69番 やらせの元祖 能因法師 三室の山のもみじ葉は

「女房歌人の時代から遁世歌人時代へ」(目崎徳衛)と時代は移っていきます。旅に暮らし西行や芭蕉の先達となった能因法師。数々のエピソードの持ち主でもあります。それだけ面白い人生を生きた人だったのでしょう。

69.嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり

訳詩:    見上げれば三室の山の紅葉が散る
       あらしにまかれ散りゆく先は
       龍田川の秋の流れ
       流れは織る 限りなく降る紅葉の糸で
       名にし負う龍田川の秋の錦を

作者:能因法師 俗名橘永愷(ながやす)988-1051? 諸国行脚歌人
出典:後拾遺集 秋下366
詞書:「永承四年(1049年)内裏歌合にてよめる」

①能因法師 988年生まれ 
 誕生が一条朝、青春時代が三条朝、出家行脚が後一条朝、晩年が御朱雀・後冷泉朝
・橘氏 父は近江守橘忠望、受領階級の息子である。
 橘氏 県犬養三千代、その子葛城王(橘諸兄)を始祖とする貴族(源平藤橘の一つ)
 橘諸兄の子橘奈良麻呂は乱をおこすが藤原仲麻呂に敗れ橘氏は没落の途を辿る。
 →県犬養三千代(橘三千代)は藤原不比等の夫人となり、その娘が藤原光明子(光明皇后)
 →「天上の虹」の世界である。

・能因、俗名は橘永愷(ながやす)大学に学び文章生 肥後進士と号す。
 →秀才。学問の道に行くべき男であった。

・1013 26才で出家! Why?
 →恋する女性が亡くなって、、、とのことだがもう一つ不詳。
 →「オレはどうせ不遇の橘氏、中央の出世より遠くへ行って歌でも詠んで過そう」と思ったのか。

・和歌の道へ
 1「難波潟」の19伊勢に私淑して伊勢ゆかりの地摂津古曽部(高槻)に遁世する。
  →亡くなった恋人から「逢はでこのよを過ぐしてよとや」と書かれた恋文でももらったのだろうか。

 2藤原長能(949-1009 藤原北家歌人 勅撰集に52首 53藤原道綱母の弟)に師事
  歌道で師弟関係の出来た最初と言われる。
  →師弟関係ってどういうことだろう。能因の「能」は長能の「能」を頂いたのかも。

・諸国行脚、歌枕を尋ね歌を詠む。能因が行って詠んだ所も歌枕になる。
 甲斐、熊野、遠江、美濃、信濃、美作、伊予、陸奥、出羽(西行・芭蕉より多い=目崎)
 →正に「歌を枕に生きた人生」と言えようか。
 →歌学書「能因歌枕」(歌枕集)を遺す。

・晩年は宮中歌合せにも数々出詠、半僧半俗の人であった。
 →出家・遁世と言っても仏道修行ではない。和歌を詠み、文藝を極めるためであった。
 →宮中歌合に参加し頼通ら権門とも交流する。21素性法師に通じる側面もある。

・後拾遺集に31首 勅撰集計67首 私家集に能因法師集
 →大歌人である。

・大江公資(歌人、相模の夫)と親しかった。藤原公任とも交流。
 →当然65相模とも交流はあったのであろう。

②数あるエピソードから、
・能因は牧場を経営し馬を育て交易するのに関わっていた。
 →何故馬なんだろう。凡そ僧侶に似つかわしくないが。この話すごく興味あります。
 →それで陸奥にも何度か赴いたなんてのも書かれていたがどうなんでしょう。

・超有名なエピソード
 みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける。
  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺518)

 
 陸奥になど行ってないのに行ったふりをするため家で日焼けして黒くした。
 やらせの元祖(田辺)とされる。
 →書かれているのは古今著聞集。まあ作り話でしょうが面白い話であります。
 →日に焼けるのも大変だけど春~秋まで京にありながら人目につかず過す方が大変ではないか。

・「スキタマヘ、スキヌレバ秀歌ハ詠ム」との言あり「数奇の人」と言われる。
 「来たるべき中世的自由人・文化人のあり方を確立した人物である」(目崎徳衛)
 →放浪徘徊歌人は能因法師に始まると言っていいのだろうか。
 →時代が生んだ人物とも言えようか。

・19伊勢に私淑するあまり古今集に伊勢が詠んだ長柄の橋を作った際のかんな屑を錦の袋に入れて宝物として持ち歩いていた。
  難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身を何にたとへむ(伊勢 古今集)
 これを自慢すると同じく数奇者相手鹿矢の節信は懐から蛙の干物を持ち出した。
  かはづなくゐでの山吹散りにけり花のさかりにあはましものを(読み人しらず 古今集)
 
 →ご両人とももう少しましなものを持ち歩けなかったのか。小野小町が若かりし頃ながめた桜の花びらとか、、、。

・諸国で詠んだ歌から
 伊予守になった藤原実綱に同道して伊予で干ばつを救った歌
  天の川苗代水にせき下せ天降ります神ならば神

 常陸にまかりてよみ侍りける
  よそにのみ思ひおこせし筑波嶺のみねの白雲けふ見つるかな
(新勅撰1303)

③69番歌 嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
・嵐は山風(22番歌)
・三室山、龍田川。位置については諸説あるようだがそりゃあ在六少将邸の近くのものでしょう。
 三室の山=神南備山、神のまします山 竜田公園内の小山82M)
 龍田川=現在の大和川
 →17業平が「ちはやふる」で詠み、69能因法師が詠んだ。これで紅葉の名所として確立されたのであろう。

・歌は三室山の紅葉が龍田川に流れ錦を織りなしている、、、単純で見栄えがしない。などとして近代の評価は極めて低い。紅葉が好きな定家が小倉山荘の障子に貼り付けるに適した歌として選んだのであろうとの見解もあった。
 →たしかに「やらせの元祖」「かんな屑の能因」にしては奇抜性がない。もっと「スキタマヘ、ノウイン」と言いたいところ。

・本歌、参考歌
 龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ(読み人しらず 古今集)
 龍田川もみち葉ながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(読み人しらず 古今集)

・この歌は1049後冷泉帝主催の歌合での歌(題 紅葉)勝ちとなっている。
 相手方は藤原祐家(負)
  散りまがふ嵐の山のもみじ葉は麓の里の秋にざりける 
  →祐家は道長の孫、67で登場した忠家(定家の曽祖父)の弟

④能因法師は源氏物語でなく奥の細道でしょう。
 芭蕉が奥の細道で能因法師を引用している所をピックアップしました。

 1.白河の関
  中にも此の関は三関の一にして風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。

  →都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師 後拾遺集)

 2.武隈の松
  武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木わかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因法師思ひ出づ。往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事あればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。

  →武隈の松はこのたび跡もなし千年をへてや我はきつ覧(能因法師 後拾遺集)

 3.野田の玉川(塩釜付近 92沖の石、42末の松山といっしょに出てくる)
  それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山といふ。

  →夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり(能因法師 新古今集)

 4.象潟
  蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴るるを待つ。其の朝、天能く晴れて朝日花やかにさし出づる程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因嶋に舟をよせて、三年幽居の後をとぶらひ、、

  →世の中はかくても経けり象潟の蜑の苫屋をわが宿にして(能因法師 後拾遺集)

 奥の細道の諸場面が蘇ります。芭蕉の時代から遡ること700年! 旅は極めて不自由なものであったでしょう。「そんなの簡単、ツアーで2泊3日で回って来たよ」と聞けば能因さん卒倒してつぶやくでしょう。「えっ、それなら日焼けする必要もあるまいて、、」

松風有情さんから69番歌絵をいただきました。ありがとうございます。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0277.jpg

(月、火と恒例の那須合宿ゴルフ ―源智平朝臣、枇杷の実さんともども― です。
 返信は水曜日以降になります。ご容赦ください)

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69番 やらせの元祖 能因法師 三室の山のもみじ葉は への29件のフィードバック

  1. 松風有情 のコメント:

    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0277.jpg

    久々の歌枕画に挑戦してみました。
    一旦淡い水彩仕上げにしましたが、撮してみたら色合いが薄く秋味が足りません。
    彩りを少しずつ重ねてみるもなかなかイメージを出せなくて、やはり水墨画でもきちんと習わないといけないかと思った次第です。

    歌枕 地球はひとつ
    スタートレック

    (先週は夜半に赤いスーパーマーズを楽しみました)

    六玉川 六回言って
    黄巻紙

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      水彩画、いい色合いが出てるじゃないですか。紅葉の葉っぱが一枚二枚三枚四枚、、。がいいですね。

      曇り空続きだったようですが夜半には見えましたか。王朝人は月には敏感だったようですが星はどの程度知識があったのでしょうね。火星って名前が平安時代にあったのか、、、惑星と恒星は区別されていたのか。面白そうなテーマですね。

  2. 文屋多寡秀 のコメント:

    ゴルフ、良いですねえ。最高の日和ですね。先日(6/2)の紫陽花会、6組で賑わいました。余りの天気の良さにスコアはもう一つ。津カントリーは結構難しい。尾崎将司を恨んだことでした。7月8日の古希記念は伊勢カントリー。井上誠一の名門コースとか。東西対抗になりそうですね。

    さて、69番歌
     嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
    ただひたすら自然の風景を歌った歌とのこと。
    きわめてわかりやすい。
    ここでいう三室の山はどの山を言うのだろうか。竜田川は紅葉で知られる歌枕ですが、本当に三室の山の近くを流れているのか。もともと実見して詠んだ歌ではない。例によってイマジネーションでありフィクションであります。第17番、在原業平の歌「千早振る・・・」と同じ発想。川面を満たす紅葉が錦のように綺麗だと。それだけの歌とのこと。
    この能因法師、百々爺指摘の通り、すぐれた歌人であり、諸国を旅して歩いたらしいが、この人については有名なエピソードがあり、しばしば巷間で語られている。それは、誰しもが認める名歌を詠んでいて、
     都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
    春霞の立つころ、それにまぎれるように人知れず都を出発して東北へ旅立ったが、道は険しく、遠く白河の関にかかったときには秋風が吹いていましたよ、と季節の移ろいと行脚のきびしさをさらりと歌って、快い。
    ところが、これは都にいながらにして創った歌。家にこもって人にも会わず、顔を日焼けさせ、
    「はい、はい、東北へ旅に出てきまして」
    あたかも体験を詠んだように披露したとか。百々爺言うところの「やらせの元祖 能因法師」の面目躍如といったところ。
    インチキというべきか、執念というべきか、あらゆる手段でフィクションに現実感を持たせるのが文学者の魂だ、という考えもあるようですね。と阿刀田さんは今週も心ここにあらずの半身の姿勢でさらりと評しております。

    • 百々爺 のコメント:

      お陰さまで雨にも降られずゴルフ楽しんできました。一日目のゴルフはともかく山荘での夜の宴が盛り上がり過ぎで二日目はただただ修行でありました。聞くところ西高東低のようですが伊勢カン対決がんばります。

      ・69番歌、紅葉の見事さを詠んで小倉山荘のふすまに貼る歌としてはいいのでしょうが、それがどうしたって感じですよね。
       
       AはBなり 構造的には32番歌と同じ。これも紅葉を詠んでいる。
       山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

      ・春霞の頃京を発って白河の関に辿り着いたのは秋風が吹いていた、、、。半年もかかりますか、まあこれも誇張。紅葉葉が錦を織りなすというのも言葉のデフォルメ。真面目人の爺には感情移入にチト抵抗のある歌であります。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    半僧半俗、遁世はしたが、歌が大好き(数奇)で、日本各地を旅した能因、爺が書いてくれた「歌を枕に生きた人生」であったと容易に想像できる。

    世の中をおもひすててし身なれども、心よわしと花に見えける (後拾遺集117)

    しかし、”やらせの元祖”で、馬の商いも盛大にやっていたとか。しかも、西行も芭蕉も尊崇した人物、一体どういう人物なのか、興味を引かれる。
    能因法師の一生をかいた本でも探してみようかと思っている。

    芭蕉については爺が”奥の細道”から引用してくれているので、ここでは、西行について書く。

    やらせは少し横において、目崎氏によれば、
    能因の家集をみると、”都をば”の歌に”(万寿)二年の春、みちの国にあからさまに下るとて、白川の関に宿りて”
    の詞書があると

    都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺518)

    おそらくは、これを見て、西行は

    陸奥の国へ修行して罷りけるに 白川の関に留まりて、所柄にや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が”秋風ぞ吹く”と申しけん折何時なりけんと思出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

    白川の関屋を月の漏る影は 人の心を留むる成りけり

    関に入りて、信夫と申辺、あらぬ世の事におぼえて哀れなり。都いでし日数思ひ続けられて、”霞と共に”と侍ることの跡巡り詣で来にける心一つに思知られて詠みにける

    みやこ出でて逢坂越えし折までは 心かすめし白川の関

    と詠った。

    田辺聖子さんが、69番歌よりよいとした

    神無月 ねざめに聞けば山里の あらしの声は木の葉なりける (後拾遺集)

    があるほか、千人万首より数奇者の歌を

    心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを(後拾遺43)

    山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける(新古116)

    思ふ人ありとなけれど故郷はしかすがにこそ恋しかりけれ(後拾遺517)

    尚、松風さんの絵が見れないので、時間があるときに、確認いただけますか。

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      能因法師の一生を書いた本を、AMAZON 図書館で探したが見当たらず、当地で一番大きな書店 JUNKUDO、実はこの店、一年ほど前の本屋を舞台にした連続TVドラマのロケに使われた店、に行き、
      コレクション日本歌人選045 ”能因” 高重久美著
      を買いました。能因物語ではなく、彼の有名な歌の解説書のようですが、とりあえず、これでも読んでみます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・実体験に基かず単に頭の中で想像しただけの歌より実地に基いた歌の方が好きです。歌枕に行ってないのに行ったふりをして歌枕を詠む。恋なんかしてないのに頭の中で考えて恋の歌を詠む。あまり好きになれません。

       →源氏物語中の795首は全て紫式部の頭の中で作り出した歌。これは「ものがたり」ですから凄いと感心しているのですが、、、。

       69番歌は歌合せの題詠かも知れませんが能因は以前に実際に見聞きした三室山・龍田川の景色を詠んだのだと思います。「都をば」の歌も白河の関に行ってるからこそ詠めた歌でしょう。「やらせ」の話はむしろ後世人の能因に対するやっかみかもしれませんねぇ。

      ・西行の歌の引用ありがとうございます。能因は一昔前の伊勢御に私淑し、西行は一昔前の能因を心のよすがにした。そうやって歌の心は伝承されていくものなのでしょう。

      ・それにしても「白河の関」の歌枕度は凄い。能因、西行に次ぎ源三位頼政も能因の歌に因んだ歌を詠んでますね。

       都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関(源頼政 千載集)

      ・能因法師の歌の列挙、ありがとうございます。コレクション日本歌人選、読まれたらまた感想聞かせてください。能因の人物模様も書かれているのではないでしょうか。

  4. 百合局 のコメント:

     69番歌は内裏で行われた晴れの歌合にふさわしい華やかな歌ということでよいのでしょう。
    少し前に行われた「高陽院水閣歌合」(1035年5月16日)の詠出歌人は、行経、相模、資業、輔親、定頼、赤染衛門、良経、公資、能因、頼宗、兼房で、いずれも当代歌界を代表する才子、才媛揃い。当然いろいろな交流があったことと思われます。
    和歌六人党(藤原範永、平棟仲、源頼実、源兼長、藤原経衡、源頼家、)のような受領層歌人の活動がひとしきり盛んになって、その先達、指導者として能因、相模の果たした役割は大きかったようです。

    摂津国古曾部に、伊勢が晩年移り住みその旧居が「伊勢寺」として今に伝えられ、伊勢を敬慕した能因も古曾部に移り住み、古曾部入道と称したそうです。
    「能因塚」「文塚」などの史跡があります。
      
     津の国古曾部といふ所にてよめる

      わが宿のこずゑの夏になるときは生駒の山ぞみえずなりゆく (後拾遺)

    謡曲『道成寺』にある「山寺のや春の夕暮来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」は新古今、春下、能因の歌「山里の春の夕暮来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける」によっています。 初句「山里の」を「山寺の」に変型。「や」は囃し詞的間投助詞。

    謡曲『三井寺』にある「山寺の春の夕暮来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」は上と同じ能因の歌によっています。( 阿波国文庫本「能因法師歌集」は「山寺の」となっています。)

    謡曲『遊行柳』にある「心の奥をしらかはの関路と聞けば秋風も立つ夕霧のいづくにか」は、後拾遺、羈旅、能因の歌「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」によっています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「高陽院水閣歌合」(1035年5月16日)の詠出歌人の紹介ありがとうございます。65相模、64定頼、59赤染衛門、69能因と百人一首歌人が4人もいるのですね。
       →相模と元夫の公資が同席してるのも面白い。「恋」の歌でも詠み合ったのでしょうかね。

      ・和歌六人党の指導者ですか。何せ能因は諸国行脚の実績がある。歌枕を語るにも迫力があったことでしょう。

      ・能因は何故19伊勢を敬慕したのでしょうね。伊勢の積極的な生き方、激しい歌い振りに共感したのでしょうか。伊勢は生身丸出しの情熱歌人。出家して遁世歌人を目指した能因とは丸で違うように思うのですが。
       

  5. 小町姐 のコメント:

    日、月と一泊二日で広島 厳島神社 岩国(錦帯橋)に行ってきました。
    オバマ大統領が行ったからではなくその前から一度は広島へと思って計画していた。
    それと平家納経、平家の氏神となった厳島神社も目的の一つでした。
    これで日本列島47都道府県すべてを訪れることができました。
    念願叶った広島、やはり日本人として一度は行くべきと感じました。
    戦争ほど残酷なものはない!!平和の尊さをかみしめた旅でした。
    次は少しずつ各地、未知の場所を知ることができればと考えています。

    さて能因法師に戻りましょう。
    紫式部や清少納言よりも少し後の時代に生きた能因法師。
    大学寮に入り、官僚を目指したが26歳で出家する。
    一体何がそうさせたのであろう?
    始祖はかの「天上の虹」の県犬養三千代ですか。
    あの漫画では野望に満ちた女策士のイメージがありました。

    諸国を歩き旅の歌を残し、生き方作品は後代の西行や芭蕉に大きな影響を与えた。
    百々爺さんの解説で「奥の細道」を復習させていただき八麻呂さんからは西行を予習させていただきました。
    エピソードの数々は面白いものばかりですね。
       都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関
    京での詠作なのに遠出を装いひきこもり顔を日焼けしてから公表したという。
    ここまでやる必要があるのか?何だか滑稽極まりない。
    お聖さんは能因を「やらせの元祖」だという。
    発つと立つを掛け春から秋へと移ろう季節は旅の長さを思わせる。
    能因は「数寄たまへ、数寄ぬれば歌は詠むぞ
    秀歌を得たければ徹底して数寄者になれと力説した。
       嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり 
    この歌は17番(在原業平朝臣)と風景が重なる。
       ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは     
    歌の良し悪しよりも流れるようなリズム感が耳に心地よく響く。
    見てきたかどうかは別として言葉巧みに演出する技巧はさすがだと思えるがいかがでしょうか?

    松風有情さん
    69番歌絵 ありがとうございます。
    細かい描写に苦心の跡がうかがえます。
    龍田川に映る逆さの紅葉も良いですね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「47都道府県」制覇ですか。やりましたね。ヒロシマが最後というのもいいじゃないですか。爺は多分まだ半分くらいです。おくてというか出不精というか。まあボツボツやって行きたいと思います。

      ・「天上の虹」の犬養三千代、髪型も顔もインテリウーマンらしく存在感がありましたねぇ。正に女策士でした。
       →能因が橘氏を捨てて出家したのは何故か。何か理由はあると思うのですが。何か気がついたことあればいつでも教えてください。

      ・こうして百人一首を勉強しながら「奥の細道」を読んでみると芭蕉がいかに王朝和歌に通じていたかがよく分かります。それでなくば三十一字から十七字の短詩型を生み出すことなどできませんよね。

       「数寄たまへ、数寄ぬれば歌は詠むぞ」いい言葉ですね。
       俳句作りにもピッタリだと思います。でも凡人にはそれがとてもとても難しいのです。

  6. 源智平朝臣 のコメント:

    百々爺や枇杷の実さんも一緒に参加した那須合宿ゴルフ・コンペで、智平は2日間とも一杯叩いてしまい、心身とも疲れ果てました。帰宅後、それでも頑張って、能因法師についてのコメントの種を探しましたが、見つけることができたのは専ら田辺聖子に「やらせの元祖」と揶揄されることになった白河の関の歌に関するものでした。

    最初は、「能因法師 昔話」と題する能因法師のやらせを皮肉った江戸川柳をいくつか紹介します。
    ・霞から秋風までは 長い嘘
    ・松島を聞けば 能因 口ごもり
    ・能因は 川どめなどの 嘘をつき
    ・底豆のかわり 能因 据りだこ 
    (注)底豆は足の裏に生ずるまめ
    江戸っ子もなかなか上手にからかいますね。

    次は、江戸時代の学者である尾崎雅嘉が書いた「百人一首一夕話(ひとよがたり)」と題する百人一首の解説書に出てくる話で、能因法師のやらせの女流版です。この話は田辺本にも出てきますが、百人一首談話室ではまだ誰も触れていないので、長くなるものの、以下に紹介する次第です。
    「時代は下って待賢門院の女房に加賀という人がいました。ある時に次の歌を詠みました。
    かねてより思ひしことよ伏柴の こるばかりなる歎きせむとは 
    この歌は「前から恋にこりごりするほど悲しいことになると分かっていたのに。だから恋するのはためらったのに、やはり恋に落ちて、こんな辛い目にあってしまった。」という意味で、縁語を駆使し、よく考えられた優美な歌です。加賀は自分でも良い歌だと思っていましたが、人には見せずに、どうせならばそれなりに地位のあるような人と関係を持って、相手が自分に飽きてきて忘れられた頃にこの歌をその相手に贈れば、評判になって勅撰集にでも入れられたら身の誉れになろうと考えていると、ある時に花園大臣・源有仁と関係を持つことになりました。果たして思った通りに大臣が通ってこなくなったころ、その歌を贈ると大臣は大変に感動されました。そして後になってその歌を律儀に千載集に載せました。このため、加賀は「伏柴の加賀」と人に呼ばれ、有名になったとのことです。」
    人生から芸術作品を創作せず、創作に人生を強引に押し込む(田辺)。能因のやらせと似た話で、加賀も結構やるもんです。

    最後に、69番歌はあまり評判が良くないものの、歌の構成は「山と川」、「紅葉と錦」を対称的に配置し、「あらし」も介添え役に使って見事に整えられており、演出上手な技巧派である能因法師の面目躍如といった歌といえるのではないでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      お疲れさまでした。ゴルフは妖艶なる魔物。そう簡単には靡いてくれません。力でねじ伏せるより優しくすり寄ってソフトタッチに終始した方が受け入れられやすいのではないかと改めて思いました。精進しましょう。

      ・能因の江戸川柳、多彩ですね。格好の川柳ネタだったことが分かります。江戸の川柳は味がありますね。古典を材料にしたのも面白い。平成でもあればいいのに。

       爺の拙い平成川柳を。
        本当か 問われ能因 号泣し
        好きたまえ 日焼けサロンと かんな屑

      ・加賀の話、面白いですね。待賢門院璋子の女房ですか。やりますね。相手の源有仁についてちょっとだけwiki見ました。後三条帝の孫で賜姓源氏、詩歌・管弦・書に通じてた。何となく光源氏を彷彿させますね。加賀は有仁にどう迫ったのでしょうね。

       →どうせなら①恋をしかける歌、②恋の歓びを表す後朝の歌そして③恋を嘆く伏柴の歌の三部作でもあったら更に面白かったでしょうに。

       →それにしても目論見通り勅撰集に入り名を残したとはアッパレであります。 

  7. 昭和蝉丸 のコメント:

    歌は、各解説書で共通して(?)指摘されていますが、
    凡歌 (わたしもそう思います) のようですが、
    こういう歌を作る作者が生まれ出た時代を 象徴するサンプルとして
    取り上げた定家の鋭い時代センスを感じます。

    目崎「百人一首の作者たち」では、能因法師について
    九頁も費やして語られています。
    (皆さんも読まれていると思うので繰り返しませんが)

    この目崎さんの記述で唸ったのは、
    王朝文化から一転して、室町時代をピークに我が国に延々悶々と
    続いていく遁世者文学の本質を、一刀両断に切り取っている点です。
    曰く; 
    能因の遁世は数寄に身を委ねる方便であったと言うほかはない」。

    そのあとの西行、長明、芭蕉etcetc 恐れ多いあまたの“遁世者”。
    そうか、方便だったのだ・・・・。
    長年の疑問が氷解しました。

    • 百々爺 のコメント:

      独特の感性でよくポイントをついて読みこまれているといつも感心します。

      正しく百人一首も50番台の王朝女房の雅び一辺倒な詠み振りから、人の心のあり方を探る方向に向かっているように感じます。その意味で百人一首を人の一生になぞらえると68番69番あたりから熟年期(まさに我らの年代)にさしかかって来たと言えるのかもしれません。

      学生時代コンパでよく歌った「人を恋うる歌」(妻をめとらば才たけて)(与謝野鉄幹)の一節を思い出しました。

        ああわれダンテの奇才なく バイロンハイネの熱なきも
        石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず

       →そろそろ膝枕より石を枕にする年代にさしかかってるんでしょうね。

  8. 枇杷の実 のコメント:

    「女房歌人の時代から遁世歌人時代へ」ですか。雅から俗への兆しの歌なのかも。
     嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
    一般的な評価はあまり高くないらしいが、山と川との対照、紅葉と錦の関係、そして歌枕を二つも入れた歌詠み。さらりと美しい情景を表現して、しかも調べがよく覚えやすい良い歌だと思う。縁語、掛詞を駆使したた技巧の恋歌のように人情の深読みする必要もない。本歌を
     龍田川もみぢ葉流る神南備の三室の山に時雨ふるらし(古今284)
    として、補記に「又は、飛鳥川もみぢ葉ながる」とある。古今集はよみ人しらずとするが、「人丸集」に見え、柿本人麻呂の作とされる。

    山の紅葉が散って流れてきたものを錦に見立てる事(龍田川、紅葉、錦の取り合わせ)は多く、
     龍田河もみぢみだれて流るめり渡らば錦なかや絶えなむ(古今283)
     千早振神代もきかす立田川からくれなゐに水くゝるとは(#17業平)
    の歌等に既にみられており、「後撰集」でピークを迎えている。平安中期頃になると、見立ての発想は常套すぎて陳腐な表現へと下降してしまう。そのため能因の歌の評価は芳しくなかったのである。(吉海直人)

    王朝和歌を何かと批判する正岡子規は西行、能因の次の歌を挙げて評価している。(九たび歌よみにあたふる書)
     さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べん冬の山里(西行)
    庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は、西行ならでは得言はざるべく、
    特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新に俳諧を興せしも寂は「庵を並べん」などより悟入し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思候。
     閨の上にかたえさしおほひ外面なる葉広柏に霰ふるなり(能因)
    客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとてやや混雑に陥りたれど、葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。

    • 百々爺 のコメント:

      ・柿本人麻呂は色んな所に登場しますね。まあ人麻呂と言えば権威づけになったのでしょうね。

      ・「平安中期頃になると、見立ての発想は常套すぎて陳腐な表現へと下降してしまう」
       そういうことですか。古今集なんか「見立ての発想」こそが歌詠みの極意みたいな感じでしたけどね。歌は世につれということでしょうか。

      ・「歌よみにあたふる書」の引用ありがとうございます。
       言葉を一つ一つ吟味してるんですね。「葉広柏に霰ふるなり」確かに具体的で霰が弾けている感じがします。能因法師もニンマリしたことでしょう。ところで子規は69番歌のことは何と言ってるのでしょうね。「こんな頭でっかちの歌なんぞ一銭の値打ちもない」と切って捨てたのでしょうか。

  9. 在六少将 のコメント:

    遅ればせながら、地元なので今日写真を撮ってきました。
    偶然にも松風有情さんの絵と同じアングルですね。
    竜田川上流から見た三室山
    大和川から見た三室山。左肩に生駒、右は矢田丘陵の南端部です。竜田川の合流点からのビューです。
    大和川から見た三室山
    そして、竜田川沿い擁壁に埋め込まれた歌碑(?)らしきもの。
    三室山の歌碑(?)

    なんか侘びしくて涙が出てきそうです。
    揮毫なき二首の碑森茂る

    能因さんの歌をいくつか紹介いただきましたが、まさに花鳥諷詠、客観写生の境地に近いものを感じ取りました。風雅から風狂へ。清涼剤を一服いただいたような気分です。

    • 百々爺 のコメント:

      いやあ、ありがとうございます。お陰さまで味気ない本ブログも華々しくなりました。

      ・1枚目の写真が絶好ポイントなんでしょうね。紅葉の時はきれいそう。ちょっと強い風が吹けば龍田川は紅葉の葉っぱで埋め尽くされると言っても過言ではない気がします。歌碑も素朴でいいじゃないですか。紅葉の葉っぱが3枚。十分ですよ。

      ・枇杷の実さんのコメントに69番歌の本歌たる「龍田川もみぢ葉流る」は柿本人麻呂の歌だという説があると紹介いただきました。この辺りが万葉集でどう詠まれているのか例の「万葉の旅」見てみました。三室山、龍田山は詠まれているようですが紅葉の名所としては出て来ない。龍田川も詠まれていません。三室山の紅葉と龍田川との取り合せは業平~古今集時代から有名になったのでしょうかね。

       万葉集から
       夕されば雁の越え行く龍田山時雨に競ひ色付きにけり(作者未詳)

      ・在六少将さん本当にいい所にお住まいですね。隠遁生活とは言いませんが日々寺社を訪ね自然を愛でて花鳥諷詠に興じる。言うことありませんね。

      • 在六少将 のコメント:

        いや、まさに隠遁めいた毎日を送っておりますよ。

        業平がここを紅葉の名所として詠んだのは、単純な創作とは思えない印象を持っております。というのは、高安の娘のところに通っていたルートが三室山の上流1キロも行かないところにあるからです。そこは矢田丘陵の南端部分でちょっとした渓谷になっており、両岸からせまる紅葉もあっただろうなと想像しています。

        • 百々爺 のコメント:

          そうか、業平が高安の女の所へ通ったルートは龍田山越えだったのですね。そりゃあ業平はこのあたりの地理、景観に詳しかった筈。「ちはやふる」も実見に基くものだった訳ですね。

          筒井筒の妻が高安の女に通う業平の道中を心配して詠みかけた歌(伊勢物語第23段)

           風吹けば沖つ白波たつた山夜半には君がひとりこゆらむ

           龍田山が出て来ます。

          • 在六少将 のコメント:

            一般に大和から難波へは龍田越えルートを採っていました。今の龍田大社がある大和川に一番近い峠越えです。
            業平は実際にはそれより北にある平群の十三峠越えの最短ルートをたどったようです。
            平群町公式ページの十三街道と業平ロマンの道
            「たつ」が掛詞ですし、歌にするならやはり「たつた山」ですよね。

            • 百々爺 のコメント:

              平群町、町全体が古墳旧跡。その中でも業平が一番の売りなんでしょうね。このようなコース、関東にあったらみんなのハイキングコースとして飛びつくのですがねぇ。

      • 枇杷の実 のコメント:

        龍田山という場所は、最初から紅葉の名所として有名ではなかったらしい。百々爺さんがいうように、古今集時代からで、以下、吉海直人が記述です。

        龍田山が紅葉の名所として定着したのは、どうやら都が奈良から京都に遷されてからのことで、平安歌人によって実景ならぬ「歌枕化」された名所として再評価されたらしい。龍田山がちょうど平城京の西(秋の方向)に位置していることにもよるが、「古今集」における言葉の戯れ(掛詞)が効力を発揮している。つまり、龍田は「裁つ」の掛詞となることで、紅葉の「錦」や「染む」と織物の縁語でつながるからである。
        また、川の紅葉にしても万葉集では明日香川が第一の名所であり、龍田川などは全く無名の存在でしかなかった(万葉集に龍田川の用例なし)。しかし平安朝以降、歌枕として龍田山の紅葉が確立・浮上すると、普通名詞であった「神南備の三室の山」が、従来の葛城山から龍田山へと移行・固定してしまう。
        「龍田川もみじ葉流る・・・」の左注に「又は飛鳥川もみじ葉流る」とあることから、本来飛鳥川であったはずの古歌が、名所の変容を通して龍田川に改訂されたことを物語っているのではないだろうか。こうして龍田川は大和地方最大の紅葉の名所として平安歌人達に親しまれることになった。

        • 百々爺 のコメント:

          吉海先生の解説引用ありがとうございます。

          「歌枕」の持つ意味合いは大きいですね。最初なんでもなかったのにあるきっかけで有名になってしまうと競い合って詠まれ動かしがたいものに定着する。

          三室山と龍田川の紅葉、これは17番業平と69番能因で盤石なものになったということですかね。

           →定家は「紅葉の名所は大和では三室山・龍田川そして京では小倉山」と言いたかったのでしょう。

  10. 松風有情 のコメント:

    同じアングルの実写をありがとうございます。
    今昔散歩に紹介された写真から勝手にその昔あった風な秋の絵にした次第です。

    在六少将さんの写真と解説で二つの事実が分かりました。
    水の流れが反対でした。
    また三室山は思った以上に小山で、山自体がすっぽり水面に映るんですね。

    散歩道で歌碑が見れるとはなかなかいいですねぇ。

    • 百々爺 のコメント:

      ほんとだ、山自体がすっぽり水面に映る。ということは水面は山全体の紅葉を映し真赤に染まっているわけだから、更にそこに風が吹いて紅葉葉が降ってくると正に錦織りなすみたいになりますよねぇ。。

  11. 小町姐 のコメント:

    【余談30】  「田中陽希と遊ぼう!1DAYツアー」
    日本百名山に続き2百名山一筆書き踏破を達成したプロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんとトレッキング&レクレーションを楽しんできました。
    登る山はミステリー、当日までのお楽しみ!!???

    4月の講演会でお会いした時、又一緒に山へ行きましょうと約束したのがこんなに早くチャンスが巡るなんて夢にも思わなかった。
    主催はトヨタ青少年センターと豊田中日文化センターの為、豊田市まで早朝出発。
    最近何故か豊田にご縁があり毎月豊田に行っている気がする。
    陽希さんがいつもの笑顔で現れた。
    真っ先に私を見つけてくれてうれしいスタート。
    バス一台で三班に分かれ(10名ずつ)スタッフが各班に前後1名ずつ付く至れり尽くせりの体制。
    車内で行く先が発表、猿年にかけて猿投山。 おお!!何と私は猿年生まれ、ラッキー!!陽希さんに告げると記念の登山ですねと。
    猿投山は豊田市と瀬戸市にかかる標高621Mの低山ながら標高差が400M程あり、楽に登れる山ではないと言う。(スタッフは前日に下見済み)
    案の定、きついアップダウンに頂上近くではギブアップ寸前。
    暑い日であったが林の中は陽を遮り時々木漏れ日が射す程度。
    得意の下山は行きのゼイゼイハアハアは何処へやら、スイスイ軽やかな足取りに。
    陽希さんが前になり後ろになり横になりいろんな話が弾む。
    人気者との集団登山は会話を独り占めしてはいけない。
    途中の休憩も含め4時間半ほどで下山。久しぶりにいい汗を流した。
    豊田市の体育館の庭で昼食。これも面白かった。
    全員がバーナクッキングの講習でチャーハンとパスタを作った。(材料は用意されていて非常食にもなるような優れものであった)
    食後は体育館でレクリェーションゲーム。
    童心に帰って大縄くぐりをしたり鬼ごっこ、フラフープ、怪しげなマスゲーム風のものを楽しんだ。
    最期はじゃんけんゲームでいろんなグッズがゲットできる。
    じゃんけんに弱い私も今回は商品が多かったのでルンルン気分。
    陽希さんはやはり魅力的な男。男の価値はルックスじゃない。
    人間陽希をさらに知る機会になったことは言うまでもない。
    それにしても自身の体力の衰えに愕然とする登山であった。
    疲れて不覚にも帰りの地下鉄を乗り過ごしてしまった小町姐。
    おやすみなさ~い。

    • 百々爺 のコメント:

      早速にレポートありがとうございます。粋な企画ですねぇ。

      低山とは言え標高差400Mを上り下りし昼食後レクレーション大会ですか。梅雨の谷間というより真夏日でしたしね。すごいですね。参加者は陽希くんを山頂で迎えた人たちの年齢層でしょうからまあ平均年齢60歳くらいでしょうか。感服します。

      人間陽希くんとじっくり触れ合って小町姐さんも若返ったことでしょう。「わが身世にふる」なんて言っておられませんぞ!!

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