63番 中関白家の荒三位 道雅 今はただ~

華麗なる女流歌人が続いた後に登場するはかるた絵にも武者姿、荒三位の悪名を轟かせた藤原道雅。何が彼をして左様な悪しき振舞いをなさしめたのでしょう。

63.今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

訳詩:    今はもうふっつりとあきらめます
       あなたとの恋は・・・・・もうふっつりと
       けれどそれを人づてにお伝えするのは
       いやなのです ああ どうしても
       これを限りにお逢いして言うのでなければ

作者:左京大夫道雅(藤原道雅)992-1054 63才 中関白家の嫡流 伊周の長男
出典:後拾遺集 恋三750
詞書:「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守目などつけさせ給ひて、忍ぶにも通はずなりにければよみ侍りける

①藤原道雅 基経-26忠平-師輔-兼家-道隆-伊周-63道雅
 藤原北家の主流。中関白家(道隆が始祖)の三代目。
 54儀同三司母(高階貴子)は祖母 中宮定子は叔母

 先ず中関白家の没落を年譜で(54番歌の項参照)
 992 道雅誕生(祖父道隆は摂政で第一の人、道長とつばぜり合い中)
 995@4 祖父道隆死去(酒の飲み過ぎ、糖尿病=藤原長者の自覚不足)
     道隆の跡目争いで父伊周、道長に敗れる
 996@5 長徳の変(自ら起した花山法皇襲撃事件を基に伊周は道長に政治的に葬られる)
     →何ともアホな事件。女性関係で自ら墓穴を掘る。道長の思う壺に。
     これで伊周は大宰府に左遷される(道長のほくそ笑みが察せられる)
     54母貴子 心痛もあったか直後に死去(親不孝なり伊周)
     その後伊周は帰洛を許されるが道長の下に甘んじることになる。

 1001@10 中宮定子死去(享年25才)3人目の子(媄子内親王)を出産、その直後に。
      →5才にして父は失脚、10才にして叔母を亡くす。
      →中関白家はここに衰退の一途をたどる。

 道雅の行状
 1011@20 春宮権亮(敦成親王=彰子が生んだ道長の切り札)に任ぜられる。
      →これは大変なお役目ではないか。ちゃんと勤めれば栄達も可能。       
 1013@22 敦明親王(三条帝皇子)の従者を拉致暴行、瀕死の重傷を負わす
      →なんで? 折角の出世コースを自ら断つのであろう。
 1016@25 当子内親王(三条帝皇女、前斎宮)と密通 勅勘を受ける。
      三条院は間もなく崩御、当子内親王も出家
      →大変なスキャンダル。でもお蔭で63番歌が生まれた。
 1024@33 花山帝皇女殺害事件を主導
 1027@36 賭博場での取っ組合い喧嘩事件
 その後  さしたる悪行事件も見当たらないが鳴かず飛ばず
 1045@54 左京大夫
 1054@63 死去

②藤原道雅の人物像
・後拾遺集に5首 勅撰集計7首
 →殆どが当子内親王密通事件にかかわるもの。
 晩年は歌会を催すなど風流の道に時を過していたかに見える。
 
・正妻は藤原宣孝の娘で、娘に上東門院中将(歌人)
 →宣孝と言えばあの紫式部の夫である。

・さて道雅について2点考えてみたい。不遇な貴公子なのかただの荒くれなのか?
 1 何故粗暴な悪行に走ったのか?
   瀕死を負わせるまで打ちのめしたり女房を殺害させ路上に放置し野犬に食わせたり、、、
   やり方が凡そ貴族の御曹司にあるまじき蛮行である。
   →それぞれ事件には動機があったのであろうがよく分からない。
   →というよりさしたる理由もなく単に気に入らない、頭に来たからやったのかも。
   →どうも情状酌量の余地なさそうに思うのだがどうでしょう。

 2 何故三条院の皇女で前斎宮の当子内親王との密通事件を起こしたのか?
   別に以前から知ってた訳でもあるまいに何故唐突に当子内親王なんだろう。
   皇女しかも前斎宮と密通、事件が露見すれば身の破滅は必定。
   何か謂れのある人との相思相愛燃え上がる恋であれば分からんでもないがどうもそうではなさそう。道雅の独りよがりの感じがする。
   →身の程知らずにも程がある。元より病気がちの三条院も激怒して寿命を縮めたし、相手の当子内親王も出家して程なくして没してしまう。罪作りな男と断じる他なかろう。
   →当子内親王の身になって考えれば神に仕えて帰ってきたら純潔を踏みにじられ親にも勘当され仏の道に入らねばならなくなった。神から仏へ、これも可哀そう。

 没落する中関白家で思うに任せず若さの至りで人の道を踏み外すこと一度くらいなら許せもしようがここまでやると弁護する気にもなれない。

 36才賭博場事件以降は名前通りおとなしく雅の道に勤しんだのでしょうかねぇ。。

③63番歌 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

・当子内親王への一連の恋歌が後拾遺集に並んでいる。   
 逢坂はあづま路とこそ聞きしかど心つくしの関にぞありける748
  →逢坂の関、62番歌に繫がる。
 さかき葉のゆふしでかげのそのかみに押し返しても似たる頃かな749
  →伊勢神宮とあらば榊。
 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな750
 陸奥の緒絶えの橋やこれならむ踏みみ踏まずみ心惑はす751

・63番歌の評価は高い。百人一首中屈指の名歌(田辺聖子)とも。
 真っ直ぐで素直 全くの技巧がない歌。
 題詠ではこんな迫力のある歌は生まれ出ない。
 →爺もこの歌は素晴らしいと思います。歌い手は嫌いだが歌は大好きです。

・伊勢の斎宮絡みとなると伊勢物語第五段
 業平 人知れぬわが通路の関守は宵宵ごとにうちも寝ななむ
 →そう言えば「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子が高階家の養子となった」件について54番歌(儀同三司母)のコメント欄が賑わいましたね。
 →道雅をして当子内親王に向かわしめたのは祖先業平の血のなせる業だったのかも。

・63番歌の本歌
  いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君に語らむ 43敦忠 後遺集

④源氏物語との関連
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな
 →これはそのまま柏木が女三の宮に宛てた歌と言っていいでしょう。
  思ひ絶える:あきらめると言う意味だが「思ひ」「絶える」と二つに分ければ「思い死ぬ」という意味にもなるのではないか。
 →そう言えば女三の宮も若くして出家する羽目になった。

・六条御息所の娘が斎宮に行って帰ってきた。前斎宮を好きだった朱雀院は入内を望むが源氏と藤壷が強引に冷泉帝に入内させてしまう。朱雀院が残念がって前斎宮に詠みかけた歌。

 わかれ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき仲と神やいさめし 絵合1
 →斎宮・斎院を勤めてくるということは大変なことでありました。

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63番 中関白家の荒三位 道雅 今はただ~ への27件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    中関白家道隆の長男、伊周の子で幼名「松君」と呼ばれ「いみじううつくしき若君」であったという。中宮定子の甥に当たる。
    どこかで聞きましたよね。儀同三司(貴子)の孫。
    祖父、道隆に愛され世の覚え高かったとのこと。
    枕草子100段、淑景舎春宮まゐりたまふほどのことなど・・・のところで祖父道隆に抱かれた松君が以下のように登場する。
    大納言殿(伊周)、三位中将(隆家)松君率てまゐりたまへり。殿(道隆)いつしかと抱き取りたまひて、膝に据ゑたてまつりたまへる、いとうつくし。 
    この時、後の道雅は想像だにできない・・・   
    祖父、父の早死。道長の台頭で一族の没落は彼の運命までも狂わせた。
    「荒三位」と言う恥ずべき仇名までつき世に忘れられた通雅の唯一の恋が前斎宮との密通とは何処まで悲運が続くのか。
    森山良子の「禁じられた恋」を思い出します。
    ♪禁じられても逢いたいの♪

       今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな
    この歌は流れるような美しさには欠けるが切々と訴える思いの深さに胸を打たれる。なんと悲しい恋か、同情を禁じ得ない。

    前斎宮とは三条天皇の皇女当子内親王であり伊勢神宮に遣わされていたが父帝の退位で帰郷している。父院の怒りに触れ二人の恋は実らなかった。その後皇女は病により出家、23歳の若さで世を去り二人の恋は終わった。いくら悪行状の道雅とは言え、たった一度の恋ならば叶えてやりたかった気もする。道雅は祖先の業平、父の伊周の欠点だけを引き継いだのであろうか?

    斎宮と言えば過日三重テレビで特別番組「斎王 幻の宮の皇女」が放映されました。
    今後毎月第四土曜日21:00~全10回の内、第一回目でした。
    順次BSフジでも放映されるとの事です。

    第一回はさほど興味を引く内容ではなく今後サミットが開かれる伊勢志摩の食文化の話題も盛り込み奥の深いシリーズを目指すとの事です。
    しかしここはやはり現地、斎宮歴史博物館を訪れてしっかり知識を得、斎宮を偲ぶのが一番だと思います。その後周辺に点在するゆかりの場所を徒歩で巡り一日ゆったり過ごすことをお勧めしたいです。面白かったのは協賛する三重の中小企業がスポンサーとしてズラリ長々と宣伝されたことでした。まあ三重に縁のある人とっては日頃見なれた名前で親しみやすかったかもね。

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      特別番組「斎王 幻の宮の皇女」順次BSフジでも放映されるとの事です.

      情報ありがとうございます。斎宮歴史博物館にも足を運んでいますので、是非見てみたと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      ・枕草子「淑景舎、東宮に」の段は正に中関白家の最高の日々だったのでしょう。一族揃って定子の妹原子の東宮入内を祝う。995年1月のこと、松君は4才。そしてこの数ヶ月後、殿(道隆)は亡くなってしまう。この段、清少納言はことのほか想いを込めて中関白家の盛儀を書き残しているように思います。
       →歴史に「れば、たら」はないけれど、もし殿が藤原の長者たる自覚を持って権謀術数の人であったならば、、、
       →その後淑景舎(原子)は姉定子の後を追うように1002年桐壷にて突然血を吐いて不審死に至る。
       →この東宮が後の三条帝。その皇女が松君(道雅)の恋の相手当子内親王。

      ・「もし世が世であれば」と来ると陽成院の第一皇子だった20元良親王のことを思い出します。「一夜めぐりの君」なんて悪名をとるのも荒三位と揶揄された道雅に通じるのかもしれません。

      ・「禁じられた恋」ロミオとジュリエット、トニーとマリア。
       最後までみつからない恋なんてないわけでいつかは人に知れるところとなる。認めてもらえなければ認めさせなければ二人は幸せになれない。当子に通う道雅は三条院に認めてもらえる勝算はあったのでしょうか。
        →丸でなかったでしょうね。源氏と朧月夜の密会もよく似たものでしょうか。あの時源氏はバレても構わないと腹をくくっていたのでしょうね。

      ・三重テレビ、なかなかやりますね。先の芭蕉シリーズに続くものなのでしょうね。斎宮についての10話シリーズですか。BSフジで見せてもらいます。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    先週は、古の都へ桜旅に出かけており、62番歌へのコメントも出来ませんでしたが、62番歌への皆さんのコメント面白く拝見しました。
    (古の都へ桜旅の紀行文、長いですが、この後に、掲載します)

    今、枕草子の原文を ”新編 枕草子” 津島知明 中島和歌子 編 をベースに、でも原文だけでは解読できないので、図書館から ”枕冊子全注釈” 田中重太郎 を借り合わせて読んでおり、77段まで辿りつきましたが、小町姐さんが言われるとおり、章段の番号が両者で同じでないところも多く、しかも同じ文章があったりなかったりで、混乱してます。大体 枕草子と枕冊子で、題名まで同じでないのですから。

    その筆者、清女、いい女であることは、爺・百合局・源智平さんたちのコメントで解ってきました。枕草子を読みながら、引き続き楽しみながら考えていきます。

    先々週読んだ70段に、鳥の本音を書いてあったので

    夜烏どものゐて、夜中ばかりにいねさわぐ。落ちまどひ木づたひて、寝起きたる声に鳴きたるこそ、昼の目にたがひて、をかしけれ。

    参考まで。

    さて、63番歌、田辺聖子さんも百々爺も小町姐さんも心を打たれる優れた歌であると書いておられる。小生には、この歌のみ読んでいるうちは、”激しく燃える恋の炎、やり場がなくなり、空しく燃え落ちるのを待つしかないという、この気持ちだけでもあなたに伝えたい”という激しい熱情がうまく自分の中で消化できていませんでしたが、詞書や背景を知ってくると、なるほどと納得させられてきます。恐らく、”とばかりを”のフレーズが小生にはうまく消化できないのだと思います。まだまだ、歌の心が読めないなーと思っています。

    ともあれ、この歌の道雅の気持ち、爺も書いてくれていますが、柏木の女三宮への気持ち、せめて”あわれ”とだに、を思い出します。

    最後に、道雅の晩年の心境を吐露したとも思える歌(何歳で詠んだ歌かは調べていませんが)を、千人万首より

    東山に百寺拝み侍りけるに 時雨のしければよめる

    もろともに山めぐりする時雨かな ふるにかひなき身とは知らずや
      詞花149 

    なんとなく、66番歌

    諸共にあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし

    と似ていますよね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・古都の桜をめぐる旅、よかったですね。紀行録ありがとうございます。後でじっくり読ませてもらいます。

      ・枕草子に挑戦ですか、やりますねぇ。思うに枕草子も源氏物語同様色んな読み方ができると思います。俳句の材料を探すのもよさそうだし、栄花物語などと読み比べて一条朝・中関白家についての歴史ものとしても読めるでしょうね。「『枕草子』の歴史学」(五味文彦 朝日選書)は歴史学の角度から登場人物への異説を唱えたりしていて興味深いと思います。

      夜烏どものゐて、引用ありがとうございます。読んでみました。
       たとしへなきもの(あまりに違いすぎて比べようがないもの)として、夏と冬、夜と昼。そして最後に夜烏の鳴き声。清少納言の感性なのでしょうね。カラスは昼も夜もカンベン願いたいですけどねぇ。。

      ・「もろともに山めぐりする時雨かな
       これパクって句会に投句してみようかしら。名句だと思うんですけどね。晩年は反省して寺めぐりなんかしてたのでしょうか。なるほど大僧正行尊の歌を思い出しますね。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    古の都へ桜旅

    始めに

    4月11日(月)から16日(土)まで、桜咲く古の都に旅しましたので、
    紀行録を記します。
    桜は染井吉野は散っており葉桜でしたが、枝垂桜や八重桜は満開で、
    お陰で天候にも恵まれ、予期せぬ出会いもあり、楽しい旅となりました。

    その一
    11日 仁徳稜 浜寺 住吉大社
    12日 吉野

    その2
    13日 赤膚焼 東大寺
    14日 原谷 御室 二条城 加茂川

    その3
    15日 今熊野観音寺 泉涌寺 石山寺 近江神宮 近江大津宮
    16日 花見小路 宮川町 建仁寺 六道珍皇寺

    では、順次書いていきますので、ご興味があれば、その箇所だけでも
    お付き合いください。

    浜寺八麻呂

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    その1

    11日 仁徳稜 浜寺 住吉大社

    行きの新幹線で、先ず田子の浦の富士川を渡る
    田子の浦に打出でてみれば白妙の ふじの高嶺に雪はは降りつつ  4番

    名古屋を過ぎて伊吹山がきれいにくっきりと
    かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを    51番

    ご存知の通り、浜寺育ちで、中高時代は天王寺に通った小生、仁徳天皇陵古墳は約55年ぶりの訪問となります。昔と違い御陵の周辺はきれいに整備されましたが、勿論なかは昔のまま、エジプト クフ王のピラミッド、秦 始皇帝陵と並び、世界3大墳墓。その周囲3KMを巡って来ました。

    歩いていると、かの犬養 考博士の揮毫による真名字での万葉歌碑があり、びっくりポン 仁徳天皇妃であった 磐姫皇后の歌の歌碑
    居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも 万葉集 巻2 89 古歌集

    他にも仮名字で 同じく磐姫皇后の歌
    君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ  万葉集 巻2 85

    そして40年ぶりに、小学校から高校まで住んでいた浜寺の家の跡を訪れました。昔は1-2KM続いていた家の前の桜並木は桜が消え一本もなく、家は小さなマンションに様変わりしていました。通った小学校にも立ち寄りました。此方は校舎は変わっていましたが、昔の面影は残っており、懐かしかったです。

    そして、住吉大社にお参りしました。
    源氏物語では
    澪標 源氏が願ほどきで住吉大社を参詣、明石の君と遭遇するも明石の君は声を掛けられず
    若菜下 源氏が紫の上、明石の君、明石の尼君と住吉大社に願果たしに行く
    の二場面に登場、

    太鼓橋をこれも40年ぶり?にわたり、第一本宮から第四本宮まで四つのお社があるのは、忘れていましたが、すべてお参りし、その後、住吉大社前から、阪堺線のちんちん電車に乗って、天王寺まで行き、奈良に向かいました。

    12日吉野

    心配していた天候にも恵まれ、かの万葉集にも数多く歌われ、南朝もあった、また西行が住んだ吉野へ初訪問

    天武天皇
    よき人のよしとよく見て よしと言いし 吉野よく見よ よき人よく見  万葉集 巻1 27

    みよし野の山の秋風小夜更けて 故郷寒く衣うつなり 94番

    金峯山寺蔵王堂では、特別拝観中の蔵王権現3体(青不動)を見ることができたが、想像以上に大きく、威圧感と威厳がある権現様でした。

    南朝皇居があった、吉水神社や後醍醐天皇の御陵がある 如意輪寺 それに吉野水分神社 金峰神社も訪問。

    桜は下・中千本は散っていましたが、上千本はきれいで、花矢倉展望台からは山一面がピンクに染まった一目千本桜も見れ、感激。葛きりも食べました。ところが、奥千本は、1-2Mぐらいの小さな背丈の植えたての桜が中心で、大きな桜は見えず、がっかり。

    それでも西行庵まで足を運んできました。
    とくとくと落つも岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな
    吉野山去年の枝折の道かへて まだ見ぬ方の花をたすねむ
    吉野山花のさかりは限りなし 青葉の奥もなほさかりにて
    吉野山梢のはなを見し日より 心は身にもそはずなりにき

    小生には、西行が見た桜は、遠き昔となりにけり。

    芭蕉
    露とくとく 試みに浮世すすがばや

    苔清水は、まだ健在で水が流れていました。

    そして竹林院では、今年も桜が咲いたお礼に蔵王堂にお礼参りするという 大名行列に遭遇、奴さんや武者に混じり、山伏や僧侶が行列をなし、参勤交代さながら参道を練り歩いていました。

    約8時間、吉野に滞在、歩きまくった一日でした。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「田子の浦」から始まっての百人一首・古歌に因んだ旅、下調べも十分で(+旅途中での情報やその日の気分で)充実した一週間だったようでよかったですね。折しも九州が大変だったことも後で思うと万事が鮮明に蘇るのではないでしょうか。

      ・奥さんを伴って八麻呂さんが少年時代を過した地を訪れる。感慨無量だったことでしょう。地元に名所旧跡があっても年少のみぎりには中々その良さや重要性が分かりません。年をとってからこそ見えてくるものが多いことに今さらながら気づかされます。昔通った小学校、懐かしかったことでしょう。

      ・住吉大社の前を走るちんちん電車(阪堺線)、あれは生活ラインですよね。東京の荒川線と並んでこれは無くなることなないなあと思いました。

      ・桜の季節に吉野を満喫できよかったですね。昨年行ったので土地鑑はありますが奥千本、それも西行庵まで、すごいですね(私は金峰神社まで行きましたがそこから西行庵まで片道15分とあったので断念しましたが、、)。

       →先日道長のこと読んでたら、道長は2週間かけて吉野に赴き娘彰子のため子を授かる効験があるという金峯山寺蔵王堂の子守三所にお詣りしている。そして権現さんの力で彰子も入内8年にして初めて懐妊し道長は大喜びした、、、とありました。あの山深い吉野の霊験は特別なものがあったのでしょう。

  5. 浜寺八麻呂 のコメント:

    その2
    13日 赤膚焼 東大寺 加茂川

    大学時代に実家が浜寺から奈良・学園前に代わったが、東京に下宿していたため、ここに住んだのは、会社に入ってすぐの一年間の大阪勤めの間だけであったが、今回その学園前にも出向いた。

    ここ2-3年陶芸に興味を持ち、赤膚焼窯元があると聞き、大塩 昭山 という窯を見てきました。陶器にしては、またおとこの作家にしては、美しい紅色を中心に可愛い人や動物の絵を焼き付けており、うん悪くない、これを参考に、小生も作ってみたいと思い、帰ってきました。

    その後、過去何回も訪れている東大寺の戒壇院に行き、鑑真が日本で始めて受戒の場を開いたことに思いをはせ、空海のことも思いました。

    古の奈良の都の八重ざくら 今日九重に匂いぬるかな  61番歌

    で 在六少将さんがコメント、東大寺知足院の八重桜がこの桜だが枯れ、そのDNAを持つ八重桜が東大寺大仏殿西側に植えられていると書いておられたが、このことをすっかり忘れており、たぶん真横を通ったように思うが,確認しませんでした。残念。

    午後に、京都に移動、今回は北大路にある旅館泊。前が加茂川で、その堤に枝垂桜が満開。植物園が横で、桜の木はまだ若い方だが、すでに桜の名所とのこと。これもしらずに宿を取ったが、ラッキー。

    さらに、旅館にとっまている方から、今でも桜が楽しめる場所として、原谷苑・二条城がお勧めと伺い、これも、ラッキーな情報。

    14日 原谷 御室 二条城 

    14日朝一早速、原谷苑(村岩農園内さくら園)へ。枝垂れと八重が満開、御室桜や変わった桜(黄桜・緑桜・ボタン桜など)も多く、つつじ・石楠花等も咲き、春の花を満喫。かなりの方がご存知の、しかも隠れ名所らしい。京都在住の方はここには行かないようにも思えた。

    そのあと、遅咲きの御室桜の仁和寺へ、これは予定しての訪問。三分の一ぐらいの桜がちょうど満開。あとは、葉がかなり出ていた。この桜 初めて見たが、五重塔を仰ぎ見、なるほど絶景。

    仁和寺は光孝天皇の勅により建立
    君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ   15番歌

    そのあと、妙心寺へお墓参り。そして久々に二条城へ、おおくの桜は終わっていたが、枝垂れと八重がまだ見ごろ。唐門・二の丸御殿もみごとであった。

    毎日 2-3万歩 歩きまくっています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・焼物、私の全く知らない世界です。自分でも焼いているんですか。一度初歩からお話きかせてくださいよ。

      ・原谷苑(村岩農園内さくら園)、初めて知りました。農園の桜、福島の花見山みたいな感じでしょうか。いやもっと隠れスポットのようですね。京都通の八麻呂さんならではでしょう。

      ・仁和寺、光孝天皇、源氏物語では朱雀院の遁世地そして徒然草でしたね。それと最近は月二百時間とかの残業で問題になってましたっけ。お寺と残業、なんかよく分かりません。 

  6. 浜寺八麻呂 のコメント:

    その3

    15日 今熊野観音寺 泉涌寺 石山寺 近江神宮 近江大津宮

    朝起きた気分で、泉涌寺 石山寺 近江神宮に行くことにした。

    泉涌寺の境内にある今熊野観音寺へ初参拝、医術の観音様らしい。
    ボケ防止にご利益があるとのことで、祈願してきました。

    62番歌への百合局さんのコメントを読んだのは、16日の帰りの新幹線、
    このときは、知らず、定子陵には行かず。清女が晩年に暮らした場所も
    このあたりとコメントあり、今でもひっそりと静かな東山の裾野。
    小生は今、枕草子原文に挑戦中、やっと78段まで来ました。

    泉涌寺にもお参りしましたが、62番歌の歌碑があるとは、露知らず、見逃しました。
    夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 夜に逢坂の関はゆるさじ  62番

    泉涌寺では、1230年唐より持ち帰ったと言う楊貴妃観音像と満開の
    楊貴妃さくらも鑑賞。

    続いて、久々の石山寺へ。
    33年に一度の、本尊 如意輪観世音菩薩 御開扉に偶然出くわし、拝む。
    やさしい趣の菩薩様。この御開扉にちなみ、”石山寺と紫式部展”も豊浄殿で開催中、石山寺の生い立ちや源氏物語絵巻や関連書を観ました。勿論、本堂にある源氏の間、月見亭、紫式部の供養等も拝観。

    供養塔の横には、芭蕉の句碑
    あけぼのは まだむらさきに ほととぎす

    石山寺は、源氏物語には4回登場する、調べました。

    関屋   石山寺への願ほどきの帰りの源氏と帰京する空蝉が12年ぶりに
         出会う場面
    真木柱  髭黒大将が玉鬘を手に入れ、石山寺の観音さま(上記菩薩さまか)も
         弁のおもとも一緒に並べておしいただきたいと思う。
    浮舟   浮舟と匂宮の関係ができた後、母北のかたが、石山に女君を参詣させ
         ようと迎えにくるが月の障りでお穢れにてといかない場面。
    蜻蛉   浮舟が失踪したことを、薫が石山で聞く場面。

    次は、京阪 石山坂本線で近江神宮へ、百人一首完読旅行に残しておこうかとも思ったが、映画を見たばかりで、抑えきれず、訪問。石山寺発の2両編成の路面電車、車体外側全面に ちはやふるの漫画の絵を描いた電車に偶然に乗る。行き先が近江神宮と書いた電車とその車体が、ちはやふるの絵で埋まったところを写真に納める。また、広瀬すずの写真も載っていたので、思わすツーショット。

    解れば当然だが、近江神宮が天智天皇を祀る神社と境内に入り気づく。凄く立派なお社のある大きな荘厳な神宮、かるた取り大会はお社でやると思っていたが、当たり前だがそんなことはなく、近江勧学館という、別棟で行うと。29日からの ちはやふる 下の句 の上映が楽しみ。

    ちはやふる神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは  17番歌

    競技会 序歌
    難波津に咲くやこの花冬籠もり、今は春べと咲くやこの花

    神宮のあと、直ぐそばの近江大津宮の遺跡を見る。ご存知、白村江の戦いに敗れたあと、天智天皇が667年に飛鳥から移し、壬申の乱で廃墟となった、5年5ヶ月の短い都。昭和49年ごろから、遺構が見つかっていると。

    秋の田のかりほの庵のとまをあらみ わが衣手は露にぬれつつ  1番歌

    帰りは、やはり京阪 京津線で三条へ、途中大谷駅で、逢坂の関よこを通過。
    これやこの行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関  10番歌

     
    16日 白川 花見小路(祇園) 宮川町 建仁寺 六道珍皇寺

    宮川町から清水へ歩いていたら、偶然 六道珍皇寺に出る。もともとは鳥辺野と呼ばれた死体置き場。小野たかむらが、夜この寺の境内にある井戸を通って閻魔庁に仕えたといういわれのある寺、井戸も拝見。紫式部を救ったと言うお話もありましたね。
     わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよあまの釣り舟  11番歌

    以上、勝手に長々と書き、恐縮です。

    百々爺やその仲間の皆さんと知り合い、古典も少々かじり、古の都への旅が大変楽しいものとなり、感謝、感謝。また、このコメントにお付き合いいただき、ありがとうございました。

    • 百合局 のコメント:

       浜寺八麻呂さん、古都桜旅日記を楽しく読ませていただきました。
      毎日、2~3万歩とは随分精力的に廻られましたね。健康的な旅ですね。
      私はまだ、近江神宮には行ったことがありません。行こうか、完読旅行にとっておこうか、嬉しい悩みです。

       恒例の国宝「源氏物語絵巻展」が開かれます。
       五島美術館 4月29日~5月8日
       同時に「春の優品展・恋歌の筆あと」も観られます。百人一首43番歌敦忠の「あひみてののちのこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり」(藤原定家筆)も観られるようです。この歌がポスターに使われています。
       お暇がある方はお出かけください。

       

    • 百々爺 のコメント:

      ・泉涌寺のこの辺りを東山月輪山麓というのですね。定子陵と清少納言晩年の地。63道雅も叔母定子の供養に何回か訪れたこともあったのでしょうか。

      ・石山寺、源氏には4回出てきましたか。調べていただきありがとうございます。薫が浮舟のことを聞いたのも石山寺でしたか。石山寺で筆を起したと伝わる紫式部が宇治十帖の最後、源氏物語を終えるに際し引合いに出したのも石山寺だったというのは面白いですね。

      ・鳥辺野、六道珍皇寺、小野篁、紫式部、、、記憶をたどってみました。
       某の院で妖怪に襲われ突然死した夕顔を荼毘に付したところ。

        見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつましきかな
         (源氏@夕顔)

  7. 小町姐 のコメント:

    文学紀行旅のレポートありがとうございます。
    一週間の充実の旅の思い出が伝わりさながら追体験をする気分で当方も楽しませていただきました。
    八麻呂さんの真面目な学習成果が如実に現れた紀行文だと思いました。

    私も今週、桜前線と共に北上して東北三大桜(北上展勝地、角館、弘前城)を追っかけして参ります。

  8. 文屋多寡秀 のコメント:

    皆さま、桜の季節、東奔西走、誠に結構かと存じます。浜寺八麻呂 殿の紀行文に彼の地を想い、未踏の地においては、如何ばかりかと想像を逞しゅうしております。

    さて63番歌は、左京大夫道雅こと藤原道雅
     今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな

    先に登場した藤原伊周の子。身分は高いが政争の中で不遇な生涯を送ったらしい。
    歌の心は、今はもう貴方のことをあきらめようとばかり考えているけれど、そのことを人づてではなく、直接お会いして言いたいものだ、であります。

    これはよくわかります。失恋は覚悟した、しかし、そのことを会ってお伝えしたい、せめてもう一度会って・・・・会えば何とか、いや、いや、もう見込みはないと知っているけれど、ひとめだけでも、と、切々たる思いを訴えております。

    もう少し詳しく事情を説明すれば・・・・この道雅、恋した相手がまずかった。皇女で、伊勢の斎宮を務めた女性なのだ。皇女なんて当然のことながらこちらもよほどの身分でなければ望んではいけない相手だし、伊勢の斎宮は天皇の代理として神に使える立場ですから男なんかみだりに近づいたり近づけたりしてはいけない。通雅の出自は、祖父の道隆が生きていたころならともかく、父・伊周は道長に圧倒され、完全に右肩下がりの情況。恋してはいけない相手に恋してしまい、そのことが相手の父親なる天皇にばれてしまい、著しく不興を買うこととなってしまいました。

     -おのれの運命、これで決まったな-

    ますます不遇に陥る。
    そういう事情の中で詠まれた一首であり、歌合わせの会などで詠まれるフィクションとは少し違う。恋の相手の方も父親の逆鱗に触れ、尼となり、そう長くは生きなかったとか。70点の男性が90点の女性に恋した熱愛(あれェ?このフレーズ、どこかで使ったなあ。思い出せないィ~)。女性も禁を犯して応えてくれたに違いない。

    本当の恋は盲目、穏やかな生活には向かないところがあるのでしょうね。と今週の阿刀田さんは荒三位道雅には殊の外やさしいまなざしで解説しておられます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・さすが短編の名手阿刀田さん、切れ味鋭いご指摘ですね。
       恋した相手がまずかった。まずい相手だからこそ燃え上がる想いで恋をした。道雅にしてはおのれの運命、分かった上でのことだったのでしょう。それを是とするか非とするか。「正義とは何ぞや」のマイケル・サンデル教授にでも解説してもらいたいところです。

      ・「70点の男性が90点の女性に恋した熱愛」ですか。いや道雅は残念ながら50点未満だと思いますよ。

       この点数方式、前出は54番歌、正に道雅の祖父母の恋のところでした。それによると90点の祖母貴子が95点の祖父道隆に恋をしたということでした。何と孫は70点(爺の見立ては50点未満)。正に三代目の没落ということですね。

  9. 百合局 のコメント:

     この歌の評としては「袋草子」の次の部分が言い得て妙でしょう。
    道雅三位はいと歌仙とも聞かざるに斎宮に秘通の間、歌は秀歌多し

     悲恋に苦しんで、それで、千年のちの人の心も打つような素晴らしい歌を残せた。荒三位には悪行だけでなく、良い面もあったのでしょう。
     読むものの胸に迫ってくるものがこの歌にはありますよね。心のうちをどーんとそのままぶつけていますよね。

     道雅の幼名は松君です。2歳~4歳くらいの松君は、枕草子や栄花物語に可愛らしく書かれています。
    「枕草子・積善寺供養」では、「松君率てたてまつる、葡萄染の織物の直衣、濃き綾のうちたる、紅梅の織物など着たまへり。御供に例の四位・五位、いとおほかり。」
    「枕草子・淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのこと~」では、「大納言殿(伊周)・三位の中将(隆家)、松君率てまゐりたまへり。殿(道隆)いつしかいだき取りたまひて、膝にすゑたてまつりたまへる、いとうつくし」

    「栄花物語・浦々の別れ」では、「ずちなくて出でさせ給ふに、松君いみじう慕ひ聞え給へば、かしこく構へて率て隠し」「(父伊周を)松君の恋ひ聞え給ふぞいみじうあはれなりける」 ~ 「帥殿は、何か、これはことわりの事なれば、さるべきにこそはと、よろづ思しなして出でさせ給ふに、松君は、『我も我も』と泣き叫びののしり給ふ。げにあはれに悲しういみじ。」
    「栄花物語・皇子の降誕」では、「又七日の夜は、公の御産養なり。蔵人少将道雅を御使にて参り給へり。松君なりけり。」 この時、道雅は15~16歳。

     このころまでの道雅はまだ荒れていなかったようですね。この後5年くらいしてから、悪行をなして謹慎処分にされるのです。その暴力沙汰はもってのほかですが、斎宮を退下した当子内親王への恋は真実のものだったのでしょう。それが相手にも周りの人々にも多大の迷惑をかける結果になったとしても・・
     自伝小説でも残していれば、道雅の心の推移を辿れるのですがねえ。

    • 百々爺 のコメント:

      ・袋草子の評言はドンピシャリだと思います。
       「秘通」というのがいいですね。ちょっと淫靡。清純な乙女と屈強の若者(吉永小百合と赤木圭一郎)。道雅は身の破滅をも顧みず前斎宮に突き進んだ。そして生まれたのが千年を越えて語り継がれる名歌。

      ・「栄花物語・浦々の別れ」引用ありがとうございます。詳しくは読んでませんがこの場面4才の幼児だった道雅にはショックだったでしょうね。それまで栄華に包まれた家庭で蝶よ花よと育てられた御曹司が見たのは、罪人として引き立てられていく父伊周、泣き叫びすがりつく祖母貴子。この幼児期の異常体験が道雅の人格形成に大きく影響したのだと思います。

       「悪行と秘通と秀歌」。道雅の人生、語り合うに不足はありませんね。誰か道雅を主人公に小説書いて欲しいものです。

  10. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原道雅は中関白家の嫡孫として、英米流にいえば銀のスプーンをくわえ、輝かしい将来を約束されて生まれてきました。しかしながら、4歳の時に最大の権力者で摂政であった祖父の道隆を喪い、5歳の時に内大臣であった父の伊周が大宰府に左遷され、10歳の時に中宮であった叔母の定子を喪いなどの不幸に襲われ、ままならぬ一生を送ることになりました。こうした中関白家の没落とそれに伴う環境変化は道雅の人格形成に少なからぬ影響を与えたと推測されます。

    ここからは智平の仮説ですが、子供時代に次々に道雅を襲った不幸は彼を「自己破滅型」の人間に変えていった可能性があります。自己破滅型の人間の特徴として、「破壊衝動がある」「暴力を振るう」「感情に支配されたまま行動し、自分をコントロールできない」「社会のルールを守らない」「安定した生活に不安を感じる」「破滅願望があり、落ちて行くのが気持ち良い」などが挙げられています。数々の粗暴な悪行に走り、禁忌である内親王との密通事件まで起こした理由は道雅が自己破滅型人間に陥ったからとでも考えないと、説明できないような気がします。

    であっても、恋に賭ける力は凄いですね。百合局さんが説明されたとおり、「袋草子」は、道雅はさしたる「歌仙」とも聞えぬのに、当子斎宮を密かに通じた時の作だけは「秀逸」だと記しています(目崎徳衛)。この一時の爆発的秀歌により、道雅は「中古歌仙三十六人」や百人一首の作者に選ばれ、後世に名を残すことになりました。

    斎宮との密通と言えば、思い出されるのは智平が憧れる在原業平の「狩の使」の話。その話の最後に、斎宮が上の句だけを書き、狩の使の業平が下の句を書き足した次の歌があります。
    かち人の渡れど濡れぬえにしにあれば また逢坂の関はこえなむ
    (上:徒歩の人が渡っても濡れない浅い入り江ですから、私たちのご縁も本当に浅いので諦めましょう 下:私はまた逢坂の関を越えて参りましょう。そしてきっとまたお逢いしましょう)
    道雅の詠んだ次の逢坂の関の歌も、それに劣らず、心に沁みる歌であると思います。
    逢坂はあづま路とこそ聞きしかど 心づくしの関にぞありける
    (逢坂の関は、そこを越せば東へ通じる道と聞いていたけれども、あなたと逢ったのち、障害ができて、吾妻とすることは叶わない。逢坂の関でなく、心魂尽きさせる筑紫の関だったのだなあ)
    63番歌も言うまでもなく悲恋のパワーが生んだ素晴らしい歌であると思います。

    最後になりましたが、浜寺八麻呂さんの「古の都へ桜旅の紀行文」、楽しく読ませていただきました。大阪に3年間勤務したことがあり、それ以外にも何回か関西旅行に行きましたが、まだまだ関西は奥が深いと感じた次第です。

    • 百々爺 のコメント:

      ・自己破滅型人間の解説・分析、ありがとうございます。よく分かります。道雅によくあてはまる。幼児期に目の当たりにした一族(中関白家)の崩壊ぶりが道雅の後の人格を作った。そういうことでしょうね。

       幼児期には分からなかったが成長して世の中が見えてくると道長への憎悪、父伊周への批判などが昂じてきたのでしょう。自分を正当化するには一番高い所にいる女性を手に入れること、これしかない。そう思い詰め前斎宮に言い寄ったのでしょうか。前斎宮との恋は成就しなかったが(するわけがない)千年も讃えられる希代の名歌を手に入れた。。。
       →道雅の人生の帳尻は合ったと言えるのでしょうかねぇ。

      ・やはり業平朝臣が登場しますね。斎宮との密通、業平の場合は神に身を捧げていた現役の斎宮ですからね。リタイアした前斎宮とは比較にならない。改めて業平のエラさを見直しています。

       逢坂の関、これぞ歌枕ですね。逢うにしても逢えないにしても先ずは立ちはだかる逢坂の関を越えることが先決。

       源氏物語より逢坂の関の歌
        逢坂の関やいかなる関なれば繁きなげきの中をわくらん
        (空蝉@関屋)

       もう一つ伊勢(一志郡)河口の関
        あさき名をいひ流しける河口はいかがもらしし関のあらがき
        (雲居雁@藤裏葉)

  11. 枇杷の実 のコメント:

      今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな
    何の技巧もないこの一首が人々の心に永く銘記され、定家の選にも入ったのは、歌が悲劇的背景の記憶と固く結びついていたからであろう。選歌に対する批判は作者抜き、背景抜きで文学的価値だけで議論しても始まらない。王朝和歌のいのちの輝きは、その詠みだされた場面・状況の中にこそあるのだから。(目崎徳衛)
    人知られで重ねた逢瀬が当子内親王の父、三条院の知るところとなり恋人は監禁状態に。守り女(SP)までつけられて道雅は一歩も近づけない。もし直接会っていたら駆け落ち、又は拉致するばかりの勢いも空回り。
    24才の若者が当子内親王に遣った一連の4首(後拾遺748~751)にあるのは一途で真率な想いだけ。返歌も今一たびの会うこともなく、当子は出家、病死する。所詮、皇女には及ばぬ恋、「あわれ」悲恋に終わる。ここで道雅も出家するなり、公達が皆したように、他に女を求めていれば人生も変わったかと思うが。無器用な道雅は自暴自棄になる。博打、乱暴など生活は乱れ、荒三位とあだ名される。
    決定づけたのは「上東門院女房殺害事件」、容疑者として逮捕された法師の自白により道雅は首謀者とされ、左遷、官途への希望も絶える。事件の動機、背景はうやむやで冤罪(陰に花山院の意を受けた道長?)の匂いもする。
    父伊周の花山院襲撃も暗がりの中の闇討ちで、部下にやらせたというがそれも真相はどうか。こうした事件と自己律に乏しい家風もあって中関白家は衰退し、権力・栄華は道長一家のものとなり、「望月の欠けたることもなし」と詠まれた歌が世に残ることに。三代の道雅は悲運な男としか言いようがない。

      今はただ 余震絶えろと 神だのみ
    九州ではしつこい余震が続きています。昨日までに震度1以上の地震が571回発生しまだ続く。東日本大震災で体験した震度5強の一瞬の恐怖。あの揺れを超えるもが9回も連続して起こっている。避難する被災者はもう我慢の限界でしょう。気象庁は一週間は余震が多発するというが、ただ収束を祈るばかりです。
    5年前、九州登山旅行の際にドライブした阿蘇地方。あの阿蘇神社の楼門(国宝)、本殿社は見る影もなく崩壊、南阿蘇の地獄温泉に向かう途中に渡った阿蘇大橋は崩落、そして熊本城の石垣は崩れ、金ぴかだった本丸御殿、天守閣も危うい。

    平安時代にも噴火・地震・洪水は多発しており、仁和地震(887年)(南海トラフ連動型地震説あり、M8~8.5)では、ひと月の前震のあと、7月30日に大地震が発生し、京では役所や民家が倒壊して、下敷きになって亡くなるもの多数。五畿内七道諸国でも津波が押し寄せて数えきれないほどの死者が出た。中でも摂津国の損害は大きく、余震は3週間以上も続き、鳥や虫に異変が現れ、妖言が流布した。この災害に対して、朝廷は紫宸殿、大極殿で大般若経を転読させ災異を払おうとした。前近代では神仏に祈るよりほかに手立てはなかった。(揺れ動く貴族社会)

    • 百々爺 のコメント:

      ・確かに「上東門院女房殺害事件」は怪しいですよね。容疑者が「道雅の命でやった」と自白した。う~ん、冤罪、デッチあげかもしれませんね。でも道雅、普段の行状が悪すぎる。「あのワルの道雅ならやりかねない、やっぱり道雅か、、」と誰しも納得したのでしょうね。不徳のいたすところでしょう。
       →父伊周のスキャンダルも花山院がらみ。何か因縁ありますねぇ。

      ・中九州、大変なことになってますね。53年前、制服制帽で修学旅行に行ったところ、早く治まり復旧してもらいたいものです。

       「揺れ動く貴族社会」からの引用ありがとうございます。日本列島揺れ動いています。日本全体、人知を尽して事前予防事後対処するしかありますまい。

  12. 小町姐 のコメント:

    【余談26】 東北見聞録
    東方見聞録ならぬ東北見聞録です。
    北上しつつある桜前線を追っかけ「名湯を楽しむ春の東北桜紀行」のツアーに参加。
    国産初のジエット旅客機三菱MRJが格納庫から出されている優美な姿を真下に眺め青森で迎えてくれたのは津軽富士と呼ばれる残雪を抱いた岩木山(百名山)
    八甲田山雪の回廊を抜け奥入瀬渓流を眺め発荷峠を越え十和田湖へ。
    暖冬のため雪の回廊は立山黒部雪の大谷同様例年に比べ迫力に欠けるとの事。
    硫黄の温泉地、八幡平に宿を取り翌日は東北三大桜の一つ、北上展勝地へ。
    息を呑むような見事な桜並木、山側を含め一万本とも言われる。
    昔懐かしい「北上夜曲」♪匂い優しい白百合の♪ 五線譜付の歌碑からはメロディーが流れています。
    北上川添いには花見の遊覧船や乗り合い馬車もでています。
    二つ目の桜は盛岡から岩手山(百名山)を右に左に南下し横手から角館の武家屋敷へ。
    ここは小京都とも呼ばれ枝垂桜が武家屋敷の風情と相まって見応えがある。
    桧内地鶏で有名な桧木内川堤の2キロにわたるソメイヨシノも満開。
    刺巻湿原では水芭蕉とカタクリの群生が見られた。
    尾瀬に行ったことのない私は広大な湿原の水芭蕉に驚いた。
    秋田駒ケ岳(二百名山)麓の宿も硫黄温泉でここからさらに奥へ行くと有名な乳頭温泉や玉川温泉に通じるとの事。
    最終日は日本で最も深い湖、田沢湖に立ち寄り小岩井牧場へ。
    数年前NHK朝ドラ「どんど晴れ」で一躍有名になった岩手山を背にした一本桜を見る。
    生憎の曇り空で岩手山が顔を出してくれない。
    そして三っ目はメインの弘前城。
    ご存知の通り弘前城は天守台の石垣が崩落の危険がありその修復のため天守がが移動されています。高さ14.4メートル、総重量約400トンの3層からなる弘前城(天守)が約3か月かけて曳屋と言う作業方法で本丸に移動されました。その内部も見ることができました。
    現在は背景に岩木山が見える位置に移送されており、元の場所に戻すのに10年近くかかる予定だそうです。
    したがって今回の桜はもとの風景とは違った景色を見ることになりました。
    外堀、中堀、内堀と濠が厳重に巡らされ大正期にも一度移動されているそうです。
    天下第一の高遠の桜を遥かに凌ぐ素晴らしさでした。
    満足満足の三大桜、最後は岩木山の麓の嶽温泉まで行き世界一長い桜並木(20キロの山桜)を目指すネックレスロウドを走ったがここは標高が400Mぐらいあり蕾固しでした。
    桜はもちろんのこと東北の三つの山も惚れ惚れする眺めで山と桜と城の競演。
    この三大桜がほぼ同時に満開を迎えるのは珍しいことだそうで桜に酔いしれた東北の旅でした。

    明日からは母の一周忌法要で三重に行ってきます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・マルコポーロは東方見聞録、そしてマルコマチネは東北見聞録。ありがとうございます。読ませていただきました。三大桜とも満開でしたか、それはラッキーでした。大体北上が満開なら弘前は未だで弘前が満開なら角館は終わってるなんてのが通常のようですから。

      ・私も一度バスツアーで行きました。北上は盛り過ぎ、角館満開、弘前城七分咲きくらいでした。バスガイドさんが「北上夜曲」「りんご追分」を歌ってくれたのを思い出しました。

      ・弘前城、大改修中のようですね。知人に弘前出身の人がいて城をまるごと移動してるんだと聞きびっくりしたものです。その人いわく、桜は弘前城、他のところは貧弱で語るに足らない、、、、ですって。まあ話半分としても凄さが覗えますね。満開の桜を見れてようございました。

  13. 昭和蝉丸 のコメント:

    今回は、八麻呂さんの観桜記や小町姐さんの東北見聞録が入り、
    ボリュームたっぷりで 肝心の歌の方が・・・。
    でもこの歌、百人一首の中でも屈指の歌、なんですか?
    そうかなぁ~?

    桜と言えば、小生が今年訪れた桜は;
     ① 京都山科の毘沙門堂の枝垂桜 → 数年前,JRの『京都に行こう』の
       ポスターになりました。最近では、春樹さんが、「京都で一番好きな
       寺院」と言って脚光を。でも、京都市内に比べれば まだまだ
       閑散としています。
     ② 根尾の淡墨桜 → 元々、ここではなく、岐阜の正倉院と言われている
       (それほどではありませんが)谷汲の横蔵寺に行ったついでに
       寄ったのですが、確かに凄い! 凄い生命力に感服しました。  
     

    所で、小町姐さん紹介の、三重テレビで特別番組「斎王 幻の宮の皇女」。
    滅多に取り上げられないTHEMEなので、ググってみると
    BSフジの放映は来年で、先に、TV神奈川とか、東京MAXなど
    local局で毎月一回放映されるようです。是非、見てみます。
    それにしても、小町姐さんの八面六臂な探求心には淡墨桜以上に
    感服します。
       http://www.mietv.com/saio/onair.html

    • 百々爺 のコメント:

      ・そりゃあ桜の季節、話の花が咲きまくる。談話室らしくていいですね、ありがたく思っています。

      ・63番歌、私は率直ストレートでいい歌だと思います。まあ好き好きでいいんじゃないですか。今朝サンデーモーニングで川藤が出て来て虎キチぶりを発揮していました。それでいいんだと思います。

      ・「毘沙門堂の枝垂桜」「根尾の淡墨桜」ネットで見せてもらいました。淡墨桜って樹齢1500年ですって!? 紫式部の頃で500年経っていた。それはすごい、ちょっと考えられませんね。毘沙門堂の方は樹齢300年とのこと、まだまだ幼稚園児みたいなものですねぇ。

      小町姐対昭和蝉丸、探究心争いでは屈指の名勝負じゃないでしょうか。。

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