73番 大江家の大学者 匡房 高砂の山桜

3カ月もお休みさせていただきました。気がつけばもう10月、秋もたけなわです。
徐々にペースを取り戻し、みなさまとの洒脱な会話を楽しんでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

大江と言えば学者家系。前半の23番が大江千里、そして後半の73番が大江匡房。周防内侍、紀伊らの10年ほど後の人です。平安の学識ランキングでは一に菅原道真、二に大江匡房と謂われる人物。どんな歌を詠んでくれたのでしょう。

73.高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ

訳詩:    春たけなわ はるかを望めば
       高い山の峰にまで桜が咲いて・・・・
       おお 手前の山の霞よ 立たずにいておくれ
       ようやく遅れて咲きはじめた
       あの山の桜がおまえにまぎれてしまう

作者:権中納言匡房(大江匡房)1041-1111 71才 大江氏 白河院の近臣
出典:後拾遺集 春上120
詞書:「内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山の桜を望むという心をよめる」

①大江匡房 1041-1111 71才
・父は大学頭・大江成衡 母は橘氏の娘

・大江家について(23番歌より重複引用)
 23大江千里の父大江音人は優秀な学者であり参議にまで昇る。この音人が後に続く学者一族大江家の始祖。

・百人一首に出てくる大江家の人々
 23大江千里 官位は正五位下・式部権大輔。漢詩&和歌。
  大江匡衡(まさひら) 歌人 59赤染衛門はその妻
  大江雅致(まさむね) 越前守 56和泉式部の父
 73大江匡房(まさふさ) 73番歌
 →千里を入れて百人一首に4人も大江家の人が入っている。

・大江匡衡&赤染衛門は匡房にとって曾祖父母
 曾孫73大江匡房の誕生を愛でて赤染衛門が詠んだ歌 

  匡房朝臣うまれて侍りけるに、産衣縫はせてつかはすとてよめる
   雲のうへにのぼらむまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば
(後拾遺集)    

・大江匡房 当然ながら幼少より秀才 和歌・漢文に長け神童と謂われる。
 学問の道から官吏となり治部少丞→式部少丞
 27才にして東宮尊仁親王(後三条帝)の学士(家庭教師か)
 その後東宮貞仁親王(白河帝)、東宮善仁親王(堀河帝)の学士も勤める。
 同時に蔵人(近習)として天皇のブレーン役でもあった。
 (特に後三条帝の「延久の善政」を支えたとされる)
 
 →三代に亘り東宮の家庭教師。これはすごい。学識・人格ともに余人を以て替え難かったのであろう。
 →「三代の師」「近古の名臣」と呼ばれる所以である。

・晩年太宰権師として大宰府にも行っている。

・最終官位は正二位権中納言 
 大江家の過去の最高官位は大江維時(醍醐~村上朝)の従三位・中納言。匡房はこれを抜いた。
 
②歌人としての大江匡房 エピソード等
・後拾遺集以下勅撰集に114首 私家集として「江師集」
 →「江師」(ごうのそつ)は匡房の号

・和歌のみならず神道・儒教・仏教・道教、詩歌漢文、全てに通じる。
 著書に「狐媚記」「遊女記」「傀儡子記」「洛陽田楽記」「本朝神仙伝」等多数
 →説話集・風俗記の類か。

 「江談抄」は大江匡房の談話を藤原実兼に筆記させた説話(裏話)集
  →13陽成院が即位式の時女官に狼藉した話(13番歌コメント欄)とか。

・軍学(兵法)にも優れ前九年の役を終えた源義家(八幡太郎)が師と仰ぎ教えを請い後三年の役でその教えを活かし勝利した。 
 →これこそ文武両道。いや武の方は単なる余技の類でしょうね。

・宮中歌合出詠 自邸でも歌合実施 堀河百首の題を出題
 →「お題」を出すのも当然センスが必要。「匡房にまかせよう」ということだったのだろう。

・歌合などを通じ71源経信、67周防内侍、74源俊頼、75藤原基俊、76藤原忠通との交遊が伝えられている。
 →勿論72紀伊も知っていたであろう。

・女房たちが和琴を弾かそうとけしかけたに応じた歌。
  逢坂の関のこなたもまだ見ねばあづまのことも知られざりけり
  →吾妻琴=東のこと、ちょっとありきたり。もう一ひねり欲しい。

・匡房の代表歌とされる歌
 京極前太政大臣の家に歌合し侍りけるによめる
  白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花ざかりかも(
詞花集22)

・もう一つ千人万首より
 堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる
  高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ
(千載集398)
  →これは冬の歌。播磨国の高砂かと謂う。

③73番歌 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
・詞書より
 「おほいまうち君」=藤原師通 摂関家長者
 道長-頼通-師実-師通-忠実-76忠通
 →道長の時代から100年ほど経っている。

・「遥かに山の桜を望む」=「遥望山桜」
 →漢学者にピッタリの題ではないか。匡房が題を提示したのかも。

・高砂の屋上の桜
 歌枕としての播磨国高砂ではなく「山の峰の上部」という意味の普通名詞
 →確かに現高砂市の屋上神社あたりは白砂青松、津波の心配こそあれ山桜が咲く地帯ではないでしょう。

・桜、ここでは山桜
 春の桜は里→外山(里近くの山)→深山と咲いていく。
 秋の紅葉は深山→外山→深山と下りてくる。
 →この高低差と南北の差が日本列島に桜前線、紅葉前線を形作る。

・遠景(屋上の桜)と近景(外山の霞)が見事に詠われた「正風」品位格調のある歌である。
 →そう言われてもどうも今一つインパクトが感じられない。
 →秀才の無難な歌くらいに思うがどうだろう。「それがどうした」って感じ。

・遅咲きの山桜を詠んだ歌
 里はみな散り果てにしをあしひきの山の桜はまだ盛りなり(玉葉集 凡河内躬恒)
 山守はいはばいはなん高砂のをのへの桜折りてかざさむ(後撰集 素性法師)

④源氏物語との関連
・源氏が北山に登り遅咲きの山桜を見下ろす場面(若紫)については65番歌(もろともに)の項参照。

・(これも無理矢理ですが)催馬楽「高砂」が歌われる場面
 賢木32 六条御息所は伊勢に去り、藤壷が出家、時代は右大臣家の世となる。逆境の源氏は頭中らと文藝遊びに興じその宴で頭中の次男(弁少将)が「高砂」を歌う。

 (四の君腹の二郎)心ばへもかどかどしう容貌もをかしくて、御遊びのすこし乱れゆくほどに、高砂を出だしてうたふいとうつくし。

 【催馬楽 高砂】
  高砂の さいささごの 高砂の 屋上に立てる 白玉 玉椿 玉柳
  それもがと 汝もがと 練緒染緒の 御衣架にせむ 玉柳
  何しも 心もまたいけむ 百合花の さ 百合花の
  今朝咲いたる 初花に 逢はましものを さ 百合花の

  →結婚式で歌われる「謡曲高砂」は(高砂や この浦舟に 帆を上げて)夫婦の長寿を愛でるおめでたい歌だが「催馬楽高砂」は白玉椿→白玉柳→白百合と心変わりしていく男を詠んだ歌らしい。結婚式には御法度でしょうよ。

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73番 大江家の大学者 匡房 高砂の山桜 への13件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    ややっ!!73番の登場、落ち着かれましたか。
    どうかご無理なさいませんように。

    催馬楽 高砂と結婚式の高砂の違い、納得できました。
    王朝を代表する女流歌人、赤染衛門の曾孫として誕生。
    赤染は産着を縫い上げ歌を添え贈っている。手放しの喜びようである。
       雲の上にのぼらむまでも見てしかな鶴の毛衣年ふとならば
    お七夜には
       千代を祈る心のうちの涼しきは絶えせぬ家の風にぞありける
    「史記」漢書に通じ官吏登用のための最高の国家試験に十八歳で合格。
    後三条、白河さらに実仁親王(十五歳で早世)と三度の東宮学士(皇太子の教育官)は史上初であった。
    後三条、白河、堀川の三代にわたり侍読(天皇の学問教授役)いわば政権のブレーンをつとめ墓誌名は「三帝の師」と刻まれた。
    博識で多芸多才、故実にも明るく儀式書や説話集を著わし評論、注釈に健筆をふるった。
    和歌にも秀で歌合で匡房に勝つのは猛将源義家の頭を打つようなもの。
    それほど難しいと言われた。(後年義家は匡房に弟子入りしたとのこと)
       匡房が大蔵卿の時の事、歌人肥後の夫が任国の常陸に公事の費用を割り当てられ困り果てていた。
    大蔵省の役人からの厳しい取り立てにたまりかね匡房を頼った、事情を汲んだ匡房は税を豊かな遠江へ振り替えてくれたと言う。肥後は夫の代わりに感謝の歌を届けた
       筑波山ふかくうれしと思ふかな浜名の橋にわたす心を(詞歌集)
    曾祖母、赤染の願いが通じ匡房は正ニ位権中納に学者としては異例の昇進をとげ「近古の名臣」と称えられた。(以上全文小林一彦)
    肝心の歌の評価
      高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ   
    雄大さ、格調の高さが感じられる名歌とのこと。
    良いとこだらけで欠点が一つもないと言うのはちょっとつまらないじゃありませんか。
    どなたか匡房の短所教えてくださいな(小町姐のひとり言でした)

    • 小町姐 のコメント:

      あわてん坊の小町姐は既に8月半ばに投稿した模様。
      暑いさなか脳細胞が壊れかけ、非の打ちどころない大江匡房をやっかんだのかも知れません。

      改めまして再開、再会を兼ねてお喜び申し上げます。
      皆さんから楽しい話題をどんどん提供していただいて刺激をいただきたいです。

      • 百々爺 のコメント:

        ありがとうございます。どうぞ最後の100番歌までよろしくお願いいたします。

        ・赤染衛門の曾孫匡房誕生を詠う歌、いいですねぇ。お七夜の歌もお家繁盛を愛でたいい歌だと思います。赤染衛門には何かこの子は偉い男になるとの予感があったのかもしれませんね。
         →小町姐さんも小町曾婆さんになって素晴らしい歌詠んで下さいよ。
         →私も百々曾爺なるの目指して精進します。

        ・歌人肥後の夫を助けた話、ありがとうございます。
         律令体制で常陸国は大国で遠江国は上国、常陸の方が上だと思うのですがねぇ。実際の税収はそうではなかったということですね。まあ万事、大蔵大臣の匙加減だったのですね。
         →7日金曜日に同窓会のハイキングで筑波山に行ってきます。筑波山の歌、覚えて行きます。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    久しぶりの談話室再会、喜ばしい限り、100番歌を目指してみんなで頑張っていきましょう。

    しかも、大江匡房 「三代の師」「近古の名臣」が詠った73番歌からの再開、めでたしめでたし。それにしても、お休みであったにもかかわらず、爺の解説、舌鋒鋭く、内容深遠にて、貯めていたエネルギーが噴出した感じがして、真に結構です。

    この歌、何か整いすぎていて、小町姐さんがいう通り、欠点もなく、好きではなかったのですが、
    人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山の桜を望むという心をよめる
    ということで、少し霞がかった遅き春、はるか遠くの山桜を、酒を傾けながら、かつ寝転びながら(これはなしでしょうが実はこれがいい)愛でた歌と再認識すれば、格調高い、雄大な歌に、お酒好きには聴こえ、悪くない歌と思えてきます。

    高砂を詠った名歌3首

    誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに  (藤原興風 34番歌)
    ーーー松

    たかさごのをのえの桜たづぬれば都の錦いくへ霞みぬ  (式子内親王 新勅撰)
    ーーー桜

    高砂のまつと都にことづてよ尾上の桜いまさかりなり  (藤原定家)
    ーーー松と桜

    後は、千人万首から好きな歌と周防を詠った歌 各1首

    承暦二年内裏歌合に、紅葉をよめる

    龍田山ちるもみぢ葉を来て見れば秋は麓にかへるなりけり(千載385)

    周防内侍尼になりぬと聞きて、いひつかはしける

    かりそめのうきよの闇をかき分けてうらやましくもいづる月かな(詞花370)

    • 百々爺 のコメント:

      お褒めにあずかりありがとうございます。
       ・・実はこの73番歌の原稿は7月時点で書きあげてたものでして・・

      ・そうですね、花見酒に酔いながらの歌とすれば気持ちよさそうに聞こえますね。杯を重ねる内に外山にかかってた霞は段々と晴れて来る。人々は霞が晴れてよかったですねと口々に愛であう。でも酒飲みの目には桜はますますぼんやりとかすんで見える。。。そんな時、呂律もおかしくなった匡房が詠んだ歌だったのかもしれませんね。

      ・高砂を詠った名歌3首、いいですねぇ。
       89式子内親王も登場して。これからが楽しみです。
       高砂は松と桜、しっかり覚えておきましょう。

      ・大江匡房と周防内侍は生没年ともほぼ同じ。文芸の世界で互いに一目置き合う友だちだったのでしょうね。俗世を離れ出家した女友だちを羨ましく思う素直な歌だと思います。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

    談話室のリニューアルオープン、誠におめでとうございます。
    上さんがいない状態も短期なら鼻歌だけど、長期を克服されました百々爺に改めて拍手をお贈りいたします。立派に主夫を務められたんですから、こりゃあ大したもんです。

    そういえば今朝から朝ドラも別嬪さんのスタート。
    戦後の焼け跡の中で、偉く恵まれた神戸の企業家の家の様子が第一話でした。
    聞けば子供服ファミリア関連だとか。神戸にはほかに、フウセンウサギとかベビーブームを牽引した強力ブランドがありましたね。
    今でいうキティ、mikihouseと言ったところでしょうか。

    さて73番歌、当代第一線の学識者の登場ですね。氏素性申し分なしのサラブレットですね。

     高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ

    枕詞で始まる一首。「高砂の」は山などにかかる枕詞。
    尾の上の尾は山のこと。尾の上は山のてっぺんのほう。
    外山は外の方の山でなんとなく遠い山の様な気がするけど、残念でした、これは近い山です。
    後拾遺集に添え書きがあって、知人の家で酒宴が催され、その時「はるかに山桜を望む」という趣で詠んだものとか。春の郊外地での望見だろう。遠くの山には桜が白く、いっぱい咲いている。近くの山よ、霞を立てないでくれよな、せっかくの桜が隠れてしまうから、という理屈らしい。
     詠み手の権中納言は本名を大江匡房と言い、当代一流の学者であり、兵法においても優れていた。鎌倉源氏の基礎を築いた八幡太郎義家もえらい武将ながらこの匡房に師事して多くを学んだ、と伝えられている。
    学頭大江成衡の子。大江匡衡・赤染絵門の曾孫という。学問の家に生まれ、幼少より賢明で、文章生から東宮学士に三度選ばれる。権中納言、正二位、太宰権帥。

    そして歌の善しあしは・・・・春の風景を詠んで、まあ、並みでしょうね。
    とは、いつもの辛口派「阿刀田高」評であります。

     

    • 百々爺 のコメント:

      リニューアルオープンですか、ありがとうございます。
      (今朝遠くでアドバルーンが上がっていたのでなんじゃいなと双眼鏡で見たらパチンコ屋の新装開店でした。リニューアルと言うと何か新趣向があるのかと行く人多いんでしょうかねぇ。我が談話室はあまり新味はありませんぞ)

      ・「べっぴんさん」始まりましたね。私はフリーになって「梅ちゃん先生」から連ドラみています。大阪局制作は「愛と誠」→「ごちそうさん」→「マッサン」→「あさが来た」→「べっぴんさん」。もう5本目になります。早いものです。カミさん曰く庶民には手の届かない高級子供服の話とか。庶民派大阪局の色付けに期待しています。

      ・阿刀田評「まあ、並みでしょうね」ですか。なるほど、純粋に歌だけを論評するとそうかもしれませんね。でもどんな人物が詠んだのかで評価も変わる。この時代有識者トップであった大江匡房が詠んだ歌ですぞと言われれば当時の人は勿論、大概の人は「並み」とは言えない、、、。「特上」はともかく、せめて「上」くらいと見るのが妥当じゃないでしょうか。

  4. 百合局 のコメント:

    談話室再開よかったですね。
    しばらく百人一首から離れていましたが、100首までしっかりついていきましょう。
    大江匡房の短所をみなさんが知りたがっているので、見つけました。
    短所といえるかどうか、やっかみからくる悪口かもしれませんが、藤原宗忠の日記『中右記』につぎのような記述があります。
    「晩年、大宰権帥になっても赴任しなかったり、公儀に出席しないで世間の雑事を記録することにうき身をやつすなど、大儒にふさわしくない行動をとることもあった。また、当時の受領の常として、在任中に相当の蓄財もして、書庫を建てるため故人の邸宅を購入したり、大宰府からの帰りの船に道理ならぬ方法で入手した物資を積んで運んだりもした」 宗忠は「ただし心性委曲にして、すこぶる直からざる事あり」と評しています。(日本文学の歴史 4 角川書店)

    匡房は多才ですが、中国古典の教養や作詩の能力よりも、我が国社会の実用に即応する才覚こそが、政治家として必要であるという認識であり、古礼を重んじ、日記有職の実学主義の態度を強くうちだしています。
    また、「洛陽田楽記」「傀儡子記」「遊女記」なども記していて、庶民生活の相や漂泊生活、遊芸人の生態を描写しています。
    特に傀儡の名妓孫君のために七言律詩一首をつくり、美しい歌妓に対する賛美と同情をあらわしているなど、心惹かれます。

    謡曲『黒塚』にある「秋の来て朝げの風は身にしめども」は、新古今、秋下、匡房の歌「秋くれば朝げの風の手を寒み山田のひたを任せてぞきく」に拠っています。

    謡曲『高砂』にある「高砂の松の春風吹き暮れて尾の上の鐘も響くなり」は千載集、冬、匡房の歌「高砂の尾上の鐘の音すなり 暁かけて霜や置くらん」に拠っています

    謡曲『関寺小町』にある「さるほどに初秋の短か夜、はや明け方の関寺の鐘」は続古今集、秋上、匡房の歌「天の川まだ初秋の短か夜を など七夕の契りそめけん」からきているようです。

    • 百々爺 のコメント:

      ハイ、再開できて本当によかったです。色々ご配慮いただきありがとうございます。100番まで頑張ります。

      ・「中右記」にそんな風に書かれているのですか。大学者、儒者、東宮の家庭教師、、、こういう人には庶民から税を取りたて中央に収めるなんていう受領の仕事は似合いませんよね。官位を上げるためには然るべき職歴を積まねばならない。だから仕方がなかったのかもしれませんね。大宰府には赴任したくなかったのでしょうね。

       →結局は太宰権帥も勤め上げ大江家としては初の正二位権中納言まで昇った。まあそれでよかったと言いましょうか。そこまで執着しなくてもよかったのにと言いましょうか、、、意見の分かれるところでしょうね。

      ・庶民、社会の実用に即応した政治感覚を大切にした。立派ですね。庶民を踏み台としか考えない貴族(藤原氏)の感覚からすると反感を買うことも多かったでしょうね。大江匡房、やはり藤原貴族にある意味劣等感を抱いていたのかもしれません。

      高砂の尾上の鐘の音すなり暁かけて霜や置くらん(匡房 千載集)
       これも高砂の尾上ですか。何となく漢詩の世界ですね。何となくご先祖大江千里の23番歌に詠み振りが似ているように思います。
       
       月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
        

  5. 枇杷の実 のコメント:

     高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
    お酒を飲みながら「遠くの山の桜を眺める」というお題で詠んだ歌。
    実際の目前の風景ではなく、頭の中にあるイメージで詠んだものだが、縁語・掛詞など技巧がなくシンプルでおおらかさがある。上の句の「尾の上(高い山の峰)」という遠景に対して、「外山(人里近い山)」の近景を置いていて、桜が広々と咲いている光景の時間的広がりを感じさせる。三句切れによって、上の句と下の句との対照をより鮮明にしている。
    霞に「どうか立たないでくれ」と願う歌となっているが、博学多才な大江匡房のこと、若かりし頃の夜更けの勉学がたたり目に霞がかかる(近視)、あるいは寄る年波に飛蚊症、白内障を患い、そういった持病の解消を願う心境を映した歌なのだ。(邪推です)

    ウエブを覗いてみると次の記事がありご参考までに。
    ①霞・霧・雲の心象
    気象面で言えば、いずれも水滴のもたらす異なった現象であり、霞は空や遠景がぼんやりする現象、一方霧は地表近くの大気中の煙の様になっている現象で、目の前に深く立ちこめる。雲の場合は、空中に浮遊し、遠く空を覆う。即ち、霞は遠くに薄く、霧は近くに深く、雲は遠くに厚く「立ち隔つる」ものである。
    平安時代になって、春霞、秋霧が固定する。霞は春を告げくる風景として認識され、それに対応して霧も秋の景物として定着する。
    ②霞間桜と題して上ブログに
     山ざくら我が見にくれば春がすみ峰にも尾にも立ちかくしつつ(古今和歌集)
     — #73の本歌とされる
     さくらばな咲けるやいづこみ吉野のよしのの山はかすみこめつつ(新後拾遺集)
     見わたせば色のちぐさにうつろひて霞を染むる山ざくらかな(続拾遺和歌集)
     あさみどり野べの霞はつつめどもこぼれてにほふ花櫻かな(拾遺和歌集)
     人ごとに手折らせじとや春霞こずゑの花をたちかくすらむ(快明詠百首和歌)
    最後に式子内親王、百首歌奉りしに
     いま桜咲きぬと見えて薄ぐもり春に霞める世のけしきかな(新古今和歌集#83)

    • 百々爺 のコメント:

      百名山踏破、余すところあと数座の山男、枇杷の実さんのこと、霞がかった山桜の光景は何度も目にされたのでしょうね。

      ・加齢とともに白内障とかでゴルフの飛球がよく見えないという人多いですよね。幸いにして私は大丈夫です。73番歌は題詠ですから実際には見える見えないは関係ないのでしょうが、「わしゃ、この頃、いい天気の時も桜なのか雲なのか霞んで見えんのじゃよ、、」という悩みを吐露した歌ということですか。なるほど。
       
       →高砂の尾上の桜咲きにけり瞼の霞立たずもあらなむ

      ・霞は春の季語、霧は秋の季語ですね。確かにこの頃朝散歩に出る時、霧がかかっていることが多い。でも今日は久しぶりの晴れで何と江戸川の土手から富士山がよく見えましたよ(やや霞んでましたがね)。

       春霞、秋霧も四季のはっきりしている日本ならではの言葉。その他にも気象現象は百人一首に多数詠み込まれています。

       「雨」9,87 「雪」4,15,31,96 「霧」64,87 「露」1,37,75,87
       「霜」6,29,91 「霞」73 「雲」12,36,57,76,79 

      ・「霞」を詠んだ歌の紹介ありがとうございます。百人一首では1首だけですが随分ありますね。春霞と桜は定番だったのですね。ここにも百人一首最後のヒロイン式子内親王が登場してる。いいですねぇ。

       「さくら」(日本古謡)
        ♪さくら さくら やよいの空は 見わたす限り
         かすみか雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや見にゆかん

  6. 源智平朝臣 のコメント:

    秋の景色・ゴルフ・温泉浴を楽しむため、10/2~4に箱根方面への旅行に出掛けていました。このため、出遅れましたが、改めて奥様の健康回復ならびに百人一首談話室の再開に心からお祝いを申し上げます。源智平は引続き歌人の人物像に焦点を当てたコメントを投稿していきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

    大江匡房は百々爺の解説や皆さまからのコメントのとおり、神童と言われた大秀才で、大学者&官吏・政治家の道を歩んで異例の出世を遂げたほか、詩歌漢文のみならず神道・儒教・仏教・道教・兵法にまで通じた多才多芸の人物でした。智平は匡房が当時の人々ならびに後世の人々のためになる次の2つの業績を残したことを特に高く評価しています。

    その一つは、歴史教科書にも登場する「延久の善政」の諸施策の中でも最重要とされる「延久の荘園整理令」をその最高責任者として強力に推進し、立派に成果を挙げたことです。当時は違法な手続きによる摂関家や大寺社への荘園の寄進が増加する一方で、国衙領(公有地)が減少して国家財政が悪化するというが問題が生じていました。匡房は新しく設置された記録荘園券契所(記録所)の長に任命され、この問題を解決すべく、職員に荘園の証拠書類を厳しく審査させ、新し過ぎるものや書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止するするとともに、停止された荘園の多くを国衙領に組込みました。これによって、摂関家や大寺社の基準外の荘園が没収され、特に摂関家に大打撃を与える一方で、国家の財政基盤が大きく強化されました。言い換えれば、匡房は「土地や人民は国家が所有するもの(公地公民制)」という律令国家の原点にできる限り戻るという政策を強力かつ着実に推進した人物であり、この政策は天皇・皇族・摂関家以外の貴族のみならず、農民を初めとする国民に広く歓迎されました。

    もう一つは、匡房が残した様々な文献により、我々も含めた後世の人々が当時の社会の実情を知り得ることができることです。百合局さんのコメントにあるように、匡房には世間の雑事を熱心に記録する趣味がありました。これは藤原宗忠が言うように「大儒にふさわしくない行動」かもしれませんが、智平は多分に匡房の強い好奇心と記録好きのためと考えており、好意的に見れば「良い政治を行うためには庶民生活の実情を知る必要がある」という信念の表れであったとも解釈できるでしょう。匡房のような政府高官が、船で客を誘う遊女や陸地の女芸人兼遊女の生活を直に調査して「遊女記」や「傀儡子記」のような文献を残していることは驚きですが、そのお蔭で後世の我々は当時の庶民に生活の実態を知ることができるわけであり、こうした様々な文献を残した彼の業績を評価し、感謝すべきと思います。

    最後に、匡房の歌ですが、73番歌は格調高く美しい歌かもしれませんが、百々爺が言うように「それがどうした」という感じであまり感動を覚える歌ではない気がします。千人万首には、彼の歌が30首掲載されていますが、大学者としての評価を裏切らないためか、恋の歌は一首もありません。故に、無難だけど感動できる歌が無いように感じましたが如何でしょう。そうした中でも、次の2首だけは記憶にとどめたいと思いました。
    ・君が代は久しかるべしわたらひや五十鈴の川の流れ絶えせで
    ・百(もも)とせば花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける

    初めの歌は伊勢の国に生まれた智平の郷土愛ゆえに記憶したい歌です。次の歌は荘子の「荘周の夢」等を踏まえた歌のようですが、匡房のように充実した人生を送った人でも晩年には「やはりこの世は蝶の見る夢だった」などと感じるものなのかと、何となく親しみを覚えて記憶したいと思った次第です。

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。遊べる(活動できる)時に遊んでおく。大事なことだと思い知りました。どうぞ心ゆくまで遊んでください。そして週に一度談話室を訪れてコメントしてもらえば、遊びほうけてパーになることもないと思います。よろしくお願いします。

      ・さすが長年国家の財政に関わってこられた智平どの、目の付け所が違いますね。「延久の善政」。道長・頼通の時代ではなくなったというものの後三条天皇にとって藤原摂関家を敵に回しての大財政改革は大変なことだったと思います。それを強力に推し進めたのが大江匡房。企画・立案・実行・調停、、全てにわたり卓越した事務処理能力を発揮したのでしょうね。能力とともにやはり大江家の匡房には藤原氏に対するたぎるような対抗心があったのではないでしょうか。
       →摂関家の力を削ぐに大きな役割を果たした人と言えるでしょう。

      ・「匡房には世間の雑事を熱心に記録する趣味がありました」
       何にでも興味を持つ。これも素晴らしいことですねぇ。殿上の貴族にとって下々のことなど全く知らぬ存ぜぬの世界だったでしょうに(紫式部しかり光源氏しかり、その辺が源氏物語の限界でしょうか)。匡房は好奇心があり頭がよく何事も次から次へとめどなく頭に入ってきたのでしょう。

       例の13陽成院が即位式の時女官に狼藉した話を載せた「江談抄」、さぞ面白いでしょうね。でもこの「江談抄」、自ら筆をとらず藤原実兼に筆記させている。筆好きの匡房がどうしてなんでしょうね。不思議です。

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