80番 崇徳院の母待賢門院に仕えた堀河 黒髪の乱れて今朝は

待賢門院堀河。璋子その人ではないものの待賢門院と来るとやはり崇徳院の生母璋子を思い浮かべます。崇徳院の激しい恋の歌(77番歌 瀬を早み)に呼応した何とも官能的な恋歌ではないでしょうか。こんな歌を詠んだ堀河。その人模様ともども「みだれ髪」の世界を訪ねてみましょう。

80.長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

訳詩:    いつまでもあなたを繋ぎとめておけるでしょう
       思うまいとしても思いはそこへ行ってしまう
       別してこんなに黒髪も乱れたままに
       いとしがり愛しあった夜の明けは
       黒髪の乱れごころは千々に乱れる

作者:待賢門院堀河 生没年未詳 神祇伯源顕仲の娘 伯女・伯卿女とも呼ばれる
出典:千載集 恋三802
詞書:「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる」

①待賢門院堀河
・父は三位神祇伯源顕仲 1058-1138 81才
 村上源氏、勅撰歌人、笙の名手でもあった。
 →時代的に74俊頼、75基俊と同世代、鳥羽歌壇に登場している。

・妹も上西門院兵衛と呼ばれる女房歌人(勅撰歌人)
 待賢門院璋子に仕えた後、賀茂斎院を退いた上西門院統子内親王(鳥羽帝と璋子の皇女、崇徳帝の妹)に仕えた。才色兼備の人気女房だったようだ。
 
 →統子内親王(並ぶものない美貌の女性=そりゃあ璋子の娘ですもの)の御所は華やかな文藝サロンとなっており若き貴公子・武者たちで賑わってた。西行も出入りしていた。

・上西門院兵衛の他にも歌人として名のある姉妹(顕仲卿女・大夫典侍)がいる。
 →父顕仲の影響で一家挙って歌詠みに励んでいたのであろう。

・さて肝心の堀河 詳しい話はないが、。
 最初白河院皇女で賀茂斎院を退いた二条大宮令子内親王に出仕六条と呼ばれた。
 →令子内親王が1078-1144 多分堀河もこれくらいの年代であろうか。

 後、待賢門院璋子に仕え、堀河と呼ばれる。
 →この「堀河」って何でだろう。まさか堀河天皇には関係ないだろうに。

・結婚歴はあるようだが不詳。夫は死亡、子を父源顕仲に預ける。
 残された子を詠んだ歌。あわれさを催す。 
  言ふかたもなくこそ物は悲しけれこは何事を語るなるらむ(堀河集)

・美貌で和歌も上手かった女房にしては恋愛沙汰のエピソードがない。どうしてだろう。
 
 →19伊勢を筆頭に38右近、56和泉式部、58大弐三位、60小式部内侍と天皇や親王の子を生んだり貴公子たちをラブホッピングしたりと奔放な女性たちでいっぱいだったが、、、。
 →女性が大人しくなったのか男たちに元気がなくなったのか、、、。

②待賢門院堀河の歌
・金葉集以下勅撰集に66首 久安百首の詠者 待賢門院堀河集
 →待賢門院サロンを代表して数々の歌合などに出ていたのだろうか。

・妹上西門院兵衛の上に堀河が下を付ける。
  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
   ともし火はたき物にこそ似たりけれ(上西門院兵衛)
    丁子かしらの香や匂ふらん(待賢門院堀河)
    →こんなのも連歌というのだろうか。

・崇徳院の法金剛院行幸を愛でて
  雲のうへの星かとみゆる菊なれは 空にそちよの秋はしらるゝ

・西行との交流が各所にみられる。
 西行出家時の歌の贈答
  堀河 この世にて語らひ置かむほととぎす死出の山路のしるべともなれ
  西行 ほととぎすなくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば
  
  →西行出家の原因は西行の待賢門院璋子への恋ではないかとも言われている。璋子(中宮)その人への恋慕もさることながら堀河を始めとする女房たちとの交流は華やかだったはずで堀河とも随分と親しく歌を詠み交している。

 待賢門院璋子崩御の後服喪中の堀河との贈答
  尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を(西行)
  吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし(堀河)

・待賢門院死去を悼んでの歌はさすがに名歌である。
  夕さればわきてながめん方もなし煙とだにもならぬ別れは
  限りなく今日の暮るるぞ惜しまるる別れし秋の名残と思へば
  →題を与えられての作り歌でなく心の底から哀悼の意が滲み出ている。

③80番歌 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
・久安百首の題詠とは言えぞくっとするようなエロチックな歌である。
 哀艶で官能的な恋歌、「百人一首恋の歌の中でも印象の強いもの」(大岡信)
 →長い黒髪は平安王朝女性の命。その端正な黒髪が一夜にして「みだれ髪」になる。

・「夕べのあなたは信じられるものだったが朝あなたが帰ってこの黒髪の乱れを見ると不安がよぎる。。。もうあなたは来ない。いや来る、いや来ない、いや来る、、、」
 →これぞ究極の後朝の歌と言っていいのではないか。

 百人一首中の後朝の歌を復習しておきましょう。
 30 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
 43 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
 50 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
 52 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

・みだれ髪の先行歌
  朝な朝なけづればつもる落ち髪のみだれて物を思ふころかな(紀貫之 拾遺集)
  朝寝髪我はけづらじ美しき人の手枕ふれてしものを(柿本人麻呂 拾遺集)
  黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部 後拾遺集)

・「僕の愛しいあの娘の髪はもう伸びたんだろうか」
 伊勢物語第23段 筒井筒の恋
 男 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 女 くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
 →「あなた、早くこの髪をかきあげてください」、、、、いいなあ。

・そして与謝野晶子「みだれ髪」から
  髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

・オマケに島崎藤村の「初恋」
  まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

日本女性の黒髪、モンローの金髪、、、まさにセックスシンボルであります。

④源氏物語との関連

・平安王朝女性のシンボル黒髪、源氏物語でも頻繁に小道具として登場します。
 髪を洗う=「すます」「ゆする(泔)」
 米のとぎ汁を使う。陰陽道で洗髪をしてもいい日は限られていた。

  匂宮が中の君を訪ねて来たがあいにく洗髪中で相手ができない。その隙に匂宮は屋敷に見なれない女性を見つけ、あろうことか抑え込みに入る。。。。。。これが浮舟であります(東屋)

・源氏物語中有数の官能場面
 桐壷帝が亡くなり源氏の藤壷への想いは自制がきかないまでに達している。藤壷寝所に押しかけ関係を迫る源氏、逃れようとする藤壷。源氏の手が藤壷の黒髪にかかる、、藤壷危うし、、、。

 「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、ひき寄せたまへるに、御衣をすべしおきてゐざり退きたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど思し知られていみじと思したり。(賢木16)

  →こんなことが続くと源氏も藤壷も東宮(冷泉帝)も身の破滅を迎える。藤壷はやむを得ず出家を決意するのでありました。

・物語中一二を争う醜い女性として描かれている末摘花。
 
 あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり、、、、、、頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。(末摘花13)
  
 →これだけこき下ろしても髪の毛だけは見事なものであった。
 「それでも、紫式部は、この古風で、人を疑うことを知らぬ素直で誠実な姫君に、豊かで丈よりも長い見事な黒髪を与えることを忘れなかった」(瀬戸内寂聴)

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80番 崇徳院の母待賢門院に仕えた堀河 黒髪の乱れて今朝は への20件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    80番台に乗りましたね、「やっと」と言うか「もう」と言うか終盤に入りました。
    崇徳院の生母、待賢門院に仕えた女房堀川、どんな女性なのか?
       長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
    黒髪の乱れが艶めかしく官能的でくっきりとした映像が浮かぶ。
    西行とも親しかったらしいが私はまだ西行が出家する前の北面の武士時代が思いだされる。
    それは大河ドラマ「清盛」の場面で今でも鮮烈な印象として残る。
    ドラマ以前はさほどこの歌に興味を持たなかったがあの場面をもう一度おぼろげながらも再現してみよう。
    当初堀川が詠んだのが
       長からむ心も知らずわが袖の濡れてぞ今朝はものをこそ思へ
    それを
       長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
    としたのが藤木直人演じる北面の武士、佐藤義清、後の西行であった。
    風雅には程遠い清盛は何だか場違いの印象でしたね。
    あくまでもドラマ上のフィクションでしょうがちょうど平家物語を学んでいる時で教室では講師、受講生ともに話題が盛り上がりその時以来この和歌が気になり始めた。
    この80番歌を通して大河ドラマの華やかな「壇れい」始め俳優陣の姿を懐かしんでいる。

    西行の出家の原因はいろいろ取りざたされているが真相はわからない。
    又86番の西行法師でいろいろな話題が提供されるであろう。
    一説には百々爺さんも触れているが待賢門院璋子への恋ではないかとも・・・
    一方西行は堀川と交流があり出家時に「堀川の局より言ひおくられける」と歌の贈答は百々爺さんが挙げられた通りである。

    黒髪イコール乱れ髪、想像するのはやはり真っすぐ伸びた日本女性の長い髪で女の象徴、そして命。亜麻色の髪の乙女では話になりません。
    あの長い髪を洗髪するのはを大変な作業だったでしょうね。
    洗髪の隙を狙った匂宮の場面はハラハラドキドキでした。
    百人一首中、女性の「黒髪」を扱った貴重な一首ですね。
       長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

       

    • 百々爺 のコメント:

      ・中断を挟んだりでペースの乱れもありましたが、やっと80番という感じです。百ってけっこうすごい数字ですねぇ。

      ・私も源氏物語にはまっていた頃なので「清盛」はよく憶えています。
       そうでしたか、最初堀河が詠んだ歌に西行が手を入れて今の80番歌になったって設定でしたか。なるほど、それも面白いですね。何れにせよ西行は出家前もそうでしょうが出家後も頻繁に待賢門院&女房たちを訪れていた。考えようによってはいい気なもんですなあ。

      ・黒髪こそ女の命(貞操の鑑といった意味合いもあるのかも)。髪を切る(切られる)って大変なことだった。逆に今はオールカラー。金髪もモンローの™ではなくなったようで、、、。

       →全く「、、、今朝はものをこそ思へ」であります。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    確かにすごく色っぽい歌ですね。
    黒髪は、斜め横に長くたわやかに流れ、時は月夜か早朝であること、勿論美女ならなおよい、が色っぽさのポイントですかね。松風さん、絵になる歌では?

    そしてこの歌を取り巻く、待賢門院・崇徳院・西行、すごく豪華な顔ぶれで、小町姐が書いてくれた大河ドラマ清盛の世界ですね。

    黒髪といえば、爺が上げてくれた

    黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部 後拾遺集)

    も色っぽい好きな歌でした。思い出します。

    話は変わりますが、詞花和歌集が金葉和歌集からわずか20数年後に編纂されたため、顕著な特徴を出せず、その内容に満足できなかった崇徳院が、本格的なアンソロジーを目指したのが、久安百首と。そして百人一首にも、3首が選ばれていると(目崎徳衛氏)

    77.瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)
    79.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ(顕輔)
    80.長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ(堀河)

    この3首、なかなかの秀逸で、久安百首なかなかやるなといった感想です。

    爺もいくつか挙げてくれましたが、WIKIより、このほかに待賢門院と西行に絡んで詠んだ2首、

     待賢門院かくれさせ給て後六月十日比 法金剛院にまいりたるに
     庭も梢もしけりあひてかすかに人影もせさりけれは
     これに住そめさせ給し事なとたゝ今の心ちして哀つきせぬに
     日くらしの声たえす聞えけれは

     (堀川) 君こふるなけきのしけき山里は たゝ日くらしそともに鳴ける
     — 『玉葉和歌集』 巻第十七 雑歌四

     西行法師をよひ侍けるに まかるへきよしは申なからまうてこて
     月のあかかりけるに門の前をとをるときゝてよみてつかはしける

     (待賢門院堀川)西へ行しるへと思ふ月影の空たのめこそかひなかりけれ
     — 『新古今和歌集』 巻第二十 釈教歌   西行を掛けている

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      11月17日より20日まで、越前ガニを愛でる旅に行ってきましたので、簡単な紀行文を書きます。

      17日、早朝5時に家を出、米原経由、武生へ。目的地は、”越前陶芸村”。日本六古陶の一つである越前焼のふるさとを訪ね、平安から室町期の骨董を観ること(面白かったですが、省略)。紅葉を迎えた広い陶芸広場があり、イサム ノグチや岡本太郎の彫刻もあり、晩秋を堪能、楽しめました。

      そして、武生といえば、越前国の国府があった所。紫式部が越前国主となった父藤原為時と共に下向したのが996年。琵琶湖を舟で渡り深坂峠を越え、敦賀を経て難所の南条山麓を越え、武生に到着。小生は、紫式部に思いを馳せつつ列車でこの近辺を通過して武生へ。紫式部が北陸の地での四季折々の風景に心を動かされ、冬の厳しさと雪が印象に残った越前。残念ながら、今回、白山は雲に隠れ見えず。

      最近読んだ ”散華”ーー紫式部の生涯(杉本苑子)を思い出す旅と成りました。

      詞書
      「年かへりて、『唐人見に行かむ』といひたりける人の、『春は解くる物と、いかで知らせたてまつらん』といひたるに」
       春なれど白嶺の深雪いや積もり解くべき程のいつとなき哉
       

      宣孝が越前の式部のもとへ送ってきた文に対する返し。

      武生には”紫式部公園”がありましたが、時間なくパス。

      金沢 湯湧温泉泊

      18日 午前金沢兼六園と金沢城址へ。紅葉が真っ盛りで、天気も好く、絶景。
      午後 芦原温泉駅へ。芦原温泉といえば、”ちはやふる”の綿谷 新(わたや あらた)が高校でいた場所らしく、駅には”ちはやふる”のポスターがいくつも飾ってありました。
      泊まりは三国温泉で。活き蟹の極味フルコースを食す。うまかったです。

      19日、長浜に移り、半日、北国街道が通っている黒壁スクエアーや秀吉の長浜城など、のんびり散策。長浜泊。ボージョレと近江牛のステーキに舌鼓。

      20日朝8時から、”湖東三山”へ。紅葉で有名な”西明寺” ”金剛輪寺” ”百済寺” いずれも静かな山里にある天台宗の古刹。でも紅葉が見ごろで人が沢山でかけていましたが、それでも京都ほどは混んでおらず、これまで観た数々の紅葉でもベスト3入りするほどの見事な盛りの山寺の紅葉を観ることが出来、感激、写真をとりまくりました。

      また、今回から初めて、思うところもあり、御朱印帖を始めることにし、この三山で御朱印を頂きました。

      後は、興奮ぎみの疲れを感じつつ東京に戻ってきました。

      • 百々爺 のコメント:

        奥さまと二人して紅葉と文化歴史を訪ねる旅。それに越前ガニと近江牛のステーキですか。いや、羨ましい。今まで万事に頑張って来たご褒美でしょう。

        なかなかいいコースですね。歴史もいっぱいだし。
        そうか、ちはやふるの「新」は福井って言ってましたが芦原温泉でしたか。あのロケも芦原温泉だったのですかね。

        おっ、御朱印帖を始められましたか。思い出帖でしょうか。いっぱいになったら見せて下さいよ。

    • 百々爺 のコメント:

      ・待賢門院(&堀河)・崇徳院・西行、豪華な顔ぶれですよね。
       何と言っても崇徳院ですね。この人、生き様においてすごい迫力がある。「瀬を早み、、」の恋歌は激烈。これに呼応するのが80番歌「長からむ」だと思います。
       
       →明治になって御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建。万世一系を元とする皇室&明治新政府としては何をおいても崇徳院の復権が大事だったのでしょう。

      ・そうですか、崇徳院は顕輔撰の詞花和歌集に満足しなかったのですか。気骨のある話ですねぇ。久安百首からの3首、77番・79番・80番は秀作です。定家もよくぞ撰んでくれたものです。

       →77番と80番が強烈な恋の歌。そして79番が清澄な秋の叙景歌というのもいいですね。

  3. 源智平朝臣 のコメント:

    待賢門院堀河については、百々爺の解説にあるように、父親や姉妹の名前、簡単な経歴、そして数多くの歌が残っているものの、彼女の人物像とか恋愛歴ついての記録はあまり残っていない。そうなると、彼女が残した歌から想像の翼を広げて推測するしかないので、智平が乏しい想像力を働かせてみるに、次の2点くらいは言えそうである。

    第1に、待賢門院堀河は何でも歌に詠める生まれながらの天才歌人であった。これは妹の兵衛とのお遊びのような姉妹連歌、幼い子供を残した夫が死んだ時に詠んだ歌、その子を父の源顕仲に預けた時に詠んだ歌、待賢門院の追悼歌、西行との贈答歌などを見れば、容易に想像できる彼女の人物像である。そこで頭に浮かんだのが、童謡「ことりのうた」。「堀河とっても歌が好き、何があっても歌作る」といった具合に、毎日、言いたいことや思ったことを歌に詠む「歌のお姉さん&小母さん」でだったのではなかろうか。

    第2に、恋愛歴はどうか。どうも西行との仲が怪しいとのネット情報があった。その情報によれば、「西行は待賢門院と禁断の恋に陥っていたという尤もらしい噂があるものの、両者が誕生した年(1118年と1101年)から計算すると待賢門院は西行より17歳も年上であり、恋愛の相手として考えるには無理がある。他方で、西行は待賢門院堀河と歌仲間であり、幾つも歌のやり取りをしている。この歌好きの二人が恋仲であったと考える方が自然なのではないか」と言うものである。

    確かに待賢門院堀河と西行は、百々爺が取り上げているもの以外に、次のようなものも含めて、数多くの贈答歌も残しているようである。
    西へ行くしるべと思う月影の空だのめこそかひなかりけれ(堀河)
    立ちいらで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけん(西行)

    潮なれし苫屋も荒れてうき浪に寄る方もなき海人と知らずや(西行)
    苫の屋に浪たち寄らぬ気色にてあまり住み憂きほどは見えにき(堀河)

    憂き世にも月に心はなぐさむをつひにいかなる闇にまどわん(堀河)
    夜もすがら月を見がほにもてなして心の闇に迷うころかな(西行)

    ロマンティストの智平は当初、堀河・西行恋仲説に傾いていたが、百々爺が堀河の誕生年を1078年頃と推測しているのを見て、堀河が西行より約40歳も年上であったと知り、残念ながらネット情報もガセネタだったかと思い直している。

    最後に80番歌がぞくっとするようなエロティックな歌で、百人一首の恋の歌の中でも、最も官能的で印象の強いものという見方には智平も諸手を挙げて賛成したい。

    • 百々爺 のコメント:

      生没年未詳、伝不詳とあらば想像の翼しかない。その通りでしょう。
       →挙げていただいた2点はネット検索に出て来るのでやがては定説になっていくかも、、。まあそんなものでしょう。

      ・智平朝臣から童謡「ことりのうた」が出てくるとは「びっくり、ぽん」です。確かに何でも歌に詠むというのが習慣づけられていたのでしょうね。待賢門院の歌の添削やら場合によっては代作なんかもしていたのかも。
       
      ・待賢門院璋子が1101年生まれで西行が1118年生まれなのは確かですが、堀河は何年なんでしょうね。私が1078年生まれと推測したのは当てずっぽです。

       父神祇伯顕仲は1058年生まれ
       妹(?)上西門院兵衛は1183年くらいまで存命であった。

       →これから想像の翼を広げると堀河が1078年生まれというのは父顕仲が20才の時だからやや早すぎるか。
       →でも1101年生まれの待賢門院より年下のこともなかろう。

       まあ何れにせよ西行よりは相当年上だったことは間違いないでしょう。
       でもこの時代色恋に年の差は関係なかったようでもありますからねぇ。

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

     多寡秀には、亡くなった両親と瓜二つの叔父・叔母夫婦が存命します。叔父・叔母共にそれぞれの実の弟・妹であるからです。時にあの世から帰ったのではないかという錯覚に陥ります。先日、伊勢志摩の相差へ同行いたしました。村社の神明神社は地元の方から「石神さん」と親しまれています。女性の願いを一つだけ聞き届けてくれるありがたい神様です。霊験あらたかなること必定、御婦人方は是非お試しあれ。いつの世もこの国は女性上位の国であります。その女性の心を詠んだ極めつけの歌が、第80番歌。

     長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

     西行との関わりが噂されたやんごとない女性に仕えた女房に待賢門院堀川と主人の名を冠して呼ばれる女房がいて、この人はすこぶるつきの歌上手、西行とも親しかった。その歌がこの第80番。哲学的というより、まさにこの時代の女性たちの心理を歌って情緒的である。男と別れた朝の心情だろうか、それともつね日ごろの気持ちをフィクションを交えて創っているのだろうか。「あなたの愛は長く続くのでしょうか。お心を知ることができません。ただ私の長い黒髪が乱れて、今朝はことさらあれこれと思案をめぐらしてしまいます」くらいの意味である。髪の乱れが心の乱れに呼応し、長い髪が男の思いが長く続くことへの願いを訴えて趣が深い。(阿刀田高)

     一方吉海直人氏は以下の様に書いておられます。
    「ながからむ」歌は、非常に官能的(エロチック)な歌として解釈できる。そもそも髪の乱れは、決して日常的な寝癖などによるものではなく、男との共寝をイメージさせるものだからである。この歌はまさに男の贈歌(後朝)に対する答歌として詠まれたことになる。そういった背景を幻想するからこそ、乱れた黒髪は妖艶なのであり、その乱れには心の不安・恋の苦悩が重ねられる(贈歌の不在が一層不安を増大させる)。

     80番歌はこの「黒髪」の表現の美しさで、百人一首の中でも際だっています。黒髪の乱れ、という女性の愛の表現は、後の世の与謝野晶子の歌「黒髪の 千すじの髪の みだれ髪 かつおもひみだれ おもひみだるる」などでとみに有名になっています。日本女性の美しさの象徴として、黒髪が扱われているということでしょう。百々爺指摘のように、「これぞ究極の後朝の歌」と言っていいのではないでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・えっ、御兄弟で御姉妹と結婚されたのですか。そういうこともあったのですね。「いつもこの国は女性上位の国」、、、これこそ平和でいいですよ。
      「伊勢志摩の相差」ですか。FBで写真見せてもらいました。叔父母さん孝行できてよかったですね。

      ・「黒髪の乱れ」→「みだれ髪」
       これはもう激しいベッドシーンをイメージするものでしかないでしょう。日常的な寝癖だなんて言い訳しても小学生にも通用しないでしょう。

        与謝野晶子の歌いいですねぇ。情熱歌人の面目躍如たるところと思います。
        黒髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

  5. 百合局 のコメント:

    みなさんが書いていらっしゃるとおり80番歌は、なまなましさを感じさせる歌ですよね。久安百首のうちの一首で題詠ですから、男からの後朝の歌に返した形をとってはいても、実際の後朝の贈答歌ではないわけで、フィクションですよね。それでこんな歌が詠めるとは、すごい才能ですよね。

    待賢門院璋子のサロンはかなり開放的な華麗さをもっていて世間から注目されていただろうし、政界にも力をもっていたと思われるから、サロンに集う貴公子や女房たちの色恋は日常的に目にし耳にしていて、自分が恋の当事者でなくともこの名歌が詠めたのでしょうか?

    黒髪を詠った歌で古いものを一首。

    在りつつも君をば待たむうちなびくわが黒髪に霜の置くまでに (磐姫皇后)

    馬場あき子氏は「堀河によってうたわれた黒髪には~しんねりと重たい内攻があり、嘆きのかげりがある。~ どことなく頼りどころの乏しい、ものはかなげな気配を宿し、千々にくだける内面的な葛藤を艶に伝えている。」と書いています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・題詠がフィクションであるのは間違いないでしょうが、ではそれ以外、右近や和泉式部の恋歌は全て詞書とおり実際の恋の場面で詠まれたかどうか、、、となるとどうなんでしょう。和歌が恋心を相手に伝える手段であったことは確かでしょうが、それを作品として発表する・私家集に載せる、、となったその時点から和歌は恋する相手への私信ではなく一つの文藝作品になる。作品として一人立ちしてしまう。ということでしょうか。

       和歌も王朝後期ともなってくると題詠・フィクションが主体となってくる。80番「長からむ」もフィクションでしょうね。久安百首と言う当代名歌撰に入ることを意識した手練手管の成果だと思います。

      ・磐姫皇后ですか。古事記・万葉集の世界ですね。
       でもこの歌、殆ど現代語として通じますねぇ。びっくりします。「黒髪は女の命」は何も王朝女性に始まったことじゃない。古代日本から女性は黒髪を大事にし、男性はそんな女性の黒髪を我が物にすることに情熱を傾けてきた。
       →この伝統、守りたいものですねぇ。 

    • 在六少将 のコメント:

      磐姫皇后(葛城氏系)といえば仁徳の妻ですが、夫の女好きには随分泣かされたようです。
      仁徳は仁徳で、妻の嫉妬深さには辟易していたこともあって、あるとき、妻の紀州行きの留守を狙って、八田皇女(和珥氏系)を迎えます。怒った磐の媛は奈良、山城に引き籠もってとうとう夫の元には帰りませんでした。
      墓も堺と奈良・佐紀と離れてますからねえ。
      皇后の嫉妬深さが伝えられた話ですが、背景には応神王朝の葛城氏と和珥氏の主導権をめぐる激しい争いがあって脚色されている部分がありそうです。雄略によって葛城氏が滅ぼされましたしね、葛城氏にまつわる話は圧殺される傾向があります。

      この黒髪の歌は、八田とのことがある前の、まだ夫への純粋な思いが溢れていたときに詠まれたものとされています。万葉に、

      皇后の天皇を思しのばしてよみませる御歌四首
      君が行き日長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(万2-85)
      かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを(万2-86)
      ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(万2-87)
      秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(万2-88)

      とあるもののうちの一つですが、心優しい乙女もときがたてばという怖い話でしょうか。

      ちなみに、磐の媛の嫉妬深さから生まれた悲劇があります。詳しくは、速総別王(はやふさわけのおう)と女鳥王(めとりのおう)
      音羽山を見るたびにこのエピソードを思い出します。

      • 百々爺 のコメント:

        ありがとうございます。
        王朝女性のシンボル黒髪から古事記・万葉集の世界へと話が広がってきましたね。古事記、パラパラっとめくってみましたがさすが仁徳帝はけっこう詳しく語られているのですね。

        夫の女好き、妻の嫉妬深さ。太古の昔から変わらないのですねぇ。磐姫皇后が詠んだ夫を想う4首、ぐっときます。でも仁徳帝も「黒髪に霜の置くまでに」とまで謂われるとちょっと尻込みしたのかもしれません。

  6. 枇杷の実 のコメント:

     長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
    とわに貴方を愛すると、夕べあなたはそう言った。つのる想いがようやくかない、あやかな夢に浸りたいのにどこかに冷静な自分がいるの。浮気なウワサ耳にした。永遠なんて誓えるかしら?夜闇の熱い想い出が、心に重く絡みつき、うねる長い黒髪が、けだるい肢体を搦めとる。(ネット記事)

    濃密な情緒を込めた官能的な歌で、定家が百人一首にいれたのは77番歌との兼合いか。久安百首の題詠歌なので堀河のリアル恋愛体験ではない。
    崇徳院の不本意な譲位に殉じた待賢門院とともに出家、髪を下して尼となった堀河が様々な人生経験を経て小説を書くようにフィクションとして詠んだもので真に迫るものがある。

    百人秀歌では「久安百首」の作者たる崇徳院と対になっている。この二人は決して無縁ではなかった。この歌を贈答歌と見ると、崇徳院は堀河に向かって「瀬を早み」と歌い、堀河は崇徳院に向かって「ながからむ」と不安げに答えていると再解釈できる。この歌の「けさ」はまさに一回的な特別の「けさ」で、崇徳院の退位、
    堀河の出家、崇徳院の流罪と三度の可能性のある今朝に昇華される。(吉海直人)

     あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
    何故かこの歌を思い出す。夜間、隔てて寝る習性の山鳥の雌雄を模した人麻呂の一人寝は官能とは対極にあります。山鳥(雄)のしだり尾90cmの長さがあるそうだが、平安女御の黒髪はそれに倍するものであったという。

    • 百々爺 のコメント:

      ・五七五七七、三十一文字で男女の恋愛模様を切り取る。恋歌の真価発揮所でしょうが、肝心の濡れ場では露骨な表現は使えない。「黒髪の乱れ」官能表現としてはこれが平安王朝「映倫」のマクシマムではないでしょうか。
      (あの官能小説たる源氏物語にも「黒髪の乱れ」以上の官能表現は出てこないと思います)

       →後は読者の想像に任せる。「ネット記事」もそんな想像の一つ。それでいいのだと思います。

      ・崇徳院、待賢門院璋子、待賢門院堀河、西行。
       院政時代、時代の流れに乗りきれず挫折したり自滅したり、、、すっきりしない人生を生きたグループと言えるのでしょうか。

  7. 小町姐 のコメント:

    連載の「王朝の歌人たち」小林一彦の59番目はまさに80番歌 待賢門院堀川でした。
    ここに要約を記します。
    萩原朔太郎はこの歌を「情痴の思ひに耽って居る寝姿を見る様」と評した。

    久安百首」の頃、堀川は出家の身で寝乱れる黒髪はもちろん男女の情愛とも無縁の尼僧であった。
    けれども人には年齢を重ねてこそ紡ぎ出せる歌がある。
    翻ってそれは受けての側にも共通するであろう。
    老いるにつれて見えてくる世界もあるのだ。
    人生の深まりと共に感受できる滋味、古典の世界の何と豊かで肥沃な事か・・・
    味わい深い黒髪の歌と締めておられます。

    枇杷の実さんの以下のコメントと共通するものがありますね。
    崇徳院の不本意な譲位に殉じた待賢門院とともに出家、髪を下して尼となった堀河が様々な人生経験を経て小説を書くようにフィクションとして詠んだもので真に迫るものがある

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。中日新聞いい連載してますねぇ。
       →球団の選手補強もよろしく頼みたいものですが、、、。

      「情痴の思ひに耽って居る寝姿を見る様」、、ですか。言い得て妙ですね。

      白河院皇女令子内親王に仕え、後、待賢門院璋子に長く女房として務めた堀河。美貌の女あるじと才色兼備の女房たちのサロンには貴公子たちが群がりその色模様たるや百花繚乱の華やかさだったことでしょう。男と女の色模様、堀河自身も同僚もまた女あるじの色模様もみんな見聞きしてきた。そういう堀河が出家後過去を振り返ってしみじみ詠んだ歌が80番歌。単に昨夜の情痴を反芻する後朝の歌ではない、、。

       →なるほど。時系列的に見るとそういうことなんでしょう。まさにフィクション、文藝作品ですね。

       →小野小町の9番歌とも相通じるかも。
         花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に

  8. 小町姐 のコメント:

    【余談34】  下鴨神社「糺の森」に長明を偲ぶ
    今年2016年は「方丈記」を残した鴨長明(1155~1216)没後800年にあたる。
    昨年の秋から「鴨長明を読む」の講座を受講して1年余になるのを記念し紅葉真っ盛りの下鴨神社 糺の森を尋ねた。

    宇治川のもみじ船から対岸の紅葉を愛でる、船の名前は宇治十帖の名前が冠されている。
    ちなみに乗船したのは「あげまき」であった。
    下鴨神社、糺の森を散策、そして将軍塚、清龍殿大舞台から秋色の京都市内を一望するはずであった。
    私にとっては懐かしいコースである。二年前の源氏物語を終えての旅を思い出す。
    清龍殿は清水の舞台の5倍近い大舞台、生憎の雨で京都市内は墨絵の世界であった。
    京町家、白河庵のおかみが薦めてくれたが行けなかった所である。
    ここの枯山水の庭は絶景であった。
    折しも紅葉の真っ盛り、雨に濡れたもみじがライトアップされ光っていた。

    世界遺産、下鴨神社に広がる縄文時代からの太古の森「糺の森」は素晴らしい。
    本当に「森」という感じで献木も多く木の種類が豊富で多彩な色を見せてくれた。
    森の脇を瀬見の小川が流れている
    河合社には長明の方丈の庵が復元されていて4畳半くらいの簡素な建物であった。
    鴨長明は大神社の御曹司に生まれながらなぜ隠遁者に?
    7歳にして従五位下と順調な出世、18歳で最大の庇護者父を喪う。
    安元の大火、治承の辻風、養和の飢饉、元暦の大地震など次々と災厄が起きる。
    30歳で川のほとりに独居生活。
    30代の頃、熊野伊勢方面を旅し「伊勢記」を著わしているが散佚している。
    47歳の時、後鳥羽院の抜擢で俊成(83)良経(91)慈円(95)定家(97)家隆(98)等と共に新古今和歌集、和歌所の寄人に召され撰者にも加えられている。
    49歳の時、俊成九十歳の雅宴に出詠している。
    長明の精勤ぶりに後鳥羽院が下鴨神社の摂社、河合社の禰宜に推薦するも同族の反対で立ち消え、なおも後鳥羽院が別の役職を用意するがそれさえ辞退し寄人の職を投げ出し宮中から失踪。
    出家し大原に隠遁その後、日野の山中に「方丈の庵」を結んだのが54歳の頃。(この庵を河合社に復元)
    定家からやっかみを受けるほど後鳥羽院からは厚遇されたという、これほどまでに後鳥羽から信頼されていたにも関わらず一体長明に何が起きたのか?
    長明が「百人一首」に入首しなかったのは和歌の優劣は私にはわからないが定家に嫌われていたことも一つの原因ではないかと思う。
    57歳で将軍実朝と面談するも出世や職には結びつかず歌論書(無明抄)や仏教説話集「発心集」を著わす。
    強い個性と変人ぶりがぶつかるのは当然の成り行きであるが後鳥羽院、長明、定家、家隆等の性格、人間関係が見えてきて面白い。
    大火や竜巻、地震など克明に描写し、激動の世に波乱万丈の人生を送った長明には不思議な才能があった。
    几帳面で方丈記には庵の間取りが克明に記されている。
    今で言う都市計画の才能があったのではないか?
    今回その庵を見るのも目的の一つであった。
    それを裏付けるのが清盛の福原遷都で長明は若い頃実際に福原を訪れている。
    62歳没す。そして方丈記の最後の言葉。
    只、かたはらに舌根をやとひて、不詳阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
    時に建暦二年弥生のつごもりごろ桑門の蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

    この自問自答の真意はどう解釈すればいいのか?
    18歳でみなし子になったとは言え18歳と言えばいい大人である。
    順調な出世の道を選ぶこともできたであろうに何故隠遁の道を選んだのか?
    やはり鴨社への執着が強かったのであろうか?
    一つには秘曲尽くし事件が原因とも言われている
    単純な私は当初、長明は複雑でややこしい性格、かなりの偏屈物ではないかとさえ勘ぐった。
    しかし一年以上も長明さんとお付き合いし、情も湧きその苦悩にも思いが至り理解できる部分が少しずつ見えてくる。
    特に発心集第五の十三で「貧男、差図を好む事」の箇所を読むとかなり長明自身の思いが投影されていて興味深い。
    その他の説話にも彼の綺語観、数奇観を著わしていて興味を誘う。
    これらが方丈の庵に繋がっているとも言える。
    晩年飛鳥井雅経(94番)と共に東下り、実朝と面談したのは一体どんな目的があったのか。
    鎌倉に下ったのは実朝に和歌を指導したかったのが本音ではないかと講師は推量する。
    隠遁してもなお出世に未練を残したのだろうか?
    でも実朝には若いころかられっきとした定家という師がすでにいた。
    深く知れば知るほど不思議さと長明の複雑な性格が思われて興味深いのである。
    長明は新古今集に十首の歌を採られたことを「過分の面目」とした。
       石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ
    無明抄に「この哥の入りて侍るが、生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」とあり、特にこの歌の入集を喜んだ
    新古今集の作者名注記によれば長明の歌10首中6首が飛鳥井雅経の撰入という。
    飛鳥井雅経は長明の何処を買っていたのであろうか・・・
       あれば厭ふそむけば慕ふ数ならぬ身と心とのなかぞゆかしき(玉葉2518)
    この歌が長明の述懐として私の琴線にふれる。
    下鴨神社を前に一体長明さんとはどんな人だったのか?あれこれ思いを馳せた一日であった
    晩秋の下鴨、糺の森は静謐で風情があり味わい深いものがあった。

    • 百々爺 のコメント:

      返信が遅れすみません。
      カルチャーセンターの修学旅行でしょうか。鴨長明を1年もかけて読むってすごい講座ですね。それだけ仲間もおられて、知的レベルの高さに敬服します。

      ・宇治川に「もみじ船」なんて出てるんですか。いいですねぇ。匂宮が紅葉見物にかこつけて姫たちに逢うべく宇治に来たがお伴が多すぎて川を渡れなかった、、、なんてありましたね。宇治川で船に乗る、さぞ浮舟になった心地がしたのじゃないでしょうか。

      ・将軍塚、清龍殿大舞台。新しくできた名所のようですね。知りませんでした。ちょっとアクセスが悪そうですが、晴れた日の景色は格別なんでしょうね。

      ・下鴨神社、糺の森、方丈庵。先年源氏物語講読会完読記念旅行で行きました。髭白大将が嬉しそうに色々薀蓄を傾けていたことを思い出します。

       葵祭りでの車争い、加茂川で禊をして伊勢斎宮への旅に出る六条御息所母娘など名場面が思い浮かびます。

      ・鴨長明の波乱万丈な人生、詳しく書いていただきありがとうございます。
       長明については勉強不足でよく分かりませんが、大神社の御曹司なのになぜその職が継げなかったのでしょうね。父が亡くなったのが18才の時なら十分継げたと思うんですけどね。

       いったん官職から外れると復帰は難しかったのでしょうね。1155年生まれというと年代的に長明は95慈円(1155生)、98家隆(1158生)、97定家(1162生)、91良経(1169生)、94雅経(1170生)、96公経(1171生)と同世代。

       →この時代、正に源平混乱で従前のように旧来の貴族が官職地位を踏襲していくのが難しかったのでしょうか。
       →平家が大挙して役職を奪ってしまうと今までのローテーションが崩れますもんね。

      石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ

       いいですね。下鴨神社を流れる瀬見の小川。これ百人一首に入れて欲しかったですね。98家隆が詠んだ上賀茂神社の楢の小川と対にして。

       風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける

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