77番 道真と並ぶ怨霊伝説 崇徳院 瀬を早み

背番号77と言えばV9巨人の川上哲治、そしてその川上を敬慕した星野仙一(中日・阪神・楽天で通算17年監督、全て背番号77)。そのダブルセブンを背負って登場が崇徳院。色んなお話がいっぱいで談話室は盛り上がることでしょう。

77.瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

訳詩:     滝川の瀬は急流だから
        岩にあたって激しく割れる 二筋に
        けれどふたたび流れは出会う 抱き合う
        ああ 何としてでも 私はあなたと抱き合う
        川瀬のように 今は二つに裂かれていても

作者:崇徳院 1119-1164 46才 第75代天皇 父鳥羽天皇 母待賢門院璋子
出典:詞花集 恋上229
詞書:「題しらず

①崇徳天皇 何と言っても保元の乱を起した人、400年続いた平安王朝が崩れ武士の世となっていく契機となった事件の当事者。こういう人が歌人として百人一首に名を連ねているところが何とも面白い。

・崇徳帝の一生 年表で整理してみましょう。
 1086 白河院院政開始(堀河帝8才で即位)
      この間白河院政
 1107 堀河帝崩御(29才)鳥羽帝即位(5才)
 1117 藤原璋子(18才) 鳥羽帝に入内
 1119 崇徳帝誕生 
 1123 鳥羽帝譲位(22才)崇徳帝即位(5才)
      ずっと白河院政が続く
 1129 白河院崩御(77才) ここから鳥羽院が院政を敷く
 1141 崇徳帝譲位(23才)近衛帝(鳥羽帝の子)即位(3才)
      鳥羽院(本院)の院政が続く 崇徳院(新院)は名前だけ
 1145 待賢門院璋子死去(46才)
 1155 近衛帝崩御(17才)後白河帝(鳥羽帝の子)即位(29才)
 1156 鳥羽院崩御(53才)
    崇徳院蜂起 保元の乱 敗れて讃岐(白峰・坂出市)に配流
 1159 崇徳院五部大乗経を写経、都へ贈るも後白河帝(信西)は受取拒否
 1164 崇徳院崩御(46才)
 1184 厄災続き崇徳院の怨霊鎮魂が図られる(讃岐院→崇徳院、霊廟設置)
 1868 崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建

・崇徳院の出生の秘密 
 これぞ紫式部・光源氏も真っ青、「もののまぎれ」そのものである。
 白河院は藤原公実の娘璋子を自分の寵姫祇園女御の養女とし、璋子が女性年令になると手をつけてしまう。
  →光源氏は10才の紫の上を拉致してきて14才になると手をつけてしまう。
  →でも源氏は紫の上を終生第一の女性として愛し続けた。

 璋子が18才になると孫の鳥羽帝(息子堀河帝の息子)に入内させる。
 白河院は璋子を入内させた後も璋子の元へ通っていた。
  →孫ほど年の離れた少女を愛人とし、孫に嫁がせた後も関係を続ける
 そして生まれたのが崇徳帝。系図上は鳥羽帝の子だが白河院の御胤であることは公然の秘密。
  →異常過ぎてコメント不可。父の妃(藤壷)と密通し子ども(冷泉帝)ができた光源氏の方がまだまともな感じがする。

・白河院の院政開始以降、政治の実権は院(白河院&鳥羽院)にあり次の天皇は院の意向で決められていた。何れも幼少での即位、実際の権限は院にあった。

  即位年令: 堀河帝8才 鳥羽帝5才 崇徳帝5才 近衛帝3才

・それにしても白河院と鳥羽院の関係は正に異常。崇徳帝は白河お祖父さんに恨みをいだく鳥羽帝に意趣返しとして疎まれたという図式だろうか。陰湿な世界である。

・そして保元の乱。ざっと経緯をみただけだが崇徳院に勝算があったとは思えない。頼長に唆されたのであろうが甘いと言わざるをえない。
 →上皇が遠流されるようなことはあるまいと楽観してたのかもしれない。

・讃岐での蟄居 3年かけて大乗経を写経、謹慎の証として都に贈るが拒否される。
 崇徳院は激怒、「願はくは大魔王となって、天下を悩乱せん」と怒り狂いさながら悶死。
 →さまざまな怨霊伝説を生む。
 →崇徳の怨霊が皇朝(平安王朝)を滅ぼし武士の世を招いたともされる。

 「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)p88以下に崇徳院の悲劇の詳細記述あり。

②歌人としての崇徳院 
・幼少から和歌を好み上皇になってからは和歌に没頭、歌合を開催。
 藤原顕輔に詞花集(1151年415首)を撰進させる。
 詞花集以下勅撰集に78首(すごい!) 久安百首(14人x100首)を詠ませる。

・自らも百首を作った久安百首より
  恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)
  →長恨歌 連理の枝
  →崇徳帝には76忠通の娘聖子(皇嘉門院)が入内したが子どもができなかった。聖子腹の皇子が生まれていたらその皇子への皇統の可能性はあり、忠通も外祖父になろうと必死に画策したのではなかろうか。 

・花鳥風月を詠んだ穏やかな歌が多いように思うがどうだろう。
  月の歌とて
  見る人に物のあはれをしらすれば月やこの世の鏡なるらむ
   →「心にもあらで憂き世にながらへば」の三条院の月よりはいい感じ。

・やはり配所讃岐での歌は心打たれるものが多い。
  思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを
  憂きことのまどろむほどは忘られて覚むれば夢の心地こそすれ
  浜千鳥あとは都へかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く

・西行は生前崇徳院と交流あり(待賢門院がらみの話は86番西行の歌のところでやりましょうか)、崇徳院の没後、讃岐を二度訪問、崇徳院を追悼し多数歌を詠んでいる。

  松山の波に流れて来し舟のやがて空しくなりにける哉
  松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり
  よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん

③77番歌 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
・「題しらず」 題詠ではないのだろう。誰との恋を詠ったのかは分からないものの激しい恋情をぶつけた秀歌であろう。恋とはこんな感じでするもの、、、という気持ちを詠んだものか。
 →何らかの事情で仲を裂かれる。でも障害があるほど燃え上がるのも恋なのであろう。

・恋歌ではあるが恋にかこつけて自分の逆境を詠った崇徳院の怨念を詠った歌とも言われている(23才で鳥羽院の圧力で3才の近衛帝に譲位させられる。いつかは劣り腹ながら皇子の重仁親王を皇位につけて院政をしたい、、、という気持ちを詠った歌)
 →まあそれもあろうが素直に「いつか絶対添い遂げてみせる」という一途な気持ちを詠った恋歌とする方がよろしかろう。

・13陽成院の「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」と並ぶ天皇の激しい恋歌。陽成院も17才で皇位をおわれている。 

・「瀬を早み」 「1苫をあらみ」 「48風をいたみ」
 落語「崇徳院」も有名。ほのぼのしたいい話、片想いでないところがいい。
 「むすめふさほせ」 一字決まりで誰もが取りたい人気札であろう。

④源氏物語との関連 
・崇徳院の出生の秘密の項で書いたが「もののまぎれ」に尽きるでしょう。
  鳥羽帝(白河院) X 待賢門院璋子 = 崇徳帝
  桐壷帝(光源氏) X 藤壷     = 冷泉帝
  光源氏(柏木)  X 女三の宮   = 薫 
  →まさに事実は小説より奇なりであります。

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
  →いつかは添い遂げたい、、、この想いは源氏への畏怖を持ちながら一児(薫)を成した女三の宮への柏木の想いに通じるかもしれない。

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77番 道真と並ぶ怨霊伝説 崇徳院 瀬を早み への17件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

       瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
    77番とラッキーな7が二つも並ぶその人が崇徳院とは何という皮肉、4と9の四苦を幾つも並べたような人生ではありませんか・・・  じゃあ49番は誰だったか?
       みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそおもへ
    大中臣能宣、そこそこ平穏な人生と思える。
    そんな77番の崇徳院、何故か同情を越えてとても気になる存在である。
    これは滅びゆく者への限りない愛惜の情なのか理屈抜きに好きなのである。

    鳥羽天皇と待賢門院 璋子との間の第一皇子でありながら悲劇の一生を送る。
    崇徳院の出生をめぐり「法王密通せしめ給ふ、人皆これを知るか」(古示談)との記録が残る。その為、父鳥羽からは叔父子と疎まれる。
    退位を余儀なくされても鳥羽の在世中に院政は敷けずさらに弟の後白河が即位、皇太子になると自らの子孫への皇位継承の道も絶たれた。
    鳥羽の崩御を機に関白忠通の弟、頼長と共謀して兵を挙げるも(保元の乱)敗れ讃岐に流される。(以上小林一彦)
    「平家物語」は何度も映画、ドラマ化されているが直近での「清盛」は5年前にカルチャーセンターで平家物語を学んだのと同時進行だったので今なお鮮明な記憶が蘇る。
    中でも頼長を演じた山本耕史と共に崇徳院を演じた井浦新は強烈な印象として未だ目に焼き付いている。頼長は嫌いなキャラだが崇徳院は嫌いになれなかった。
    「平家物語」では血で経文を書写し都で栄華を謳歌する人々を呪い髪も爪も伸ばし放題、生きながら鬼、天狗の凄まじい形相は怨霊と化した。
    五歳で即位し十二歳から宮中で歌会を開きニ十代後半には詞花集の撰進を歌壇の長老、藤原顕輔(79番)に命じた。
    若き頃の歌
       ここをこそ雲の上とは思ひつれ高くも月の澄みのぼるかな(今鏡)
    白河、鳥羽の院政下政権の蚊帳の外におかれたことがいっそう和歌へと向かわせた。
    主だった歌人たちに詠進させた「久安百首」の部類は三十代の俊成を抜擢した。
    保元の乱がなければ新古今時代のような和歌史の活況がもう少し早く訪れていたかもしれないとは小林一彦氏の言である。
       瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ   
    これは恋の歌かそれとも院の憤懣やる方ない激情ほとばしる心情か?
    烈しく強い意志が感じられる。
       浜千鳥あとは都にかよへども身は松山にねをのみぞなく
    「瀬を早み」のような力強さはなくただただ弱々しく諦観すら感じさせ哀れを誘う。
    昨夜百人一首の作者たち(目崎徳衛)の7ページに渡る文章を読んだ。
    全文が好意的であり崇徳院の配流を嘆き惜しむものが西行や俊成の他にも多かったことを知ったのがせめてもの救いであった。
    そして院の万斛の涙を汲みとるに不足ない歌として挙げられている。
       思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたる心細さを
    定家が崇徳院を百人一首に加えたのは偶然のことではない。との一文に心から納得させられた。
    結局都には帰れず讃岐の白峰に葬られた。
    崇徳院の意を汲んでか祇園甲部歌舞練場の裏手に御廟がまつられているという。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「滅びゆく者への限りない愛惜の情」
       これぞ日本人の心を貫く優しい心、敗者への思いやりですよね。平家物語が日本人の心を打つのはその心だと思います。「盛者必衰」おごる平家は義仲・義経に滅ぼされ、次に義仲・義経も敗れ去る。
       
       →私も源氏物語に出会うまでは平家物語こそ日本人の心の物語だと思っていました。源氏を知って違った意味での日本人の心に触れて感激したものでした。

      ・大河ドラマ「清盛」は清盛が白河院の落し胤であることから始まったちょっと特異な設定でしたね。でも白河院-待賢門院-崇徳院-西行がバッチリ描かれ面白かったです。
       →白河院の伊東四朗、忠実の國村隼もよかったですね。

      浜千鳥あとは都にかよへども身は松山にねをのみぞなく
       配流先での崇徳院の歌、この歌から78番歌へと繋がっていくのだと考えています。

       →全く関係ないですが昨日「杜の都全日本大学女子駅伝」が開かれ愛媛の松山大学が立命館の六連覇を阻み初優勝しました。このアンカーで区間賞の激走でゴールテープ切った高見澤安珠は何と紀宝町生まれで高校は津商業なんですって。驚きました。三重県にめぼしい大学あれば松山にまで行かなくてもよかったのに、、、と思いました。

  2. 百合局 のコメント:

    この歌は政治的背景をいろいろ考えないで、単に、一念を貫いてほとばしる恋の情熱を詠んだ歌だと解釈したいです。「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」という序詞の情景が読む側にもはっきりと浮かび、それがそのまま恋する心をうつしだしていて、いい歌だなと思います。

    崇徳天皇は和歌を好み、侍臣たちに隠し題の歌をよませたり、紙燭が燃え尽きないうちにとか、金属製の御碗を打ってその余韻の消えないうちとか、限られた短い時間に歌をよませたりして興じていたようです。
    譲位後まもなく作った「久安百首」では、のちの藤原俊成がまとまった晴れの歌をはじめて詠み、新院の殊遇を得る機縁となったようです。

    敗者のその後の生き方については考えさせられますね。
    崇徳院はエネルギーに溢れた人だったのだろうと思いますが、怨霊になってそのエネルギーを使うのはもったいないです。
    和歌の道に精進した方が救いがあります。
    配流先の讃岐で詠んだ歌「思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを」からは、悲嘆はあっても怨念はないように思います。
    讃岐で一男一女をもうけている暮らしもまた、崇徳院にとってそれなりに良かったのだろうと思いたいです。

    謡曲『忠度』にある「花は根に帰るなり」は、千載集、春下、崇徳院の「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき」によっています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・ごちゃごちゃ政治的背景なんぞ考えずに「ほとばしる恋の情熱を詠んだ歌」ですか。なるほど、百合局さんらしくスッパリ割り切った解釈ですね。賛成です。13番陽成院の「筑波峯の」と並ぶ素晴らしい恋歌だと思います。
       →「岩にせかるる滝川」これがいいですねぇ。滝って考えてみれば山岳が多く起伏に富み、然も雨が多い日本ならではですもんね。フラットなヨーロッパやアメリカには日本的な滝などあまり見かけない。ほとばしる激流が岩にあたって二股に分れる。百人一首の中で読んでて音が聞こえてくる歌という意味ではこの77番歌が一番でしょうか(49番もありますが)。

      ・「金属製の御碗を打ってその余韻の消えないうち」に歌を詠ませる。
       曲水の宴と言うのは聞いたことありますけどねぇ。チーン~~~とやってその余韻が消えないうちにですか。即興、即詠の極致ですね。当然お題を決めてでしょうね。崇徳院はお遊び心にすぐれた人だったのでしょうね。

       →今度ウチの句会でもやってみましょうか。私は専ら「できません、お酒飲みます」で勘弁してもらう方に回りますけどね。

      ・「讃岐で一男一女をもうけている」
       讃岐国の役人の娘を妻としてたようですね。源氏が明石で明石の君と出会い姫君を生んだみたいなものですかね。罪人として見張りがついてたわけでもないでしょうし、そのまま心安らかに風流三昧で過してた方がいいと思いますけどねぇ。
       →崇徳院は讃岐で深く仏道に傾倒してたようですが出家はしてなかったのですかね。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    崇徳院、小生にはほぼ初登場の人物、高校の日本史でも興味が持てず素通り、NHKドラマの”清盛”も見ず、平家物語も読んだことがなかったので、今回百人一首をやり少々本を読み、また爺や小町姐のコメントも勉強になり、いかなる人物か漸く解ってきました。いやはや波乱万丈の出自、武士の世界へと時代が変わる保元の乱の張本人、天皇で新院、この時代の歌壇を指導し俊成・定家へと和歌を繋いだ歌人、そして世紀の怨霊、まさにドラマなんどを越えたすごい人生ですね。

    讃岐を訪れた西行の歌は、爺が3首載せてくれている。その配流される前、保元の乱で破れ仁和寺におはしける時、西行が読んだ歌、

    かかる世にかげもかはらずすむ月をみる我が身さえうらめしきかな (山家集)

    西行とは、親交が深かった。

    讃岐配流については、WIKIによれば、

    天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、400年ぶりと

    崇徳院も自身の配流は予想していなかった可能性大と思う。

    そして、都が置かれていない地に天皇稜があるのは三つのみと

    崇徳天皇  四国 讃岐
    淳仁天皇  淡路島
    安徳天皇  下関

    いずれも、悲劇の天皇。

    また日本の3大怨霊は

    菅原道真
    平将門
    崇徳院

    と、天皇ではお一人、雨月物語や椿説弓張月でも怨霊として描かれた、当に悲運の天皇であったようだ。

    話が変わるが、今度は歌人としての崇徳院について、”百人一首の作者たち”を参考に

    崇徳院は、勅撰和歌集に七十九首とられ、”詞花和歌集”を編纂させ、”久安百首” ここから小倉百人一首に3首入っているが、これも作らせた、後鳥羽上皇以前の最大の天皇歌人であった。

    そして”今鏡”では、

    帝の御心ばへ、絶えたることをつぎ、古きあとを興さむと思し召せり。幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、朝夕に侍ふ人々に、隠し題詠ませ、紙燭の歌、金椀打ちて響きのうちに詠めなどさえ仰せられて、常に和歌の会をぞせさせ給ひける。

    しかし、保元の乱によって、これが一挙に崩壊する。歌壇は火の消えたようになってしまったと。西行も嘆いたが、しかし歌壇は、俊成・定家へと引き継がれていく。

    千人万首から、四季の歌をそれぞれ一首、

    若菜

    春くれば雪げの沢に袖たれてまだうらわかき若菜をぞつむ(風雅17)

    百首歌めしける時

    五月山さつきやま弓末ゆずゑふりたてともす火に鹿やはかなく目をあはすらむ(新拾遺274)

    百首歌に、はつ秋の心を

    いつしかと荻の葉むけの片よりにそそや秋とぞ風も聞こゆる(新古286)

    百首歌めしける時、初冬の心をよませ給うける

    ひまもなく散るもみぢ葉にうづもれて庭のけしきも冬ごもりけり(千載390)

    いずれも、77番の激しい歌とはことなり、爺も言うように、穏やかないい歌と思う。

    • 百々爺 のコメント:

      ・崇徳院、初登場でしたか。新鮮でいいじゃないですか。私も日本史で「保元の乱1156崇徳天皇讃岐配流」と棒暗記はしてましたが出自のことやら保元の乱の位置づけなどを知るにつけ「こりゃあすごいわ!」と感心したものでした。どうぞ色々知って楽しんでください。

      ・西行との交流は深いものがあったようですね。先日白洲正子の「西行」の該当部分読み返してて西行の崇徳院への深い想いに感じ入りました。歌の交流というより人間的な親交がベースにあったのだと思います。西行(1118生)崇徳院(1119生)頼長(1120生)、正しく同年輩でした。
       
       →白洲正子はこの3人に共通する性格は「純粋」であったことだと言っています。

      ・wikiよりの引用ありがとうございます。
       悲劇の天皇、三大怨霊の一人、大歌人、、、と憶えておきましょう。

       歌人として名をなした崇徳院、後鳥羽院がともに保元の乱、承久の変で勝ち目のない闘いを挑み敢無く配流の身となる。

       →崇徳院は甘かったと思いますが後鳥羽院は崇徳院を前例にしなかったのでしょうかね。未だに不思議です。99番歌のところでまた。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    崇徳院は和歌の才能に恵まれた優秀な人物だったのでしょうが、誠に悲劇的で怨念が募る人生を余儀なくされ、早良親王(崇道天皇)、菅原道真とともに、平安朝400年で人々を最も畏怖させた怨霊に数えられました。崇徳院の悲劇の大本は「もののまぎれ」とされる出生の秘密にあり、表面上は鳥羽天皇の長男で第1皇子であったにも拘らず、父の筈の鳥羽天皇は彼を祖父の白河法皇の子であるとして「叔父子」と呼び、終生心を許さなかったことでしょう。

    それに加えて、次の事柄も悲劇の要因に挙げられると考えられます。
    ①白河法皇のお蔭で天皇にしてもらったが、院政のために政治的権限が無かった。
    ②天皇を体仁親王(近衛天皇)に譲位させられる時に、体仁親王とは養子関係にあったので、「皇太子」のはずが、譲位の宣命に「皇太弟」と記され、崇徳上皇が院政を行うことが出来なくなった。←在位する天皇の直系尊属である上皇のみが院政を行える。
    ③近衛天皇崩御の後、崇徳院の第一皇子である重仁親王が後継天皇の最有力候補だったにもかかわらず、76番歌の藤原忠通や信西等の策謀により、別の親王が選ばれ(後の後白河天皇)、ここでも崇徳院政の望みが絶たれた。
    こうした経緯で、崇徳院は自らが院政を敷ける可能性を亡くし、1156年7月に鳥羽法皇が崩御した後、平清盛が味方になることに一縷の望みをかけ、保元の乱に走ったと考えられます。←清盛の義母・池禅尼が重仁親王の乳母だったので清盛に期待したが、清盛は最終的に後白河天皇方に入る。

    智平は崇徳院の悲劇が生じた歴史的な背景として、当時は院政という独特な政治形態が行われていたいう事情があったと考えます。院政の下では、政治は「治天の君」と呼ばれた上皇(=院)によって行われて、天皇には政治的権限がありません。このため、天皇には欲求不満と上皇になって院政を敷きたいという欲望が募る一方で、上皇は死ぬまで権力を放したくないと考えて長期独裁専制政治が生まれやすくなるのではないでしょうか。この時期以前にも、上皇が政治に関与した例として、持統・聖武・孝謙・平城上皇などがありましたが、それらは制度的な政治形態ではなかったので、「院庁」のような特有の政治機関はありませんでした。ところが、白河上皇の1086年から実質的に院庁で政治が行われるようになり、平家滅亡のそれが1185年頃まで続いたので、この100年間は院政時代とも呼ばれています。ちなみに、院政は日本の歴史上も特異な政治形態ですが、世界的にも非常にまれな政治形態のようです。

    百合局さん指摘するように、崇徳院は院政を敷ける可能性を無くした時点で、和歌に生きる道を選べば、穏やかな一生を全うできたのかも知れませんね。最後に、77番歌は素晴らしい恋の歌であると智平は思います。

    • 百々爺 のコメント:

      ・出自~経歴~結末と崇徳院ほど特異な人生を生きると崇徳院自身の想いから離れて人々はあれこれとってつけたような話を作り上げてしまう。その最たるものが怨霊伝説なんでしょうね。まあ「占いが科学であった」当時からすると崇徳院の怨霊を鎮めるのに為政者は躍起になったのでしょう。
       
       →崇徳院は単純、純粋だったのでしょうが怨霊伝説にあるような陰湿、粘着質な人だったかについては疑問に思います。

      ・当時の院政についての整理分析、ありがとうございます。その通りだと思います。

       白河・鳥羽の院政時代、「治天の君」は上皇であって天皇には政治権力がなかった。上にも書きましたがそれぞれの即位年令は堀河帝8才、鳥羽帝5才、崇徳帝5才、近衛帝3才ですからねぇ。何もできる筈がない。天皇がそんな年令だから当然皇太子(東宮)はいない。要は今まで天皇-皇太子だったのが一つ上がって上皇-天皇になったということ。

       →藤原摂関家(外戚のお祖父さま)によって皇位が決められていった時代から天皇家内部の抗争で皇位が決められていった時代へ。それが白河・鳥羽(&後白河)院政時代ということでしょう。

       →後、摂関政治の復活を目指し清盛が外戚になり安徳帝(生母清盛の娘徳子)を奉じるが僅か5年で壇ノ浦に沈むことになる。

      今上天皇の生前退位問題で退位後のあり方も議論されるのであろうが難しい問題なんでしょう。 

  5. 枇杷の実 のコメント:

     瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(詞花集229) 
    千人百首にある補記に、久安百首では
     ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ
    とある。詞花集における改変を、香川景樹は撰者の藤原顕輔によるとしたが、安東次男は撰集の宣を下した院自身による改作であろうという(百首通見)。
    恋の思いを詠じたものとしては久安百首の方が適切で、初句、三句の改定で原歌の気弱さ、ためらいが消え恋情の激しさや強い決意が感じれれるようになっているとか。崇徳院の悲劇の生涯を知る後世ではどうしても歌と歴史を重ねあわせ、保元の乱で敗れた悲憤を内包した歌として再解釈される。

    崇徳院はこの歌を詠んでから16年後に讃岐に流され、9年の後に失意のうちに没する。慶応4年(1868年)、明治天皇は京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設し、崇徳院の魂を迎える。崇徳院は実に700年の時を経て、都に戻ることになった。
    余談だが、当神宮には「まり」の守護神として「精大明神」が祀られており、蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたもので、今では「まりの神様」として崇敬される。けまりはボールを落とさない事・落ちない事から、勉学の神 白峯天神様のご利益が学力を落とさない・試験に落ちないなどと縁起が良いとされています。勉学のご利益は無用となった身だが、次に京都を訪れる際の立ち寄り場所にメモしておきます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・久安百首の原歌と百人一首(詞花集)歌との比較についての解説、ありがとうございます。崇徳院の歌の改変をたかが撰者の顕輔が勝手に行うことはないでしょうね。

       原歌と百人一首歌、そりゃあ百人一首に採られた77番歌の方が断トツにいいでしょう。恋の気弱さ、ためらいを詠んだ歌はいっぱいありますもんね。激しい恋の歌を悲劇の天皇が詠んだことにこそ値打ちがあるのだと思います。谷川と言うとせせらぎ程度に感じますもの。ここは二つに割れて砕けて滝壺へとなだれ落ちる激流でないといけないでしょう。

      ・明治天皇が崇徳天皇の魂を迎えた白峯神宮は「まりの神さま」ですか。将来ワールドカップ出場を目指すサッカー少年もあやかって行ってるんでしょうね。まあゴルフもボールゲームですからご利益あるかも。是非行ってきてください。

       八麻呂さんのコメントにありましたが京に御陵がない天皇は淳仁、崇徳、安徳の三帝。でも崇徳院は白峯神社に迎えられている。京に御陵も神社もないのは淳仁、安徳の二帝ということ。かわいそうですね。

       →尚その後、後鳥羽院は配流先の隠岐で、順徳院は佐渡で没したが火葬され遺骨が京都大原陵に葬られている由。

       

      • 枇杷の実 のコメント:

        早速のコメントを有難うございます。
        追記ですが、白峰神宮では明治6年(1873年)、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流されてそこで亡くなった淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀しています。
        安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がありますね。

        • 百々爺 のコメント:

          そうですか、淳仁天皇も白峰神宮に合祀されてますか。よかったですね。二人して淡路のこと讃岐のこと語り合われているのかもしれませんね。安徳天皇だけは遺体が発見されなかったのだからどうにもならなかったということですね。落ち延びた伝説の方がロマンがあるかもしれませんね。

  6. 文屋多寡秀 のコメント:

     紅葉前線も南下し秋本番ですね。
    どうも今年は山行の計画を立てますと、なぜか地震に見舞われます。
    今回は、蒜山、大山を訪ねました。東部、西部はやはり風評被害のようです。中部の倉吉、北栄町地域は屋根・道路(補修済み)に爪あとがしっかり残っています。
    この地域で訪ねるべきは、「古事記を旅する(三浦佑之著)」にも紹介されている出雲国譲り伝説の、出雲大社、美保神社でしょうね。現在は両参りと称して若者にも人気があるようです。

    さて本論。
    77番 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

    「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」という比喩の序詞は、単に「われても」を導くだけに終わらず、二人の激しい恋情を「瀬をはやみ」「滝川」に託し、仲を邪魔する力の強さを「岩にせかるる」の「岩」に象徴して、ままならぬ恋のきびしさをたとえている。そして「われても末にあはむとぞ思ふ」と、かたい決意を表出する。譲位せざるを得なかった若い失意の上皇であったが、やがて保元の乱をつくりださざるを得ない気性の激しさや気迫が一首の中にもうかがえる。(三木幸信)
    一方男同士の固い友情と解することもできるが、これは詞花集にあって、恋の歌。やっぱり男女の仲でしょうね。清冽な水の流れと瀬の響きとが力強く語句に漲り「われても末に逢はむとぞ思ふ」が固い決意に思えて頼もしい。
     その人、崇徳院は第75代の天皇で、4歳で即位、このことからも推測できるように院政の盛んな時代であり、天皇より天皇を退いた上皇のほうが実力者であるケースが多かった。崇徳も父の鳥羽院との確執に悩まされ、弟の後白河天皇の台頭も著しく、崇徳は兵を挙げ、保元の乱(1156)を起こす。が、敗れて讃岐の流され、そこで没した。この生涯を思えば、「瀬を早み」の歌をたった今「男同士の友情」とつぶやいたことも許されるだろう。崇徳に味方してくれた勇者もたくさんいたのだから悲運にあっても再会を考える事情が充分あったに違いない。
     この敵軍に、すなわち後白河側についた武将が源義朝(頼朝、義経の父)や平清盛たちであり、やがて平治の乱(1159年)を経て源平の対立、後白河院が辣腕を揮う時代へと移っていく。
     崇徳院の歌は恋の歌ながら力強さがあるのは、この人の心意気かもしれない。歌道にも優れていたが、讃岐での日々は怒りを残したままの厳しいものであったとか。連綿と一つの恋にのみすがる人柄ではなかったかもしれない。(阿刀田高)

    • 百々爺 のコメント:

      ・ほんと日本は地震列島ですね。今までの(東日本大地震以前)状況とは全く違いますね。いつどこで起きても不思議ではない。今まで起きてないところに順番に起きてる感じです。大山~出雲大社、秋も深まる中よかったでしょうね。

      ・「瀬をはやみ」、凡そ天皇には似つかわしくない激しい恋歌ですよね。あの奔放な待賢門院を母に(父は女房手当り次第の白河院)持つ崇徳天皇の女性観はどのようなものだったのでしょう。これがけっこう堅実なんですね。あまり浮いた話、スキャンダラスな話は窺えない。

       1129年崇徳帝11才に76忠通の長女聖子8才(皇嘉門院)が入内、中宮に。しかし残念ながら聖子には子どもが生まれなかった。聖子は摂関家からの中宮であり聖子が皇子を生んでおれば局面はがらりと変わり、皇子が東宮となり崇徳帝の後はその皇子が皇位を継承、摂関政治の復活もあったのかもしれない。

       聖子には子どもは生まれなかったものの崇徳帝との夫婦仲は悪くはなかった。そして崇徳帝と女房・兵衛佐局との間に皇子(重仁親王)が生まれる。ただ母親の出自の関係で重仁親王には最初から皇位の目はなかった。

       →この辺が微妙な綾ですねぇ。聖子に子どもが生まれなかったのならもっと早い時期に然るべき身分の女性を女御にし皇子を成したらよかったのに。天皇の一番の職務は皇位継承の子を作るという観点からすると崇徳帝は抜かっていたと言えるかもしれない。

      ・聖子にしてみれば保元の乱で夫の崇徳帝と父親の藤原忠通が敵味方で戦い、夫は流されて讃岐へ。たまらなかったでしょうね。出家し髪も全ておろし蓮覚と号した由。

       →保元の乱を以て武士の世の始まりとする。戦乱の世の女性たちは夫や家族たちの間で翻弄される。皇嘉門院聖子はその走りと言えるでしょうか。

  7. 昭和蝉丸 のコメント:

    いやぁ~76番から時代が動きだし俄然面白くなってきましたね。
    それに、その激しい動き時代に沿ってか 或いは 背いてか、
    歌の質が急に高まるのも 面白いですね。 
    76番の「わたの原~」は、白黒のモノトーンで描く壮大な叙景詩でしたし、
    今回の77番は、恋歌であれ作者の強い意志を歌ったにせよ
    その分かり易さからして百人一首中の最優秀歌ではないかと思います。

    崇徳陰の一生 (百々爺の年表整理は上手い! 実にisnpirationを
    触発させます) を見て改めて気づいたのは;
    鳥羽院崩御を機に起こした保元の乱、これ、何と崇徳陰53歳の時なんですね。
    ものの本によるとこの戦い、実にあっけなく終わっており、
    双方に戦死者・負傷者は ほとんどおらず、唯一の例外は、
    敗走中流れ矢が顔に当たって三日後に死んだ頼長一人だった由。
    そんな勝負が分かっていた戦いに 当時では晩年と言える53歳で
    乗った崇徳陰と言う人は どんな人だったのか? 
    おそらく物凄く 執着心の強い、根拠のない自信をガチガチに持った
    世間知らずじゃなかったのか?
    こんな無様な人物の生き様と 作品の素晴らしさのGAPの大きさが
    真に摩訶不思議で 面白いですね6

    • 百々爺 のコメント:

      ・やはり蝉丸さんには太平の世より動乱の時代の方がお似合いなんでしょうね。そうです、76番からラストステージに突入します。76番77番は時代の当事者だから面白いのは当然として78番以降は時代の表に出る人でなくても詰らないなどと斬って捨てずに時代の背景を読んで味わってくださいね。

      ・77番歌は最優秀歌ですか。そりゃあ崇徳院喜ぶでしょうね。詠み手の決意のほどをこれだけ端的に分かり易く謳い上げた歌は他にないかもしれませんね。
       
       →色があり音があり動きがあり力がある。正にダイナミックな歌だと思います。

      ・ほんと保元の乱は何故起ったのか。なぜ崇徳院が蜂起したのか。分かりません(詳しくも読みこんでませんが)。崇徳院本人には乱を起す当事者能力はなかったのでしょう。頼長も頼りなかった。何となく闘いを仕掛けられて受けて立ってバッサリやられたような感じがします。

       結局は前年近衛帝崩御の後、後白河帝に即位されてしまった所で勝敗は決していたのでしょう。現役天皇を相手にしては勝ち目ないでしょうよ。

        崇徳帝  父=鳥羽院実は白河院 母= 璋子
        後白河帝 父=鳥羽院 母=璋子

        保元の乱時、後白河帝は30才(崇徳帝は8才年上の38才)
        年少の飾りだけの天皇でなく後白河帝は野心もあったろうし、何と言っても錦の御旗を持ってるのですから。

        →二人の母璋子は11年前に46才で亡くなっている。璋子が存命だったならまた局面は変わっていたのかもしれない。

  8. 昭和蝉丸 のコメント:

    『保元の乱時、後白河帝は30才(崇徳帝は8才年上の38才)』

    そうですか、53歳は 鳥羽院崩御の年ですね。早とちりしました。
    38歳なら血気に逸るのも 仕方ないですかね。

      

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