして女三の宮が源氏に降嫁してくることで六条院がひっくり返るのでありました。

 平安中期以降入内は藤原摂関家からというのが定例になり、皇女は不婚が原則になったということか。

・89番歌 忍恋の心情
 これぞ源氏の藤壷への想い&柏木の女三の宮への想いそのものであろう。
 特に「あはれ衛門督」柏木は玉の緒をつなぎとめられず身罷るのでありました。

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88番 忠通、崇徳院につながる皇嘉門院別当 難波江の

皇嘉門院別当、全く知らない人でした。でも色々調べてみると定家がこの歌人を入れたのには深い理由があった。当時の人からすれば皇嘉門院の名はなくてはならなかったものなのでしょう。待賢門院と同じです。

88.難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

訳詩:    難波江の仮寝の宿の一夜の契り
       蘆の刈り根の一節ほどのそんなはかない
       その行きずりの恋ゆえに 私はこうして
       身を尽し 捧げ尽して 波のまにまに
       恋いわたらねばならないということでしょうか

作者:皇嘉門院別当 生没年未詳 源俊隆の女 皇嘉門院(崇徳院皇后聖子)の女房
出典:千載集 恋三807
詞書:「摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」

①皇嘉門院別当 父源俊隆(村上源氏)ともに生没年が分からない。
・別当は1175兼実家の歌合に出詠、皇嘉門院が没した1181には存命であった。
 →まあ生年はご主人たる皇嘉門院(1121-1181)と同じとしておきましょう。
 →西行1118生、崇徳院1119と同年代。保元・平治の乱をまたいで生きた人であった。

・別当その人については何も分からない。恋をしたのか結婚したのかも不詳。
 ご主人として仕えた皇嘉門院が重要。
 (別当=家政を担当する部署の長、皇嘉門院の身の回りを取り仕切っていた女官長)

 皇嘉門院聖子=77崇徳院の皇后 76忠通の娘
 ずっと摂関家からの入内(立后)は途絶えていた。80年ぶりに摂関家から皇后が出た。
 →ここで聖子に皇子が生まれてれば歴史は変わっていた。残念ながら子ができなかった。
 →崇徳院の跡目に皇子がつき忠通が外祖父。保元の乱は起らなかっただろう。
 (この辺、76番・77番と重複している) 

 子ども(皇子)ができなかった聖子の悲痛な歌
  何とかや壁に生ふなる草の名よそれにもたぐふ我が身なりけり

②歌人としての皇嘉門院別当
・皇嘉門院聖子は忠通の娘、九条兼実の異母姉。即ち九条家が実家。
 別当は九条兼実家の歌合(1175、1179)に頻繁に出詠。
 →皇嘉門院後宮を代表して登場してたのであろう。

・千載集以下 勅撰集に9首
 →これは少ない。百人一首に入選する大歌人とは言えないだろう。

・何故88別当の難波の歌が入選したのか。
 「別当は、皇嘉門院という名が冠されていることによって、自動的に崇徳院の悲劇を蘇らせる仕掛けになっている。もしそうなら、かつて宮であった難波も、栄枯盛衰の象徴として浮上してくるし、澪標も身を滅ぼす意を内包していることになる」(吉海直人)

 →定家はとにかく「皇嘉門院」(崇徳院后)という名を百人一首に入れたかった。
 →繋がりとしては76番忠通-77番崇徳院-88番皇嘉門院である。

・皇嘉門院はさておいて別当の歌
 摂政右大臣(兼実)の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける
  忍び音の袂は色に出でにけり心にも似ぬわが涙かな
(千載集)
   →本歌 40忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)

 うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰集)
  →逢えなくて泣く、逢えて泣く。。。いいですねぇ。こんなのきいたら男は愛おしく思ってしまう。

・千人万首でも別当の歌は全て恋の歌。別当が実際どんな恋をしたのか分からないが、女房たちが艶を競い合った華やかな皇嘉門院後宮にあって歌の上手な別当にはさぞ貴公子たちが群がり集まったことであろう。

③88番歌 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
・「旅宿逢恋」 旅先での恋 一夜の情事
 兼実家歌合での歌、何年の歌合か不詳だが1175年の歌合とすると皇嘉門院聖子は53才。別当もそのくらいの年令だったのだろう。
 →若かりし昔を詠んだ歌である。

・短い旅での一夜の契り。これを背負って生きていかねばならないのか、自問
 答えは「そう、そうしよう」という決意。
 →旅先かどうかはともかく別当にも遠い昔忘れられない一夜の契りがあったのであろう。

・刈り根=仮寝、一節=一夜、澪標=身を尽し、恋ひ=乞ひ 掛詞のオンパレード
 技巧を尽した歌、定家はこの技巧を評価したのであろう。

・難波江 淀川の河口 京から瀬戸内海への出口 水上交通の要所
 百人一首には難波は3首出てくる(「18住の江の」を入れると4首)

 19 難波潟みじかき蘆のふしのまも逢はで此の世を過ぐしてよとや(伊勢)
    →私は伊勢のこの情熱的な歌が好き、88番歌よりいいと思っている。

 20 わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(元良親王)
    →88番歌の本歌ともされる。
    →「一夜めぐりの君」と言われた元良親王。御集には遊女も登場する。

・難波は交通の要所で旅宿は勿論、遊郭も建ち並んでいた(江口、神崎)。
 作者(別当)は自分を遊女に見立てて女の宿命を詠みこんだとの説も多い。
 →後宮の高級女房と下賤な遊女。面白い対比だと思う。

・「女は一夜の恋にも身を尽すほどの宿命を背負ってしまう」(大岡信)
 →空蝉や花散里のことを思い出す。

④源氏物語との関連
 20番歌「わびぬれば」でも触れたが源氏物語第十四巻「澪標」がそのまま思い起こされる。

・明石から帰京した源氏はお礼詣りに住吉大社に出かける。そこには偶然明石の君も来ており源氏の喜びの歌に身分違いの自分の行末を案じる歌を返す場面

 (澪標11)
 堀江のわたりを御覧じて、「いまはた同じ難波なる」(元良親王)と、御心にもあらでうち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと例にならひて懐に設けたる柄短き筆など、御車とどむる所にて奉れり。をかしと思して、畳紙に、
 (源氏)みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな

 (明石の君 返し)
     数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ

 →こまめで用意周到な惟光は筆と紙を差し出す。
 →源氏の子を生んだものの源氏は京へ帰ってしまいこれから自分はどうなるか分からない。明石の君の不安と決意は88番歌の歌意に通じるのではないか。 

・続いての京への帰りの描写には遊女も登場している。
 (澪標11)
 道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心にはなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と聞こゆれど若やかに事好ましげなるは、みな目とどめたまふべかめり。

  →源氏一行の華やかな帰路行列。声をかけてくる遊女たちにお供の若者たちが応じる。

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87番 さりげなく定家に御子左家を譲った寂蓮 村雨の

さて、西行法師に続くは一枚札「むすめふさほせ」の「む」。百人一首カルタでは三本の指に入る人気札。寂蓮法師「むらさめの」の登場です。寂蓮さん、定家の兄というか、従兄弟というか、ライバルというか、御子左家の同僚というか、、、。何故出家して寂蓮と名乗ったのかなかなか興味深いご仁であります。

87.村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮

訳詩:    ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
       まだ真木の葉に光っているのに
       はや霧が 万象をしっとり包んで
       立ちのぼる さわやかに・・・・・
       秋の夕暮れ

作者:寂蓮法師 生年未詳-1202 60余才 俊成の兄弟の子、俊成の猶子
出典:新古今集 秋下491
詞書:「五十首歌奉りし時」

①寂蓮法師 俗名藤原定長 父は俊成の弟僧俊海(何時何故僧になったか不詳)
・生年不詳だが1138頃との説あり、これに従っておきましょう。没年1202 65才
・13才頃伯父俊成(この頃はまだ葉室顕広)の養子になる。
 →父が出家してしまったこと。俊成に歌才のある息子がいなかったこと。
 →それで俊成は歌にも才能のありそうな定長を養子に迎えたのだろう。

・俊成の押しもあったか、官位も進み従五位上中務少輔に至る。
 →まあ順当な出世コースだったのだろう。
 その間、妻を迎え男子4人女子1人の子どもができる。
 ところが1172 35才で妻子を残し出家してしまう!
 →ここがポイント。

・俊成は艶福家で多くの妻を娶り子どもも多数なしたが、御子左家を継がせる才のある息子に恵まれなかった。それで甥の定長を養子にし彼に家督をと考えていた。ところが美福門院加賀を妻に迎えて二番目にできた息子(定家)が利発にして歌才あり。行末御子左家の跡目争いになりかねない。そんな状況下、定長は考える。このままでは俊成も自分も定家も不幸になってしまう。自分が身を引くのが一番。それには妻子には悪いが出家しかない。
 →定長が寂蓮になったのはそんな具合だったのではなかろうか。
 →定長は分を弁え争いを好まぬ温厚な性格であったのだろう。正解だと思う。
 (この時、俊成59才、定長35才、定家11才)

 (オマケ)一粒種鶴松を亡くし甥の秀次を養子にし関白にしたら秀頼が生まれた。
      秀次の悲劇を思い出してしまう。

・定長が出家したのは35才の時。以降諸国行脚(高野、河内、大和、出雲、東国)、その後洛北嵯峨に居を構える。
 →半僧半俗。西行を慕い、西行に憧れての出家・諸国行脚だったのかも。
 →経済的には御子左家が定長の妻子も含めバックアップしたのだろう。

②歌人としての寂蓮
・養父俊成が英才教育を施したのだろう、出家前から宮中・貴族の歌合に出詠。
 →そりゃあ御子左家の後継ぎにと考えていた俊成も力が入ったことだろう。

・千載集、新古今集初め勅撰集に117首 私家集に寂蓮法師集

・1201後鳥羽院の勅を受け新古今集の撰者になるが翌1202新古今集成立前に死去
 →これは悲しい。続詞花集を撰進するも二条帝の死で撰者になれなかった清輔を思い出す。

・85俊恵主宰の歌林苑の常連メンバー
 →形としては御子左家と一線を画しているから気軽に集い談論に興じることができたのだろうか。

・九条兼実(摂政関白太政大臣)―91良経親子の九条家歌壇を支える。
 九条家歌壇メンバー 83俊成、87寂蓮、91良経、95慈円、97定家、98家隆
 →五摂家の一つ九条家。有職故実の公家。和歌も重要な項目一つであった。

・後鳥羽院は寂蓮の歌を誉めている(後鳥羽院口伝)。
 寂連はなをざりならず歌詠みし物なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき。
 →後鳥羽院は寂蓮を買っていて新古今集撰者にも入れたし、五十首歌合にも召集している。

・人柄は温厚であったが歌論については譲らず六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争は有名
 六百番歌合 1193年 91良経が主催 歌人12名x100首=1200首 六百番
 →とてつもない歌合。歌もさぞ玉石混淆、議論噴出大変だったことだろう。

 この歌合で顕昭が独鈷(とっこ)(密教僧が持つ法具)を振りかざし、寂蓮が蛇の鎌首のように首を伸ばし延々議論したことから「独鈷鎌首」と呼ばれる。
 →寂蓮の和歌への執念が感じられる。90才にして歌合で講師近くに陣取った82道因法師を思い出す。

・新古今集三夕の歌の一人
  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
  見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

・寂蓮の有名歌から
  葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古今集)

③87番歌 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
・1201年後鳥羽院主催の歌合で寂蓮が詠んだ歌
 「老若五十首歌合」春夏秋冬雑 各人十首づつ詠み合う
 (老)忠良、95慈円、97定家、98家隆、87寂蓮
 (若)99後鳥羽院、91良経、宮内卿、越前、94雅経
  →すごい歌合。世は鎌倉時代。京の公家は歌でも詠んでおとなしくしてる他なかったのか。

 *忠良=藤原忠良、76忠通の孫、95慈円の甥、91良経の従兄弟。勅撰集69首

・村雨(にわか雨)、雨の露、夕霧
 真木(杉、槇、檜など常緑大木の総称)
 秋の夕暮
 →墨絵の世界 静かな風景
 →寂蓮は諸国行脚もし嵯峨にも住んだ。実生活体験に基く歌であろう。

・歌としても名歌との評判で新古今集中の秀歌の一つとされる。
 田辺聖子も若い時は自然諷詠に興味がなかったが、年を重ねていかにも新古今風な、奥ふかいそれでいて優艶なところが汲みとれるようになったと書いている。
 →分かりやすい歌で昔から知っていた。
 →寂しさ、侘しさを強調した三夕の歌よりさらりとしてて気持ちがいいのではないか。

・「むすめふさほせ」一字決まり。覚えやすいしカルタでは人気札であろう。
 因みに「す」=18住の江の、「め」=57めぐり逢ひて、「ふ」=22吹くからに、
 「さ」=70さびしさに、「ほ」=81ほととぎす、「せ」=77瀬を早み

・本歌
  消え帰り露もまだひぬ袖の上に今朝は時雨るる空もわりなし(道綱母 後拾遺集)

・類想歌
  いつしかと降りそふけさの時雨かな露もまだひぬ秋の名残に(俊成)
  かきくらし空も秋をや惜しむらん露もまだひぬ袖に時雨て(忠良)

・京では嵯峨の時雨が特有とされる。
 定家が百人一首を編んだのが小倉山荘「時雨亭」、百人一首の殿堂が「時雨殿」
 (オマケ)
 「京のにわか雨」 小柳ルミ子 詞:なかにし礼
   雨だれがひとつぶ頬に 見あげればお寺の屋根や
   細い道ぬらして にわか雨がふる ~~

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが無理矢理こじつけで(真木が出てきたので)。

 明石13 仲秋の八月十二三日 源氏が初めて明石の君を訪れる場面
(明石の入道が娘のために粋を凝らして造った岡辺の宿の素晴らしい描写)
 、、、、三昧堂近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口けしきことにおし開けたり。

 源氏を迎えるように戸口はさりげなく開けられている。
 「この月入れたる真木の戸口は、源氏第一の詞と定家卿は申侍るとかや」(花鳥余情)
  →定家は「月入れたる真木の戸口」を気に入っていたようだ。新古今調の趣を感じたのであろうか。

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