100番 締めは順徳院 「百々しきや」

さて2015.4.2天智帝の1番歌から始まった百人一首「談話室」、丁度2年を経て100番歌に到達です。大トリは後鳥羽院の子で承久の乱で後鳥羽院に連座して佐渡の地で果てた順徳院。高らかにフィナーレを飾っていただきましょう。

  智ではじめ徳でおさめる小倉山(江戸川柳)

100.ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

訳詩:     大宮の古い軒端は荒れはてて
        わがもの顔のしのぶ草よ
        ああ しのぶともしのびつくせぬ
        昔日の大宮の威儀 その栄華
        いまはただ 古い軒端にしのぶ草が

作者:順徳院 1197-1242 46才 第八四代天皇 後鳥羽天皇の第三皇子
出典:続後撰集 雑下1205
詞書:「題しらず」

①順徳院 1197-1242 46才
・1197生まれ。完全に鎌倉時代生まれ、百人一首中の最年少。
(次に若いのは93源実朝 1192(イイクニ)生まれ)
(百人一首撰定時1235存命だったのは96公経、97定家、98家隆、99後鳥羽院、100順徳院の5人。順徳院が最年少)

 →公武合体路線が採られておれば違った日本史を作りあげていた人物かも。
 (所詮タラレバの世界であるが)

・後鳥羽院の第三皇子 母は藤原範季の娘重子 母の母は平教子(清盛の姪)
 →平家の血が流れている。反幕府(源氏)に流れるのも宜なるかな。

・後鳥羽院は先ず土御門帝(源通親の娘腹)に譲位したが源通親が亡くなると取分け可愛がっていた第三皇子を順徳帝@14として帝位につけた1210。
 →後鳥羽院が討幕の心持に傾いていった頃。
 →順徳帝は父に似た活発・勇武の気性で後鳥羽院の相棒として討幕計画に同調していく。

・91九条良経の娘立子を中宮とし息子懐成親王(仲恭天皇)を儲ける。
 →承久の乱勃発にあたり仲恭天皇に譲位するも乱後廃位となり一旦後鳥羽院系は途切れる。
 →後堀河・四条帝を経て八十八代後嵯峨帝(土御門帝の子)から後鳥羽帝系に戻る。
 
・1210~1221 帝位にはあったが政治は専ら後鳥羽院による院政、順徳帝の出る幕なし。
 詩歌・管弦など風雅の道に傾注(和歌は定家に師事)
 宮中の有職故実を研究し禁秘抄(古典的名著の誉高い)を著す。
 →成り上がりの鎌倉幕府に朝廷の威厳を示す意図もあったか。
 →北条にしたら「フン、それがどうした」って感じだったのかも知れぬが。
 →聡明闊達な勉強家。帝位を全うし公武合体新日本を十分リードしていけたのでは。

・1221 承久の乱 上皇側はなすすべなく幕府軍に敗れる
 後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡島へ配流となる。

 【佐渡島】
  周囲263km 面積東京都の約半分 日本の島としては沖縄本島に次ぐ大きさ
  人口58千人 最大都市佐渡市(西側中央部)
  既に8世紀以前に佐渡国として日本国の領地下となっている。
  流された人 順徳天皇・日蓮・日野資朝・世阿弥
  →京都の文化が入り込んでいる。取分け能が有名
  関ヶ原後、佐渡金山が発見され幕府天領となる。

 順徳院は真野(佐渡市)黒木御所で21年を過し1242 46才で亡くなる。
 1239隠岐で後鳥羽院崩御、これで希望をなくした順徳院は自ら食を断って死亡
 →何とも哀れである。鎌倉幕府には心ある人物がいなかったという他ない。

②歌人としての順徳院
・幼少時から定家に師事 息子為家も近習 熱心に歌の道を進む。
 帝位について宮中で数々の歌合を主催

・続後撰集(為家撰)以下勅撰集に159首
 私家集に順徳院御集(紫禁和歌草)歌論書に八雲御抄 日記に順徳院御記

・佐渡に配流された時の歌
  ながらへてたとへば末に帰るとも憂きはこの世の都なりけり
  厭ふともながらへて経る世の中の憂きにはいかで春を待つべき

  →我慢して恭順の意を示しておれば還京できると思っていたろう。

・佐渡でも歌作に励み定家とは音信を続け(定家も応じた)ている。
 百首歌(順徳院御百首)を定家に送り定家はこれに評価を加えている。
 八雲御抄も佐渡で書き続け完成本を定家に贈っている。
 →歌作、和歌の研究が慰みであった。

 八雲御抄
 歌論として古風を尊び自然体での歌をよしとしている。

・後鳥羽帝が亡くなった時1239の弔歌
  君もげにこれぞ限りの形見とはしらでや千代のあとをとめけむ
  →希望が絶望に変った。お可哀そうである。

③100番歌 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
・1216 20才の時の歌 後鳥羽院が討幕へと傾く政情不穏の折の歌である。

・ももしき(百磯城)=多くの石で築いた城、転じて宮中

・しのぶ 忍ぶ草(ウラシダ) ジメジメした日陰に茂る雑草
 →荒廃した建物に生える象徴的植物
 →蓬・葎は日向、浅茅は沼地 何れも荒廃を表すやっかいな雑草

・聖代を偲び王道の衰微を慨嘆する歌
 聖代とは延喜・天暦(醍醐・村上朝)か天智・持統朝か
 →百人一首の始めと終りを考えれば天智・持統朝でよかろう。

 1番(秋の田の)・2番(春過ぎて) 希望に満ちたニッポン
 99番(人もをし)・100番(ももしきや) 王道の廃れゆくニッポン
 →王道とは天皇を頂点にいただき臣下(藤原氏)が支える構図である。

・百人一首の締め括りに百の数字が入っているのは分かり易くていいのではないかとも思うが、それにしても100番歌はあまりにも侘しい。
 →定家は後鳥羽院・順徳院の気持を率直に伝えるべく歌を撰んだのであろう。

④源氏物語との関連
・源氏物語は延喜・天暦の聖代を描いた物語とされている。
 現世を嘆く順徳院にも源氏物語は眩しく映っていたのではないか。

・荒れ屋敷の象徴として忍ぶ草は定番
 1源氏が夕顔を連れ込んだなにがしの院(夕顔11) 
  なにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。 

2源氏が須磨に去って荒れた花散里邸、この歌を見て源氏は修繕を手配する。
  荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな(須磨13)

3源氏が何年も訪れず荒廃した末摘花邸で古今集の歌が引かれている。
  君しのぶ草にやつるる故里はまつ虫の音ぞかなしかりける(読人しらず)
  →「忍ぶ草の生い茂る荒廃の邸をいうとともに、源氏も末摘花も互いにしのびあう気持ちでいることをいう」(脚注)

フィナーレと言うにはあまりにも侘しい終わり方であるが当時の現実であり致し方あるまい。それにしても大化の改新(天智・持統帝)に始まり600年を経て承久の乱(後鳥羽院・順徳院)で終わる百人一首、これ以上の歴史教材はないのではないか。

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これで100番までの投稿を終わります。長らくのご支援ありがとうございました。後は完読記念旅行に向けて余韻を楽しみましょう。引き続きよろしくお願いいたします。

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99番 承久の乱で隠岐へ 後鳥羽院 人もをし人もうらめし

さてラス前、当然大物の登場です。天智・持統帝から始まった天皇&藤原氏による治世も承久の乱を以て終りをつげ、武家筆頭による政権へと移行する(中世の始まり)。その立役者が後鳥羽院。「和歌を通じて日本の文化的統合を狙った意欲的な上皇」(五味文彦)でもありました。大物ぶりを拝見しましょう。

99.人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

訳詩:     詮のないことだが世を思う
        世を思えば物を思う
        いとしい者がいる 憎い者がいる
        つまらない世に
        なおこの愛と憎しみのある心のふしぎ

作者:後鳥羽院 1180-1239 60才 第八二代天皇 高倉天皇の第四皇子
出典:続後撰集 雑中1202
詞書:「題しらず」

①後鳥羽院 父高倉帝(祖父後白河帝) 母藤原信隆の娘殖子
・安徳帝が西国へと落ち、後白河院は次帝に高倉帝の皇子たちの中から後鳥羽帝を指名
 この経緯が平家物語巻八山門御幸に見られる(多分に後付けのフィクションだろうが)
 *後白河院が三宮、四宮を呼び声をかけたところ、三宮はむずかって院の所へ行かず、四宮は機嫌よく院の膝に乗ったので四宮(後鳥羽帝)を次帝とした*
 →こういうことで歴史が作られていく。
 →後鳥羽院という個性的な人物が指名されてなかったら日本史も変わっていたろう。 
   
・後鳥羽院関連年譜
1180@1 後鳥羽帝誕生 安徳帝即位(@3) 以仁王挙兵
1181@2 平清盛死去
1183@4 木曾義仲京へ侵攻、平家安徳帝を擁し西国へ 後鳥羽帝即位(@4)(神器なし)
   ~1185まで安徳帝・後鳥羽帝、二帝並立状態
1185@6 壇ノ浦平家滅亡、安徳帝死去  宝剣失くなる
1192@12 後白河院死去(院政終わる) 頼朝征夷大将軍に
   ~1196 九条兼実が摂政・関白
1196@17 源通親の政変(以後1202死するまで朝廷を主導)
1198@19 土御門帝(@4)(外祖父は源通親)に譲位
1201@22 和歌所設置、熊野御幸に定家供奉
     この頃和歌に没頭(未曾有の千五百番歌合)
1202@23 源通親死去、ここから後鳥羽院の専制が始まる
1205@26 定家ら新古今集撰進
     和歌の熱冷めて他諸事に傾注
1210@31 土御門帝に替えて順徳帝@4を立てる
1221@42 承久の乱 隠岐に配流
1239@60 隠岐で崩御 

 以下97番定家の時同様アラカルト風に感じたことをピックアップします。

〇三種の神器なき即位
 神器は安徳帝が持っていった。安徳帝死後(@壇ノ浦)鏡と玉は戻ったが宝剣は見つからず。
 →長じるにつれ即位の経緯を知るにつれ「自分は今までの天皇とはちょっと違う、何か欠けているところがある」とコンプレックスを感じたのではないか。
 →以後のいささか常軌を逸した行動もその裏返しかも。

〇1198 19才で土御門帝に譲位(自らの意志で)してから和歌に没頭するようになる。
 俊成に師事。数々の歌合を主催。後鳥羽院歌壇を形成する。
 千五百番歌合(当代主要歌人30人X100首)何年もかけて勝負をつける。
 →ちょっと度を越している。専制君主でなくばできまい。

〇新古今集撰進が終わった1205ころから和歌への情熱は徐々に冷め他の遊びに方向転換。
 後鳥羽院の多彩な遊び(水無瀬離宮を中心にして)
 音楽 琵琶、笛、笙
 スポーツ 相撲、水練、蹴鞠、競馬、闘鶏、犬追物、笠懸
 歌の会、詩の会、連歌会
 今様、猿楽、白拍子の舞
 囲碁、双六
 →これだけ幅広く遊べるとはすごい。
 →正に「飲む・打つ・買う」男冥利に尽きるお人ではなかろうか。

〇吉野御幸三十回以上、水無瀬離宮(豪壮無比の避暑別荘)往訪数知れず。
 吉野御幸、毎度一ヶ月以上かかる。毎夜毎夜の和歌会、大酒宴
 →やりたい放題。世の人心は離れていったのではないか。

〇1210頃からか鎌倉幕府への不満が募ってくる。荘園経営やら相続を巡り幕府側と対立、幕府も力で押さえつけ譲らない。段々と肩身の狭い思いが昂じてくる。1219実朝暗殺さる。
 →鎌倉幕府への実力行使に傾く(「このまま許しておくわけにはいかない」)。

〇1221 承久の乱
 執権北条義時追討の院宣を出し挙兵するも召集に応じた兵力は少数で幕府大軍(19万騎とも)になすすべなく完敗。即刻後鳥羽院は隠岐へ、息子順徳院は佐渡へと配流。土御門院も自ら土佐へと落ちる。
 院宣を発すれば幕府は降参すると思ったのか。大軍が朝廷側に馳せ参じると思ったのか。
 →計算違い。甘い。

 まさか即刻隠岐に流されるとは思わなかったのか。
 →崇徳院の例があるではないか。愚管抄を侮ったのが墓穴を掘った要因か。

 結果的に承久の乱のお陰で今まで京・鎌倉の二重政権だったのが鎌倉幕府専権政治体制(天皇の人事も含め)へと固まった。日本史にとって大きな出来事であったことは間違いなかろう。

〇隠岐での後鳥羽院
 配流後ほとぼりの覚めた頃を見計らって朝廷公家側から鎌倉幕府へ還京の嘆願がなされたが鎌倉(北条泰時)は聞く耳持たず。

 結局隠岐で19年を過し、1239 60才で崩御。
 (佐渡の順徳院は3年後1242 自ら食を断って崩御)
 →これはあまりに酷すぎるだろう。源頼朝直系の源氏政府であればそこまで朝廷をないがしろにすることはあり得ない。北条氏、所詮は坂東の田舎者である。

②歌人としての後鳥羽院
・凝り性で若い時に集中し短期間で和歌を極めたようだ。
 1198譲位後~1205くらいがピークか。
 千五百番歌合、新古今集の編纂
 →新古今集は定家らに撰進させたが実際には後鳥羽院が何度も取捨選択し後鳥羽院親撰と言われる。

・新古今集以下勅撰集に256首 御集「後鳥羽院御集」 歌論書「後鳥羽院口伝」

・後鳥羽院秀歌 田辺聖子撰
 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく
 見わたせば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ
 み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの
 寂しさは深山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槙のした露
 奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ

・隠岐での後鳥羽院
 隠岐では多芸な遊びもできない。再び和歌に情熱を注ぐ。
 遠島御百首、時代不同歌合、後鳥羽院口伝も隠岐で書かれた。
 
  われこそは新島守よおきの海の荒き波風心して吹け

 承久の乱後97定家は後鳥羽院との音信を断ったが98家隆は文通を続けた。
 (家隆は隠岐へ慰問に訪れたとも、、、出来過ぎた話であろうが)

③99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
・出典は続後撰集 1251 藤原為家撰 百人一首よりずっと後
 →定家の意図を受けて為家が後撰集に入れ、百人一首にも入れたのか。

・1212 五人百首中の述懐歌
 同時に詠まれた後鳥羽院の述懐歌
  いかにせむ三十あまりの初霜をうち払ふ程になりにけるかな
  憂き世厭ふ思ひは年ぞ積りぬる富士の煙の夕暮の空

  →まだ討幕の意図はない頃。述懐というより鬱憤の歌か。

・人もをし人もうらめし
 世の中には愛しい(自分サイドの)人もおれば恨めしい(思う通りならない)人もいる。
 →同一人説もあるようだが愛しい人、憎い人とする方が率直ではないか。

・丸谷才一は古注(「百首要解」江戸の国学者岡本況斎)に基き99番歌は源氏物語須磨に書かれた光源氏の気持ちを背景にしていると説く。

 源氏物語 須磨8
  、、、世ゆすりて惜しみきこえ、下には朝廷を謗り恨みたてまつれど、身を棄ててとぶらひ参らむにも、何のかひかはと思ふにや、かかるをりは、人わろく、恨めしき人多く、世の中あぢきなきものかなとのみ、よろづにつけて思す。

 須磨に落ちる源氏、東宮に別れを言いに行く場面。
 今まで源氏に言い寄って来てた人も須磨に落ちると聞くと離れていく者もいる(源氏命でずっとついてくる者もいるが)。世の中薄情なものだなあという述懐。
 
 →後鳥羽院は源氏物語を読んでいたか?
 →水無瀬離宮の豪華絢爛遊びの様は六条院の華やかさに倣ったのではなかろうか。

長くてとりとめなくなってしまいスミマセン。
白河院・後白河院・後鳥羽院の三人は性格も行動も個性的で一口には語れない歴史上の大人物だと感じています。

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98番 定家と並ぶ双璧 家隆 風そよぐ

いよいよラストスリー(上がり3ホール)となりました。定家が明月記に「1天智天皇以来、98家隆・94雅経に及ぶ」と書いた家隆。百人一首撰定時(1235)定家と並び双璧だった家隆(家隆が4才上)。百人一首の配列からもその歌人としての重要性が伝わってきます。

 1番 天智天皇 2番 持統天皇 Vs 99番 後鳥羽天皇 100番 順徳天皇
 3番 山辺赤人 4番 柿本人麻呂 Vs 97番 藤原定家  98番 藤原家隆

98.風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける

訳詩:     楢の葉に風がそよげば
        このならの小川のあたり
        夕暮はもう秋を思わすすずしさ
        けれどあそこでみそぎをする姿を見れば
        今はまだ夏 六月なのだ

作者:従二位家隆 藤原家隆 1158-1237 80才 藤原光隆の子 壬生二品
出典:新勅撰集 夏192
詞書:「寛喜元年女御入内屏風」

①藤原家隆
・何と27藤原兼輔の末裔。
 兼輔-雅正(紫式部の祖父) 雅正の八代孫にあたるとのこと。
 →それがどうしたって言われそうですが。
 →源氏物語マニアの定家は家隆を羨ましく思ったのかも。

・父は正二位権中納言藤原光隆
 「猫間中納言光隆卿」として平家物語巻八「猫間」に登場。
 田舎者木曾義仲の野人ぶりを嘲笑する段だが、光隆も損な役回りを演じている。
 →平家物語読んだとき、「この人お気の毒だな」と思った。まさか家隆の父君だったとは!

・父も正二位、家隆も晩年ながら従二位に上がってる。まあそこそこの権門。

・最初寂蓮(藤原定長)の娘と結婚、寂蓮の養子になった(との説あり)。
 寂蓮は俊成の養子だった訳で、そんなことで家隆も俊成から歌を学ぶことになる。
 →定家と机を並べて学んだのだろうか?何れにせよバリバリの御子左流ではないか。

 (後、寂蓮の娘とは離れたのか、光隆の子雅隆の娘(即ち姪)を妻室にしている)

・九条家歌壇、後鳥羽院歌壇で活躍後、病を得て79才で出家(出家したのは四天王寺)
 大阪夕陽丘に「夕日庵」を結び、大阪の海に沈む夕日を眺めて晩年を過す。

 契りあれば難波の里にやどりきて浪の入日を拝みつるかな(辞世7首の一つ)
  →天王寺高の近くでしょうか、八麻呂さん。

②歌人としての家隆
・千載集(俊成撰)以下勅撰集に282首。定家撰の新勅撰集は43首で最多。
 私家集に玉吟集(壬二集)

・若くして俊成に師事したが、歌人として頭角を現したのは40才ころから。晩生である。
 →丁度後鳥羽院が歌に熱中しはじめる頃か。後鳥羽院の歌の師も務める(91良経の推薦)

 「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院口伝)

・定家との関係
 同じ俊成門下だし、御子左流としてお互い切磋琢磨したのだろう。ライバルというより仲間・同志みたいな感じ。歌風は違うが仲はよかったのだろう。
 →定家が新勅撰集で家隆の歌を最多選出(43首)してるのはエライと思う。

・新古今集撰者の一人(源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮)
 →新古今集1205頃 後鳥羽院があれこれ口出しし最終的には後鳥羽院撰とも言われる。

・若かりしころの初々しい歌
  さえわたる光を霜にまがへてや月にうつろふ白菊の花
  →爽やかな叙景歌である。

・後鳥羽院歌壇の中心人物として活躍。後鳥羽院とは親交を結ぶ。
 後鳥羽院は頑固で肌合いが合わない定家を疎んじるようになり、その分温厚篤実な家隆を重用。承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流された後も家隆は後鳥羽院と音信し続ける。
 1236家隆は隠岐に後鳥羽院を訪ね「遠島御歌合」に参加。家隆が隠岐から京へ帰るにあたって後鳥羽院が航路安全を祈ったのが有名な下記歌であった(とする説もある)。

  われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ

  →政治的に距離を置かざるを得なかった定家と比較的自由だった家隆の違いだろうか。
  →定家は冷たかったけど家隆は暖かだった、、、これもイメージ操作か。

・家隆の代表歌とされる歌
  下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿の鳴くらむ
  明けばまた越ゆべき山のみねなれや空ゆく月の末の白雲(自讃歌)

・多作家として知られる。晩年まで歌を詠み続け六万首も詠んだ。
 「今伝はる所は十が一にも及ばず」(百人一首一夕話)
 →毎日10首で16年。シンドイでしょうね。

③98番歌 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
・1229年 九条道家(91良経の息子)の娘竴子(そんし)が後堀河帝の女御として入内する際、婚礼調度として月次屏風に書く歌として詠まれた。

 屏風歌 当代を代表する歌人 月毎に3首、計36首
(36首内訳は道家5首 公経8首 実氏6首 定家7首 為家3首 家隆7首)

 →1229年に詠まれたということは百人一首中一番出来立てで新しい歌ではなかろうか。 

・風そよぐ 風がそよそよと音をさせて吹く
 →爽やか感が伝わってくる。

・ならの小川 上賀茂神社の御手洗川
 →先年源氏物語(第一回)完読記念旅行で訪れた。きれいな水の小川だった。

 上賀茂神社は災難を除く厄除けの神さま
 斎院が仕える所。葵祭りで有名

・みそぎ 夏越の祓い(六月祓い)
 →半年たまった罪や穢れを水をかぶって祓い落す。
 他に茅の輪くぐりやら人形流しやら。

・本歌とされる二首
 みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと(八代女王 新古今集)
 夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ(源頼綱 後拾遺集)

・夏のしるしなりけり
 もう秋の気配だがみそぎをやってる所をみるとまだ夏なんだ、、、との歌。
 
 夏の確認の歌。やがて秋になる。秋の確認の歌は、
  秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(18藤原敏行)

・夏の歌は百人一首に4首
 2春過ぎて  36夏の夜は  81ほととぎす 98風そよぐ
 →一番少ない(春6首 秋16首 冬6首)

④源氏物語との関連
・賀茂神社に仕える未婚の皇女または女王が「斎院」
 朝顔の姫君が24才~32才(推定)8年間斎院を務める。
 →源氏の後妻になるチャンスがあったのに。女盛りを神さまに捧げた朝顔の姫君、お気の毒。

・葵祭り(賀茂祭)
 賀茂祭の前に斎院が御手洗川で禊をする(斎院御禊)。祭当日は宮中で奉納舞や飾馬のお披露目があり、斎院・勅使が賀茂神社(下鴨→上賀茂)へとパレード。

 パレードは見物人で大混雑。葵の上vs六条御息所 車争いが起こる。
 正妻葵の上側の勢いに愛人六条御息所側は対抗できずボロボロにされる。

 六条御息所の絶唱
  影をのみみたらし川のつれなきに身のうきほどぞいとど知らるる(葵5)
  →六条御息所が生霊となった瞬間である。

 (さわやかな98番歌なのに重っ苦しい引用でごめんなさい。藤原兼輔末裔の家隆卿、紫式部も遠い血筋であるには違いないでしょう。お許しを)

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97番 百人一首の産みの親 藤原定家 来ぬ人を

さて、いよいよ百人一首の産みの親(&源氏物語の育ての親)定家卿のお出ましであります。この談話室、百人一首を1番から人物像を中心に語り合って来たわけですが、それはとりもなおさず撰者の定家について論議してきたとも言えましょう。談話室の検索欄に「定家」と入れて検索すると殆ど全ての歌が検索されて出てきます。そんな定家卿です。改めて敬意を込めて考えてみましょう。

【参照】百人一首 談話室 ウオームアップ
「百人一首の成立、いつ誰がどのように選んだのか」2015.3.5
「撰者、藤原定家について」2015.3.9

97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

訳詩:     来ぬ人をまつ身の焦がれ 松帆の浦の
        そよりともせぬ凪のくるしみ
        じりじりと海士の焼くのは藻塩だろうか
        焼けるのは いえ わたしの身です
        来ぬ人をまつ身は焼けて焦がれよじれて

作者:権中納言定家 藤原定家 1162-1241 80才 俊成の男 正二位権中納言
出典:新勅撰集 恋三849
詞書:「建保六年内裏の歌合の恋の歌」 1216歌合

①藤原定家 
 定家に関る年表、談話室ウオームアップ(2015.3.9)記載のものを増補しました。
 (@は定家の数え年令)
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1162 @1 定家誕生(父俊成49才の子)
 1167 @6 平清盛太政大臣に(平氏政権成立)
 1180 @19 以仁王挙兵→敗死 後鳥羽院誕生
       定家明月記を書き始める この頃から作歌活動本格化
      「紅旗征戎は吾が事にあらず」 
 1185 @24 平氏滅亡(壇の浦)源雅行と殿上で争い除籍さる
 1186 @25 定家九条家に出仕 西行の勧めで二見浦百首を詠む
 1188 @27 千載和歌集(俊成撰)
 1192 @31 頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
 1196 @35 源通親の政変 九条兼実失脚 九条家ピンチ 定家も不遇時代
 1200 @39 この頃から後鳥羽院和歌に傾注、定家、院御百首作者に加えらる
 1201 @40 後鳥羽院の熊野御幸に供奉
 1202 @41 源通親死去、以降後鳥羽院専制政治開始、やりたい放題
       この頃後鳥羽院と蜜月状態。何度も水無瀬御幸に供奉
 1205 @44 新古今和歌集(定家・家隆・有家・雅経)
       →後鳥羽院が煩く取捨選択し実際は後鳥羽院撰
 1207 @46 名所絵歌で定家の歌が採用されず後鳥羽院と衝突
 1211 @51 やっと従三位に昇任。その後もずっと官位アップに執心
 1220 @59 定家、後鳥羽院と対立 勅勘を受く
 1221 @60 承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流
 1233 @72 定家出家(法名:明静)晩年は源氏物語など古典に傾注
 1235 @74 百人一首(小倉山荘 障子絵+色紙形)
 1239 @78 後鳥羽院崩御
 1241 @80 定家死す

 以下アラカルト風に気づいた点を書いてみます。

〇定家の健康状態
 幼少時赤斑瘡やら疱瘡で死にかける。以後も病弱体質。病気のデパートだったよう。
 →でも80才まで生きたら長寿と言えるでしょう。

〇定家の性格、行状
 頑固で強情、粘着質で激情家
 24才、宮中で同僚源雅行に狼藉事件、除籍される。父俊成が修復に奔走
 →これだけ見ると好きになれないが、まあ色々あったのでしょう。

〇後鳥羽院との蜜月~確執
 1200-1205 院が和歌に集中した時代。定家も重んじられ蜜月関係。
       熊野御幸やら水無瀬御幸やらに供奉 お気に入りの歌人であった。
 1205    新古今集完成 この頃から院は和歌への興味を失っていく。
       次第に定家との溝ができてくる。
 1220    お召の歌会に定家は欠席、歌を贈るがその歌に後鳥羽院激怒、勅勘

 →気まぐれ和歌愛好家の後鳥羽院と和歌の求道者定家。合うはずがない。
 →定家はあまりぶれておらず、後鳥羽院の気まぐれには手を焼いた感じ。
 →道中ドンチャン騒ぎの熊野御幸にはほとほと参った模様。

〇定家の結婚 
 20才過ぎ歌道のライバル六条家藤原季能の娘と結婚 二男二女を生む
 その後この妻とは離別(理由不明)、1194頃96藤原公経の姉を後妻に迎える。
 →96番歌でも書いたがこの結婚は大きかった。
 →でもこの時点で公経が後に朝廷の第一人者になるとは予想できなかったろう。

〇定家の官位アップへの執心
 出世欲旺盛、常に不満を抱き訴え続ける。
 1211従三位@51、1216正三位@56、1227正二位@67、1232権大納言@72
 →承久の乱後公経が朝廷の一人者になって引き上げられた。
 →やっぱりそんなに官位って欲しいものなんだ!

〇定家以降の御子左家
 息子為家(公経の猶子)が継ぎその子どもの代で二条・京極・冷泉の三家に分裂
 →ライバル六条藤家が南北朝代に断絶するに対し御子左家(冷泉家)は存続していく。

②歌人としての定家(もう今までに語り尽くされてますが)
・新古今集撰進者の一人 新勅撰集(1235年 1374首 後堀河帝勅)の撰者

・勅撰集入集 465首 私撰集に秀歌撰・定家八代抄 私家集に拾遺愚草
 歌論書に毎月抄他、 18才~74才に亘り日記「明月記」を執筆

・晩年(主として出家後か)は源氏物語他古典の書写、編纂、注釈(古典考証)
 →「膨大な書写、独特な書体」として有名。くせのある書体だったようだ。

・定家の歌から
 1207最勝四天王院の名所障子歌に自信作を取られず院の眼力をそしる
  秋とだに吹きあへぬ風に色変る生田の森の露の下草

 1220歌合欠席時院に差し出した歌。後鳥羽院激怒 勅勘・閉門
  道のべの野原の柳したもえぬあはれなげきのけぶりくらべや

 有名歌を少し
  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
  春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

 小倉山荘での歌
  露霜の小倉の山に家居して干さでも袖の朽ちぬべきかな
  忍ばれんものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき

・定家の近代秀歌より
 「ことばは古きを慕ひ、心は新しきをもとめ、及ばぬ高き姿を願ひて寛平以往の歌に習はば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ
 →新古今調ということか。

・後鳥羽院の定家評(後鳥羽院口伝)
 「惣じて彼卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。心ある様なるをば庶幾せず、ただ言葉すがたの、えんにやさしきを本体とせる間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正体なき事になりぬべし」
 →歌評というより定家の人柄・行動、定家そのものへの嫌悪。ちょっと大人気ない。

③97番歌 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
・建保(六年じゃなく)四年の順徳帝主催の歌合 定家55才 自讃歌
 対戦相手は順徳帝 よる浪もをよばぬ浦の玉松のねにあらはれぬ色ぞつれなき
 →順徳帝の歌を合わせられ勝ちとなっている。順徳帝が勝ちを譲ったとも。

・本歌 万葉集 笠金村の長歌
  なきすみの 舩瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ、、、、

 【藻塩】(広辞苑)
  海草に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて製した潮。万葉集(6)「夕なぎにー焼きつつ」

・男の訪れを待つ切ない女心を詠んだ歌
 じりじりと焼け焦げる藻塩 焼き焦がれ 身も焦がれ
 松と待つ
 →くっつき過ぎ、常套過ぎる感じもするがどうだろう。

・総じてこの歌の評価は高い
 「定家のすべてがこの一首に圧縮されているといっても過言ではない」(白洲正子)

・松帆の浦 淡路島の北端 島の始めの淡路島 対岸は須磨・明石

④源氏物語との関連
 源氏物語須磨 源氏と女人たちの歌の贈答 みな「藻塩たれつつ」を踏まえている。

 須磨の家居の様子
  おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわあたりなりけり。

 源氏→藤壷 松島のあまの苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたるるころ
 藤壷返し しほたるることをやくにて松島に年ふるあまも歎きをぞつむ

 源氏→朧月夜 こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん
 朧月夜返し 浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆる煙よ行く方ぞなき

 紫の上返し 浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜の衣を
 六条御息所返し うきめ刈る伊勢をの海人を思ひやれもしほたるてふ須磨の浦にて

 →97番歌は須磨・明石からの源氏の帰りを待つ女君たちの心を定家が代弁したものではないでしょうか。

松風有情さんの百人一首絵、97番藤原定家、画き納めだろうとのこと。
よく画けてます。一段と進歩されたこと間違いないでしょう。ありがとうございました。

百人一首絵 97番 藤原定家 by 松風有情

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96番 承久の乱後の権門 西園寺公経 花さそふ

今につながる西園寺家の始祖とされる公経。承久の乱またぎで一歩抜け出し後鳥羽院失脚後、京朝廷での第一人者となる。豪奢を極めた西園寺(今の金閣寺の所)を建て権勢を誇った公経、どんな人だったのでしょう。

 91九条家の  良経 が   1169生まれ
 94飛鳥井流の 雅経 が   1170生まれ
 96西園寺家の 公経 が   1171生まれ

これって何なんでしょう。ややこしくてゴチャゴチャになりますねぇ。。

96.花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

訳詩:     花を誘って庭一面に白く散らす無情の嵐よ
        この庭に白く積るものは 雪ではない
        雪ではない 降りゆくものは
        古りゆくものは
        わが齢のみ

作者:入道前太政大臣 藤原公経 1171-1244 74才 従一位太政大臣 西園寺家の始祖
出典:新勅撰集 雑一1052
詞書:「落花をよみ侍りける」

①西園寺公経
(藤原公経と言うと11世紀に居た人と混同するので西園寺と呼ぶのがいいらしい)
・父藤原実宗 - 閑院流
 藤原北家閑院流=師輔の子公季から始まる家流、道長時代は傍流であったが白河帝以降は天皇外祖父(外戚)の主流となる。
  実母が閑院流娘の天皇 白河帝 母茂子 外祖父公成
             鳥羽帝 母苡子 外祖父実季
             崇徳帝 母璋子 外祖父公実
             後白河 母璋子 外祖父公実
   →81後徳大寺実定の項、参照

・閑院流は三条家・西園寺家・徳大寺家に分れ五摂家に次ぐ家格の公家となっていく。
 西園寺家の始祖が96番歌の公経で西園寺公経と呼ばれる。
 最後の元老と呼ばれ二度総理大臣となる西園寺公望1849-1940は西園寺家第37代当主

・公経の姻戚閨閥関係、これがすごい。
 正妻=全子(源頼朝の同母妹坊門姫の娘、父は北家中御門流一条能保)
 →頼朝のかわいい姪。頼朝は婿のごとく公経を大事にしたのではないか。

 公経の娘倫子は91九条良経の子道家の妻となり頼経(鎌倉4代将軍)を生む。
 また倫子の娘竴子は後堀河帝の中宮となり四条帝の母となる。
 (外孫に4代将軍頼経と後堀河帝中宮竴子。ひ孫が四条帝)
 →これってすごい閨閥。公経が権勢を誇った理由が分かる。

・鎌倉幕府との結びつき
 頼朝の姪全子を妻に迎えたことから鎌倉幕府とは親密。親幕派。
 1219 実朝暗殺さる。4代将軍に外孫の頼経(2才)を送り込む。
 1221 承久の乱 後鳥羽院の乱の情報を事前に鎌倉に通報。乱鎮圧の功労者に。
 1222 太政大臣就任 また鎌倉との関係から関東申次に就任。
    以後10年ほど京朝廷の第一人者として君臨する。
 1231 病気により出家(出家後の様子はうかがい知れない)
 1244 没

・西園寺の名の由来は北山(今の金閣寺の所)に豪勢な西園寺を建立したことによる。
 西園寺の様子 増鏡より
  太政大臣そのかみ夢み給へることありて、源氏の中将(光源氏)わらはやみまじなひ給ひし、北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。
 西園寺に植えた桜を詠んで
  山ざくら峯にも尾にも植ゑおかむみぬ世の春を人や忍ぶと
 
  →源氏物語若紫の冒頭、源氏が10才の若紫を発見する場面が引かれている。

・公経の人物評価は毀誉褒貶相半ば。
 処世は卓越してたが閨閥を活かし幕府に追従したお陰で京での豪奢な生活は自己中心的。
 →世人のやっかみを受けるのはやむないか。でも西園寺邸はやり過ぎだったのでは。

②歌人としての西園寺公経
・多芸多才で和歌・琵琶・書に通じる風流貴公子であった。

・1200以降の数々の歌合に出詠
 新古今集に10首、新勅撰集(定家撰出)に30首他、勅撰集に114首

・定家との結びつき、、、すごい結びつき!
 公経の姉が定家の妻になり為家を生む。(定家は公経の義兄)
 公経は為家をかわいがり猶子としている。
 その為義の岳父(妻の父)が宇都宮頼綱。定家に百人一首色紙を所望した男。
 →公経は当然定家(御子左家)の大スポンサーとなっている。

 その定家が「明月記」の中で公経を「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」と評している。清盛を凌ぐ勢い、公経の権勢ぶりがよく分かる。

・公経の歌から、
 西園寺妙音堂に琵琶の道のことで祈りに行く際
  音絶えてむせぶ道には悩むとも埋れな果てそ雪の下水

・公経の歌人としての評価は高くなく、新勅撰集に30首を撰入したのも定家の個人的理由とされる。百人一首への撰入も定家との特別関係からであろう。
 →だって百人一首を頼んだのは宇都宮頼綱。猶子為家の妻の父。公経を入れない訳にはいかないでしょう。
 →百人一首90番台は人物撰でいい。承久の乱後京朝廷の太政大臣として鎌倉と政治を動かした公経が入っていることすごく重要だと思う。

③96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
・花さそう嵐 常套句ながら老いの嘆きに繋げているところが評価されている。
 権勢を極めた者が老いを迎えてこれだけはどうにもならないと嘆じた歌。

・ふりゆく 降りゆく&古りゆく

・本歌
 9花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に(小野小町)

・「花さそふ嵐」の先行歌
  花さそふ嵐や峰をわたるらん桜波よる谷川の水(金葉集)

・定家の先行歌
  春をへてみゆきになるる花のかげふりゆく身をもあはれとや思ふ(拾遺愚草)

・逆の発想の歌(桜の花よ沢山散って老いの道を隠して欲しい)
 基経40の賀での業平の歌(伊勢物語97段)
  さくら花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今集)

・90番台は91冬に近い秋、94秋、98が夏。一首は春の歌が欲しい。それも桜の歌。

 桜の歌は百人一首に6首(9花のいろは・33久方の・61いにしへの・66もろともに・73高砂の・96花さそう)。
 →「9花のいろは」で始まり「96花さそふ」で春の桜を締めくくる。何とも粋な計らいではなかろうか。

④源氏物語との関連
 さっぱり思いつきませんでした。
・春の嵐は源氏が須磨から明石に移るきっかけ手段として出てきました。
 
・老いを嘆く歌、源氏物語から探してみましたが見当たりませんでした。
 (34番歌の所で老いを嘆く歌に触れてますのでご参照ください)

 96番歌の歌意としては若菜下源氏が老いゆく自分を嘆き、若き柏木の過ちをいびる場面での源氏の気持ちかとも思うが、若菜下の場面は初春前の師走。歎きの度合いもちょっと違う気がします。

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95番 公武合体推進論者 大僧正慈円 おほけなく 

権門生まれの大僧正慈円。現実的に世相を眺め朝廷を重んじつつ武家の世を受け入れ公武合体を説いた。こういう物分りがよく徳のある人がいたから頼朝も王朝転覆は考えなかったのではないか。偉い人だと思います。

95.おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖

訳詩:    見のほど知らぬことよ さもあらばあれ
       憂き世の民に私は覆いかけるのだ
       比叡の山に住み初めのわが墨染の衣の袖を
       みほとけの冥加を念じ
       はるか 大師伝教の御跡を踏んで 

作者:前大僧正慈円 1155-1225 71才 76忠通の第六子 天台座主
出典:千載集 雑中1137 
詞書:「題しらず」

①慈円 76忠通が59才の時の第六子 摂政関白兼実の同母弟 91良経の叔父
・1155生まれ 正に武士の世の到来を告げる保元の乱の前年生まれである。
 10才で父忠通死亡 11才(13才とも)で天台宗青蓮院に入寺 13才で受戒
 →父が死んだからか。兄等がおり公卿への道が狭かったからか。
 (青蓮院は知恩院の北、今度行く中川庵から極く近い)

・比叡山に移り千日入堂、12年も山に籠り厳しい修行を積む(その間京に下りていない)。
 25才で山を下り兄兼実に隠居(天台僧を辞める)を申し出るが説得され思い止まる。
 →吉野で荒行した66大僧正行尊ほどではないが相当真面目にやったようだ。 
 →辞めようとしたのは比叡山も荒れてた、それに嫌気がさしたか。

・1192 38才で天台座主になる(頼朝が征夷大将軍になった年)
 以後政局の変遷で座主を辞めさせられたり復活したりで計四度座主になった。
 →天台宗座主の椅子も政治ポストであった。

・後白河院に続き後鳥羽院(@11才)の護持僧を務める。
 →幼少の後鳥羽帝に色々ためになる話をしたのであろう。

・僧にありながら摂政関白兼実の弟、当然政治の世界でも九条家(兼実-良経-道家)のために力を尽す。
 →九条家は頼朝派(親幕派)。公武合体を目指す。

・鎌倉は頼朝の死後、頼家・実朝と暗殺が続きごちゃごちゃになる。実朝の後の四代将軍として実朝にわずかながら血のつながってる九条道家の子頼経(2才)が送りこまれる(1219)。
 (頼経=父九条道家、父の父91良経。母倫子、母の父96公経)
 →慈円は九条家と鎌倉将軍家を結びつけるべく力を尽す。

・1220 愚管抄を著す。
【愚管抄】(広辞苑)
 鎌倉初期、日本最初の史論書。慈円の著。7巻。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明
 
 →抽象的な説明だがポイントは「公武合体こそが今執るべき道ですよ」と討幕を目論む後鳥羽院を諌める書であった(らしい)。

 保元以後ノコトハミナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ノミニテアランズル

 三種の神器宝剣のない後鳥羽院に宝剣はなくても武家が守ってくれますと説く。
 コレハ武士ノ、キミ(天皇)ノ御守リトナリタル世ニナレバソレニ代ヘテ失セタルニヤト覚ユルナリ

・1221 慈円の諌めも聞かず後鳥羽院は承久の乱へと突っ走る。
 →結果的に「武士の世」が決定づけられる。

・1225 71才で入寂。
 →後鳥羽院の隠岐配流には心を痛めたことであろう。

 慈円の一生、正に保元の乱とともに生まれ武士の世の確立(承久の乱)を見て亡くなった。承久の乱は止められなかったが、結果的には鎌倉が王朝を覆すこともなく公武合体の国体が以後幕末まで続くことになる。慈円の見通しが600年も続いたということではないか。

②歌人としての慈円
・西行に密教(天台宗)を学ぶには先ず和歌を詠めと言われて和歌に精進した。
 →いつ頃の話だろう。西行とは37才違い。西行の晩年であろうか。

・父忠通も勅撰歌人。元々和歌も能くする家系だった。秀才の慈円にしてみれば和歌の習得もお手のものだったのだろう。

・新古今集に91首(西行に次いで多い) 勅撰集合計およそ260首
 私家集に拾玉集 5414首もの歌が残る 多作家であった。
 →詠んで詠んで詠みまくった感じ。

・甥91良経主宰の九条家歌壇や後鳥羽院歌壇でも活躍。
 俊成-定家-為家の御子左家を支援、和歌に行き詰まりを感じ出家しようとした為家を思い止まらせ御子左家歌道の存続興隆に寄与した。
 →歌もできる徳の高い高僧としてアドバイスには説得力があったのであろう。

・頼朝とも交流あり。頼朝が上洛し鎌倉に帰るにあたって歌を詠みかわしている。
  慈円 東路の方に勿来の関の名は君を都に住めとなりけり
  頼朝 都にはきみに逢坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ
  →公武合体推進論者の慈円。頼朝とはいい関係にあった。

・後鳥羽院も慈円の歌を誉めている(後鳥羽院御口伝)
  大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる歌、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様を好まれき。

・仏門にあった弟に仏道にありながら歌に熱中するのを咎められて
  みな人は一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道
  →しきしまの道(色し魔の道)?

 慈円の恋歌を千人万首から引っ張り出してみた。
  わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古今集)
  →いかにもお坊さんが詠んだ恋の歌。女性の匂いが全く感じられない。

③95番歌 おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
・20代後半ないし30代前半 比叡山での修行中の歌。
 (1180-1185 源平争乱の真っ只中)
 おほけなく=身分不相応ながら 謙遜の意

・わがたつ杣
 比叡山延暦寺天台宗の開祖、伝教大師(最澄)の歌(梵語)を本歌とする。

  阿耨多羅三みやく三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ(新古今集)
  (あのくたら三みやく三ぼだい) 梵語 サンスクリット語
   最上の悟りを開いた仏さま、私が開く比叡山にお加護をいただけますように。

 95番歌により「わがたつ杣」は比叡山のことを指すようになる。

・95番歌の俊成評
  はじめの五文字より心おほきにこもりて末の匂ひまでいみじくをかしくは侍る

・「おほけなく」と謙遜しながらも「人民よわたしの覆う衣の下で安んじるがいい」とけっこうおこがましい感じの歌である。
 →でもこれぞ宗教の歌。カリスマ性がなくては宗教家は務まらない。

 仏教の力による世の平安・衆生の救済を図る。
 →若いながら「天台宗をしょって立つ気概にあふれている」(白洲正子)

 ずっと訳の分からない歌でしたが、色々調べてみて凄い歌であることに気づきました。
 百人一首中、時局を反映した歌としては一番じゃないでしょうか。

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが比叡山でしょうか。

・源氏は某の院で頓死した夕顔の四十九日の供養を秘かに比叡山にて行った。
(自ら手配して供養を行うなど初めてだったろう)

 かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめてさるべき物どもこまかに、誦経などせさせたまふ。(夕顔19)

・宇治十帖 入水した浮舟を見つけ小野の里に連れて行き面倒みたのが横川の僧都&妹尼
 最後の帖(夢浮橋)、薫は浮舟のことを聞くべく比叡山に上り中堂に参詣、横川に回って僧都に会う。出家した浮舟。逢って縒りを戻そうと考える薫。僧都が浮舟に書いた手紙は還俗を進めるものだったか否か。
 
 →宇治十帖の最後の最後は比叡山の山麓小野の里が舞台でありました。

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94番 歌鞠両道の達人 飛鳥井雅経 衣うつなり

京生まれの鎌倉育ち、鎌倉幕府創成期に京と鎌倉の橋渡し役となった飛鳥井雅経。蹴鞠(スポーツ)と和歌(文芸)の上手。ゴルフ・テニスと古典・俳句・カラオケを愛する爺にはお手本みたいな人。どんな風に文武両立してたのでしょうか。見せていただきましょう。

94.み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり

訳詩:    みよしのの旅の宿り
       吹きおろす夜の秋風
       渡ってくる砧の音の寒さよ
       ふるさとは底まで澄んで
       いにしえびとも目に顕って

作者:参議雅経(藤原雅経)1170-1221 52才 従四位下頼経の二男 飛鳥井流
出典:新古今集 秋下483
詞書:「壔衣の心を」

①参議雅経
・父は刑部卿難波頼経(受領階級)(藤原の傍流か)
 平家滅亡後父頼経は義経方につき鎌倉(頼朝)に対抗したため安房~伊豆に配流される。
 →義経につくか頼朝につくか。難しい判断だったのだろう。

・そのあおりで子の雅経は1180(11才)~1197(28才)までの少年~青年時代18年間を鎌倉留め置きの身となる。この雅経、蹴鞠&和歌に余程優れていたのであろう、頼朝に認められ蹴鞠好きの二代将軍頼家の蹴鞠の師となり、果ては頼朝の信任を得て頼朝の猶子になる。妻には鎌倉幕府の政務筆頭であった大江広元の娘が娶せられる。

 →これだけ取りたてられたのは蹴鞠・和歌の才だけではなかろう。京から来たピカピカの若者で万事に光り輝いていたのであろう。
 →11才で鎌倉に連れて来られた前から蹴鞠・和歌は習得していたのか。
  どこで誰に教わったのであろう?
 →1180~97の鎌倉と言えば源平争乱~幕府作りで蹴鞠・和歌どころではなかったろうに。

・1197 雅経の蹴鞠上手が後鳥羽院の目に留まり後鳥羽院の蹴鞠の師として京に呼び戻される。
 以後後鳥羽院の近臣として和歌・蹴鞠を武器に重用される。
 →従三位参議にまで昇る。正に芸は身を助くの典型であろう。

・長年の鎌倉在住経験から上京後も京(後鳥羽院)と鎌倉幕府との橋渡し役になり何度も京~鎌倉を往復する。
 1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導

・熊野に通いつめた(28回も)後鳥羽院に随行ししばしば熊野にも行っている。

・蹴鞠の上手で後鳥羽院から「蹴鞠長者」の称号を与えられる。蹴鞠の飛鳥井家の始祖。
 【蹴鞠】
  中国古代から。鹿のなめし革製のボールを蹴り上げ回数を競う。
  四隅に桜・柳・松・楓の木を植えその高さを目途に蹴り上げる。
  広さは5~10M四方くらい、そんなに広くない。
  サッカーのリフティングみたいなもの。4・6・8人とかの団体戦と個人戦。
  →運動神経と体力が必要。平安貴族の服装ではやりにくかったろう。

・「歌鞠両道の誉れ高く」とされる。
 平安時代 文科系科目は管弦・漢詩・和歌・書・絵
      体育系科目は弓馬・鷹狩・蹴鞠

・1121 52才で死亡。直後の同年6月に承久の変が勃発する。
 →雅経が生きていたら後鳥羽院を諌めることができたのかも。

②歌人としての雅経
・新古今集(22首)以下勅撰集に132首。家集に「明日香井和歌集」

・後鳥羽院歌壇の重鎮
 1201 和歌所寄人になりその後、新古今集撰者に任用される。
 (新古今集撰者: 源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮)
  →但し後鳥羽院が自らふるいにかけ実際には後鳥羽院撰とも謂われる。

・「後鳥羽院御口伝」
 雅経はことに案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だりとみえき。
 →「案じかへりて」=あれこれ思いめぐらし

・本歌取りの名手、詞取りの名手とされる。一方では他人の歌の詞を盗用する悪い癖があったともされる。
 →詞取り、詞盗り。紙一重である。
 →テニスの自己判定では「疑わしきはセーフ」だが、詞取りではどうであろう。
 →蹴鞠の達人にしてはスポーツマンシップに欠ける気がするのだが。

・蹴鞠を詠んだ歌
 八重桜の枝に鞠をつけて内裏にさしあげた歌
  春を惜しみ折る一枝の八重桜九重にもと思ふあまりぞ

 景勝寺の蹴鞠場の老桜が倒れ新しく植えられたのを見て
  なれなれて見しは名残の春ぞともなど白河の花の下かげ

・千人万首より本歌取りとされる歌二首

 秋は今日くれなゐくくる立田川ゆくせの波も色かはるらむ(新勅撰集)
  ←17ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは(業平)

 大江山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(明日香井集)  ←60大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立(小式部内侍)

 →本歌取り。う〜ん、巧妙ですねぇ。

③94番歌 み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり 
・吉野の里 古の都 宮滝あたり。
 →もうこの時代には天皇・上皇の吉野御幸はなくなっているか。
 →雅経も熊野には何度も行ってるが吉野には行ってないのではなかろうか。

・衣うつ=砧(木槌)で布地を打ちやわらげ、つやを出す。
 →女性の秋の夜なべ仕事。
 →トーントーンと規則正しい音。さびしげに聞こえる。
 (youtubeで見たけど時間かかりそう、大変な作業である)

・1202年の百首歌の中の一首
 一つ一つの詞使いというより全体的な流れがいいとされる。
 →「小夜ふけてふるさと寒く」「さ」と「ふ」の響きがいい。

・本歌
 み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり(古今集 坂上是則)
  →「み吉野の」と「古里寒く」はいっしょだが「衣うつ」は新鮮。まあ及第点でしょう。

 衣打つ
 風寒みわがから衣うつ時ぞ萩のしたばもいろまさりける(古今集 紀貫之)

・94番歌を下敷きにした芭蕉の句
  砧打って我に聞かせよや坊が妻(芭蕉 野ざらし紀行@吉野の奥山の宿坊)
  →吉野に来たら砧打ちと期待していたのだろう。実感である。

④源氏物語との関連
・蹴鞠と言えば六条院春の町での「唐猫騒ぎ」であろう。
 我が講読会で印象場面ベスト5に入ってる名場面です。

 三月うららかな日、六条院で蹴鞠の遊び。唐猫が御簾を引き開け、柏木は女三の宮を見てしまう。

  几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物なるべし。(若菜上37)

 →柏木と女三の宮。源氏物語第二の禁忌の恋の幕開けであります。

・衣打つ砧の音
 17才恋の暴走止まらぬ源氏が五条あたりの下町の夕顔の宿で濃密な夜を過した翌朝の風景

  白栲(たへ)の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり。(夕顔10)

 →源氏物語には珍しい庶民的な下町描写。芭蕉の奥の細道福井(芭蕉が旧知の等栽を訪ねる場面)は源氏物語夕顔のこの段を下敷きにしている。

【余計なオマケ】
 昨日で70才になりました。周りのみんなに祝福されていい気分でした。本人はまだまだ爺さんではないと思ってるのですが、やはり確実に年老いてます。今まで取れたテニスの球が取れない。お酒に弱くなった。孫が危ないことしててもすぐ駆け出せない。固有名詞は勿論普通名詞も咄嗟に出て来ない。等々。まあ年相応なんでしょうね。先日東海テレビOBの友人に借りて見た「フルーツ人生」の爺婆をお手本にほどほどに実のある人生を生きていければと思っています。

 改めて生活信条を思い返しています。
  日々を明るく穏やかに!
  家族・仲間を大切に!
  ゴルフのやり過ぎ、酒の飲み過ぎ注意!

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93番 三代将軍にして天才詩人 実朝 綱手かなしも

源実朝、昔から「大海の」の歌、大好きです。東映映画のタイトルシーン、よくぞ豪快にこんな歌詠めたものだと感心します。そんな実朝、武家のならいとは言え28才にして暗殺さる。どんな一生だったのでしょうか。

93.世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも

訳詩:    世の中はいつも変わらずありがたいものよ
       渚こぐ漁師の小舟の
       綱手ひくさまのおもしろ
       眼の奥に焼きつけておきたいほどの
       おもしろの さてまた哀しい 人のいとなみ

作者:鎌倉右大臣(源実朝)1192-1219 28才 源頼朝二男 鎌倉三代将軍 正二位
出典:新勅撰集 羈旅525
詞書:「題しらず」

①「鎌倉右大臣」
・武士としては初めての右大臣で当時の公家社会からすると尊称なのであろうが、現代人からするとピンと来ない。やはり「鎌倉三代征夷大将軍源実朝」がいいのではないか。
 →実際には鎌倉幕府が政治を牛耳っていたのだが京都朝廷からすれば「鎌倉の右大臣」、一介の臣下に過ぎないという感覚(希望的妄想)だったのだろう。
 →これが昂じて後鳥羽院の独り善がりの暴走(承久の乱)へと繋がる。

・頼朝誕生~鎌倉幕府成立~実朝暗殺~北条執権政治までの年表
1147 頼朝誕生
1159 平治の乱 頼朝@13伊豆へ配流
~~ 平家全盛 頼朝ひたすら伊豆で耐える(約20年間)
1180 頼朝、以仁王の令旨を受けて伊豆で挙兵
1185 壇ノ浦にて平氏滅亡
1187 義経征討、奥州藤原氏(泰衡)滅亡→頼朝の天下へ
   →この頃から実質的には鎌倉幕府が政治を動かしている。
1192 頼朝征夷大将軍就任(後白河院崩御の直後)
   この年に実朝誕生(政子腹の次男) 
   →一般的には「イイクニ作ろう」でここから鎌倉時代が始まったとされる。
1199 頼朝死去@53(体調崩し病死か、落馬原因説もある)
   頼朝の後を継ぎ(政子腹の)長男頼家第二代将軍に
1203 頼家を廃し実朝@12第三代将軍に
  (実朝を担ぐ北条氏と頼家の乳母系比企氏との争い)
1204 頼家、北条氏に暗殺さる。
   実朝@13新古今和歌集取り寄せ、定家に師事
1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導
1213 金槐和歌集成立(この頃で実朝、歌作を止める)
1218 実朝、右大臣就任(武士として初めて)
1219 実朝、公暁(頼家の子)に鶴岡八幡宮で暗殺さる。@28北条義時の策謀
   源氏の血は絶え、以後京からの公卿、親王が傀儡将軍となり実質北条執権政治が始まる。
1221 承久の乱(北条政子が大演説をして幕府軍がまとまる)
1225 北条政子死去

(年表をじっと見ての感想)
・頼朝は挙兵までは一介の地方豪族に過ぎなかった。以仁王の令旨&源氏嫡流の血筋で5年にして平家を滅亡させ7年で天下一となる。
 →正に武士の世のダイナミック性である。

・京と鎌倉 二つの政権。
 京の朝廷(&公家)からすれば鎌倉の臣下に政治をやらせているとの感覚。
 →万世一系の天皇家を長とする日本の国体は変わらない。

・北条(政子)の力が大きい。頼朝死後は御家人間の争いが絶えず結局源氏の血筋は実朝で断絶。承久の乱でぐらつくが政子の大演説によって幕府軍は一本化し承久の乱を平定、以後北条執権政治の世の中となる。
 →父祖からの忠臣に支えられて天下を成した家康と異なり、頼朝は伊豆での流浪生活からの這い上がり。頼朝死後は結局妻方の北条氏の天下になってしまう。53才での頼朝の死は早すぎた。

②歌人としての源実朝
・父頼朝も歌人だった(新古今集に2首入集)。実朝も若くから和歌に傾倒。
 13才時、できたての新古今集を贈られ大喜びしている。
 17才で疱瘡を病む。以後も病弱だった模様。
 18才 定家に自作の30首を送り評価を求める。定家より歌論書「詠歌口伝」を贈られる。
 20才 参議雅経、鴨長明に鎌倉で和歌の指導を受ける。
 22才 金槐和歌集成立、定家へ贈る。
 
 →和歌に対し誠に早熟、熱心である。
 →12才で将軍になったが実質は母政子と北条義時・和田義盛ら御家人が政治を行い。実朝は和歌に没頭しておればよかったのだろう。
 →23才以降は歌作が殆どない由。身辺もきな臭くなって歌どころではなかったのだろうか。

・実朝の歌は京の新古今調とは異なり新鮮な響きがある。
 
【実朝歌に対する評価(「日本文学史」小西甚一)】
 定家の系統をひかぬ歌人は存在しない、唯一の例外として、源実朝がある。この名目だけの将軍は、武家に在籍しながら、精神的には公家化した人であって、定家の指導により、歌道を熱心に修めた。しかし、実朝の歌には、当時としてたいへん異質的な歌風、すなわち万葉風がいちじるしく、どうしてそのような歌を詠むにいたったかはまだ研究されつくしていないが、とにかく異彩ではある。実朝を除けば、中世和歌即定家流ということになる。

 →古今集をボロクソにけなした子規も返す刀で実朝のことを絶賛している。

・実朝の歌から
 自然を豪快に詠んだ歌
  もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原
  箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
  大海の磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも

  →素晴らしい! いつ口遊んでも心が大きくなります。

  山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
  →後鳥羽院に忠誠を誓った歌。官位が欲しい、あくまで朝廷には従服であった。

  萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
  うば玉や闇の暗きにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる

  →世のはかなさ、あはれを詠った歌。

  時により過ぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめ給へ
  ものいはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

  →山上憶良を彷彿させる。

 すごいスケールが大きい。セコセコしていない。
 何とも言えない物悲しさが伝わってくる。
 →将軍になどなりたくなかったのであろう。京の公家に生まれたかった!

・公暁に暗殺される日に詠んだとされる(辞世の)歌
  出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
  →そう言えば24菅原道真も右大臣だった。でも出来過ぎ。後世の戯作であろう。

③93番歌
・本歌取りの手法を駆使した歌
 本歌とされる二つの歌
 十市皇女伊勢の神宮に参る赴く時に波多の横山の巌を見て吹ぶき刀自が作る歌
  川上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常をとめにて(万葉集)
 (天武と額田王の子十市皇女、大友皇子に嫁し壬申の乱で敗れ、天武の元に戻る)
  →波多の横山は小町姐さん、文屋さんの生まれ故郷

  陸奥はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(古今集 陸奥歌)

・「常にもがもな」変わらないで欲しいという願望。
  I wish it were、、、反実仮想の言い方である。

・「あまの小舟の綱手」漁師の日常の描写
 →実朝は常々鎌倉海岸を散策し海を遠望し物思いにふけったのであろうか。

・「かなしも」何がかなしいのか? →「無常のはかなさ」
 →歌全体から「もののあはれ」感が漂う。
 →三代将軍にして暗殺されるという実朝の生涯を考えると、「箱根路を」「大海の」よりも93番歌の方が代表作として相応しいのかも。

④源氏物語との関連
 ちょっと思いつきません。何せ武門のトップ征夷大将軍の歌、雅な源氏物語世界からは程遠い存在です。それにしても凡そ和歌・公家・風流と征夷大将軍とはミスマッチ。
 百人一首中京都の空気を吸ったことのない歌人はこの人だけ(平安時代以前を除く)。然も白昼公然と暗殺された男。
 →誠に異色づくめの人選です。それだけに天性の詩才は輝くものであった筈です。

松風有情さんから93番絵いただきました。大銀杏、インパクトありますね。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0144_20170225111035.jpg

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92番 沖の石の讃岐 キテレツな題詠に臨む わが袖は

源三位頼政の娘として名高い二条院讃岐。父の一生をバックとしつつ考えてみましょう。

92.わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

訳詩:    わたしの袖は そうです あの沖の石です
       潮がひいてもなお姿を現さないあの――――
       人は知らないことですけれど
       わたしの袖はあの石のように濡れつづけです。
       望みない恋のために流す涙で

作者:二条院讃岐 1141ころ~1217ころ 78才 源三位頼政の娘
出典:千載集 恋二760
詞書:「石に寄する恋といへる心を」

①二条院讃岐
・二条帝(後白河帝の次)(即位1158-65病死)に仕えた女房ということで「二条院讃岐」だが、何故「讃岐」なのか、よく分からなかった。

父が有名な源三位頼政、この父から見て行きましょう。
・父源頼政1104-1180 77才 清和源氏で源頼光の流れ
 (源頼光は65相模の父、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。同時に歌人でもあり勅撰集に3首入撰している)

・頼政も文武に秀でた気骨ある源氏として名を馳せた。
 保元・平治の乱ではうまい具合に勝者側に属し、清盛の平家政権下では源氏の長老として従三位公卿に列せられるまでなったが、所詮は中途半端な出自、出世は思うにまかせず歎き節を残している。

 人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな
 →この歌で昇殿を許されて四位に昇格

 登るべき頼りなければ木のもとに椎を拾ひて世を渡るかな
 →この歌で清盛に訴え75才でやっと従三位、公卿になった。

・ところが頼政はまだ不満があったのか以仁王を奉じて清盛に反旗を翻したが、全く問題にならず宇治平等院であっけなく自害。享年77才
 頼政辞世の句  埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける

・平家物語での源頼政
 1 巻四 「鵺(ぬえ)」
   近衛帝の時、御所に正体不明な生物が出現、これを頼政が退治した。
   其の時上下手ン手に火をともいて、これをご覧じみ給ふに、頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵺にぞ似たりける。おそろしなンどもおろかなり

 2 巻四 「宮御最後」
   壮絶な最後。頼政も歌林苑のメンバーだったことから既に85俊恵のコメント欄で紹介していますが改めて記しておきます。

   埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
  これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかってぞうせられける。其の時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をばとなふって、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治川のふかき所にしづめてげり。(
@宇治平等院 頼政享年77才)

 3 巻四 「競」
   そもそも75才でやっと清盛に三位にしてもらって念願かなった頼政が何故清盛に反旗をあげたのか。息子仲綱所有の名馬を清盛の次男宗盛が所望、仲綱と宗盛の壮絶ないやがらせ合戦が繰り広げられる。結局負けるしかなかった仲綱の悔しさが頼政挙兵の原因か、、、、と
  →どうでしょう。頼政、楽隠居で余生を過ごしておけばよかったのに。

・源頼政
 歌林苑の会衆、数々の歌合に出詠、勅撰集に59首入集
 →本来なら百人一首の撰に残ってもよさそうな歌人
 →政権に反旗を翻した謀反人の烙印がおされており、撰の対象にならず。讃岐の入選はその点の考慮もあったのかも。

以上、長々と源三位頼政について述べすみませんでした。
(この人の人生航路を辿れば保元の乱~平家滅亡までがよく分かるように思います)

・さて娘の「讃岐」
 若い時(18才)から二条帝の宮中に仕える。
 →二条帝とほぼ同年令、帝も目をかけていたのであろう(お手はつかなかったようだが)。
 →父譲りで和歌も得意、華やかな宮中勤めだったのだろう。

 25才の時二条帝が病気で崩御、宮中から退出。
 藤原重頼(受領階級の中流貴族)と結婚、子どもも成す。
 50才頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕、6年ほどで退出出家する。
 (異説もあるようだが上記多数説で考えておきましょう)
 →父(&兄仲綱)の討ち死は40才の時、ショックを乗り越え頑張ったんだなあと拍手を送りたい。
 →二条院退出後は異説があるように詳しくは分かってないようだ。重頼との結婚の経緯、子育てのことなど知りたいところ。

②歌人としての二条院讃岐
・若くして二条院に出仕、宮中歌合にも出詠。父に連れて行かれたのであろうか俊恵の歌林苑にも参加。段々と歌人として重用されていく。
 →歌合には彩りを添える存在として女流歌人が必ず必要。有名歌人を父に持ち讃岐にはひっきりなしに声がかかったのであろう(一度ブレークすると各局にレギュラー番組を持つようになる現代のタレントと同じ)

・千載集以下勅撰集に73首(父の59首より多い) 私家集「二条院讃岐集}

・歌林苑での交遊は讃岐の歌人としてのキャリア造りに貢献したのであろう。
 →90殷富門院大輔と同じである。

・(wikiより)1201後鳥羽院主催の千五百番歌合で詠んだ讃岐の「世にふる」歌はその後延々と続く本歌取りのもとになった。
   世にふるはくるしき物をまきのやにやすくも過る初時雨哉(新古今集)
  これに続いて大歌人たちが挙って派生歌を詠み、室町~江戸と下って連歌俳諧の世界でも「世にふる」が詠みこまれる。まあ一種のブームだろうか。
 →「世にふる」は9小町歌が始まりでしょうよ。

③92番歌 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
・「石に寄する恋」
 百人一首中一番キテレツな題ではなかろうか。
 「筵、網、糸、帯、玉などかなりひねりを利かした趣向も少なくない」(安東次男)

 「題詠という創作方法が、趣向をつかい果して、ついに恋と石をとりあわせるところまでたどりつかざるをえなかったことは、やはり一種の病的現象というよりほかないだろう」久保田正文(百人一首の世界)

 →こんなのを当時も「前衛運動」と呼んだのであろうか。
 →満開の花の宴で「春といふ文字賜れり」と叫んで秀逸な詩(漢詩)と作りあげる。これぞ題詠でしょうに。

・沖の石は干潮時にも水面下にあって顔を出さない。石は乾くことがない。
 私の袖も同じように乾くことはない。
 →そもそも海面から顔を出さない石なんて譬の例になるんですかね。
 →何だか発想が貧弱なような気もするのですがねぇ。

・「人こそ知らね」 一般の人を指してか、恋の相手を指してか。
 →一般の人を詠みこんでも仕方ない。やはり相手に突き付けてる感じじゃなかろうか。

・「沖の石」 二説あり
 .父頼政所領の若狭矢代の浦の沖合にある大石
 .夫重頼が陸奥守でもあったので多賀城市の沖の石

 →多賀城市の沖の石で考えておきましょうよ。
 芭蕉も奥の細道で訪ねているし私も見てきました。末の松山のご近所です。

・海中の石が乾くことはない。私の袖も、、、という歌はいっぱい詠まれている。
 先行歌
 わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし 和泉式部
 ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに 源三位頼政
 なごの海潮干潮満ち磯の石となれるか君が見え隠れする 源三位頼政
 厭はるう我はみぎはに離れ石のかかる涙にゆるげぞなき 源三位頼政
 みつ汐にかくれぬ沖のはなれ石霞にしづむ春の曙 源仲綱
 
 →頼政・仲綱のものはまあファミリー工房ということでいいとして、和泉式部の歌は出だしの五と下句の七七が殆ど同じ。まあ盗作と言われても抗弁できないんじゃないでしょうか。
 →定家ももうちょっといい歌を採ってあげたらよかったのに。

④源氏物語との関連
・源氏物語には何故か歌合の場面が登場しません。歌合に代り絵合がある。
 →その「絵合」の描写は40,41番歌の天徳内裏歌合を踏襲している。
 
・源氏和歌795首には題詠によるものというのは見当たらない。
 須磨の秋のあはれを源氏主従(源氏・良清・惟光・左近将監)で唱和し合うのはあるが、題詠ではない。
 歌の大半が個人間の歌の贈答、これぞ本来の和歌の役目ではなかあろうか。

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91番 九条家の才人貴公子 良経 ひとりかも寝む

いよいよ終盤、時代的には13世紀鎌倉歌人の歌へと入っていきます。91良経は76忠通の孫、兼実の息子、95慈円の甥にあたります。権門の摂政関白家にして和歌・漢学に秀でた優秀一族の人模様。見て行きましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:     あ 鳴いているのはこおろぎか
        寒い霜夜のさむしろに
        ただ一人 わが袖ひとつ片敷いて
        しんしんと身にしむ夜の闇の底
        うずくまって あわれ 一人寝

作者:後京極摂政前太政大臣(藤原良経)1169-1206 38才 九条兼実の次男
出典:新古今集 秋下518
詞書:「百首歌奉りし時」

①藤原良経、九条家を名乗った兼実の子(次男)なので九条良経とも呼ばれる。
 →摂政関白家の嫡流である。

・良経1169生まれ=後鳥羽院より11才年長、定家より7才年少

・忠通-基通(近衛家)-家実-兼平(鷹司家)
   -兼実(九条家)-良通(勅撰歌人、有望なるも22才で病死)
           -良経(兄亡き後九条家の嫡流となる)
 (九条家は良経の孫の代で二条家・一条家とに分流し五摂家ができあがる)
 (誠に優秀な一族。武士の世になってなければ政治の実権はこの一族のものだったろう)

・兄良通は将来を嘱望される逸材であったが22才で病死、同母弟の良経が九条家の後継者となる。以降父兼実とともに公卿に列なり(途中反兼実派の反撃で一時朝廷から追放されるがまもなく復帰)土御門帝(後鳥羽院の子)の摂政、太政大臣となる。
 
 →百人一首上の名前は「後京極摂政前太政大臣」(十字)二番目に長い
  一番長いのは祖父76忠通の十二字「法性寺入道前関白太政大臣」

・ところが摂政太政大臣として現役バリバリの1206年 38才にして急死
 暗殺説(何者かが寝所に侵入して天上から槍で突き殺したとか)もあり。
 →諸説紛々だが結局は不明。ただ尋常な病死ではなかったのだろう。

【余談 京都の朝廷公家と鎌倉幕府の関係について】
 良経が左大臣・太政大臣(1199-1206)として京都の朝廷で政治に携わっていたのは既に鎌倉に幕府ができていた時代。政権(行政・立法・司法とも)は鎌倉にあったと思うのだが京都朝廷は何をやってたのだろう。政権の実権は鎌倉にあったが形式上朝廷(天皇&公卿)のお墨付きが必要でその形式を整える役目が公卿の役割だったということだろうか。
 →この辺、どうももよく分かりません。

②歌人としての良経
・若くから和歌、書道、漢詩に堪能。博学多才の貴公子。
 特に書道は独特で天才的、「後京極流」と呼ばれた。

・83俊成を師として和歌を学ぶ。97定家は九条家の家司、定家からも学んだ。
 →御子左家に学んだ歌人であり御子左家歌道の庇護者的役割も担っていた。

 【余談 和歌道の確立と公家】
  兼実・良経の九条家の後見もあって御子左家は歌道の祖となっていく。嫡流の御子左家は二条家(五摂家の二条家とは別)と呼ばれるが定家の孫の代で冷泉家・京極家が分流し三家となっていく。
  →政治的に武家に従ずるようになった貴族・公家のアイデンティティとして和歌道が重要視されるようになっていった。

・新古今集に79首 勅撰集計319首(これは多い!) 私家集に秋篠月清集

・新古今集では和歌所の筆頭になり仮名序を執筆
 新古今集巻頭の歌は良経の歌
  春立つこころをよみ侍りける   摂政太政大臣
  みよし野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり
  →後鳥羽院の信頼が如何に厚かったかが分かる。

 後鳥羽院口伝
  故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。

・1193六百番歌合(超大規模歌合)を良経邸で開く。
 (87寂蓮と六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争(87番歌の項参照))

 →良経歌壇の主宰者として多くの歌合を主催。
 また後鳥羽院歌壇の中心人物としても後鳥羽院に貢献した。
 
・良経の恋愛結婚についてはあまりエキサイティングな話は見当たらなかったが一つ。
 頼朝の女婿一条能保の娘を妻としたが先立たれた。妻を悼んで。
  くらべこし夜半の枕も夢なれや苔の下にぞ果ては朽ちぬる
  →余程妻を愛していたのであろう。91番歌も妻を偲んでの歌との説もある。

・千人万首より一首
  かぢをたえゆらの湊による舟のたよりもしらぬ沖つしほ風(新古今集)
 →調べとして46番歌プラス祖父忠通の76番歌みたいな感じがする。

③91番歌 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
・1200年に後鳥羽院が主催した初度百首歌で詠んだ歌。後鳥羽院が本格的に和歌に取り組み始めた頃で後鳥羽院歌壇形成の契機となった百首歌。実に79首が新古今集に入集している。

・「恋」の部でなく「秋」の部に分類されている。

・「きりぎりす」は今の「こおろぎ」
 (平安王朝で「松虫」は今の「鈴虫」、「鈴虫」は今の「松虫」。ややこしい)

 きりぎりす(こおろぎ)は秋深くなると野外から家の床下にまで入り込んでくる。
  秋深くなりにけらしなきりぎりす床のあたりに声聞こゆなり
  →寝てる下から聞こえてくる。寒くなったのが実感される。

 またきりぎりすは寒くなると弱ってくる。
  きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく(西行)

・さむしろ=「寒い」・「狭いむしろ」 掛詞

・共寝では脱いだ互いの衣を掛け合って寝る。一人寝は自分の衣の半分しか敷けない。
 →なかなかうまい表現ではないか。

・「ひとりかも寝む」
 →3あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂)

・他に本歌とされる歌
  吾が恋ふる妹は逢はずて玉の浦に衣かたしきひとりかも寝む(万葉集)
  さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集)
  さむしろに衣かたしきこよひもや恋しき人にあはでのみ寝む(伊勢物語第六十三段 つくも髪)

この歌の評価はいかがでしょう。淡々とした調子の歌で恋の情熱とか恨みとか熱いものは感じられない。さりとて寒くなりゆく秋の夜を詠んだ歌としてももの足りない。何となく中途半端な歌かなと思ったのですが、、、後京極摂政殿、お怒りにならないで!

④源氏物語との関連
・秋の虫については「鈴虫」が重要で巻名にもなっている。 
「きりぎりす」はさほどでもないが「壁の中のきりぎりす」として二ヶ所登場。

 1 庶民の町にある夕顔の宿に泊まった朝の描写 
   虫の声々乱りがはしく、壁の中のきりぎりすだに間遠に聞きならひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさま変へて思さるる、、(夕顔10)

 2 大君は薫の気配に物陰に隠れ夜が明けるころきりぎりすのように姿を現した。
   明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。(総角7)
   →薫から逃げまくる大君。まどろっこしくてやきもきしたものです。

・序でに
  寝返りをするぞ脇よれきりぎりす (一茶)
  むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉 奥の細道 小松多太神社)

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