76番 保元の乱へ 摂関家長者藤原忠通 わたの原

いよいよ保元の乱に入ります。76番歌は75藤原基俊から恨みの歌を贈られた藤原忠通。藤原摂関家の頭領であり保元の乱の当事者であります。時代は風雲急を告げ、おっとりしてた平安王朝から騒乱の時代へと入ります。摂関政治の末路を眺めてみましょう。

76.わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

訳詩:    海原に舟を漕ぎ出す
       陸地はや平らに沈み
       見はるかす沖合は
       白波ばかり・・・・・
       ひさかたの雲かとばかり

作者:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)1097-1164 68才 藤原摂関家の頭領
出典:詞花集 雑下382
詞書:「新院位におはしましし時、海上遠望ということをよませ給ひけるによめる」 

①藤原忠通 従一位摂政関白太政大臣 藤原北家の嫡流である。
・冬嗣-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼通-師実-師通-忠実-忠通
 →藤原摂関政治を月の満ち欠けで表すと基経が新月、段々と満ちていき道長で満月、以後は欠けていき忠通のところで消えて見えなくなった、、、ということだろうか。

・忠通の六男が後を継ぎ摂政関白太政大臣となった九条兼実。その次男が91藤原良経。
 95慈円も忠通の息子(兼実の同母弟)
 →76番藤原忠通、95番慈円、91番藤原良経と三代が百人一首に入っている。

・「忠通」の名付け親は73大江匡房
 忠通18才の時、白河院から養女(寵姫)として可愛がっていた藤原璋子(例の待賢門院です)との縁談を進められるが父忠実が璋子の素行を問題視し断ってしまう。
 →この辺ゴチャゴチャどろどろしてて面白そう。当時璋子は14才。
 →断らずにありがたく押し頂いておく所じゃなかろうか。院と忠実が険悪になるのは当然でしょう。

・白河院の勅勘を受けた父忠実に代わり藤原氏長者になり鳥羽・崇徳・近衛・後白河と4代に亘り摂政関白を務める。摂関歴37年(最長は頼通の50年)
 摂政関白ではあるが白河院・鳥羽院が院政をしいており政治権力は限定的であった。摂関政治の形骸化とも言えようか。

 →その原因は一に摂関家に然るべき娘が生まれず天皇に嫁がせて孫を天皇にするという図式がとれなかったことにつきよう。
 →白河院の母(後三条帝の妃)は藤原茂子だが摂関家直流ではない。
  (堀河帝・鳥羽帝の母も同様)
 →忠通は娘聖子(皇嘉門院)を崇徳帝に入れ中宮となったが子ができなかった。

・そして鳥羽院が崩御した直後、天皇家・摂関家・武家が敵味方に分かれ保元の乱が起る。
  天皇家: 後白河帝 vs 崇徳院(後白河帝の同母兄)(讃岐に配流)
  摂関家: 藤原忠通 vs 忠実・頼長(忠通の父と弟)(頼長は戦死、忠実は幽閉)
  平家:  平清盛  vs 平忠正(清盛の叔父)→死刑(清盛が斬る)     
  源氏:  源義朝  vs 源為義(義朝の父)→死刑(義朝が斬る)

  王朝時代政変は何度もあったが軍勢を擁して都が戦乱の巷と化すような事件は初めて。
  →薬子の変(810)以来350年も途絶えていた死刑が復活。武力が国を治める最大の力となっていく。

  保元の乱の歴史的位置づけを一言で表した名文が忠通の末子95慈円の愚管抄
   保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ

・忠通は保元の乱では勝者側だったがその後、後白河帝・平家の世となっていくに従い1162出家、1164亡くなっている。

②歌人としての藤原忠通
・金葉集以下勅撰集に58首 私家集に田多民治(ただみち)集
 幼少より和歌を好み74俊頼、75基俊らに師事。自邸で歌合を頻繁(12回も)に催す。

・書道を能くし法性寺流の祖とされる。
 *法性寺 26藤原忠平の創建とされる古刹 忠通はこの近くに住んだ。
      東福寺の近くに今も小寺としてあるが一般公開はされていない。
  →忠通の百人一首での名前は「法性寺入道前関白太政大臣」やたら長い。
   「吾輩は猫である」
    苦沙弥先生「御前世界で一番長い字を知ってるか」
    細君「ええ、前の関白太政大臣でしょう」

・漢詩集「法性寺関白集」
 六男に九条家の祖で40年間の日記「玉葉」を著した九条兼実、末子が歴史書「愚管抄」を著した天台宗大僧正慈円。
 →「藤原忠通は日本の文化史上忘れることのできない人物である」(白洲正子)
  「我朝文道の中興」(中右記)

・千人万首より
 恋の歌
 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける
 →摂政関白として位人臣を極めることよりもこの恋の方が尊い、、、なかなかですね。
 
 春の歌
 吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓の里ににほふ春風(金葉集) 
 
③76番歌 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
・崇徳天皇時代内裏の歌合(1135)で「海上遠望」という題を詠ったもの。
 想像して詠む。漢詩の世界、忠通の脳裏には大海原に浮ぶ舟からの光景がはっきり見えていたのであろう。海の青さと波の白さ&大空の青さと雲の白さ。

・崇徳帝とはこの時蜜月、娘聖子も入内させている。崇徳帝の元服時の加冠の役も忠通。
 歌合の時、忠通39才 崇徳帝17才 聖子14才
 →それが晩年敵味方に分かれ保元の乱を戦う。勝利者となった忠通も素直に喜べなかったことだろう。

・巧妙な叙景歌として評価は頗る高い。
  わたの原の歌、「人丸が、島がくれゆく舟をしぞ思ふ、など詠めるにも恥ぢずやあらむ」とぞ人は申し侍りし」(今鏡)

  →瀬戸内海を詠んだ人麻呂の歌が思い出される。
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ(柿本人麻呂 @明石)
 
・「わたの原」は大海原のこと。11番歌と並ぶ大山札である。
 11番 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟(小野篁)

・74源俊頼に類想歌あり
  山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(源俊頼 金葉集)
→76番歌は俊頼のこの歌が意識されていたのか。(安東次男)

④源氏物語との関連
・ちょっと思いつきません。源氏物語で海(瀬戸内海)の場面が出てくるのは「須磨」「明石」源氏やお供の人たちも海を見るのは初めてだったのでしょう。秋、憂愁の日々を主従で嘆き合う歌を列記しておきます。

 (源氏)恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん
 (源氏)初雁は恋しき人のつらなれやたびのそらとぶ声の悲しき
 (良清)かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世のともならねども
 (惟光)心から常世をすててなく雁を雲のよそにも思ひけるかな

 →源氏物語から150年経っており日宋貿易も始まってたであろうこの時代になると忠通たち都の貴族も瀬戸内海まで遠出して海を眺める機会はあったのでしょうね。さもないといくら題詠とは言え見て来たように詠えませんものね。

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76番 保元の乱へ 摂関家長者藤原忠通 わたの原 への12件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    俊頼、基俊に続く忠通。
    そうか、「吾輩は猫である」の細君の言葉はこの人でしたか。
    何と名前が12文字もあり百人一首中一番長いどころか世界一でしたか。
    名前が長いと不思議と偉い人に思えてきますよね。

    和歌だけでなく書にも通じ法性寺殿と呼ばれ法性寺流の祖となったのは百々爺さんおっしゃる通り。
    この人も三代が百人一首に入首しているんですか、最初思っていたよりも一族の入首はかなり多いですね。
    父、忠実が白河院と対立し鳥羽天皇の関白を辞職、その後をつぎ25歳で関白に就き4代天皇に仕えた。
    そのことで父とは不仲になり父は利発で切れ者過ぎる「悪左府」と呼ばれた異母弟の頼長を愛した。
    大河ドラマ「清盛」で頼長を演じた山本耕史は印象が強いが忠通の俳優は薄い。
    もしも白河院の養女になった藤原璋子との婚姻が整っていたら運命は如何にや・・・
    保元の乱が運命を分かち藤原氏一族代表としての地位を確かなものとした最後の人か。
    先の75番歌、基俊から息子の栄達を何度も頼まれた「しめじの原」の張本人。
       なほ頼めしめじが原のさせも草わが世の中にあらむかぎりは
    基俊の恨み節に対する返答を神仏の歌に託しているのが面白い。
    定家も意識したのか基俊の後にもってきたのがにくいですね。
       わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波    
    雄大でおおらかな遠望を見事に詠いあげた叙景歌という。
    なるほど海と空の青と白が対比になっていますね。一方
       風吹けば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野べの月かな
    このような繊細な歌もあり対照的である。
    数多くの歌会や歌合わせを主催、俊頼や基俊らの歌人を庇護しパトロンとしての歌壇を形成した。
    今回は源氏物語との関連は見当たりませんか。

    (余談)恒例の華道某流派の芸術展を観に行った。
    何とテーマは(源氏物語、花絵巻)である。
    代表的な15帖の女君の花絵巻を雅び且つ大胆、華やかな趣向で表現され夢の世界に迷い込んだような気分。
    調度、小道具なども上手く調和させてアイディア、センス、絵心、詩心満載である。
    伝統的な古典花から自然の和の花、現代的いけばなアート、洋の花、フアッションいけばなと多彩な催し。やはり花も芸術の思いを強くする。
    源氏物語に因んだ生け花のデモンストレーションも披露され、なるほどと感心した。
    特に「桐壺」のテーマでは紫の桔梗、ピンクの百合に蔓草が白磁の壺に古典色豊かに盛られた。
    脇に添えられた黒い烏帽子と桐の実がついた枝(今回、桐の実を始めてみました)が桐壺帝と更衣を連想させて興味深かった。
    茶席では「若紫」と名のついた創作和菓子とお薄をいただきました。
    「紫の上」の少女時代をしのばせる可愛らしい上生菓子に薄紫のいら粉を散らした上品な美味しさでさらにお薄が甘さを引き立たせてくれました。
    久しぶりに源氏物語を懐かしく思い出しながら現実とはかけ離れた花の宴にたゆたうひとときでした。
    つい長くなりごめんなさい。

    • 百々爺 のコメント:

      ・先年の大河ドラマ「清盛」を思い出しますねぇ。画面がきたないとか言われてましたね。あの頃は丁度源氏物語に没頭していた時で平安王朝の没落を描く「清盛」は興味深く見ていました。王朝文学に憧れる清盛の妻時子がしばしば源氏物語「若紫」の名場面、「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠の中に籠めたりつるものを~~~」と口遊むシーンがありましたね。

       そうです、あの時の頼長(山本耕史)はインパクトありましたね。それと信西の阿部サダヲ。崇徳院もすごかった。保元の乱がよく描かれていたと思います。

      ・「数多くの歌会や歌合わせを主催、俊頼や基俊らの歌人を庇護しパトロンとしての歌壇を形成した」

       天皇は歌合を主催することはあっても歌人たちを庇護したりパトロンになったりすることはできない。やはり時代を動かす第一人者であった藤原のトップこそがパトロンとして相応しかったのでしょう。身分違いで本来お目見えも難しかったであろう藤原基俊なんぞが歌を通じ親交を深めひいては子どもの昇進をおねだりするようになる。忠通の人柄と歌に対する姿勢を物語るものだと思います。

      ・華道と源氏物語ですか。華道に源氏流なるものがあるのは聞いてましたが他にも色々あるのでしょうね。思えば源氏物語は巻名からしても花・草・木が沢山。四季の描写には必ず草木が出て来るし、取分け六条院四季の庭の植栽の様子は詳細を極める。「お花」を趣味として楽しむに源氏物語は格好の手引書になるのでしょうね。

  2. 文屋多寡秀 のコメント:

    76番歌 わたの原こぎいでてみれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波
    法性寺入道前関白太政大臣

    何と長い名前なんでしょうか。要は藤原忠通のこと。摂政関白忠実の子。
    25歳で関白となる。27年間に、関白を3度、太政大臣を2度、摂政を3度歴任した。保元の乱後、法性寺に隠居し、漢詩・和歌で心を慰めた。書をもよくし、法性寺派の祖。勅撰集入集歌六九首に及ぶ。

    百人一首の歌人名のうち一番長いのがこの人。12文字
    2番 後京極摂政前太政大臣91の10文字
    3番 皇太后宮大夫俊成83の8文字
    3番 祐子内親王家紀伊72の8文字

    落語に
    こんなに長い名前はとても覚えていられない!と昔の人も思ったようで。

    法性寺入道さきの関白を半分ほどでおきつしら波
    (江戸の狂歌師・大田南畝(蜀山人)作)

    この忠通の歌が置かれた位置は絶妙だ。一つ前の藤原基俊の歌は、この昇進を藤原氏の氏長者に願い出た内容だが、その願い出た相手がこの忠通だ。「ドンと任せなさい」と返事をした割に、懇願を聞き届けていない。忠通は、和歌を好む能書家で、温和な人柄と伝えられるが(政治家としてはしたたかだったが)、基俊の願いなど些細なこととして忘れていたのか、他に止むをえぬ事情があったのかどうか全く不明である。基俊の切実な歌とは対照的に、忠通は雄大な自然を歌い上げている。
    一方、次の崇徳院は保元の乱の敗者、忠通は勝者という対比をなす。忠通は、崇徳天皇即位時の摂政で、崇徳院に娘・聖子(皇嘉門院)を入内させたが、子ができなかった。崇徳院が兵衛佐局を寵愛し、重仁親王をもうけるに及んで、忠通との間は悪化した。

    さて、歌は詞花集からの選で、「崇徳院のもとで、海上望見の歌を詠め、と言われて詠んだもの」である。残念ながら海を実際に眺めて歌ったものではないらしい。
    だが、一応は晴れ晴れとした大きな歌である。月並みだが巧くうたっている。
    同じ「わたの原」を歌ったものでも「わたの原八十島かけて・・・」(第11番・小野篁)のほうが歌人の心情は深いと見たが、いかがだろうか。(阿刀田高)

    • 百々爺 のコメント:

      ・長い名前、そうですね、名前に前職まで持ち出せば切りがない。でも肩書って気にする人には大事なんでしょうね。レッテル、ラベル。名刺に数えきれない(読みきれない)程肩書きを並べている人がいて、こちとら何もなくご苦労さまと思ったものでした。

      「江戸川柳で読む百人一首」によると徳川将軍の正式名は、
      従一位太政大臣近衛大将右馬寮御監淳和奨学両院別当源氏長者征夷大将軍

       →ウソかホントか。覚えようかと思いましたが「アホかいな」と言われるのがオチだとやめにしました。

      ・「この忠通の歌が置かれた位置は絶妙」
       ほんとそう思います。歌人つながり、歌の贈答の相手として基俊の後におき、政治権力争いのつながりとして忠通の後に崇徳院をおく。歌人・漢詩人であり藤原の長者で権力争いの張本人であった藤原忠通ならではこの位置を占める人はいなかったでしょう。絶妙だと思います。

        

  3. 百合局 のコメント:

    藤原忠通は亡くなる最後まで波乱万丈の人生を過ごしたようですね。
    父から言われ年の離れた弟(頼長)を養子にしたものの、実子(嫡男基実)に恵まれると頼長との縁組破棄。どろどろの始まりですよね。
    保元の乱で勝者となって、前後長く権力者の座にあったわけですから「今鏡」の記述は誉めすぎ、へつらいがあったかもしれません。
    老体になって、お気に入りの側仕え女房の密通事件のあと寝込んでしまって亡くなるとは、気の毒ですが人間らしいです。

    芸術上ではパトロン兼作者で王朝漢文学の遺産を継承するとともに、これを和歌の世界に橋渡しする仕事をした中心人物だったようです。
    俊頼、基俊らを判者に迎えてしきりに歌合を催し、同じ歌合の勝負を俊頼、基俊の両人につけさせ両判という新しい試みをした。~ 時として正反対の結果を示し、そこに当時の歌人たちは尽きぬ興味を感じた。(日本文学の歴史より)
    その傾向は、歌合が本来もっている文学的遊戯性よりも、文芸批評に重点が置かれていたようです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・波乱万丈の人生、そうですね。忠実-忠通-頼長、親子三人の三角関係はドロドロですね。養子をとって後継者にしようとした後に実子が生まれて気が変わる。これは人情として仕方がないものでしょうか。思い出すのは秀頼が生まれて疎んじられ切腹させられるに至った秀次。実子なら仕方ないかもしれませんが秀頼はねぇ、、、。まあ、淀君腹の子であることには違いないですけどね。

      ・「今鏡」の評は誉めすぎですか。そうでしょうね。私なんぞがみても人麻呂の歌とは格が違う気がします。ひょっとしたら今鏡の言う誉めてる人とは藤原基俊かもしれませんね。基俊サン、万葉集も研究してたらしいですから。人麻呂サンはどういう思いだったのでしょう。まあ時の権力者を誉める引合いに出されたのだから悪い気はしなかったかもしれませんがね。

      ・「お気に入りの側仕え女房の密通事件のあと寝込んでしまい亡くなる」
       68才ですよ。お盛んだったのですね。wikiで見たら女房の密通相手は女房の兄弟だったとのこと。そんなのもあったのですかね。真面目な忠通としてはそのような禁忌の出来事に対する精神的なショックだったのかもしれませんね。

      ・忠通が日本文学の歴史に名を留める人であったのは確かなようですね。自ら催す歌合にライバルの俊頼と基俊を同時に呼び両者に判者として判定させる。そんなの権力者パトロンの忠通でしかできないでしょう。時として両者の判定は正反対になる。そんな時中に入って仕切るのは忠通。忠通サン、いいカッコしたのでしょうね。

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    この歌、今鏡でも人丸に比する歌と褒め称えられ、田辺聖子さんも”おおらかな歌、芒洋とした風格の歌で、むしろ万葉調に近い”と評している。
    少々取っ付きにくい歌ではあるが、爺が書いてくれた通り、海と空の青と白が美しいコントラストをなしており、おおらかないい歌である。

    爺が千人万首から引用している2首もいいが、小生も、さらに2首。

    俊頼との歌

    六月二十日ごろに秋の節になる日、人のもとにつかはしける

    六月(みなづき)のてる日の影はさしながら風のみ秋のけしきなるかな(金葉153)

    【補記】晩夏六月中に立秋となった日に、「人」に贈ったという歌。『田多民治集』には詞書「六月の二十日比に秋の立ちし日、俊頼朝臣に給はせし」とあり、この「人」が源俊頼と知れる。俊頼の家集『散木奇歌集』によれば、俊頼は畏れ多くて返歌を躊躇っていたが、忠通が「しきりに召しける」ので、二日後に次の歌を奉った。「おのづから萩女郎花咲きそめて野べもや秋のけしきなるらむ」。

    題しらず

    さざなみや志賀の唐崎風さえて比良の高嶺に霰ふるなり(新古656)

    この時代、上述の通り、慈円が”愚管抄”で保元の乱以降は”武者の世”になったとうまく総括しているが、”高校日本史 B”を見ると、ここから”原始・古代”から”中世”へと時代の括りがおおきく変わっており、歴史的転換期を迎えていたことになる。
    後三条天皇に始まり、白河天皇は親政を強め、荘園を整理し、藤原摂関家の政治的・経済的力は弱まり、さらに白河上皇が1086年院政を始め、白河・鳥羽・後白河と院政が100年続き、藤原摂関家は徐々に衰退し、武家が台頭する時代となることになった。 

    そして、源氏物語との絡みでいえば、この時代に、国宝”源氏物語絵巻”も誕生している。

    別冊宝島・源氏物語絵巻によれば、

    権中納言・源師時の日記”長秋記”には、1119年11月の記事として、白川院と鳥羽天皇の中宮・待賢門院による絵巻製作のことが書かれている。
    また、”源氏物語秘義抄”には、20巻の絵巻の制作に関わる記述があり、この絵巻は、紀の局・長門の局らが絵を描き、関白藤原忠通、左大臣源有仁らが詞書を書き、遅くとも1147年までには成立したらしい。この絵巻は、高倉天皇の中宮・建礼門院、さらには鎌倉時代六代将軍・宗尊親王へと伝来したとされる。
    これらの記事が現存する国宝”源氏物語絵巻”と直接関係があるか不明だが、---

    とある。能書家の藤原忠通が、詞書を書いたとなれば、書としても国宝ということになる。

    • 百々爺 のコメント:

      ・藤原家長者の歌

       26忠平 小倉山峯のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
       道長 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
       76忠通 わたの原こぎいでてみれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波

       専門歌人でない(忠通は専門歌人でもあるが)時代の第一人者の歌としてはこせこせしてないおおらかな歌がいいのでしょう。その点75基俊の歌に無頓着でおおらかに大海原の雲と波を詠んだ76番歌はアッパレと言っていいのかもしれません。

      ・中世の始まりをどこにするのか、何をもって中世とするのか専門的なことはよく分かりませんが平安時代は400年と長いのでその半分くらい(後三条天皇の延久の善政以降)からを中世としているようですね。まあ貴族(藤原)から武士(源平)の世への変わり目をもって中世の始まりと考えましょうか。そうすると百人一首では凡そ70番台以降が中世ということになりますね。

      ・源氏物語絵巻の解説記事、ありがとうございます。
       現存する国宝絵巻の詞書が法性寺流忠通の手になるとは聞きませんが、忠通も源氏物語の発展普及に一役買っていたとは興味深いことです。白河・鳥羽の院政時代に源氏物語は単なる物語としてだけでなく絵や書など色んな面で取り上げられるビッグコンテンツへと高められていったのだと思います。
      →和歌の面でも俊成は「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と言って源氏物語をバイブル視しています。

  5. 枇杷の実 のコメント:

     わたのはら漕ぎ出でてみれば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波(詞花382)
    実際に見た風景ではなく想像で詠んだ歌とされるが、潮騒の音とともに雄大なパノラマが脳裏に浮かぶ。人間としてのスケールの大きさ、政治家として勝ち組にいる余裕がこの歌を詠ませた。
    百人一首において、この忠通の歌が置かれた順番が微妙で興味深い。定家はこの歌の前後に基俊の75番歌、崇徳院の77番歌を撰んでいる。基俊は裏切られたことを恨んでいたし、崇徳院は讃岐に流されたのちに怨霊になったともいわれているから、間に挟まれた忠通はさぞかしあの世で二人の怨念を受けて苦しんだ事でしょう。
    基俊の願いなど些細な事と忘れていたか、他にやむを得ぬ事情があったはず。
    僧侶が何百人といる興福寺では秋の維摩会の都度、あまたのコネ筋からの頼み事で忠通も超多忙であった。熱心な基俊の申し出にも忠通は上の空で、視線は遠く沖の雲、白波の彼方に。しかし、基俊の歌の徳というべきか、子息光覚は堅義(りゅうぎ)に任命されている(1140年、基俊往生の2年前)
    忠通は政治家であるのみならず、「我朝文道の中興」(中右記)とあるように、作詞にも和歌にも非常に優れた人物であり勅撰集には58首が入集している。定家は忠通の人生の象徴としてこの歌を解釈し、76番歌、77番歌は「保元の乱」の勝者・敗者の歌として並べている。だからこそ、次の秀歌を捨ててまで、詞書によって崇徳院の存在が浮上する「わたの原・・」歌を選んだのではないだろうか。(吉海直人)
     吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓の里ににほふ春風(金葉36)
     秋の月たかねの雲のあなたにて晴れゆく空の暮るる待ちけり(千載275)

    • 百々爺 のコメント:

      わたのはら漕ぎ出でてみれば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波

       これは瀬戸内海の大海原のことなんでしょうね。海の波と空の雲。白波は立ってるものの穏やかな静かな海が思い浮かびます。

       一方93実朝のこの歌は東映映画のタイトルシーン。貴族の歌vs武士の歌と言ってもいいかもしれません。

        大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

      ・76忠通が75基俊と77崇徳院の怨念に囲まれて苦しんでるならちょっとかわいそうですね。だって忠通サン、そんなに悪いことしてませんよ。後に息子が堅義に採りたてられたのならお礼の歌を忠通サンに奉らなきゃいけませんよねぇ。

        契りおきしさせもが露の光かなうれし今年の春は来にけり

      ・なるほど挙げていただいた忠通の二つの歌は76番歌より秀歌かもしれませんね。でも76番歌は詞書に崇徳院が登場する。それで定家は76番歌を入れた。繋がっていきますねぇ。面白いです。

       76番歌 詞書
       新院位におはしましし時、海上遠望ということをよませ給ひけるによめる

  6. 小町姐 のコメント:

    【余談32 】  中納言顕基、出家・籠居の事(発心集より)
    時代は76番、忠通の頃より遡り後一条天皇(68代天皇)の頃の事。
    発心集(鴨長明)より興味深い説話を見つけましたので紹介します。
    中納言顕基というのは醍醐源氏、俊賢の息子で後一条天皇に仕え若くして従三位中納言にに至ったが後一条天皇がおかくれになった時「忠臣はニ君に仕へず」と37歳で出家。
    横川、大原を経て48歳で没した。
    後一条天皇は一条天皇(66代)と中宮彰子(上東門院)の間に生まれた子であり亨年29歳であった。
    その顕基を案じて上東門院より問いがあったという。
    その時の歌
       世を捨てて宿を出でにし身なれどもなほ恋しきは昔なりけり(顕基)
       時のまも恋しき事の慰まば世はふたたびもそむかざらまし(上東門院の返歌)
    後には大原に住みて二心なく行ひ給ひけるを時の一の人たふとく聞き給ひてしのびつつ彼の室に渡り給ひて対面し給へる事ありけり・・・
    世を背くといへども、なほ恩愛は捨てがたき物なれば思ひあまられたるにこそ」とあはれにおぼされてその後事にふれつつひきたてとり申し給ひければみなしごなれどはやく大納言までのぼりにけり・・・とあります。
    それほど忠義の顕基でも一の人(ここでは摂政関白を50年務めた頼通のことで彰子の弟)に我が子を案じて行く末を頼んだと言う。
    ここでも思うのはやはり兼輔の歌です。
       人の親の心闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな
    その子、みなしごなれど顕基亡き後美濃大納言にまでなったという説話である。
    この「一の人」とは摂政関白の事で「一人」(いちじん)は天皇の事を言うらしい。
    また「みなしご」と言うのは成人前に親を失ったもののことを言い長明もそう呼ばれた。
    この話が面白かったのは76番、忠通が四代天皇に仕えたということを思い出したからである。
    又上東門院(彰子)と歌の贈答があった事も興味深く感じた次第である。
    それにしても長明の生まれる前の話をまるで見てきたように書いていると思うのは百々爺さんだけではありません。
    百人一首を通じて枝葉を広げると汲めども尽きぬ思いに満ち溢れるこの頃である。

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      主君(天皇)の崩御に殉じて出家、あったのですね。そう言えば12番歌の僧正遍昭も仁明天皇に殉じて僧になったのでした。でも出家するってことは家族を捨てるわけですからねぇ。捨てられた子はみなしごなんですね。今の感覚からすれば「お父ちゃん、自分だけいいかっこして無責任じゃない!」って感じですけどね。

      そんな父でもやはり残した子はかわいい。頼通に子どものことをよしなにと頼んだのですね。いい話です。長明さんの見て来たように話す法話、それが発心集なんですかね。

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