75番 源俊頼のライバル藤原基俊 あはれ今年の秋もいぬめり 

74番源俊頼の宿命のライバル藤原基俊。道長の曾孫ながら出世に恵まれず、歌人としても評判は宜しくない。でも勅撰集に100首以上も入選してる大歌人ですぞ。本当に嫌味な嫌われ者だったのか予断を排し考えてみたいと思います。

75.契りおきしさせもが露の命にてあはれ今年の秋もいぬめり

訳詩:    ああ 今年の秋も去っていくようです
       しめじが原のさせも草を頼りに待てとの
       露のようにはかないあなたのお約束
       それを命に 今日まで望みをかけてきました
       今はもう はかない望みは露と散って・・・・

作者:藤原基俊 1060-1142 83才 父右大臣俊家 母高階順業女 従五位上左衛門佐
出典:千載集 雑上1026
詞書:「僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年も漏れにければ遣はしける

①藤原基俊 藤原北家の傍流ではあるが文句のつけようのない家柄である。
・道長-頼宗(右大臣)―俊家(右大臣)―基俊(従五位上左衛門左)
 →父までは二位右大臣。やはりこれでは正直落ち込むでしょうね。

・「官位に恵まれず」とだけ書かれているが何故上がれなかったのか?
 →母が高階順業の娘。このせいだろうか。
 →世渡りが下手だったのか。人品骨柄のせいか。。。よく分かりません。

・藤原基俊、74俊頼と並び堀河歌壇の重鎮と謂われるがどんな時代だったのか。
 白河帝~崇徳帝までを整理しておきましょう。
 
 白河(1053-1129 @77) 在位(1072-1086) 院政(1086-1129)
 堀河(1079-1107 @29) 在位(1086-1107) 院政 なし
 鳥羽(1103-1156 @54) 在位(1107-1123) 院政(1129-1156)
 崇徳(1119-1164 @46) 在位(1123-1141) 院政 なし →保元の乱へ

 基俊の30~40代は白河院が上皇として院政を行っているがまだ藤原摂関家(師実・師通)が力を持っていた。文化人堀河帝も基俊を重用してたように思えるのだが、、。
 
②歌人としての藤原基俊 エピソード
・勅撰集に100余首 入選 私家集に基俊集
 堀河百首の作者の一人 数々の歌合で判者も務める
 →正に74俊頼と並ぶ活躍ぶりである。

・漢詩も能くし新撰朗詠集(漢詩540首 和歌203首)を編纂 書家としても有名
 →55公任の和漢朗詠集に倣ったものか。
 →漢詩人として73大江匡房とも交流あり。

・最晩年83藤原俊成を弟子に迎えている。
 →俊成―定家親子も基俊を疎かにはできない。同じ藤原北家であるし。
 
 俊成は基俊を師としたが俊成評は「かやうに師弟の契りをば申したりしかど、よみ口にいたりては、俊頼には及ぶべくもあらず。俊頼いとやんごとなき人なり」(矢崎藍)

・詠み振りは74俊頼の革新に対し保守的古風で古今集を尊重した。
 古今集を基俊から借りた際の俊成とのやりとり

 基俊に古今集を借りて侍りけるを、返しつかはすとて皇太后宮大夫俊成
  君なくはいかにしてかは晴るけまし古今(いにしへいま)のおぼつかなさを
 基俊返し
  かきたむる古今の言の葉をのこさず君につたへつるかな

  →なんぼなんでもこの時代で古今集は古すぎるのではないか。
   でも古きを温ねて新しきを知る、、、やはり保守派の存在も必要なんだろうか。

・誰とも仲が悪く嫌われ者だったようで基俊を悪者に仕立て上げたエピソードがいっぱい。正にいじめる人はいじめられるの構図だろうか。

 →基俊を弁護してあげたいのだけど材料が見当たらない。歌を褒めてあげるしかないのだろうかと思い、千人万首見てみたがどうも古色蒼然たる歌が多い。

  から衣たつ田の山のほととぎすうらめづらしき今朝の初声(続千載集)
  →懐かしのメロデイと言おうか思い出のメロデイと言おうか。お化けが出た感じ。  

・一つ源氏物語に関連する歌をみつけた。これをもって良しとしましょう。 

 玉柏しげりにけりな五月雨に葉守の神の標(しめ)はふるまで(藤原基俊 新古今集)
 (本歌)柏木に葉守の神のましけるを知らでぞ折りし祟りなさるな(藤原仲平 大和物語)
    ⇓
 柏の木に葉守の神が宿るとされてたのを踏まえ、亡き柏木の弔問に訪れた夕霧が柏木未亡人落葉の君と歌を贈答し合う(落葉の君への想いを訴える夕霧、やんわりいなす落葉の君)(源氏物語柏木12)
 (夕霧)  ことならじならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと
 (落葉の君)柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か

③75番歌 契りおきしさせもが露の命にてあはれ今年の秋もいぬめり
・詞書が余りに露骨すぎる。
 息子を維摩会の講師にと権門76藤原忠通に頼み約束ももらったが裏切られたとて恨みをぶつけた歌。
 
 忠通が約束したことを表す歌(清水観音御歌「新古今集」釈教の部所載)
  なほ頼めしめぢが原のさせも草我が世の中にあらむかぎりは
   →標ヶ原 下野の歌枕 栃木市の北 伊吹山もその近く 51番歌参照

 基俊が頼んだ時忠通はバリバリの関白太政大臣だった。権門の人が約束を違えるのもいただけないが、こんな恨み歌を返されては忠通もいや~な気持ちになったことだろう。来年には講師にしてやろうと思ってたのかもしれないのに。。

・ということでこの歌すこぶる評判がよろしくない。
 「どことなく恨みっぽく、ひがみっぽく、評判のわるい歌」(田辺聖子)
 →確かに詞書通りの歌とすれば爺には嫌いな歌である。

・詞書を離れてみましょう。
 「なまじ面倒な詞書がなければ、失恋の歌として味わえたであろうに、惜しいことである」(白洲正子)
 →失恋の歌と考えると74番歌 うかりけると呼応するのではないか。
 →74番 初瀬長谷観音に祈り 75番 清水観音に祈った でも成就しない。
  (これも祈れども逢わざる恋ではないか)
 →なかなか詞書が頭から離れないのが難だが、すっかり忘れて味わうと秀歌ではなかろうか。

・露 甘露でもあり儚い草露でもある。
  おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露 紫の上 辞世
  露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢 秀吉 辞世

④75番歌は平安王朝最後の歌
 73番が白河・堀河朝を支えた学識者大江匡房、74番75番が若き文化人堀河帝サロンを盛り上げた重鎮歌人源俊頼と藤原基俊。そして76番が基俊が恨み歌を贈った権門の人藤原忠通。保元の乱の一方の立役者。平安王朝の崩壊の始まりが保元の乱とすればまさに75番歌でもって平安王朝が終わったと言えるのかもしれない。

 藤原基俊が83才で没したのが1142 保元の乱が1156
 忠通が失脚したのは1158 没したのが1162 

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75番 源俊頼のライバル藤原基俊 あはれ今年の秋もいぬめり  への14件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    院政期の和歌界に重きを成し、前74番歌の俊頼とは双壁と讃えられた。
    歌合の場では左右方から出される歌の勝負を巡り両雄は度々激突したらしい。
    この頃、体系化されつつあった歌学に明るく漢学にも通じていた。
    性格は俊頼とは対極にあった様子。
    基俊、歌の判定になるとつい夢中になり我を忘れて強弁してしまうと自身も告白している。
    俊頼は前74番で皆さんが指摘されているようで温和な性格だったらしい。
    右大臣の家に生まれながら23歳で父を喪うと官を解かれ庇護者を欠いたあとは無官であった。
    やはり不遇をかこつ俊頼に歌を贈って慰め合ったという。
       かたらばや草葉にやどる露ばかり月のねずみのさわぐまにまに(基俊集)
    「月のねずみ」とは白黒の鼠を昼と夜として空しく過ぎる月日の早さを譬えた仏典による表現。(以上小林一彦)
       契りおきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり
       「契りおきし」と言うから恋の契りかと思いきやそうでもないらしい。
    僧になった息子の出世を有力者(次の76番歌、関白忠通)に頼んだものの今年の秋もその願いが叶わなかったという嘆きの歌らしい。
    親の出る幕ではない!!コネなど当てにしないで実力で勝負しなさいと言いたい所ですがこの時代親の庇護をなくすということは出世の道を断たれるに等しい。
    これまでにも名前は忘れたが何人かの例を見てきたような気がする。
    恋歌の多い百人一首の中で我が子を案ずる歌はこの一首のみ。
    案外基俊は教育パパだったのかも知れない。
    露と言えば思い出すのはやはり紫の上の辞世の歌「萩のうは露」ですね。
    秀吉の辞世の歌もなかなか良いですね。

    初めて「幽玄」という評語を用いたり源氏物語を参考に歌を作ったりした
    八十過ぎた晩年には二十五歳の俊成に入門を許し弟子とした。
    入門する時、師弟が取り交わした贈答歌は百々爺さんが挙げられた通りである。
    俊成が歌の詠みようを尋ねると「枯野の薄、有明の月のように」と答えたと言う。
    俊頼、基俊は関白忠通に庇護され、それぞれに文芸批評では一家言を持ちながらお互い認め合っていたようである。
    (余談)
    前74番の俊頼は故人となっていたので、俊成は止むなく次善の策から基俊に師事したとは鴨長明の歌論書「無明抄」にある。
    この「無明抄」嘘か本当かは知らないが結構面白いのである。
    今カルチャーセンターで「鴨長明を読む」を受講しており方丈記、発心集に次いで無明抄を学んでいるがこの他にも「俊成自讃歌の事」など面白い逸話がある。
    又、基俊が漢学に暗い俊頼を「文盲の人」と誹謗したことも書かれている。
    長明は俊頼の息子俊恵の弟子であるから俊頼贔屓だったのかもしれなく後の書物にも「二人は仲悪しかり」と記すものもあるそうです。
    そういえば長明は定家とも不仲だったらしい。
    そのことは又97番、定家の所で触れたい。

    • 百々爺 のコメント:

      いやぁ、いつもながら多方面からの話題を提供していただきありがとうございます。基俊の人物像が一つ一つ照らし出されていくようで面白いです。

      ・74俊頼と75基俊、歌合の論評では度々激突しましたか。
       性格、行状、和歌の詠み振り、万事に対立してたようですね。まあライバルというものそんなものでしょうか。アイツがああ言うならオレはこう言うぞみたいなノリもあったかも。
       
       そんな二人が不遇を慰め合ってたとは面白い。「かたらばや、、、」案外二人で酒酌み交わしながらある面意気投合してたのかもしれません。

       →基俊は5才年上の俊頼に「息子の講師の件、貴殿からも法性寺関白さまによろしくお取り成しを」と頼んでた、、、、なんてね。

      ・コネを頼る、コネを利用する。これは古今東西、人間社会では普通で自然なことでしょう。コネ採用を禁止してる企業と許容している企業。私はある程度は(度が過ぎるとダメだが)コネ採用したらいいと思っています。本人も企業もその方が活力が出るでしょう。勿論コネ入学はダメですよ。
       →関係ない話ですみません。
       →基俊の人間性が垣間見れていいじゃないですか。

      ・そうですか、基俊は源氏物語を参考に歌を作ったりしたのですか。その教えもあって俊成は源氏物語を大切にし「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」とまで言及するようになったのですね。

      ・「無明抄」面白そうですね。鴨長明は方丈記で有名で随筆家と思いきや85俊恵の弟子で勅撰集25首入選の歌人でもあるんですね。それなのに百人一首に入ってないのは、そうか、定家と仲が悪かったのですか。なるほどねぇ。これも人の世ということですかね。長明先生、頭はよかったのでしょうが世渡りはもう一つだったのかも。

  2. 文屋多寡秀 のコメント:

     関西地方は、天気予報よりはるかにいい天気に恵まれ、行楽の季節。今では山にも登らなくなった(高齢化?)山の会の例会、「近江八幡の沖島散策」。淡水湖の中に人が住む珍しい島。世界的にも非常に珍しい島です。源氏の落人の一人、茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。織田信長に特権的専用漁業権を与えられて以来、生業は漁業の島。主要漁獲物は、スジエビ・ゴリ・アユ・フナ・イサザ・シジミ・ワカサギ・モロコ等。島内は元気なお年寄りが多く、介護率寝たきりの方は少ない。これは「支えあい・ふれあい」という何処にでもあったコミュニティが残されているからではないかということでした。締めは休暇村で近江牛と湖国の産物に舌鼓みを打って本日の締めとしました。

     さて75番歌

      契りおきしさせもが露の命にてあはれ今年の秋もいぬめり

     詞書によると、作者基俊の子、興福寺権小僧光覚を、維摩会の講師にとの忠通への依頼が果たされなかったことを悲しむ一首で、忠通の歌を引いて、講師に「させも」というお言葉を、いちずに信じてきたのにという心。冬10月の法会をまえに、選にもれて、ゆく秋のあわれさと、父子の嘆きを、しみじみと下の句に表現する。(三木幸信)

     作者 藤原基俊は右大臣藤原俊家の子。道長の曾孫。性質が驕慢で、従五位左衛門佐で終わる。和歌では源俊頼と並び称せられ、旧風を代表する歌人。藤原俊成はその弟子、学才に恵まれ、「新撰朗詠集」を撰ぶ。晩年、藤原俊成を弟子とした。

     この歌、人間臭い秋ではあるがめっぽう難解。しめぢが原というのは新古今集の巻二十の冒頭に「なを頼めしめぢが原のさしも草わが世の中に、あらむ限りは」があり、これは仏への切願を言っているのだろうが、「さしも草」の「さしも」のように「さしも苦しい」ことがあっても私がこの世にある限り願い続けなさい、と歌っているのだ。太政大臣が「しめぢが原」と言ったのは、「わが世の中にあらむ限り」は大丈夫と保障していること・・・そこでこっちはその言葉を命としてたのに、露のようにはかない契りとなってしまった、とややこしい。

    現代でもこの手の話はよくある。さみしい秋ではあるけれど、これまでのお坊さんたちの寂しさとは少し違う、かなり違う。コネ頼みとはずいぶんなまぐさい。そう、人間臭い中身である。千載集から採っているが、秋の字が入っているにもかかわらず分類は秋の歌ではなく「雑」の部である。わかりますね。(阿刀田高)

    • 百々爺 のコメント:

      山に登らなくなった人たちによる「山の会」ですか。そりゃあいい。

      琵琶湖の沖島、織田信長に与えられた特権的専用漁業権が今も活きている。こういうのって今でも通用するんですね。房総鴨川市の沖合に仁右衛門島という小さな島があって、この島源頼朝から今の島主に与えられずっとその人の個人所有になっている由。一度所有権をめぐり裁判になったらしいが裁判所は「頼朝から与えられたのだから間違いない」との判決を下したとのこと。
       →湖の幸に近江牛ですか。おいしかったでしょうね。太り過ぎ要注意!

      ・基俊の祖父頼宗は右大臣で58大弐三位や60小式部内侍を愛人にした艶福家だった由。孫の基俊には浮いた話もないし学才はあったが性質驕慢とかでボロクソですね。ちょっと可哀そう。ひたすらに我が子の栄達を願うやさしいごく普通のパパだった、、、でいいじゃないですかね。

      ・太政大臣が「しめぢが原」と言ったのは、「わが世の中にあらむ限り」は大丈夫と保障していること、、、。

       →確かにそうですよね。基俊はそうとったのでしょう。でも実際のところ太政大臣は苦しまぎれに言い逃れただけで本当に言いたかったのは「、、、さしも草、、」=いやあ、苦しいですなあ、、、ということだったのかも。早とちりによる悲劇、気をつけなくっちゃいけませんね。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    上記にても触れられているが、詞書がなければ、恋の歌と読んでしまうし、そのほうがよい歌に聴こえてくる気がします。
    恨み節、それもこどもへの願いが叶わぬひがみともなれば、こんな歌を関白太政大臣に送って何の得があるのか、その意図も解らないし、この歌を選んだ定家の意図も見えてこない。

    それにしても、基俊さん、田辺聖子さんの”小倉百人一首”をみると、評判が悪く、人を恨む前に自分が恨まれていたことを認識していたのか?と思いますが、引用されている琳賢和尚?の悪仕掛けの話など、はめられた基俊も気の毒にも思えます。
    こんなに人をやっつけていろいろ喜んでいるのは、栄華の過ぎ去っていく平安王朝末期の時代・世相を反映しているようにも思えます(この時代のこと、爺が整理してくれてはいますが、あまり歴史的な位置づけまでは解ってはいないのですが、感想としてですが)。

    小町姐 さんが書かれている、それにしても小町姐 さん流石、幅広く研究熱心ですね、

    ”前74番の俊頼は故人となっていたので、俊成は止むなく次善の策から基俊に師事したとは鴨長明の歌論書「無明抄」にある。”

    なるほどそうならと納得である。

    ”この「無明抄」嘘か本当かは知らないが結構面白いのである。”

    WIKIによれば

    ”『無名抄』(むみょうしょう)は、鴨長明による鎌倉時代の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)。正確な成立年は不詳であるが、建暦元年(1211年)10月以降、鴨長明没の1216年までに成立したと考えられている。別名『長明無名抄』『無名密抄』など。約80段からなる。全1巻。6種類以上の諸本が存在するが、その違いは後の人による付加部分の違いに由来する。

    歌論としては、幽玄論、題詠論、本歌取りなどの技術論などを記述している。そのほかにも、先人の逸話や同時代の歌人に対する論評など多岐にわたる内容を持ち、随筆風な記述である。後に醒睡笑などに取り入られた逸話を含んでいる。”

    とあり、興味を惹かれます。

    色々書きましたが、なんといっても、堀川歌壇の超重鎮、千人万首から2首

    題しらず

    春山の佐紀野のすぐろかき分けて摘める若菜にあは雪ぞふる(風雅14)

    【通釈】春の草花が咲く丘、佐紀の野――野焼きで黒くなった草をかきわけて摘む若菜に淡雪が降りかかる。
    【補記】煤黒(すぐろ)を歌に詠むこと自体珍しいが、若菜の緑、雪の白と、三色を取り合わせたのは意表を突く趣向。

    堀河院御時、百首歌たてまつりける時、述懐の心をよめる

    唐国にしづみし人も我がごとく三代まであはぬ歎きをぞせし(千載1025)

    【通釈】唐の国で不遇に沈んだ人、顔駟(がんし)も、私のように三代にわたって、取り立ててくれる天子に出逢えない嘆きをしたのだ。

    ーー漢学の大家の恨み節

    なんだかまとまりありませんが、以上です。

    • 百々爺 のコメント:

      ・藤原基俊、評判が悪いですね。田辺オバサマも悪乗り気味に書いてますもんね。琳賢和尚の話(梨壺の五人が撰んだ後撰集から有名でないものを基俊に示し批評させ基俊がボロクソに言いけなしたのを逆に笑いものにした話)なぞ正に世も末、そんな風潮には基俊に同情したくなります。

       →世の中の評判は恐ろしい。一度烙印を押されてしまうと失地回復は至難の技。よってたかって貶められてしまう。いつの世も同じですね。

      ・「前74番の俊頼は故人となっていたので、俊成は止むなく次善の策から基俊に師事したとは鴨長明の歌論書「無明抄」にある」

       俊頼と俊成の父俊忠とは歌の面で交流がありそのせいで俊成は俊頼に私淑していた。俊成が作歌活動を開始したのが14-5才、ちょうどその頃俊頼は亡くなってしまう。でも「俊頼髄脳」などを通じ俊頼の和歌に対する方向性に共感してたのでしょう。それが次善の策とは言え考え方の異なる基俊から歌学を習うことになる。。。

       →それにしても長明先生、見てきたように論評するもんですね。

      唐国にしづみし人も我がごとく三代まであはぬ歎きをぞせし

       右大臣の父を23才で亡くしてからは無官。世知辛いものですね。
       なまじ漢学なんぞができるから余計疎まれてポストが回って来なかったのかも。でも俊成を弟子にしたことで百人一首にも選ばれて基俊サンけっこうじゃないですかねぇ。

  4. 百合局 のコメント:

    詞書を読むと、基俊は子煩悩なやさしい父で、学才の乏しい息子が心配だったことがわかります。大岡信は「平安朝の親ばかの歌」とばっさり切っています。子のいない私には理解の外ですが、平凡な父親の焦りや嘆きはいつの世にもあるのでしょうね。

    百人一首で定家が74俊頼、75基俊、76忠通と並べたのは、堀河歌壇つながりを重視したからでしょうか。

    安東次男は次のように述べています。
    源兼昌の78番歌『淡路島かよふ千鳥のなく声にいく夜ねざめぬ須磨の関守』と関連づけて「定家は、百人秀歌でこれに基俊の『契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり』を合わせていて(81と82)~ ~源氏物語が草子になってから約百年、歌枕としての面目を新たにした須磨の情景をそこに置いて眺めると、基俊のねちねちとした恨みの歌が、一転してあわれ深い恋の歌になるところがしゃれている。と同時に『契りおきし』とは、源氏物語の本質を示すことばだとも改めて思い当たる」
    「歌も読み様、活かし様がある。さしもぐさに掛けた『させもが露』という表現など、基俊の作歌の状況に即して考えれば、昏く内にくすぶる怨念しか見えてこないが、兼昌の歌に合わせると、身を焦がす恋の追憶がそこに現われてきて、これは藻塩焼く海女の姿からも詩脈を引いている。定家は『させもが露を命にて』を恵みの甘露をも焦がし尽くすばかり、とつよく読んでいるのではないか」

    ここまで深く読んでくれる相手が後の世にでてきて、基俊も救われたでしょうね。

    定家は実朝に贈った近代秀歌六人のなかにも基俊を入れており、採った歌二首のうち一つがこの歌だそうです。

    75番歌は新古今集にある清水観音御歌「なほたのめしめぢが原のさせも草吾が世の中にあらむかぎりは」を踏まえていますが、この観音御歌そのものは
    謡曲『舟弁慶』にも「ただ頼め標茅が原のさしも草われ世の中にあらん限りは」として使われています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「平安朝の親ばかの歌」、こんな歌が百首の中に入ってるのもいいんじゃないですかねぇ。いつの世も子を思う親の気持ちは変わらない、いや、「身分出自が全てであった」平安朝だから余計、親は子どもに責任を感じてたのかもしれません。

       親を思う父親の歌、決定版
        人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな
                         (27藤原兼輔 後撰集)

      ・おっしゃる通りこのあたりの並べ方は意味深いものがありますねぇ。安藤次男説の紹介ありがとうございます。実は昨日78番歌を予習していて安東次男のこのくだりを読みなるほどなあと思ってたところ百合局さんからずばりご指摘いただきびっくりしました。百人秀歌では基俊と兼昌が合されてるんですね。年令的にも兼昌は俊頼・基俊年代ですもんね。

       →そう思うと75番歌の詞書は不要、いや抹殺して考えるべきなんでしょうね。そもそも百人一首そのものには詞書などなく、和歌を並べ読者に自由に読み解きをしてもらうという文藝作品だった筈ですから。

       →「契りおきし」、そうです。源氏物語にこの表現何度出て来たことか。

  5. 昭和蝉丸 のコメント:

    73番:高砂の~、74番:憂かりける~、75番:契りおり~
     霞で桜を隠さないでとか、
     観音さんは冷たいとか、
     契りが漏れたとか
    面白いこともなんともない歌が続きますね。
    百々爺が休載したくなったのも さもありなん。

    時代から言えば平安王朝終焉の契機となる保元・元治の背中が見え出した頃。
    まだ衰退感も蔓延せず、滅びの美学観も生じず、とにかく世の中が動いているって時代でしょうか。

    百々爺!
    脱線してもいいので、ワクワクドキドキ感を蘇らせて!!

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、久しぶりのご登場ありがとうございます。

      ・「面白くもなんともない歌が続く」、、、全くねぇ。
      あの光り輝いていた一条朝・道長時代からすると人物も歌もぐっと落ちますよね。大体題詠なんぞが歌の主流になってきては歌の魅力も半減でしょう。人物も小粒、談話室を活気づけるような豪傑は登場して来ない。

      ・「衰退感も蔓延せず、、とにかく世の中が動いているって時代」
       まさにそんな感じですね。これって活発で躍動してた昭和が過ぎた平成の今の感じに似てませんか。どちらでもいいことをあれこれ文句つけあって、結局何も進まない。とにかく世の中動いてる、、ただそれだけ。

       →そして起る保元の乱、次回76番歌からです。まあ世の中ひっくり返っても和歌の世界は別かもしれませんがね。

  6. 源智平朝臣 のコメント:

    75番歌は詠んだ背景や歌人の性格からして、昭和蝉丸さんの期待に応じてワクワクドキドキ感を蘇らせるのは難しいものの、百々爺の解説も皆さまのコメントもとてもレベルが高くなっているように感じます。特に最近における小町姐さんの研究振りには敬服しています。それに比べて、相変わらずネット依存症の智平はネットで藤原基俊について調べても目新しい情報は得られず困っています。

    そんな中で、折口信夫が藤原基俊について記している一文を見付けましたので、紹介したいと存じます。
    「(短歌改新の一番手として46番歌の曾禰好忠、二番手として74番歌の源俊頼について解説した後)俊頼に対して旧風を守っていたのは、藤原基俊である。天分に於いて、
    到底前者に及ぶことが出来なかった様だ。彼は短歌に関する知識を以て、俊頼に対抗していた。彼が準拠としている様に唱えていた万葉集に就いての知識・理解・消化の程度は極めて危ないものであった。一・二句万葉の引用をする外は、万葉調も出ていない。
    彼の歌に、万葉集の正しい影響などは、殆ど見ることが出来ない。むしろ、俊頼の作物に時々万葉の気魄の浮かんでいるものがあるなどは皮肉である。(「短歌本質成立の時代」より引用)」

    藤原基俊は漢詩や書でも有名な才人だったようですが、和歌については歌学には強いものの、創作となると、結局のところ、古風な古今調を守るだけで創造性・気魄・情熱・魅力などに欠ける凡庸な歌人に過ぎなかったということでしょうか。

    75番歌は皆さまが指摘されるとおり恋の歌なら良いけど、詞書を読むと「平安朝の親ばかの歌」(百合局さんのコメントより)という形容がぴったりの哀れな歌ですね。でもまあ、藤原兼輔の歌にあるように「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」ということでしょうから、微苦笑しながら受け入れることにしましょう。

    最後に、百人一首とは関係ない話ですが、昨夜、古事記研究家で三浦しをんの父親としても有名な津高同級生「三浦祐之」君と夕食を共にしました。彼も来年3月には立正大学を定年退職して、フリーな身になるとのことでした。その席で、彼の方から「同級生仲間で古事記の読書会でも始めませんか」という興味深い発言がありましたので、関心ある人のために、取敢えずお知らせしておきます。

    • 百合局 のコメント:

      「三浦祐之先生の古事記の読書会」! なんて素晴らしいビッグニュースなんでしょう。是非参加したいです。手をあげておきます。
      持つべきものは良き友です。源智平朝臣ありがとうございます。
      古事記を再読しておかなくちゃね。
      神様の名前が大変だけれど、ストーリーは面白かったですよね。

      • 小町姐 のコメント:

        いいな~ やはり在京メンバーは何かと有利、羨ましいで~す。
        我がカルチャーセンターで佑之氏の一連の講義を受講しましたがいつも満席に近い人気講師でした。
        あのややこしい神々の名前を舌も噛まずスラスラ言われるだけでもスゴ~イと感心してしまいました。
        ミーハーの私はで教材の文庫本にサインをしていただきました。
        智平さんからもどうかよろしくお伝え下さいね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・確かにここんとこワクワクドキドキ感が湧きあがってくるような歌・人物が出て来てませんね。歌のことは正直よく分かりませんが人物においてエライヤッチャと感心するようなレベルの人たちではない。それだけネットコンテンツも少ないのでしょうね。

      ・折口信夫の一文、ありがとうございます。
       基俊が万葉集を準拠として唱えていたとは意外でした。基俊は専ら古今集を命と崇めていた歌人だとばかり思っていました。万葉集も古今集もとなると頭でっかちでどっちつかず、結局訳の分からない歌詠みになってしまったということでしょうか。
       
       →歌学には強いが創作は凡庸。ある意味既存の体系からはみ出さないと新規創造はできない。芸術の世界は凡人には計り知れません。

       →でも秀才で子ども思いでハレンチなスキャンダルもない。基俊サン、それで十分でしょうよ。

      ・三浦先生よりのお話、願ったりですね。古事記も面白そうだけど独学ではシンドイなと敬遠してたところなので三浦先生に道案内してもらえるなら是非やりましょうよ。源氏物語に次いで古事記、郷土の先輩本居宣長先生もお喜びになるでしょう。また後程相談させてください。

       →しをんちゃんの新連載「愛なき世界」が読売で始まりました。植物学者の話とかで楽しみです。

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