53番 本朝三美人 蜻蛉の君 ひとり寝る夜

さていよいよ一条朝を彩る女流歌人たちの登場です。53番から62番まで、55番の藤原公任を除き、実に9人の才女が続きます。日本文学史上燦然と輝く「女性の時代」について見ていきましょう。先頭は「蜻蛉日記」の道綱母から。

53.嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

訳詩:    嘆きをひとり胸にいだいて
       まどろみもせず不実な方を待ちつづけ
       夜が明けてゆく時をはかって吐息している
       そんな時間がどんなに長いものであるか
       ごぞんじでしょうか あなた
 

作者:右大将道綱母 937ころ-995ころ 59才 陸奥守藤原倫寧の娘 兼家の第二妻
出典:拾遺集 恋四912
詞書:「入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍りければ」

①右大将道綱の母
・この時代残念ながら女性には名前がない。男との関係で呼称される。
 藤原倫寧の娘=藤原兼家の室=右大将道綱の母
 →折角蜻蛉日記があるのだから「蜻蛉の君」とでも言えばいいのに。

・父藤原倫寧は長良の曾孫、典型的な受領階級 丹波・常陸・陸奥・上総・河内・伊勢守を歴任
 後拾遺集に入選した歌人でもあった。「蜻蛉」もその薫陶を受けて育ったのだろう。
 倫寧の娘の一人が菅原孝標の妻となり「更級日記」の娘を生んでいる。
 →「蜻蛉の君」は「更級の君」の伯母である。

・19才で権門の藤原兼家26才に見初められ妻になる(兼家が通ってくるようになる)。
 →ここから蜻蛉日記が始まる。
 20才で長男道綱誕生。兼家との仲も睦まじくいい時代。

【蜻蛉日記について(主として「蜻蛉日記」講談社学術文庫 上村悦子の解説から)】
・書名 「かげろふのにき」
 かく年月はつもれど、思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるもよろこぼしからず。なほものはかなきを思へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし。 
 →回顧録たる上巻(19才~33才)の最後の部分。

 「かげろふ」とは? 
 陽炎、蜉蝣(ひを虫)、蜻蛉(トンボ)、ゴサマー(飛行蜘蛛の糸)
 →諸説あるがここはむなしくはかない「陽炎」でいいのではないか。

 →源氏物語の「蜻蛉」ははかない命ということで蜉蝣と解釈したが。。
  ありと見て手にはとられず見ればまた行く方もしらず消えしかげろふ(薫@蜻蛉22)

・執筆事情・成立の時期
 上巻(19-33才)中巻(34-36才)下巻(37-39才)から成る。
 執筆を思い立ったのは33才の頃で今までの結婚生活を振り返り生身の自分の記録を訴え残しておこうと決意したことによる。上中下巻、それぞれ異なった時期に書かれたものであろう。
 →上巻は箇条書き的短文が多い。中下巻はそれぞれの段が詳しく述べられている。

・文学的位置・意義
 一夫多妻妾制であった王朝時代の結婚生活を妻の側から生々しくとらえ、世に訴えた手記。男の公的日記(実資の「小右記」とか道長の「御堂関白記」とか)が漢文による事実の羅列であったのに対し自分の想いを前面に出した手記(私小説に通じる)というところに意義がある。
 →「この横暴な夫に耐えて風雪の二十年」とか、、(「蜻蛉日記をご一緒に」田辺聖子)
 →紫式部が源氏物語執筆時には「蜻蛉日記」も流布していた。式部は繰り返しこの手記を読んだことだろう。
 →同時期の「兼家日記」でもあれば面白かったのに。。まあ兼家も「蜻蛉日記」を読んでニタニタしていたのかもしれない。

②夫兼家&ライバル妻時姫について
・兼家 師輔の三男、兄45伊尹は早く亡くなりその後次兄兼通との壮絶な覇権争いを経て一の人(一条帝の摂政)になる。息子道兼と語らって花山帝を出家に追いやった話は悪辣で有名。
 長男が道隆(定子中宮の父)、末の息子が道長(彰子中宮の父)

・道隆、道兼、道長らを生んだのが「蜻蛉」のライバル時姫
 時姫の父は摂津守藤原中正、彼も受領階級に過ぎない。
 兼家は「蜻蛉」より先に時姫と結婚し時姫は矢継ぎ早に実に五人の子女を生む。
  藤原道隆・道兼・道長
  超子(冷泉帝に嫁ぎ三条帝を生む)・詮子(円融帝に嫁ぎ一条帝を生む)

 →時姫を兼家の正妻とし「蜻蛉」は第二の妻というのが定説のようだがそれはあくまで結果論、もし時姫に子どもができず「蜻蛉」に二男二女でも生まれていたら立場は全く逆転していたのではないか。

 →兼家は自邸に妻女を住まわせるのでなく時姫の所「蜻蛉」の所と通っていたらしい。活用できる子ども(特に姫君)を生んでくれる人こそが正妻であったのだろう。

 →「蜻蛉」は妊活において時姫に敗れたわけだが蜻蛉日記を読むと夜離れが続いている。いくら恨んでも嘆いても「子ども生産活動」に精を出さなければ子どもは生まれないでしょうに。兼家の足が遠のいたのも無理なかろう。(どうも蜻蛉日記をチラチラ読むとセックスレス夫人のイラつきみたいに感じてしまう)

③歌人としての「蜻蛉」
・937-995 59才 結構長寿、蜻蛉日記を書き終えて20年ほどは生きていたことになる。
・本朝三美人の一人(他は衣通姫、光明皇后=聖武帝妃)
 →何を基準にして誰が決めたのであろう。いい加減な話である。
 →でも美人と聞くと兼家が羨ましくなる。
・ 拾遺集以下勅撰集に36首 中古三十六歌仙
  大鏡の「蜻蛉」評
  この母は極めたる和歌の上手にておはしければ、、

④53番歌 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
・出典たる拾遺集の詞書と蜻蛉日記での叙述が異なっている。
 拾遺集 
 入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍りければ

 蜻蛉日記
 二三日ばかりありて、あかつきがたに門をたたく時あり。「さなめり」と思ふに、憂くて、開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。つとめて、「なほもあらじ」と思ひて、
   嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
 と、例よりはひきつくろひて書きて、移ろひたる菊にさしたり。

(兼家の返歌)げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりける

 →多少の脚色はあるのでしょうがやはり蜻蛉日記の方が本当なんでしょう。

・歌意は言わずもがなでしょうか。
 上述上村悦子の総括は、
 「王朝全貴夫人の代弁歌で、通って来ぬ多情の夫に向かって心の底から抗弁せずにおられない閨怨の情が百パーセントうたいあげられ、全王朝貴夫人の共感共鳴を得たことと思う」
 →そういうことでしょうね。文学的価値が高いのがよく分かります。

・この「蜻蛉の君」日記に赤裸々な想いをぶつけていますがどう思われるでしょうか。
 嫉妬・憤怒・何にでも怒る・独占欲が強い・プライドが高い・高慢ちき・衰えた美貌、、、。
 →普通の男ならちょっと敬遠したくなるのではないでしょうか。。兼家はけっこう気を遣って機嫌をとったりしている。むしろ兼家はエライ男だなあ、、、なんて思ってしまいます。

⑤源氏物語との関連
・紫式部が蜻蛉日記を熟読したのは間違いないでしょう。王朝貴夫人の閨怨の情、これこそ源氏物語のテーマの一つでしょう。

・夫の夜離れを嘆く場面としては、
1 六条御息所 性格的にも蜻蛉の君とよく似ている感じ  
  なかなか来てくれない源氏、五条の下町に下流の女(夕顔)を作ったらしい。
  →紫式部は蜻蛉日記の町小路の女に擬して夕顔を設定したか。その夕顔を取り殺してしまうところは圧巻。

2 同じ六条院春の町ながら正妻女三の宮の寝所に通う源氏に理解を示しながら恨み嘆かざるをえない紫の上。明け方女三の宮の所から帰った源氏にすぐには戸を開けずいじわるする女房たち
  
御格子うち叩きらまふも、久しくかかることなかりつるならひに、人々も空寝をしつつ、やや待たせたてまつりて引き上げたり。(源氏)「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは」(若菜上15)

  →この場面は53番歌に基いて創作されたのかもしれない。

〇松風有情さんから53番歌絵を投稿いただきました。
  http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/02/KIMG0262.jpg

〇【お勧め本】
 「蜻蛉日記をご一緒に」 田辺聖子 講談社文庫
  大阪のカルチャーセンターで8回に亘り行われた講義録がベース
  お聖さんの洒脱な語り口で分かり易く面白い。

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53番 本朝三美人 蜻蛉の君 ひとり寝る夜 への18件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    さあ! 待っていました。
    53番から62番迄一条朝才女のオンパレード、そのトップを切っての女性が道綱母
    その中に何故かぽつりと公任が紛れ込んでいる。
    公任、さぞや肩身が狭いのではなかろうか。
    ちょっぴりからかってやりたい、気分はいかが?と。

    百人一首の中では最も知られた女流歌人の和歌。
      嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
    この歌を中学時代に覚えた時、何となく乙女心に恥じらいを感じたものです。
    あれから半世紀余、この歌の良さがわかるようになったのはいつごろの事か定かではない。
    有名な「蜻蛉日記」の作者、これを読んだ時。
    なんと可愛げのない嫌味な女と思わずにはいられなかった。
    この女性、女の嫌な面をすべて持ち合わせているのではなかろうか?
    苦手なタイプ、ちょっと敬遠したい。
    しかしそれだけに身につまされ、ああ、わかるわかる、さもありなんと同情もし反発もしながら読む蜻蛉日記。
    男は藤原兼家、時の権力者である。
    兼家ならずとも辟易し、扱いにくい女にほとほと手を焼いたであろう。
    ここまで私生活をあからさまに暴露できるものかとさえ思われる。
    今どきであれば週刊誌なみの暴露本ではないか。
    しかしそれだけではないところがこの歌人のすごさである。
    赤裸々な私小説もどきの日記を世に出した勇気は賞賛に値する。
    紫式部も「蜻蛉日記」に大いに触発されたのではなかろうか。
    自分も書きたい、書けるだろうか?書こう!!といやが上にも士気があがったであろうと想像する。
    そう言う意味では源氏物語の産みの親であったかもしれない。

    この女性、一面正直で可愛いところも垣間見ることができる。
    よほど兼家に惚れていたであろうに愛情の表現がいかにも下手なのである。
    こんな女に惚れられた男は逃げ出したくもなるであろうと逆に男に同情したくもなる。

    源氏物語ではまさに六条御息所を想像させる。
    その怨念の深さ、気性の激しさ、嫉妬深さはどちらも勝るとも劣らない。
    夕顔と下町の女もだぶりますね。

    拾遺集では
    入道摂政まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬと言ひ入れて侍りければ
    蜻蛉日記
    「さなめり」と思ふに、憂くて、開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。つとめて、「なほもあらじ」
    この女性に限って断じて門は開けなかったのが真実だと思えます。
    まだまだ書き足りない感じですがこの辺で・・・

    松風有情さん
    道綱母の嘆きが伝わり、儚げな蜻蛉とんぼとうまくマッチしていますね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・女性陣の中に何故公任が紛れ込んだのか、両手に花ならぬ花の中に埋れ込んだ気持ちはどうだったのか。気になりますね。55番歌のところで考えてみましょう。

      ・「この女性、女の嫌な面をすべて持ち合わせているのではなかろうか?」
       そう思われますか、なるほど。これぞ日記文学・私小説の走りと言われる所以ですね。神ならぬ人間、誰しも夫に対して(妻に対して)百パーセントいい顔なんかできっこありません。必ず(相手にとって)嫌な気持ちが湧くことはあるでしょう。でも心の内を何とか抑えて表面的には取り繕い関係を維持していく、、、というのが現実的な大人のやり方なんだと思います。だから普通の人には私小説は書けない。自分の嫌なところをさらけ出すなんてできませんから。
       
       →その点源氏物語は語り手を女房として物語に解説を加えつつ登場人物には心の内を自在に語らせる。所謂心内語の手法が見事だと思います。執筆動機を与えたことと言い「蜻蛉日記は源氏物語の産みの親かも」。賛成です。

      ・「愛情の表現がいかにも下手」
       全くねぇ。蜻蛉日記を読むとそう思いますが逆に「日記」には脚色が入っており実際の「蜻蛉の君」は兼家と逢うといつもしなだれかかっていたのかもしれません。

       →「一週間に十日来い トコトントコトン~」なんて鼻にかかった声で歌いながら。

  2. 松風有情 のコメント:

    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/02/KIMG0262.jpg

    今回、画材の再登場が遅れました。
    先月は母親が緊急入院し、一週間の検査&治療を終えその後のケアなどあって雪道の中大変でした。

    母繋がりで、今回は#53右大将道綱の母にしました。
    少しペースダウンするかもですが次回は#57紫式部の予定です。

    古語川柳は
    白寿にし 胃カメラ飲みて 母泣きぬ

    やりました~!PGAツアーアリゾナフェニックスオープン松山英樹見事優勝
    おめでとう!

    • 百々爺 のコメント:

      大変でしたね。お大事にしてください。百人一首絵が少しでも気分転換になればいいですね。どうぞ無理なさらないように。
       →それにしても白寿とはすごいですね。

      ・おつ、源氏物語第五十二帖「蜻蛉」の時はトンボ(秋あかね)でしたが今度はウスバカゲロウですね。「蜻蛉の君」も自分は儚い蜉蝣なんだと物思いに耽っていた、、、、そうですね。日記では嫌味な「蜻蛉の君」も実は純な所があったのかもしれませんね。

      ・松山くん、よく頑張りました。記憶に残る名勝負でした。さすがのファウラーも最後は松山の粘りに根負けしたみたいな感じでした。それにしても17番はファウラーには鬼門でしたね。

       スーパーボール、第五十回記念大会、全米中盛り上がってましたね。最近NFLはスーパーボールしか見てないので的確なコメントは自信ありませんが、今日の試合は盛り上がりに欠けました。売出し中のニュートンに期待してたのですが全くいい所がなかった、ブロンコスのデフェンス陣に完全に抑え込まれてた。逆転また逆転みたいなエキサイテイングな試合の方がいいなあ。。

  3. 百合局 のコメント:

     この作者は今でいうところの専業主婦で、宮仕えしなかったから、道綱母としか伝わらず残念です。百々爺の言うように「かげろふの君」と名付けるほうが、その歌才、文才のありかもわかってすっきりしますね。
     若い兼家は、作者の父の上官。美貌と歌才の誉れ高い作者との結婚が成立した2ケ月後には父倫寧は陸奥守に栄転。(う~ん、政略?)

     現代でも「かげろふの君」的女性はいますね。今は制度上は一夫一婦で、守られているけれど、愛情面に関しては1000年前と変わりはないのでしょうね。
     凄まじい政権争いをした兼家タイプを夫に持った幸不幸を理解し、諦めて上手く付き合っていくとか、一途に惚れたなら何があっても大きく包み込むとかできなかったのかなあと思いつつも、それができないからこそ、深く深く思い悩んで素晴らしい歌ができ、日記文学を成すことができたのだと考えます。
     もし同時代にいたら「貴女の歌才と美貌とで、思い切って宮仕えして、才能発揮しなさいな」と背中を押したい気分です。

     あとに続く清少納言、紫式部、和泉式部などの女流に与えた影響を考えるとその偉大さがわかります。

     「枕草子」290段(笠間書院)に「小原の殿の御母上とこそは、普門といふ寺にて八講しける、聞きて、またの日小野殿に、人人いとおほく集まりて、遊びし、文作りてけるに、
     薪こることは昨日に尽きにしをいざ斧の柄はここに朽たさむ
    と詠みたまひけむこそいとめでたけれ
    」とあります。清少納言と道綱母の気性は対極にあるように感じますが、ここを読むとその才能を評価していたようです。
     道綱母の兄、藤原理能は、清少納言の姉を妻に迎えているので、その関係から書いた一文でもあるかもしれません。

     紫式部の「源氏物語」に与えた影響は大で、女流日記文学の対象把握の方法など沢山とり入れています。「かげろふ日記」という先行作品がなければ、紫式部といえども、「源氏物語」は書けなかったかもといわれるくらいです。

     和泉式部の歌に53番歌の派生歌があります。
     岩の上のたねにまかせてまつ程はいかに久しき物とかはしる

     最後に安東次男見解から。
    「事実は、日記の伝えるとおりであろう。それを拾遺集の前書のように潤色し和らげたのは、虚構というよりもそれが歌というものである。~ 歌も日記中では険しく耐えている女の恨みが、いどむさまにあらわに伝わってくるが、拾遺集の形では闇の中に唯美的に溶け合う恋人の姿も余情に立ち現われてきて、いわゆるかわいい女の歌である」
     「かげろふの君」さん、「かげろふ日記」書いておいてよかったですねえ。真実が伝わりましたよ!
     

    • 百々爺 のコメント:

      ・女性の生き方、専業主婦とキャリアウーマンでは違うのでしょうね。ずっとバリバリのキャリアウーマンだった百合局さんがおっしゃるのだから間違いないでしょう。今後益々女性も外に出て社会の一翼を担う方向になっていくでしょうしそうあるべきだと思っています。

       そうですか、背中を押してあげたいですか。次の54番歌儀同三司の母はそれこそバリバリのキャリアウーマンですもんね。そう言えば62番清少納言までの女性ラインアップの内で純粋に専業主婦(外に出て働いたことがない)はこの「蜻蛉の君」だけかもしれませんね。

      ・枕草子第290段の紹介、ありがとうございます。
       「蜻蛉の君」と清少納言も義理義理ではあるが姉妹だったのですね。めでたいと褒められ「蜻蛉の君」も面目を施したことでしょう。

       →「斧の柄はここに朽たさむ」長い時が経過する。故事に基くこの表現源氏物語にもありましたね。

      ・安藤次男の見解、いつもズバッと核心をついていていいですね。そもそも勅撰集の詞書なんてのは赤裸々な事実が語られてるのでなく何がしかの繕いがあると思う方がいいのでしょうね。

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

    立春も済み余寒、冴えかえる日々とはいえ、朝から畑仕事をしていますと、じっとり汗がにじんできます。人間、座ってるのが生活習慣病の原因だそうで、なるだけ立って作業をするのが良いようで。 

    さて53番歌の右大将道綱母。藤原家一門の全盛期は言わずと知れた道長。その道長の異母兄が道綱。母親の身分が低かったためさほど偉くはなれなかったが、この母親、すなわち右大将道綱母が只者ではなかった。本朝第一と称される美形で、才媛で、道長の父・兼家に嫁している。これが百々爺ご指摘の通りの浮気者、その博愛ぶりに美形の人は大いに悩まされた。

    一方、倫寧の娘の一人が菅原孝標の妻となり「更級日記」の娘を生んでいる。
     →「蜻蛉の君」は「更級の君」の伯母である。とは驚き桃の木山椒の木。
    もし「蜻蛉」無かりせば、「更科」もなく、ひいては「源氏」もなかった。全ては右大将道綱母ありきといえなくもない。

    平安の王朝時代、男たちは複数の愛人を持つことが許されていたから、この歌のような状況は少なくはなかった。がしかしこの歌人の夫はことさらの浮気人、やっぱり標準を超えた博愛主義者であったらしい。歌人の方もこれまた人一倍一途であったか、嫉妬深かったか、真相は何ともややこしや。

    「ミス平安朝といわれるほどのおくさんなのに、なんで?」
    「奥さんあんなにきれいなのに、なんであんなへんてこな女とくっつくの?」
    な~んて話はよく聞きますが、いったいぜんたい男性は女性の、どんなところにほれ込むんでしょうか。

    俗に「気惚れ、顔惚れ、床惚れ」という言葉があります。多くは語りませんが、なにか他人にはわからないそれなりの理由がありましたんでしょうな。
    「蜻蛉」が妊活において時姫に敗れた理由がね。 

    • 百々爺 のコメント:

      ・朝から畑仕事、お元気でけっこうです。そうです、身体を動かしてナンボです。ジムやフィットネスクラブもいいと思いますが畑で汗を流せれば言うことないじゃないですか。それに収穫の喜び、羨ましいです。

      ・蜻蛉の息子、道綱のことを話題にしていただきありがとうございます。母の日記に出てくる道綱は何とも頼りない万事母まかせのマザコン息子みたいに感じるのですがいかがでしょう。少なくとも目から鼻に抜けるような秀逸な男ではなかったみたい。兼家もそれなりには処遇しているようですが抜擢もしていない。そしてご指摘通り道長とは嫁さん同士が姉妹で(道長の妻は源雅信の娘倫子、道綱の妻も同じく源雅信の娘)それもあって道長には可愛がられた。道長にしてみれば自分の地位を脅かす心配もない安全牌、右大将大納言まで取り上げてあげたのでしょう。
       →残念ながら母「蜻蛉の君」は道綱が右大将になった前年に亡くなっているようですが。。

      ・男女の仲は人それぞれ千差万別。それでこそ世の中成り立ってるのだとつくづく思います。決めつけはいけません、でも思い込みはありでしょうね。。

  5. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原道綱母は「尊卑文脈」で本朝三美人に数えられています。他の2美人(藤原安宿媛=光明皇后=聖武天皇夫人と藤原明子=染殿后=文徳天皇夫人)は皇后という地位に敬意を払って選ばれたのかもしれませんが、受領階級の娘に過ぎない彼女の場合は正真正銘の超美人だったと思われます。兼家は藤原摂関家の嫡流ですから、彼女より身分は高いものの、彼女の類まれな美貌に魅かれて、結婚したのでしょう。

    道綱母は超美人で歌の上手でもありましたが、極めてプライドが高い上に、一夫多妻妾制の平安時代に一夫一妻制の時代にのみ可能な「夫を独り占めにする」という愛のかたちを求め続けました。これが逆に夫婦仲を冷ますこととなり、彼女の不平不満を高め、不幸にしました。Eテレ番組「恋する百人一首」のテキストでは、恋愛の反面教師として道綱母の結婚生活から学ぶことができる「やってはいけないエピソード」を記していますので、その内、いくつかを紹介したいと思います。

    ①「夫の浮気が発覚!訪ねてきても家に入れない」 これは正に53番歌が詠まれた背景となるエピソードです。→百々爺が解説で記しているとおりですが、兼家はあっさりと浮気相手の町の小路の女の家に行ってしまうので、夫婦仲は冷める一方です。

    ②「夫の歌に素直になれない。ひねくれた歌でお返し」 兼家が、衣を裏返しに着て寝ると逢いたい人と逢えるという迷信にかけて、「嘆きつつ返す衣の露けきに いとど空さへしぐれ添ふらむ(あなたに逢えないのを嘆いて、裏返しに衣を着て寝たところ、その衣まで涙で濡れてしまった。その上、どうして空までしぐれて悲しみを添えているのだろう)」という歌を送ったところ、道綱母は「思ひあらば干なましものを いかでかは返す衣の誰も濡るらむ(私への思いの火があるなら、濡れた衣も乾くでしょうに。どうしてあなたの裏返しに着た衣も、私のと同じく濡れているのかしら)」と返歌した。これは「私への思いが足りないからよ」と兼家を責めているのと同じ。
     時々しかやってこない兼家から「明後日に逢おう」という手紙が7月5日に来ると、「天の川七日を契る心あらば 星逢ひばかりの影を見よとや(明後日7月7日に逢おうとの気持ちなら、彦星と織姫と同じく、1年に一度の逢瀬で我慢しろと言うのですか?)」と皮肉たっぷりの返歌をした。→折角兼家が誘っているのに、すねるばかりのエピソード2題。こんな女性は可愛げがなくて、嫌われる。

    ③「夫からの誘いを拒絶。ますます孤独になっていく」 結婚12年目に、道綱母の家を訪れていた兼家が突然病に倒れ、これが切っ掛けとなって二人の愛が甦ったことがありました。しかし、兼家が回復して元気になると、道綱母の家への訪れは再び途切れがちになり、新しい愛人ができたという噂が道綱母のもとに届きます。そんな折に、兼家から「今夜行きたいがどうか」という手紙が来たものの、噂のために怒りと失望に身を震わせている道綱母は「気分がすぐれず返事できません」と返信します。にもかかわらず、兼家は何食わぬ顔でやってきて、彼女のご機嫌をとろうとします。それが癪に障り、道綱母は恨みつらみをぶちまけ、その後、兼家が愛し合おうとすると「石木のごとして明かしつれば(感情を押し殺して、身を固くして夜を明かしたので)」、兼家は翌朝、何も言わずに帰っていきました。→待っていた夫が久しぶりに来てくれたのだから、素直に愛されればよいのに。このように依怙地すぎる女性は結局不幸になる。

    エピソードの紹介は以上です。それにしても、「恋する百人一首」は道綱母を反面教師扱いし、他の解説本も総じて彼女は美人かもしれないがプライドの高すぎる嫌な女とこき下ろす中で、小町姐さん・百合局さん・百々爺といった百人一首談話室仲間の洞察力には感心させられました。「蜻蛉日記は源氏物語の産みの親」と喝破するなんて凄い慧眼です。天国の道綱母が聞いたら、泣いて喜ぶでしょう。美人の味方を自称する智平もこうした見解を強く支持します。

    最後に、松風有情さん、いつもながら素敵な絵をありがとうございました。智平も今朝はフェニックス・オープンをしっかりと楽しみました。あのような情況になると、より心がタフな方が勝つという気がしました。松山も今回の経験を通じて更にレベルアップしたのではないでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・さすが、美人登場となると反応が早いですねぇ。大したものです。
       そうですか、「尊卑文脈」に本朝三美人の記述があるのですか。大鏡の説明部分に美形のことが書かれてればもっとPRになったのに。。

       「美人の味方、源智平」いいですねぇ。堂々とそう言い切れるところが凄いです。光源氏は勿論、在原業平も源融もそうだったのでしょう。普通の男はそこまで言いきれない。美人を前にすると「、、、オレでいいんだろうか、、、」なんて気持ちが芽生えてくる。夕霧しかり薫しかり。まあそれが大人の配慮でもあるんでしょうが。

      ・Eテレ番組からの紹介ありがとうございます。
       (見ましたが殆ど記憶に残っていません)
       確かに①②③とも「やってはいけないエピソード」でしょうね。でも脚色をつけて恋愛の反面教師に仕立て上げられるのでは「蜻蛉の君」も可哀そうじゃないですか。

       「女性(美人に限らず)の味方、百々爺」としてはむしろ①②③のケースで兼家はどうすべきであったかを議論して欲しいものです。押さば引け、引かば押せ、場合によっては押し倒せ、、、。
       
       →それぞれの場面、兼家はけっこう誠意を持って対応していると思います。でも「蜻蛉の君」が不満を感じてたとしたら、普段からのことも含め、やはり何か足らなかったのでしょう。

       →蜻蛉日記をテキストに平安男性貴族間で「妻たちにフラストを感じさせないための十か条」なんてシンポジウム(基調講演・光源氏)でも開けばよかったのかも。

  6. 枇杷の実 のコメント:

    道綱母から始まる女性シリーズ、#62の清少納言まで9人の才女が登場するんですね。皆さんのコメントを読むと、道綱母は何かと話題性のある、評価も分かれる御人とみました。桜の花の咲きほこる頃までは平安女性研究と相成ります。平安文学に花咲かせた摂関期の「才気の女性歌人」が共通項ですか。
    公任の歌を幕間にと息抜きを配置したのは定家独特の配慮かも。

     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
    萎れた菊の花一輪を添えて、「いかに・・・」と詠むこの歌はいささか詰問調で、普通の男にとっては怖いものですね。
    しかし、そこは兼家、政局を乗切り摂関政治の走りとなる豪胆な男だけあって、「げにやげに・・遅く開くるはわびしかりける」と返歌する。いかにもとぼけていておもしろい。
    おなじ詰問調でも、先の伊勢の#19「あわでこの世をすぐしてよとや」ほどは怖くはない。
    兼家は生涯、正室をもたず自分の屋敷に誰一人と妻をいれておらず、兼家が妻たちの邸をまわり歩いていたとか。なにかと忙しい兼家だが文箱の恋文がバレルなどどこか抜けたところもあったようです。
    道綱母もこんな兼家を分かったうえで心中では頼りにもしていたのでは。さばけた不思議な夫婦なのだ。

      妻の愚痴 恨むまでには 顔を出し

    • 百々爺 のコメント:

      ・53~62番の女性シリーズ、それぞれに個性豊かな女性ばかりのようで楽しみですね。そうか、丁度桜の季節にかかりますね。順調に行くと4月4日が「いにしへの奈良の都の八重桜、、、」グッドタイミングになりますね。

      ・妻たちを回り歩く貴族はどのようにスケジュール管理をしてたのでしょうね。源氏物語では真面目男夕霧が正妻雲居雁と側室藤典侍の間をきっちり月に15日づつ通っていたと書いてあり笑ったものでした。

       ここからは全くの想像(空想)です。
       兼家にはスケジュール管理をする秘書チーム(男女二人づつくらいか)があった。予めスケジュールを作って相手の女性にも連絡を入れておくが相手の状況によっては変更せざるを得ないこともあった。「蜻蛉の君はもう限界です。今夜あたり行かないとまた家出しそうです、、、」なんて情報が入って来る。そして突如予定変更、変更するには数々の手間がかかる。秘書チームの忙しいこと。「待てよ、前回蜻蛉に行ったのはいつでどんな話をして来たっけ」、秘書チームは即座に想定問答集を作り兼家は蜻蛉宅へ向かう牛車の中で蜻蛉の機嫌の取り方を研究する。違う女性に約束したことを口走ったりすると大変なことになる。何時も細心の注意を払う必要があり気が抜けなかった。

       →複数の妻を持つって疲れそうですね。私はゴメンであります。

  7. 松風有情 のコメント:

    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/02/KIMG0117.jpg

    ありと見て 手にはとられず
    見ればまた 行く方もしらず
    消えしかげろふ 
    (薫)

    源氏物語五十二帖の絵を添付します。
    確かに今回似た構図になりました。
    で、私の絵本にはもう一句あります。

    それと見し 夢のゆくへぞ
    おぼろなる あるかなきかに
    かげろふの立つ 
    (青玉)

    【百々爺注】
     「青玉」は「小町姐」さんの「源氏物語 道しるべ」におけるハンドルネームです。五十四帖それぞれに和歌を創作していただきました。「源氏物語 道しるべ」には「青玉源氏物語和歌集」として掲載しています。

  8. 小町姐 のコメント:

    松風有情さん、百々爺さん
    源氏物語五十二帖の絵、紫式部の歌(薫)と共に拙い歌を並べていただいて面映ゆいですが嬉しいです。

    久しぶりに懐かしく思われ自作の和歌を読みなおしてみました。
    所属結社恒例の作品展が終わり次第、源氏物語のかな書に取りかかるきっかけになりました。ありがとうございます。

  9. 昭和蝉丸 のコメント:

    ※ WINDOWS-10にヴァージョンアップしたらウイルスにやられ往生しました。
       最終的に初期化してWINDOWS7に戻し、2週間ぶりにネットの
       フル接続をしました。

    もう放送は1月で終わりましたが、NHKの「趣味どきっ」の『恋する百人一首』は
    (最近『談話室』が少々高尚気味と感じていただけに)、教養番組にしては
    半ヌードのベッドシーンが出て来るなど、「ええんかな?」と思うような
    異色且つ痛快に面白い番組でした。
    (源智平朝臣さんが詳細な番組紹介をされているので内容は繰り返しませんが)

    実は、この番組八話でのメインは、清少納言、和泉式部、道綱の母、紫式部、
    この四人の女性の比較集中講義でした。
    今回の53道綱母は、セレブ高慢美人妻との定説があり、従来、四人の女性の
    中では最もイケスカンと見做されていた女性でしたが、それを、番組進行役の
    山口仲美先生 (← 容姿、しゃべり方、(恐らく頭の中も)映画評論家の
    故小森和子を彷彿し、見ていてとても懐かしかったデス)は “一夫一妻多妾制の
    平安時代に、現在のような一夫一妻制の時代のみに可能な愛の形を
    求めた女性”と ポジティブな評価。
    確かに、そうかも知れませんね。

    53~62番の女性シリーズ、読み手の凄い個性の女性たちの生き様が、
    どのようにコメントされるかとても楽しみです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・PC回復してよかったですね。結局はWindows7なんですかね。それにしても悪性のウイルスにやられるとは余程危険地帯を彷徨ってたんじゃないですか。お気をつけ遊ばせ。

      ・NHKの「趣味どきっ」の『恋する百人一首』、やっぱりね。私もこりゃあ蝉丸どのは喜んで見てるだろうなと思ってました。正に「趣味ぴったり」だったのでしょうね。それにしても題材とされた四人の女性も個性的でしたがおっしゃる先生と二人のレギュラー女性も凄かったですね。半分目をつむって見ていました。おまけに恋愛学者が登場するにいたっては教養番組史上特筆されるべき番組だったかもしれません。

      ・「一夫一妻多妾制の平安時代に、現在のような一夫一妻制の時代のみに可能な愛の形を求めた女性」
       まさにその通りですね。蜻蛉の君のキャッチフレーズ「三十日三十夜はわがもとに」(作者33才の年頭の辞)は簡にして要、その想いを余すところなく伝えています。でもよく考えるとそれってお互い鬱陶し過ぎませんか。「亭主元気で留守がいい」とも言うし定年後の熟年離婚も増えているようですし、、、。やっぱり程よい距離感がいいんじゃないですかね。

      ・これから続く女性歌人たちの生き様、蝉丸どのの鋭い辛口異色のコメントを期待しています。よろしくお願いします。

  10. 百々爺 のコメント:

    【補足】
    小西甚一「日本文学史」の中の蜻蛉日記評を転載しておきます。

     (紀貫之の土佐日記はひとつの私小説ではあるが随行する女性を語り手として書かれている点で私小説とは区別されなくてはならぬ。。。とした上で)

     【これに比べると、『かげろふの日記』は、本格的な私小説だといってよろしい。「世の中には、物語などというものがたくさん有るけれども、みなそらぞらしい作りごとにすぎない」と考えた作者―藤原倫寧の女で道綱の母-が、わたしこそ、「自己の真実」を告白するのだという自覚のもとに、前後二十一年間にわたる愛情生活の苦悩を正面から書き綴ったものである。夫婦関係における妻の位置がきわめて不安定であったことは、かずかずの悲劇を生んだと思われるが、そうしたことを作品としてまとめうるためには、かなり高度の自我意識と内に潜められてはいるが鋭い批判精神とが必要であった。このような精神は、散文発達の初期に見られるものであって、あとになるほど、だんだん稀薄化してゆく】

     →鋭敏な精神の持ち様といいそれを未発達段階にあった散文にまとめ上げた文才といい日本文学史上に輝ける女性なんでしょう。本朝三美人と同時に本朝三才女と言っていいんじゃないでしょうか。

  11. 小町姐 のコメント:

    以前百々爺さんに紹介された小西甚一「日本文学史」、図書館で借りて読んだのですが文体も言葉の使い方も難しくて最後まで読み切れず返却しました。
    ドナルドキーンさんも絶賛されていましたね。

    そうですか、「かげろふの日記」はそれこそ私小説もどきの日記などではなく本格的な私小説ですか。
    と言う事は日本文学史上初の私小説と言う事になりますね。
    確かに私小説を書くに当たっては自身の暗部、恥部もすべてさらけ出す覚悟が必要です。
    やむにやまれぬ突き動かされる感情のほとばしり、もしかしたら傷口をえぐられるような血のにじむ作業だったかもしれません。
    私小説家と名のつく作家は山ほどいますが100%事実ではなくやはり何らかの脚色、装飾はあり得ると思います。
    「高度の自我意識と内に潜められてはいるが鋭い批判精神とが必要であった」
    確かにこの時代には覚悟の座った希有な女性だったのですね。
    悪口罵詈雑言された道綱母も面目躍如です。
    源智平さんじゃないですが天国の道綱母も喜んでいることでしょうね。

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