87番 さりげなく定家に御子左家を譲った寂蓮 村雨の

さて、西行法師に続くは一枚札「むすめふさほせ」の「む」。百人一首カルタでは三本の指に入る人気札。寂蓮法師「むらさめの」の登場です。寂蓮さん、定家の兄というか、従兄弟というか、ライバルというか、御子左家の同僚というか、、、。何故出家して寂蓮と名乗ったのかなかなか興味深いご仁であります。

87.村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮

訳詩:    ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
       まだ真木の葉に光っているのに
       はや霧が 万象をしっとり包んで
       立ちのぼる さわやかに・・・・・
       秋の夕暮れ

作者:寂蓮法師 生年未詳-1202 60余才 俊成の兄弟の子、俊成の猶子
出典:新古今集 秋下491
詞書:「五十首歌奉りし時」

①寂蓮法師 俗名藤原定長 父は俊成の弟僧俊海(何時何故僧になったか不詳)
・生年不詳だが1138頃との説あり、これに従っておきましょう。没年1202 65才
・13才頃伯父俊成(この頃はまだ葉室顕広)の養子になる。
 →父が出家してしまったこと。俊成に歌才のある息子がいなかったこと。
 →それで俊成は歌にも才能のありそうな定長を養子に迎えたのだろう。

・俊成の押しもあったか、官位も進み従五位上中務少輔に至る。
 →まあ順当な出世コースだったのだろう。
 その間、妻を迎え男子4人女子1人の子どもができる。
 ところが1172 35才で妻子を残し出家してしまう!
 →ここがポイント。

・俊成は艶福家で多くの妻を娶り子どもも多数なしたが、御子左家を継がせる才のある息子に恵まれなかった。それで甥の定長を養子にし彼に家督をと考えていた。ところが美福門院加賀を妻に迎えて二番目にできた息子(定家)が利発にして歌才あり。行末御子左家の跡目争いになりかねない。そんな状況下、定長は考える。このままでは俊成も自分も定家も不幸になってしまう。自分が身を引くのが一番。それには妻子には悪いが出家しかない。
 →定長が寂蓮になったのはそんな具合だったのではなかろうか。
 →定長は分を弁え争いを好まぬ温厚な性格であったのだろう。正解だと思う。
 (この時、俊成59才、定長35才、定家11才)

 (オマケ)一粒種鶴松を亡くし甥の秀次を養子にし関白にしたら秀頼が生まれた。
      秀次の悲劇を思い出してしまう。

・定長が出家したのは35才の時。以降諸国行脚(高野、河内、大和、出雲、東国)、その後洛北嵯峨に居を構える。
 →半僧半俗。西行を慕い、西行に憧れての出家・諸国行脚だったのかも。
 →経済的には御子左家が定長の妻子も含めバックアップしたのだろう。

②歌人としての寂蓮
・養父俊成が英才教育を施したのだろう、出家前から宮中・貴族の歌合に出詠。
 →そりゃあ御子左家の後継ぎにと考えていた俊成も力が入ったことだろう。

・千載集、新古今集初め勅撰集に117首 私家集に寂蓮法師集

・1201後鳥羽院の勅を受け新古今集の撰者になるが翌1202新古今集成立前に死去
 →これは悲しい。続詞花集を撰進するも二条帝の死で撰者になれなかった清輔を思い出す。

・85俊恵主宰の歌林苑の常連メンバー
 →形としては御子左家と一線を画しているから気軽に集い談論に興じることができたのだろうか。

・九条兼実(摂政関白太政大臣)―91良経親子の九条家歌壇を支える。
 九条家歌壇メンバー 83俊成、87寂蓮、91良経、95慈円、97定家、98家隆
 →五摂家の一つ九条家。有職故実の公家。和歌も重要な項目一つであった。

・後鳥羽院は寂蓮の歌を誉めている(後鳥羽院口伝)。
 寂連はなをざりならず歌詠みし物なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき。
 →後鳥羽院は寂蓮を買っていて新古今集撰者にも入れたし、五十首歌合にも召集している。

・人柄は温厚であったが歌論については譲らず六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争は有名
 六百番歌合 1193年 91良経が主催 歌人12名x100首=1200首 六百番
 →とてつもない歌合。歌もさぞ玉石混淆、議論噴出大変だったことだろう。

 この歌合で顕昭が独鈷(とっこ)(密教僧が持つ法具)を振りかざし、寂蓮が蛇の鎌首のように首を伸ばし延々議論したことから「独鈷鎌首」と呼ばれる。
 →寂蓮の和歌への執念が感じられる。90才にして歌合で講師近くに陣取った82道因法師を思い出す。

・新古今集三夕の歌の一人
  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
  見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

・寂蓮の有名歌から
  葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古今集)

③87番歌 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
・1201年後鳥羽院主催の歌合で寂蓮が詠んだ歌
 「老若五十首歌合」春夏秋冬雑 各人十首づつ詠み合う
 (老)忠良、95慈円、97定家、98家隆、87寂蓮
 (若)99後鳥羽院、91良経、宮内卿、越前、94雅経
  →すごい歌合。世は鎌倉時代。京の公家は歌でも詠んでおとなしくしてる他なかったのか。

 *忠良=藤原忠良、76忠通の孫、95慈円の甥、91良経の従兄弟。勅撰集69首

・村雨(にわか雨)、雨の露、夕霧
 真木(杉、槇、檜など常緑大木の総称)
 秋の夕暮
 →墨絵の世界 静かな風景
 →寂蓮は諸国行脚もし嵯峨にも住んだ。実生活体験に基く歌であろう。

・歌としても名歌との評判で新古今集中の秀歌の一つとされる。
 田辺聖子も若い時は自然諷詠に興味がなかったが、年を重ねていかにも新古今風な、奥ふかいそれでいて優艶なところが汲みとれるようになったと書いている。
 →分かりやすい歌で昔から知っていた。
 →寂しさ、侘しさを強調した三夕の歌よりさらりとしてて気持ちがいいのではないか。

・「むすめふさほせ」一字決まり。覚えやすいしカルタでは人気札であろう。
 因みに「す」=18住の江の、「め」=57めぐり逢ひて、「ふ」=22吹くからに、
 「さ」=70さびしさに、「ほ」=81ほととぎす、「せ」=77瀬を早み

・本歌
  消え帰り露もまだひぬ袖の上に今朝は時雨るる空もわりなし(道綱母 後拾遺集)

・類想歌
  いつしかと降りそふけさの時雨かな露もまだひぬ秋の名残に(俊成)
  かきくらし空も秋をや惜しむらん露もまだひぬ袖に時雨て(忠良)

・京では嵯峨の時雨が特有とされる。
 定家が百人一首を編んだのが小倉山荘「時雨亭」、百人一首の殿堂が「時雨殿」
 (オマケ)
 「京のにわか雨」 小柳ルミ子 詞:なかにし礼
   雨だれがひとつぶ頬に 見あげればお寺の屋根や
   細い道ぬらして にわか雨がふる ~~

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが無理矢理こじつけで(真木が出てきたので)。

 明石13 仲秋の八月十二三日 源氏が初めて明石の君を訪れる場面
(明石の入道が娘のために粋を凝らして造った岡辺の宿の素晴らしい描写)
 、、、、三昧堂近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口けしきことにおし開けたり。

 源氏を迎えるように戸口はさりげなく開けられている。
 「この月入れたる真木の戸口は、源氏第一の詞と定家卿は申侍るとかや」(花鳥余情)
  →定家は「月入れたる真木の戸口」を気に入っていたようだ。新古今調の趣を感じたのであろうか。

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86番 和歌・仏道の象徴的存在 西行法師 嘆けとて

             謹賀新年

お正月いかがお過ごしだったでしょうか。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、西行法師のご登場です。歌壇が題詠中心のお公家歌道になっていく中、独自の歌境を貫いた大歌人とお見受けしました。ちょっとパフォーマンス過剰で反発する向きもあるようですが、その生き様みていきましょう。

86.嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

訳詩:    うつけ者よ 月が嘆けと言っただろうか
       物思いにふけれと言っただろうか
       月にかこつけ溢れおちる
       この涙 このわたしの涙
       うつけ者の うつけ涙よ

作者:西行法師 1118-1190 73才 俗名 佐藤義清
出典:千載集 恋五929
詞書:「月前恋といへる心をよめる」

①西行法師 俗名 佐藤義清(のりきよ)

西行年表
1118  佐藤義清誕生(平清盛も同年生)(この年璋子鳥羽帝中宮になる)
1135@18 左兵衛尉、鳥羽院の北面武士
1140@23 出家、円位→西行を名乗る(妻と二人の子を捨てて)
     洛外に草庵を結ぶ 第一回東北・陸奥旅行
1149@32 この頃高野山に草庵、しばしば吉野に入る
     吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ
1156@39 保元の乱、崇徳院讃岐へ配流
1167@50 四国行脚、没後の崇徳院を偲ぶ
     よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん
1180@63 伊勢二見浦に草庵を結ぶ(1181平清盛死去)
     ここもまた都のたつみしかぞ住む山こそかはれ名は宇治の里
1186@69 東大寺料勧進のため陸奥へ、途中源頼朝と会見
     年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古987)
1189@72 河内国弘川寺に草庵を結ぶ
1190@73 寂 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

・祖先は藤原秀郷(百足退治で有名な俵藤太)
 父は左衛門尉佐藤康清(代々左衛門府勤めが多くそれで佐藤姓に)
 徳大寺家(徳大寺実能-公能-実定)に仕える。
 →徳大寺家出身の待賢門院・崇徳院につながる。

・18才で左衛門尉、20才で鳥羽院の北面武士
 北面武士:白河院創設の院の直属護衛武士。院御所の北側(北面)に詰めた。
 →和歌・故実に詳しく教養深い若きイケメンの武者姿。
 →かっこいい!女性たちが騒いだのも無理なかろう。

・23才で突如出家、円位を名乗る。
 出家の原因は、、、謎とされる。
 親友の急死説、失恋説(待賢門院・美福門院・上西門院・上臈女房)、将来をはかなんで。
 →やはり女性がからんでのことだろう。こんがらがり切羽詰まってニッチもサッチもいかなかったのかも。
 →待賢門院は40才、美福門院22才、上西門院15才。何れもありそうな気がします。

・出家後、高野山~吉野、伊勢二見の草庵をベースに諸国行脚(東北・陸奥・四国讃岐・再び東北)、折々京の歌壇にも顔を出し皇族・貴族・歌人たちとも交流。
 →出世をきっぱり捨てて歌に生きる生き様と歌の上手さで崇徳院・平清盛・源頼朝らトップにもお目見えし、世人の尊敬を一身に集める存在であった。
 →出家後も後宮に出入りし女房たちとの歌の交流も盛ん。

②歌人としての西行
・詞花集初め勅撰集に205首(新古今は94首でトップ) 家集に「山家集」
 説話集として「撰集抄」(自身作か)、「西行物語」

・生得の歌人 遁世歌人
 歌風は率直、質実、平明、真率、具体的、、歌語にとらわれない自由な詠み振り。
 →題詠でこねくり回した歌とは異なる。

・後鳥羽院が絶賛している(鳥羽院御口伝)
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり
 →近世和歌の大成者とも謂われ後世に与えた影響は大きいとされる。

・宮廷貴族の歌合には出詠を拒んだものの歌人たちとの交流、歌の贈答は極めて多岐にわたる。
 「百人一首の作者達」(神田龍一)による交遊人は、
 待賢門院璋子、80待賢門院堀河、95慈円、平清盛、源頼朝、85俊恵、90殷富門院大輔、98家隆、87寂蓮、97定家、83俊成、81実定、77崇徳院
 →これはすごい。やはり誰しもが一目をおく自由人であったからだろう。

・西行の歌 春の桜と秋の月 そしてこれらが恋につながる。
 分かりやすいいい歌が多い。二三ピックアップすると、

  仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
  春風の花をちらすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

  何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(@伊勢神宮)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮(三夕の歌)
  さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里

・西行に関する逸話はいっぱい。どうぞこれといったエピソード、コメントで紹介してください。

③86番歌 嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
・「月が嘆けと言って物思いをさせるのか、月のせいで涙がこぼれ落ちることよ」
 →恋の歌って感じがしない。

 およそ魅力のない歌、おもしろくもなんともない、西行にしては技巧的な歌、、、。
 解説書は挙って何故この歌が撰ばれたのか疑問を呈している。
 →確かに分かりにくいし「月前恋」の心が伝わってこない。
 (西行の歌はたいがい一読で理解できるがこの歌さっぱり分からない)
 →何故この歌か。定家の我ら後世の人に対する挑戦状かもしれない。

・23番歌が本歌との説もある。
  月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
 それと伊勢物語第四段 業平の歌
  月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして

  →どうでしょう。23番歌は恋歌ではないし、ちょっと違う気がします。

・千人万首にも西行の月を詠んだ恋歌が多数載せられているがそちらの方がよさそうな気がする。その内の一つ、
  面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(新古今集)

④奥の細道との関連
・西行と言えばやはり芭蕉でしょう。芭蕉は西行を信仰的に尊敬していた。西行の500回忌ということで1689年(元禄2年)に奥の細道の旅に出た芭蕉。奥の細道に登場する西行をピックアップしておきましょう。

1. 遊行柳(黒羽を出て北に向かう芭蕉、芦野の里の西行ゆかりの柳を訪ねる)
  又清水ながるるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。。。今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ
      田一枚植ゑて立去る柳かな
   
   →道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行 新古今集)

2. 象潟(象潟で西行が詠んだとされる(伝承)桜を訪ねる)
  其の朝、天能く晴れて朝日花やかにさし出づる程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。

   →象潟の桜はなみに埋れてはなの上こぐ蜑のつり船(伝西行)

3. 汐越の松(加賀と越前の境にある汐越の松、西行の歌をそのまま引用し絶賛している)
   越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
     夜もすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
   此の一首にて数景盡きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

4. 色の浜(敦賀の浜辺)
  前日中秋の名月を雨で見られず「名月や北國日和定めなき」と詠んだ翌日

  十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の濱に舟を走す。。。。
       波の間や小貝にまじる萩の塵

   →汐そむるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいうにやあらん(西行 山家集)

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本年もよろしくお願いします。

謹賀新年

新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月いかがお過ごしでしたか。ウチは例年通り年末3日間ほど全員集合で大賑わい。飲み尽し食べ尽し遊び尽しました。正月は疲れ癒しでダラダラ、箱根とお笑い番組とスポーツバラエテイで過ぎてしまいました。ずっと天気がよく、江戸川土手への初散歩ではオオタカの舞いとカワセミの狩りとキジの初飛びが見られてハッピーでした。

さて、「百人一首談話室」いよいよ余すところ15首、最終章に入ります。幕開けは1月9日86番西行法師、幕開けに相応しい大有名歌人の登場です。どうぞ引き続き談話室への訪問、よろしくお願いいたします。

予定ですと100番順徳院への到達は4月17日となります。何とか無事完了し祝杯をあげたいと念じています。そして完読記念旅行、行きましょうね。時期的には5月がいいでしょうかね。近江神社を含め2泊3日くらいですかね。時期、場所については追って源氏ネットで相談しましょう。

【オマケ】
・サイト管理者(在六少将)のお陰で「談話室」閲覧数が分かるシステムになってるんですが、正月は検索による訪問者が多く昨日は240名もありました。やはりお正月、百人一首について調べる人多いんですね。このサイトが少しでも役に立ってるとすれば嬉しいことです。

・ウチでも百人一首ちょっとやってみたのですが、いい大人(私の子どもたちです)が全く百人一首のこと知らず、
 「えっ、絵を取るんじゃないの? 顔覚えて取るんだと思ってたんだけど」
 とか
 「えっ、この字から始まるんじゃないの?」
 とか、チンプンカンも甚だしい。爺としてはガッカリもいいところでした。 
 

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85番 三代目 俊恵 法師にして女歌 閨のひまさへつれなかりけり

本年最後の投稿になりました。予定では百番近辺までと考えていたのですが大分遅れました。俊恵法師、あまり馴染のない人ですが、71経信-74俊頼に続く三代目とくれば興味もわいてきます。家を潰すと言われる三代目。三代続けての百人一首入撰は何より一家の誉でしょう。

85.よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり

訳詩:    夜ごとわたしはまんじりともせず
       つれない人をまちつづける
       物思いに更ける夜の なんという長さ
       早く白んでくれればいいのに
       ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで・・・・

作者:俊恵法師 1113-1191頃 79才 74源俊頼の子 東大寺の僧
出典:千載集 恋二766
詞書:「恋の歌とてよめる

①俊恵法師
・71源経信 ― 74源俊頼 - 85俊恵 と三代に亘る百人一首入選歌人
 祖父-父-本人(俊恵)の生年を調べてみるとびっくり!
 1016 経信生まれる
 1055 俊頼生まれる(この時経信40才)
 1097 経信死去(この時俊頼43才)
 1013 俊恵生まれる(この時俊頼58才!)
 1129 俊頼死去(この時俊恵17才)
 1191 俊恵死去 79才

 →祖父・父とも相当な高齢出産。俊恵は経信の死の16年後に生まれている。
  お祖父ちゃん(経信)のことを知らない俊恵
  物心ついたとき父俊頼は60才を越えていた
 →前回の顕輔-清輔の15才違いにも驚いたがこちらの方も普通でない感じ。
 (現代の核家族をベースに考えるのは妥当でないのかも)

・父俊頼が17才の時死去、後ろ楯をなくし東大寺の僧になる。
 →元服はとっくにしてたろうに17才まで官途についてないのはどうしてか。
  俊頼も年老いて授かった息子のことをもう少し考えてやればよかったのに。

・東大寺で30年ほど僧を務める。
 何故東大寺なのか。東大寺でどれほど熱心に仏道修行に励んだのか。よく分からない。
 →肩書きもないしあまり熱心な僧侶だった感じはしないがどうか。

・歌を始めた(出家前13才の時父主催の歌合に出詠した記録はあるようだが)のは40才以降。1160清輔朝臣歌合から作歌活動に熱が入ってきた。
 →6-70才から始めた道因法師に似ている。

・東大寺を辞して最初洛西の福田寺の住持を務めここで和歌サロンを始める。
 その後洛北白河に自坊を築き「歌林苑(かりんえん)」と称するサロンを運営。
 階層・年代・男女を問わず多くの歌人たちが集まり歌を詠み合ったり、論じ合ったり、身の上を慰め合ったりするたまり場(サロン)であった。騒乱の世、20年も続いた。

 集ったとされる歌人
 82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明など

 →これはすごい。官(政治)の世界に関係なく僧侶として生きた俊恵だからこそできたことだろう。俊恵の面倒見のよさ、人柄、公正さがうかがわれる。

 →世の中、保元~平治の乱・平家の台頭没落・源氏の世へ、、、と大混乱。歌林苑に癒しを求めて集った文化人たちの気持ちが分かる気がする。

 →月例(月次)の歌会、都度の歌合。みなウキウキと馳せ参じたのであろう。ホストとしてみなを迎える俊恵の嬉しそうな笑顔が浮かんでくる。

②歌人としての俊恵
・40才過ぎから始めたが残されている歌は千首を越える。
 詞花集以下勅撰集に83首 選集に「歌苑抄」「歌林抄」、家集に「林葉和歌集」

・歌道に熱心、ひたむきで評論家として他人の歌を見て様々なたとえをあげて論じている。百人一首一夕話には無名抄にある俊恵の他人歌への評論が数多く載せられている。

・鴨長明1155-1216(勅撰集22首入撰)は俊恵を歌の師と仰いだ。
 長明の歌論書無名抄に俊恵のことがしばしば書かれている。
 
 無名抄による俊恵の自讃歌
  み吉野の山かき曇り雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ(新古今和歌集)
  →これが私の一番歌だと後世にしっかり伝えてくれと長明に頼んだようだ。
  →僧侶らしい自然詠でいいと思いますよ。

・俊恵の歌の中から
  けふ見れば嵐の山は大井川もみぢ吹きおろす名にこそありけれ(千載集)
  君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めしことのみな変りぬる(千載集)
  →俊成とは違った幽玄を表していると。
  →俊成も俊恵は買っていたようで千載集に22首採っている。

③85番歌 よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
・よもすがら=夜通し中 よもすがら秋風聞くやうらの山(奥の細道 全昌寺)
・明けやら「ぬ」、明けやら「で」
 千載集も定家も「ぬ」を採っているが「で」の方がいいとの説も多い。
 →私も「で」の方が歌のリズム的に繋がりやすい感じがする。

・今夜も来てくれない男を恨む女ごころの歌。
 歌林苑での歌合での歌。俊恵が女性になって詠んだ歌。
 →21素性法師「今来むと」と同じ。歌意もよく似ている。

 俊恵は17才にして出家、法師として一生を過した男。恋に縁はなかった筈。
 (出家とは精神的にも肉体的にも女性を断つことだと思うのだが)
 →若い頃華やかな官職にあり女性も知っていただろう素性とは違う。
 →歌林苑での歌合で「俊恵さん、あなたにも詠めますよ」とけしかけられたのだろうが、どうもいただけない感じがする。

閨のひまさへつれなかりけり
 悶々としていると何もかもが自分に冷たくあたるよう被害妄想的に考えてしまう。
 →確かに歌語としては新鮮な感じがする。

・夜離れを嘆く歌で、53道綱母の歌に通じるのではないか。
  嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

・本歌
  冬の夜にいくたびばかりねざめして物思ふ宿のひま白むらむ(増基法師 後拾遺集)

④源氏物語との関連
・男の夜離れが一番堪えたのはプライド高き元東宮妃六条御息所であろう。藤壷の身代わりを求め言い寄ってきた源氏に身を委ねたものの、御息所のあまりの高貴さ故に源氏の足は遠のいてしまう。

 正妻葵の上が妊娠、車争いでボコボコにされる六条御息所。そんな物思いに乱れる御息所を源氏が訪問。ぎこちない夜を過した翌日源氏からの後朝の文に対する御息所の嘆き節。

 袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき(@葵)
 →物語中第一の歌(細流抄)とされる。

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84番 父顕輔15才の子にして歌学の大成者 清輔 長らへば 

79番藤原顕輔のところで息子の85番藤原清輔とは仲が悪かったとありました。その辺さぐってみましょう。

84.長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

訳詩:    ままよ この捨て果てて悔いないいのち
       とは言うものの 生きながらえてみればまた
       今この時が恋しくなるのは必定さ
       つらかった昔のことがこんなにも懐かしい
       人間とはまたなんという奇妙ないきもの

作者:藤原清輔朝臣 1104-1177 74才 79顕輔の子 正四位下太皇太后宮大進
出典:新古今集 雑下1843
詞書:「題しらず

①藤原清輔朝臣、父は「左京大夫顕輔」として登場するが清輔には官名が附されていない。正四位下太皇太后宮大進では役不足だったのか。
 →何か定家の意図が感じられてならない。

・清輔1104生まれ。俊成1114、俊恵1113より10才ほど年長。
 まあほぼ同じ年代と言うことだろうが83俊成、85俊恵の間に挟まった84番というのが面白い。

・父顕輔1090-1155については79番歌で詳しく書いたので参照。
 (六条藤家の始祖、人麻呂影供継承者→エリート歌人一家の長)
  
・顕輔の次男が清輔 顕輔15才の時の子!(然も次男)
 →平安貴族の結婚が早かったとは言えこれは驚き。
 (源氏物語では朱雀帝の皇子(後の今上帝)が東宮時代15才で明石の中宮13才との間に若宮を生んでいる。いくら何でも幼すぎると思ったが正に事実は小説より奇なりであります)

 「顕輔と清輔は父子ながら不和であった」と言われているが本当のところどうだったのでしょう。
 →たった15才差の息子への感情、そりゃあ普通の父親とは違うでしょう。
 (息子もさることながら自分自身だってまだ成長過程ですからねぇ)
 →若い顕輔も自分の処世(立身出世)に精一杯でとても息子の面倒まで見れなかったでしょう。

 清輔が歌人として頭角を現してからは父子ながらライバルとしての感情もあったのかも。

・そんな家庭で官位は低位にとどまっていたが52才の時父顕輔死亡。
 ここから上昇気運で53才で従四位下太皇太后宮大進に昇任。藤原多子(81実定の妹、二代后)に仕えた。
 →15才差の父とは共存共栄できなかった、、、不幸な父子だったということですかね。

②歌人としての藤原清輔
・千載集以下勅撰集に89首(wiki)或いは96首(千人万首)。私家集「清輔朝臣集」
 父顕輔の死際に人麻呂影供を継承、六条藤家の当主となり歌学を確立させた。
 実作よりも歌学の方が得意分野で「袋草子」(和歌の百科全書とも)、「奥義抄」「和歌字抄」を著す。
 →平安時代歌学の大成者。歌合の判者 歌壇の牽引者。

・六条藤家系図=人麻呂影供の継承者
 藤原顕季(始祖の始祖)―79顕輔(始祖)―84清輔(確立者)-重家(清輔の弟、勅撰歌人)
 →御子左家(俊成・定家・為家)としのぎを削るが南北朝期に六条藤家は途絶してしまう。

・崇徳帝の久安百首に参列 崇徳院の側近くにいた歌人だった。
 二代后多子に仕えてたこともあってか二条帝の勅を受け続詞花集を撰定したが奏覧直前に二条帝は退位死去。
 →父顕輔は崇徳院勅の詞花集の撰定者。
 →顕輔も勅撰集撰定者になり父に並びたかったろうに。運不運、辛いねぇ、キヨスケさん。

・歌合で俊成ともども判者を務め、歌の判定でしばしば意見が食い違った。
 「このかも」論争
 総じて10才年長の清輔の方が優勢であったようだ。
 →そりゃあ覇権争いですから論争するのは当然でしょう。お互い挑発したりされたり。 

・清輔の歌から
 清輔主催で長寿の歌人を集めて催した歌会(尚歯会)で詠んだ歌(82道因法師で出て来た)。
  散る花は後の春とも待たれけりまたも来まじきわが盛りかも
  →歌壇の牽引者として長老歌人に敬意を表したのであろう。

 恋愛模様は語られていない。八代抄に採られた恋歌も下の2首のみ。 
  難波女のすくもたく火の下こがれ上はつれなき我が身なりけり(千載集)
  逢ふことは引佐細江(いなさほそえ)の澪標深きしるしもなき世なりけり(千載集)
  →想像だが学究肌で真面目一辺倒の男だったのではなかろうか。
  →だって「清」のつく人ってそんな感じでしょう。

③84番歌 長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
・どうも人生の述懐歌が続きますねぇ。
 これから先、生きていけば今の辛さも懐かしく思いだすことだろう、、、。
 「さらりと詠んで人の共感を誘う歌」(田辺聖子)

 →生きてさえいればいいことあるさ。楽観的な歌ではないか。

 「すきま風」 杉良太郎(作詞:いではく)
    ・・・・・・
    いいさそれでも 生きてさえいれば
    いつか しあわせにめぐりあえる
    その朝 おまえは すべてを忘れ
    熱い涙を 流せばいい

・昔を懐かしむ。誰にでもある感情。
 同窓会も会社のOB会も昔の苦労話で延々盛り上がる。

・84番歌は清輔何才の時に詠まれたものか?
 私家集所載の詞書の解釈から30才説と60才説があるらしい。
 →苦労人清輔のこと。30才の時既にそんな心境だったのだろう。そしてそれ以降ずっとお経のように本歌を唱え続けていたのではないか。

・使用された言葉の類似性から68番歌との比較もされている。
  68心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
  →68番歌には救いがない。翻って84番歌は前向きな歌でしょうよ。

・白居易の白氏文集によったとする説もある。
  老色日上面  老色、日に面に上り
  欲情日去心  欲情、日に心を去る
  今既不如昔  今、既に昔に如かず
  後当不如今  後、当に今に如かざるべし

  →古今東西普遍的な詩情であろう。
  →でも我ら現代の年寄りにはまだピンと来ませんがねぇ。

④源氏物語、奥の細道との関連
・82「思ひわびて」で宇治十帖、八の宮・大君・中の君の気持ちを忖度したが、彼らも気分のいい時には「生きてみよう、いいことあるかも」と84番歌の心境になったかもしれない。

・藤原清輔は奥の細道、白河の関に登場する。

  此の関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
   卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

 →清輔が「袋草子」で69能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだ白河の関を後の歌人が能因に敬意を表し正装して通ったと書いていることを引用している。
 →何度読んでもいい。名文であります。

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83番 王朝和歌の大御所 俊成 世の中よ道こそなけれ

さて王朝和歌の大御所、藤原俊成の登場です。俊成-定家、今に伝わる歌道を創り上げた大歌人父子。ポイントは91才の長寿にもあったようです。

83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

訳詩:    ああ濁世 道はどこにもない
       思いをひそめ分け入ってきたこの山奥にも
       哀れ 鹿が鳴いている
       妻問う声か さてはまた
       現世の未練を問うか 鹿の声よ

作者:皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)1114-1204 91才 正三位 定家の父
出典:千載集 雑中1151
詞書:「述懐の百首の歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる

①簡にして要、広辞苑で「ふじわらのしゅんぜい」を引いてみました。

 【(名はトシナリとも)平安末期の歌人、俊忠の子、97定家の父。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。千載集の撰者。歌学を75藤原基俊に学び、74俊頼を尊敬、両者の粋をとり、清新温雅な、いわゆる幽玄体の歌を樹立した。御子左家の基を築く。歌は新古今集以下勅撰集に四百余首載る。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、ほかに歌合の判詞が多い(1114-1204)】

・余談:名前の読み方 「トシナリ」が正しい、「しゅんぜい」は有職読み。業界用語。
 「ふじわらの」と「の」をつけるのは源・平・在原・橘、それに藤原。天皇から苗字をもらった家柄のみ。「織田信長」「羽柴秀吉」「徳川家康」に「の」は入らない。

・家系 道長-長家-忠家-俊忠-俊成-定家・・・・藤原北家である。
 長家が御子左家の祖
 (御子左とは醍醐帝皇子兼明親王が左大臣になったことから。その御子左邸を長家が譲り受け邸宅としたので長家流を「御子左家」と呼ぶようになった)
  
 祖父忠家:67周防内侍に腕を差し出した人(春の夜の夢ばかりなる手枕に、、)
 父俊忠:歌合で72紀伊に歌を詠みかけた人(人知れぬ思ひありその浦風に、、、)
     それに対する紀伊の返歌が72(音にきく高師の浜のあだ波は、、、)

 俊成の母(藤原敦家娘)の母兼子は堀河院の乳母。本邦楽道の家系。
 辿っていくと蜻蛉日記の53道綱母に繫がる。

・俊成の一生
 1114 誕生 
 1123@10 父俊忠死去、葉室家の養子となり葉室顕広を名乗る
 1140@27 述懐百首で83番歌を詠む。この時遠江守。この年西行23才で出家
 1145@32 この頃美福門院加賀と結婚(加賀の鳥羽院繋がりから俊成の昇進が早まる)
 1167@54 正三位 藤原に復帰、俊成と改名
 1176@63 出家 法名は釈阿
 1188@75 後白河院勅により千載集撰進(1288首 百人一首に14首) 
 1203@90 後鳥羽院、宮中で九十の賀(15光孝帝の12僧正遍昭への七十の賀以来) 
 1204@91 死去

 →美福門院加賀を妻としたことが大きかった。加賀は定家を始め二男六女を産む。
 →俊成と名乗った時期は短い(1167-1176)。百人一首名も釈阿がよさそうだが。

②歌人としての俊成
・若年期より74俊頼に私淑。ただ俊頼は亡くなり75基俊に入門(俊成@20、基俊@80)

・1140 堀河百首に倣い述懐百首を詠む。
 →人生の不平・不遇を愁訴。愚痴・歎きの百連発。
  いくらなんでも後向き過ぎないか。詠めば詠むほど落ち込むのでは。

・1142-44 崇徳院の久安百首 1400首の編纂(大役)を俊成が命じられた。

・1160-70年代 和歌の家元にどちらがなるか、六条藤家(藤原清輔)との壮絶な闘い。
 →清輔は1177 74才で死去。ここから俊成の長寿が功を奏することになる。

・1188 出家後の75才にして勅を受け千載集を撰進。
 歌論書 古来風躰抄 「あはれと幽玄」を和歌の基本とした。

・千載集以下勅撰集に418首 
 →定家465首 貫之435首に次ぐ歴代3位。親子で883首、すごい!

・弟子に97定家、98家隆、91良経、89式子内親王、99後鳥羽院
 →正に御子左家、歌道家元の創立者と言えよう。

③俊成の和歌、エピソード
・俊成の自讃歌
 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(千載集)久安百首

 伊勢物語第123段よりの物語取り
 昔、男ありけり。深草にすみける女をやうやうあきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
 女返し、
  野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
 とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。

  →在五中将、いいですねぇ。俊成も業平に成りきって深草の里と詠んだのでしょうか。

・もう一つの俊成の自讃歌 
 面影に花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲(新勅撰集)

・平家物語の中の俊成
 平忠度の懇請を受けて千載集に詠み人知らずとして入撰させた。

 平家物語巻七 忠度都落
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな
 →古文の教科書にも載ってる超有名場面。読んでると涙が出てきます。

 序でに忠度の最後 平家物語巻九
 一の谷で源氏方(岡部六弥太)に討たれた忠度、装束に結んだ文から正体が分かる。
  ゆきくれて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度
 →「さざなみや」の歌ともども桜を詠んでいる。散りゆく平家の象徴として詠んだのだろうか。

③83番歌 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
・不平・不満を愁訴した述懐百首の歌。27才青年期の歌である。
 →父に死なれ葉室家の養子では思うに昇進できなかたのであろうが、愚痴の百連発はいかがなものだろう。

・世の中=太平から騒乱への過渡期、京では僧兵が暴れ回るような時代
 (平安末期の世相の不安、無常思想とかの解説もあったが、ちと早いのでは)
 道こそなけれ=そんな憂さから逃れる道はないものか。

 →この年知人でもあった西行は23才にして出家している。ここで俊成が西行のように世を捨てて出家しておれば定家もおらず百人一首もなかった。
 →歌でなんぼ愚痴っても我慢してればいいことあるってことでしょうよ。

・山の奥にも鹿ぞなくなる
 5番猿丸大夫歌の本歌取り
  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

 →山の奥でも妻を恋求める鹿の切ない声が聞こえる。山の奥へ遁世しても所詮憂さからは逃れられない、、、。そう思えてよかったじゃないですか。

・歌としては5番猿丸大夫の二番煎じみたいで百人一首にはもっといい歌あるのでは、、、と思うのだが、定家はこれを一番として百人一首に入れた。
 →愛する息子が決めたこと、俊成お父さんにも異議はなかったのでしょう。

④源氏物語との関連
・俊成は理知的なものより「心」「艶」「幽玄」を追及。
 源氏物語「花宴」の巻の幽艶な情緒に言及し「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と述べている。
 →和歌においても源氏物語の価値を唱え上げた重要な言であろう。

・山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
 源氏物語で山里と言えば、
 1 明石の君、明石の尼君が寓居した大堰の山里
   身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
    (明石の尼君 @松風)

 2 夕霧が柏木未亡人落葉の宮を訪ねた小野の山里
   山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して
    (夕霧 @夕霧)

 3 大君・中の君そして浮舟の宇治の山里
   涙のみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞもろごゑになく
    (大君 @椎本)

松風有情さんから83番絵をいただきました。ありがとうございました。
コメントもよろしくお願いします。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/12/KIMG0051_20161130085725.jpg

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82番 平安の後期高齢歌人道因 思ひわびて

百人一首中、坊主めくりの坊主に属するのは13人。大僧正が2人、僧正が1人、得体の分からぬ蝉丸。それを除く9人が「法師」。9喜撰、21素性、47恵慶、69能因、70良暹、82道因、85俊恵、86西行、87寂蓮。この内でも道因法師は知名度が低い。歌もピンと来ない。まあ我慢してお付き合いください。

82.思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

訳詩:    慕いつづけ むごくつれない人を恋して
       わびしさの限りをつくした
       それでも命をつないでいる
       それなのに涙のやつ 耐え性(こらえしょう)のない弱虫め
       はふり落ち 散りいそいで

作者:道因法師(俗名藤原敦頼)1090-1182頃 従五位上左馬助 1172 83才で出家
出典:千載集 恋三818
詞書:「題しらず」

①道因法師、俗名藤原敦頼 従五位上左馬助 官人である。
・祖先は藤原北家高藤流(25藤原定方の父藤原高藤を祖とする家流)

・官人としての事績は語られていない。まあ普通の役人(中流貴族)だったのだろう。
 歌人として歌合に登場するのは1160 70才を過ぎてから。
 1172 83才で出家 道因を名乗る。
 1182頃 93才で没か
 →えらい晩生の御仁である。
 →晩年出家した人は多数いるが百人一首に出家後の名前で出ていない。道因だけ、何故だろう?
 →「藤原敦頼」では歌人としての知名度が低かったからでしょうね。

・1160-1181年間 数々の歌合に参加(主催もあり)
 千載集以下勅撰集に41首 85俊恵歌林苑の会衆の一人
 →千載集に20首だから俊成に買われたのだろう。そして百人一首に入り大歌人となる。

・1160年の歌会からと言えば道因(まだ藤原敦頼だが)既に71才
 →いつから歌を詠みだしたのか分からぬがまあ六十の手習い的に始めたのかも。

 それからの歌に対する精進ぶり、神頼みぶりがすごい。
 和歌の神さま住吉大社に毎月(京から)徒歩で参詣、「秀歌を詠ませ給へ」と祈った。
 →和歌に対する執着ぶりがすごい。「歌こそわが命」
 →晩年の道因にとって歌は生活の全て、生きる糧だったのだろう。
  (ゴルフを生きがいとして長生きしている人と同じだろう)

・道因法師を和歌に執着心を抱き続けた和歌数奇者として46曽禰好忠、69能因法師と並び称していた解説書もあった。
 →これってすごい誉め言葉であろう。よかったねえ、道因老人!

・齢90になり耳が遠くなっても歌会で一番前に座り講師の話を一言も漏らさぬよう耳を傾けていた。
 →ちょっと困った老人だったのかも。でも認知症で訳も分からない老人ではない。人々も「まあ道因さんだから、、」と大目に見ていたのだろうか。

・その他にもケチだったとか偏屈だったとかエピソードは総じて道因さんに好意的でない。
 →でも年老いてなお秀歌を求め精進する姿に俊成-定家はほだされ道因法師として堂々百人一首の撰に入れたのだろう。

②道因法師の歌から。  
嵐ふく比良の高嶺のねわたしにあはれ時雨るる神無月かな(千載集)
 
 →定家の八代抄には道因の歌としてはこの一首のみで82番歌は入っていない。
 →八代抄に入れていない歌を百人一首に採用したのは公任の55番歌と本歌。
  (百人一首は八代抄の20年後。その間の定家の心境の変化と言われている)

・千人万首から
 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老いにけるかな(千載集)
 いつとても身のうきことはかはらねど昔は老をなげきやはせし(千載集)
 
 →どうも年寄り臭い歌が多い。そりゃあ後期高齢歌人だから仕方ないか。

③82番歌 思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
・千載集 恋の部 「題しらず」
 法師になってから詠んだ歌? それとも法師になる前?
 →何れにせよ実際の恋の場面ではない。老人の回顧の歌である。

・「思ひわび」 自分に冷淡な相手を思い嘆き、、、
 →藤原敦頼、若かりし時恋に嵌まり込み一途に思い悩んだことがあったのだろうか。

・「命」と「涙」
 どうも観念的・抽象的で実感に乏しい。「ピンと来ない歌」(田辺聖子)
 →道因法師の人物像が今ひとつ分からないので恋歌と言われても女性の姿が浮かんでこない。
 
 出家して仏道修行をしていく内に辿り着いた「生と死(寿命)は天命による」という境地を詠んだ人生の述懐歌との解説もあった。
 →私には正に「ピンと来ない歌」であります。

・「涙」が出てくるのは本歌と86西行「、、、かこち顔なるわが涙かな」
 →「42袖をしぼりつつ」「65ほさぬ袖だに」「72袖のぬれもこそすれ」
  「90袖だにも濡れにぞ濡れし」「92わが袖は」
  「涙」はちょっと直球過ぎるように思うがどうだろうか。

④源氏物語との関連
・思ひわび、もう死んでしまいたいのに天命は尽きず生きねばならない。
 父八の宮を亡くし宇治の大君・中の君姉妹は途方にくれる。父の後を追い死んでしまいたい。でも天は死を与えてくれない。

 総角6.
 御服などはてて、脱ぎ棄てたまへるにつけても、片時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひの外なる身のうさと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。

 →薫が大君に二度目のアタックをかける場面です。

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81番 源平争乱の世を生きた徳大寺実定 ほととぎす

81番に入りました。後、五分の一、20首です。
後徳大寺実定、時代はぐっと下って平家台頭の時代に生きた藤原貴族です。順番的には80番台後半が定位置だと思うのですが何故か早めに登場してます。平氏の台頭~源平の争乱をバックに実定について考えていきましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
81.ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:   待ち明かしたほととぎす
      一声鳴いて あとはほのか
      空をさぐれば
      あの声の あれは残夢か
      ただひとつ 有明の月ほのか

作者:後徳大寺左大臣(藤原実定)1139-1191 53才 俊成の甥 定家の従兄弟
出典:千載集 夏161
詞書:「暁に郭公を聞くといへる心をよみ侍りける」

①藤原実定 1139-1191 53才
 25藤原定方、51藤原実方、そして81藤原実定。。。ヤヤコシイ。
・後徳大寺の左大臣(従二位)と呼ばれる。
 閑院流。始祖は兼家の弟公季。右大臣として甥道長を支える。
 時代が下って閑院流は天皇の外戚を占める主要な家流となっていく。
  白河帝生母茂子は3代公成の娘
  鳥羽帝生母苡子は4代実季の娘
  崇徳帝・後白河帝生母璋子は5代公実の娘

・実定の祖父徳大寺実能は璋子の兄(璋子は実定の大叔母)
 実定の父は公能(二位右大臣、多芸多才、勅撰歌人(32首)、西行らとも交遊)
 実定の母は藤原俊忠の娘(俊成の妹)、従って実定と定家とは従兄弟(定家が23才年下)
 →徳大寺家(実能が始祖)は当時歌人の有力パトロンであった。

 さらに、
 実定の同母姉忻子は後白河帝の中宮に。
 同母妹多子は近衛&二条両帝の皇后となり二代の后と呼ばれる。
 →平家なんぞが出て来なければ徳大寺家、実定は政権の中枢に行けてたのではないか。

・実定の一生を辿るには平氏の台頭~源平の争乱の年表が必要
 1118 平清盛・西行誕生 
 1139 後徳大寺実定誕生
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1160 清盛 参議三位
 1167 清盛 従一位太政大臣(平氏政権成立)
    (実定は二位まで上がったが1165-1177失職 作歌で身を慰める)
    (1177実定、復職、大納言左近衛大将に)
    (その後実定は源平の間を泳ぐように右大臣左大臣などを歴任)
 1178 清盛娘徳子(高倉帝中宮)安徳帝を生む。
    →平家絶頂へ。清盛が「この世をばわが世とぞ」思った時代。
 1180 福原遷都 源頼政、以仁王を擁し挙兵、源頼朝挙兵
    →のろしが上がり始める。
 1181 清盛熱病で死去
 1183 木曾義仲、京制圧
 1184 源義経、京制圧 
 1185 義経、壇の浦で平氏を滅亡させる
 1190 義経追討、頼朝上洛 1191実定死去@53才
 1192 後白河院崩御、頼朝鎌倉幕府を開く

 →保元の乱以降武士の世になっていったことが如実に分かる。
 →平氏の台頭に誇り高い藤原公家はどう身を処したのか。
 →あっちへ行ったりこっちに戻ったり。バランス感覚が必要。でも官位役職は離さない。

②歌人としての後徳大寺実定
・詩歌・管弦に秀ず。教養深き文化人。蔵書家としても名高い。
 千載集以下勅撰集に78首。私家集「林下集」多くの歌合、歌会に参加
 →作歌活動は専ら1167-1177の浪人時代だった。その後は力が入っていない。

・平家物語に何度も登場する。
 1 巻二 徳大寺の沙汰 けっこう長い。
   実定は平宗盛に右大将の官職を越えられて籠居、平氏に抵抗するのが能でないと悟った実定は平氏(清盛)に迎合すべく厳島神社に参詣。それを知った清盛により左大将に任じられる。
   →虚構かもしれないがまあ、長いものには巻かれろと考えたのだろう。

 2 巻五 月見
   福原に都が移った中秋、実定は京に残った妹多子(二代の后)を慰める。
   実定が訪ねた時大宮(多子)は月を愛で琵琶を弾いている。
   宇治十帖(橋姫)が引用されている。

    源氏の宇治の巻には、うばそくの宮の御娘、秋のなごりを惜しみ、琵琶そしらべて夜もすがら、心をすまし給ひしに、在明の月いでけるを、猶たへずやおぼしけん、撥にてまねき給ひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。

 3 灌頂の巻 大原御幸~六道之沙汰~女院死去
   後白河院が大原に建礼門院徳子(清盛の娘、高倉帝中宮、安徳帝生母)を訪ねる。
   これに徳大寺実定も随行。白河院と建礼門院との昔話は涙を誘う。
   最後に実定と徳子は歌を交し合う。

   実定 いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
   徳子 いざさらばなみだくらべん時鳥われもうき世にねをのみぞ鳴く
      →何と「ほととぎす」である。

・実定の歌
  晩霞といふことをよめる
   なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波(新古今集)
   →視覚的映像性の富んだ感覚的・印象的な叙景歌にすぐれていた(有吉)
   →実定さん、「ながむれば」がお好きだったようである。

③81番歌 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
・歌意は平明。ありきたり、陳腐にも思えるが結構評価は高い。上は聴覚、下は視覚。
 ホトトギスを詠んだ歌の中で最高(宗祇)

・ホトトギス、鳥の中で一番。万葉集に156回。
  春を告げる鳥=ウグイス(ウグイスの初音)
  夏を告げる鳥=ホトトギス(ホトトギスの初音)
  秋を告げる鳥、、、モズだと思うのだがどうだろう。

・初夏、ほととぎすの初鳴きを夜を徹して聞く。これがもてはやされた。
 枕草子第39段 鳥は(講談社文庫版)
  郭公は、なほさらに言ふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞こえたるに、卯の花・花橘などに宿りをしてはたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨の短き夜に寝覚めをして、いかで人よりさきに聞かんと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。
 
 →何とも風流と言おうかマニアックと言おうか。
 →ただ一声、一瞬の勝負、うたた寝もダメ、酔払っててもダメ、いちゃついててもダメ。
 →レコーダーもないしもめることもあったのかも。
  「おっ、鳴いた、聞いたろう?」「いや聞いてない」「えっ、ウソだろう!」

・派生歌 類想歌 
  郭公なくひと声のしののめに月のゆくへもあかぬ空かな(定家)  
  有明の月だにあれやほととぎすただひと声に明くるしののめ(藤原頼通
後拾遺集)

・「涙を抱いた渡り鳥」水前寺清子 作詞 星野哲郎
  ひと声鳴いては 旅から旅へ くろうみやまの ほととぎす
  今日は淡路か 明日は佐渡か 遠い都の 恋しさに 
  濡らすたもとの はずかしさ いいさ 涙を抱いた渡り鳥

④源氏物語との関連
・ホトトギスと花橘は必ずペアーで登場する初夏の風物詩
 花橘の香りは昔の人を思い出させる。ホトトギスは冥土と現世を往来する

・幻10 五月雨の頃、夕霧と最愛の故人紫の上を偲ぶ
 源氏 なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほととぎす
 夕霧 ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさかりと
 
・花散里3 須磨に行く前に花散里(源氏が夕霧や玉鬘の母と恃んだ家庭的な女君)を訪ねる
 源氏 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
 →花散里、六条院夏の町に迎えられ共寝はしないが癒し系の女君として源氏が頼りにした女君でした。 

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80番 崇徳院の母待賢門院に仕えた堀河 黒髪の乱れて今朝は

待賢門院堀河。璋子その人ではないものの待賢門院と来るとやはり崇徳院の生母璋子を思い浮かべます。崇徳院の激しい恋の歌(77番歌 瀬を早み)に呼応した何とも官能的な恋歌ではないでしょうか。こんな歌を詠んだ堀河。その人模様ともども「みだれ髪」の世界を訪ねてみましょう。

80.長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

訳詩:    いつまでもあなたを繋ぎとめておけるでしょう
       思うまいとしても思いはそこへ行ってしまう
       別してこんなに黒髪も乱れたままに
       いとしがり愛しあった夜の明けは
       黒髪の乱れごころは千々に乱れる

作者:待賢門院堀河 生没年未詳 神祇伯源顕仲の娘 伯女・伯卿女とも呼ばれる
出典:千載集 恋三802
詞書:「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる」

①待賢門院堀河
・父は三位神祇伯源顕仲 1058-1138 81才
 村上源氏、勅撰歌人、笙の名手でもあった。
 →時代的に74俊頼、75基俊と同世代、鳥羽歌壇に登場している。

・妹も上西門院兵衛と呼ばれる女房歌人(勅撰歌人)
 待賢門院璋子に仕えた後、賀茂斎院を退いた上西門院統子内親王(鳥羽帝と璋子の皇女、崇徳帝の妹)に仕えた。才色兼備の人気女房だったようだ。
 
 →統子内親王(並ぶものない美貌の女性=そりゃあ璋子の娘ですもの)の御所は華やかな文藝サロンとなっており若き貴公子・武者たちで賑わってた。西行も出入りしていた。

・上西門院兵衛の他にも歌人として名のある姉妹(顕仲卿女・大夫典侍)がいる。
 →父顕仲の影響で一家挙って歌詠みに励んでいたのであろう。

・さて肝心の堀河 詳しい話はないが、。
 最初白河院皇女で賀茂斎院を退いた二条大宮令子内親王に出仕六条と呼ばれた。
 →令子内親王が1078-1144 多分堀河もこれくらいの年代であろうか。

 後、待賢門院璋子に仕え、堀河と呼ばれる。
 →この「堀河」って何でだろう。まさか堀河天皇には関係ないだろうに。

・結婚歴はあるようだが不詳。夫は死亡、子を父源顕仲に預ける。
 残された子を詠んだ歌。あわれさを催す。 
  言ふかたもなくこそ物は悲しけれこは何事を語るなるらむ(堀河集)

・美貌で和歌も上手かった女房にしては恋愛沙汰のエピソードがない。どうしてだろう。
 
 →19伊勢を筆頭に38右近、56和泉式部、58大弐三位、60小式部内侍と天皇や親王の子を生んだり貴公子たちをラブホッピングしたりと奔放な女性たちでいっぱいだったが、、、。
 →女性が大人しくなったのか男たちに元気がなくなったのか、、、。

②待賢門院堀河の歌
・金葉集以下勅撰集に66首 久安百首の詠者 待賢門院堀河集
 →待賢門院サロンを代表して数々の歌合などに出ていたのだろうか。

・妹上西門院兵衛の上に堀河が下を付ける。
  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
   ともし火はたき物にこそ似たりけれ(上西門院兵衛)
    丁子かしらの香や匂ふらん(待賢門院堀河)
    →こんなのも連歌というのだろうか。

・崇徳院の法金剛院行幸を愛でて
  雲のうへの星かとみゆる菊なれは 空にそちよの秋はしらるゝ

・西行との交流が各所にみられる。
 西行出家時の歌の贈答
  堀河 この世にて語らひ置かむほととぎす死出の山路のしるべともなれ
  西行 ほととぎすなくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば
  
  →西行出家の原因は西行の待賢門院璋子への恋ではないかとも言われている。璋子(中宮)その人への恋慕もさることながら堀河を始めとする女房たちとの交流は華やかだったはずで堀河とも随分と親しく歌を詠み交している。

 待賢門院璋子崩御の後服喪中の堀河との贈答
  尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を(西行)
  吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし(堀河)

・待賢門院死去を悼んでの歌はさすがに名歌である。
  夕さればわきてながめん方もなし煙とだにもならぬ別れは
  限りなく今日の暮るるぞ惜しまるる別れし秋の名残と思へば
  →題を与えられての作り歌でなく心の底から哀悼の意が滲み出ている。

③80番歌 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
・久安百首の題詠とは言えぞくっとするようなエロチックな歌である。
 哀艶で官能的な恋歌、「百人一首恋の歌の中でも印象の強いもの」(大岡信)
 →長い黒髪は平安王朝女性の命。その端正な黒髪が一夜にして「みだれ髪」になる。

・「夕べのあなたは信じられるものだったが朝あなたが帰ってこの黒髪の乱れを見ると不安がよぎる。。。もうあなたは来ない。いや来る、いや来ない、いや来る、、、」
 →これぞ究極の後朝の歌と言っていいのではないか。

 百人一首中の後朝の歌を復習しておきましょう。
 30 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
 43 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
 50 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
 52 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

・みだれ髪の先行歌
  朝な朝なけづればつもる落ち髪のみだれて物を思ふころかな(紀貫之 拾遺集)
  朝寝髪我はけづらじ美しき人の手枕ふれてしものを(柿本人麻呂 拾遺集)
  黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部 後拾遺集)

・「僕の愛しいあの娘の髪はもう伸びたんだろうか」
 伊勢物語第23段 筒井筒の恋
 男 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 女 くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
 →「あなた、早くこの髪をかきあげてください」、、、、いいなあ。

・そして与謝野晶子「みだれ髪」から
  髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

・オマケに島崎藤村の「初恋」
  まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

日本女性の黒髪、モンローの金髪、、、まさにセックスシンボルであります。

④源氏物語との関連

・平安王朝女性のシンボル黒髪、源氏物語でも頻繁に小道具として登場します。
 髪を洗う=「すます」「ゆする(泔)」
 米のとぎ汁を使う。陰陽道で洗髪をしてもいい日は限られていた。

  匂宮が中の君を訪ねて来たがあいにく洗髪中で相手ができない。その隙に匂宮は屋敷に見なれない女性を見つけ、あろうことか抑え込みに入る。。。。。。これが浮舟であります(東屋)

・源氏物語中有数の官能場面
 桐壷帝が亡くなり源氏の藤壷への想いは自制がきかないまでに達している。藤壷寝所に押しかけ関係を迫る源氏、逃れようとする藤壷。源氏の手が藤壷の黒髪にかかる、、藤壷危うし、、、。

 「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、ひき寄せたまへるに、御衣をすべしおきてゐざり退きたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど思し知られていみじと思したり。(賢木16)

  →こんなことが続くと源氏も藤壷も東宮(冷泉帝)も身の破滅を迎える。藤壷はやむを得ず出家を決意するのでありました。

・物語中一二を争う醜い女性として描かれている末摘花。
 
 あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり、、、、、、頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。(末摘花13)
  
 →これだけこき下ろしても髪の毛だけは見事なものであった。
 「それでも、紫式部は、この古風で、人を疑うことを知らぬ素直で誠実な姫君に、豊かで丈よりも長い見事な黒髪を与えることを忘れなかった」(瀬戸内寂聴)

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79番 六条藤家の祖 顕輔 もれ出づる月の影のさやけさ

月を詠んだ歌の代表作の登場です。分かりやすいし覚えやすい。折しも晩秋、ぴったりです。藤原顕輔は俊成-定家の御子左家と相並ぶ六条藤家を確立した大歌人。どんな歌か、どんな人物か見ていきましょう。

79.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ

訳詩:    澄んだ秋風は夜空を渡る
       たなびく雲の輪郭は浮き立つようだ
       その切れ目から
       ひと筋洩れて輝き出る
       月の光のさやけさ

作者:左京大夫顕輔(藤原顕輔)1090-1155 66才 六条藤家の始祖顕季の子 正三位
出典:新古今集 秋上413
詞書:「崇徳院に百首の歌たてまつりけるに」

①藤原顕輔 76忠通(1097-1164)とほぼ同年代 六条藤家の二代目
・先ず父の顕季から見てみましょう。大歌人です。
 父藤原顕季1055-1123 正三位修理大夫
 出自は中流貴族であったが母(藤原親国の娘)のお陰で大出世する。
 顕季の母 従二位親子(ちかこ)(女性の二位はすごい!)白河院の乳母だったから。
 即ち顕季と白河院は乳兄弟(白河院が2才上)、幼馴染。
 →白河院の覚えめでたく顕季は大国の国主を歴任、しこたま財をなし六条烏丸に豪邸を構え六条家と称される。
 →当然白河院にも貢ぎまくったのであろう。

 この顕季、歌人としても活躍
 →受領で貯めこんだ財を惜しげもなくつぎ込み風流に打ち込んだのであろう。 
 
 勅撰集に48首 宮中他での歌合 自邸でも歌合開催 
 74源俊頼、75藤原基俊と同世代で白河・堀河歌壇で名をなし、六条藤家の始祖となった。
 柿本人麻呂の画像を奉じ「人麻呂影供(えいぐ)」として崇め奉る。
 →白河院の権威も借りて。これで和歌の家元(六条藤家)の地位を築き上げる。
 →百人一首に撰ばれててもいいような歌人であった。

 *人麻呂影供【ひとまろえいぐ】(wikiより)
  1118年,藤原顕季によって創始された,歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し,肖像を掲げ和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。

・この顕季の子が顕輔。父のコネで11才で白河院の近臣に。
 その後昇進していくがある時、白河院の勘気を被り(讒言の由)挫折
 白河院の死後復帰、崇徳院の中宮聖子(忠通の娘)に仕える(中宮亮)。
 →崇徳院、藤原忠通とも親しくなり父の威光もあって歌壇に君臨していく。

・崇徳院の命で詞花和歌集(415首)を撰進(1151)
 *詞花和歌集
  曽禰好忠17首、和泉式部16首 平安中期の歌人を重視 百人一首には5首
  →勅撰集の撰者になる。この上ない栄誉である。

 父の影響もあろうが一世代年上の74俊頼、75基俊とも親しく交流。歌壇の権威になっていく。

・顕輔の子が84藤原清輔 他にも重家、季経。 何れも有名勅撰歌人である。
 六条藤家は栄えて行くが、一方の雄俊成-定家の御子左家が冷泉家となり現代まで和歌の家元を任じているのに対し、六条藤家は南北朝期に途絶えてしまう。
 →どうしたのだろう。和歌道を伝承していくのも並大抵ではないのだろう。
 →顕輔-清輔の親子関係は冷たかった由。これは84番歌でやりましょう。

②歌人藤原顕輔
・金葉集(14首)以下の勅撰和歌集に84首、私家集に「左京大夫顕輔卿集」

・79番歌とともに顕輔の代表歌とされている二首 
  葛城や高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ(千載集)
  高砂の尾上の松に吹く風のおとにのみやは聞きわたるべき(千載集)
  →73番歌 高砂の尾上の桜を思い出す。

・白河院から不興をかっていた時の歌、判者基俊は誉めた
  難波江のあし間に宿る月見れば我が身一つも沈まざりけり
  →挫折の時、月を見て明日の復活を思う。基俊に誉められて嬉しかったことだろう。

・種々解説書を読んだ限りでは顕輔の女性関係やらエピソードやらは出て来なかった。
 →何か面白い話あれば聞かせてください。

③79番歌 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
・崇徳院の久安百首に詠まれた歌。顕輔61才、最晩年期の歌。

・平明で技巧がない。
 →覚えやすい好きな歌である。

・月の影のさやけさ
 晴天の明々とした月ではない。雲間から漏れてくる光。
 →チラリズム。ちょっとだけがいい。

 「月光というのは人の心をときめかせる」(田辺聖子)
 「漢詩の風韻に通う趣」(島津忠夫)

・百人一首に月は12首(7.21.23.30.31.36.57.59.68.79.81.86)
 79番歌は月を詠んだ歌の代表作であろう。

 79番以外に「月影」はないが紫式部の57番歌は紫式部集では「月影」となっている。
  めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月影 
 
・顕輔の月を詠んだ一首
 秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と共にやもり明かすらむ(新古今集)
 →天智天皇の1番歌が思い出される。

④源氏物語との関連
 月は平安王朝にあって夜の主役、至る所に登場するが79番歌に照応する場面は宇治十帖の冒頭巻「橋姫」で晩秋に宇治の八の宮山荘を訪れた薫が月の光に照らし出された大君・中の君姉妹をかいま見るシーンであろうか。ここから薫・匂宮と宇治の姫君たちとの物語が始まる重要場面でした。

 源氏物語 橋姫10「薫、月下に姫君たちの姿をかいま見る」

、、、月をかしきほどに霧りわたれるをながめて、簾を短く捲き上げて人々ゐたり。、、内なる人、一人は柱にすこし隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば、(中の君)「扇ならで、これしても月はまねきつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひやかなるべし。、、、

 →月しか明かりがない。月が雲に隠れてしまうと真っ暗、何も見えない。それだけに雲間から月が出て来て姫たちの姿が浮かび上がったとき薫は息をのんだことだろう。薫の姫たちへの想いが動かぬものとなった瞬間であろう。 

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