81番 源平争乱の世を生きた徳大寺実定 ほととぎす

81番に入りました。後、五分の一、20首です。
後徳大寺実定、時代はぐっと下って平家台頭の時代に生きた藤原貴族です。順番的には80番台後半が定位置だと思うのですが何故か早めに登場してます。平氏の台頭~源平の争乱をバックに実定について考えていきましょう。

【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
81.ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩:   待ち明かしたほととぎす
      一声鳴いて あとはほのか
      空をさぐれば
      あの声の あれは残夢か
      ただひとつ 有明の月ほのか

作者:後徳大寺左大臣(藤原実定)1139-1191 53才 俊成の甥 定家の従兄弟
出典:千載集 夏161
詞書:「暁に郭公を聞くといへる心をよみ侍りける」

①藤原実定 1139-1191 53才
 25藤原定方、51藤原実方、そして81藤原実定。。。ヤヤコシイ。
・後徳大寺の左大臣(従二位)と呼ばれる。
 閑院流。始祖は兼家の弟公季。右大臣として甥道長を支える。
 時代が下って閑院流は天皇の外戚を占める主要な家流となっていく。
  白河帝生母茂子は3代公成の娘
  鳥羽帝生母苡子は4代実季の娘
  崇徳帝・後白河帝生母璋子は5代公実の娘

・実定の祖父徳大寺実能は璋子の兄(璋子は実定の大叔母)
 実定の父は公能(二位右大臣、多芸多才、勅撰歌人(32首)、西行らとも交遊)
 実定の母は藤原俊忠の娘(俊成の妹)、従って実定と定家とは従兄弟(定家が23才年下)
 →徳大寺家(実能が始祖)は当時歌人の有力パトロンであった。

 さらに、
 実定の同母姉忻子は後白河帝の中宮に。
 同母妹多子は近衛&二条両帝の皇后となり二代の后と呼ばれる。
 →平家なんぞが出て来なければ徳大寺家、実定は政権の中枢に行けてたのではないか。

・実定の一生を辿るには平氏の台頭~源平の争乱の年表が必要
 1118 平清盛・西行誕生 
 1139 後徳大寺実定誕生
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1160 清盛 参議三位
 1167 清盛 従一位太政大臣(平氏政権成立)
    (実定は二位まで上がったが1165-1177失職 作歌で身を慰める)
    (1177実定、復職、大納言左近衛大将に)
    (その後実定は源平の間を泳ぐように右大臣左大臣などを歴任)
 1178 清盛娘徳子(高倉帝中宮)安徳帝を生む。
    →平家絶頂へ。清盛が「この世をばわが世とぞ」思った時代。
 1180 福原遷都 源頼政、以仁王を擁し挙兵、源頼朝挙兵
    →のろしが上がり始める。
 1181 清盛熱病で死去
 1183 木曾義仲、京制圧
 1184 源義経、京制圧 
 1185 義経、壇の浦で平氏を滅亡させる
 1190 義経追討、頼朝上洛 1191実定死去@53才
 1192 後白河院崩御、頼朝鎌倉幕府を開く

 →保元の乱以降武士の世になっていったことが如実に分かる。
 →平氏の台頭に誇り高い藤原公家はどう身を処したのか。
 →あっちへ行ったりこっちに戻ったり。バランス感覚が必要。でも官位役職は離さない。

②歌人としての後徳大寺実定
・詩歌・管弦に秀ず。教養深き文化人。蔵書家としても名高い。
 千載集以下勅撰集に78首。私家集「林下集」多くの歌合、歌会に参加
 →作歌活動は専ら1167-1177の浪人時代だった。その後は力が入っていない。

・平家物語に何度も登場する。
 1 巻二 徳大寺の沙汰 けっこう長い。
   実定は平宗盛に右大将の官職を越えられて籠居、平氏に抵抗するのが能でないと悟った実定は平氏(清盛)に迎合すべく厳島神社に参詣。それを知った清盛により左大将に任じられる。
   →虚構かもしれないがまあ、長いものには巻かれろと考えたのだろう。

 2 巻五 月見
   福原に都が移った中秋、実定は京に残った妹多子(二代の后)を慰める。
   実定が訪ねた時大宮(多子)は月を愛で琵琶を弾いている。
   宇治十帖(橋姫)が引用されている。

    源氏の宇治の巻には、うばそくの宮の御娘、秋のなごりを惜しみ、琵琶そしらべて夜もすがら、心をすまし給ひしに、在明の月いでけるを、猶たへずやおぼしけん、撥にてまねき給ひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。

 3 灌頂の巻 大原御幸~六道之沙汰~女院死去
   後白河院が大原に建礼門院徳子(清盛の娘、高倉帝中宮、安徳帝生母)を訪ねる。
   これに徳大寺実定も随行。白河院と建礼門院との昔話は涙を誘う。
   最後に実定と徳子は歌を交し合う。

   実定 いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
   徳子 いざさらばなみだくらべん時鳥われもうき世にねをのみぞ鳴く
      →何と「ほととぎす」である。

・実定の歌
  晩霞といふことをよめる
   なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波(新古今集)
   →視覚的映像性の富んだ感覚的・印象的な叙景歌にすぐれていた(有吉)
   →実定さん、「ながむれば」がお好きだったようである。

③81番歌 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
・歌意は平明。ありきたり、陳腐にも思えるが結構評価は高い。上は聴覚、下は視覚。
 ホトトギスを詠んだ歌の中で最高(宗祇)

・ホトトギス、鳥の中で一番。万葉集に156回。
  春を告げる鳥=ウグイス(ウグイスの初音)
  夏を告げる鳥=ホトトギス(ホトトギスの初音)
  秋を告げる鳥、、、モズだと思うのだがどうだろう。

・初夏、ほととぎすの初鳴きを夜を徹して聞く。これがもてはやされた。
 枕草子第39段 鳥は(講談社文庫版)
  郭公は、なほさらに言ふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞こえたるに、卯の花・花橘などに宿りをしてはたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨の短き夜に寝覚めをして、いかで人よりさきに聞かんと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。
 
 →何とも風流と言おうかマニアックと言おうか。
 →ただ一声、一瞬の勝負、うたた寝もダメ、酔払っててもダメ、いちゃついててもダメ。
 →レコーダーもないしもめることもあったのかも。
  「おっ、鳴いた、聞いたろう?」「いや聞いてない」「えっ、ウソだろう!」

・派生歌 類想歌 
  郭公なくひと声のしののめに月のゆくへもあかぬ空かな(定家)  
  有明の月だにあれやほととぎすただひと声に明くるしののめ(藤原頼通
後拾遺集)

・「涙を抱いた渡り鳥」水前寺清子 作詞 星野哲郎
  ひと声鳴いては 旅から旅へ くろうみやまの ほととぎす
  今日は淡路か 明日は佐渡か 遠い都の 恋しさに 
  濡らすたもとの はずかしさ いいさ 涙を抱いた渡り鳥

④源氏物語との関連
・ホトトギスと花橘は必ずペアーで登場する初夏の風物詩
 花橘の香りは昔の人を思い出させる。ホトトギスは冥土と現世を往来する

・幻10 五月雨の頃、夕霧と最愛の故人紫の上を偲ぶ
 源氏 なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほととぎす
 夕霧 ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさかりと
 
・花散里3 須磨に行く前に花散里(源氏が夕霧や玉鬘の母と恃んだ家庭的な女君)を訪ねる
 源氏 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
 →花散里、六条院夏の町に迎えられ共寝はしないが癒し系の女君として源氏が頼りにした女君でした。 

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81番 源平争乱の世を生きた徳大寺実定 ほととぎす への13件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

       ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
    私にとって「ほととぎす」は強い拘りと共に幻の鳥。
    百々爺さん曰く、百人一首に鳥は意外と少ない。鶯も入っていない。
    (3山鳥、6かささぎ、62にわとり、78千鳥、81ほととぎす)のみと。
    でも万葉集には意外と多いのですね。
    81番はそんな数少ないほととぎすです。
    和歌、歌人を越え今一番私の興味の対象であり和歌にも詠まれた「ほととぎす」に触れたい。
    セピア色になった何十年も前の読者投稿欄「くらしの作文」に掲載された新聞記事の切り抜きで「百人一首」と題された当時76歳のお婆様が亡き孫娘を偲んでの作文です。
    小学生の孫娘に百人一首を教えた時の思い出を語り一枚も取れずがっかりする孫に一枚札の81番歌を教えた。
    それ以来孫はこの歌が得意札となりその後一枚、二枚と取り札を増やし作者や和歌にも関心を持つようになったが高校生の頃病を得、闘病むなしく帰らぬ人となる。
    棚の奥にしまわれた百人一首を久しぶりに取り出し忘れられないこの一枚に孫を偲ぶというものです。そして感無量のこの札、「たたありあけのつきそのこれる」と締めている。
    このブログが始まった時私も久しぶりにかるたを取りだしてみてこの切り抜きを見つけた次第、実は私って切り抜き魔なんです。(切り裂き魔じゃありませんぞ)
    そんなこんなの事情で私も孫を持つ身となり見知らぬお婆様の思いが切々と伝わりこの札は忘れられない一枚になっています。

    そしてもう一つは若くして病魔に倒れた園芸家の柳生真吾さんの最期の言葉「「親父、ホトトギス鳴いた?」と父上(柳生博)は「まだだよ」と。切ない父子の会話に涙した。
    真吾さんとは八ヶ岳倶楽部で出会った。やさしいイメージで穏やかな人柄
    亡くなった日にホトトギスが鳴いたそうである。その若い死はあまりにも悲しい。
    どちらも悲しい思い出にまつわるホトトギス。
    白州正子女史によればホトトギスは死んだ人の魂を招(よ)ぶ鳥ともされているらしい。
    そんな訳で私にとっては和歌の意味も良し悪しも超越して無条件に好きな歌、そして忘れ難く印象に残る歌なのである。
    今、味わってみるとなかなか良い歌に思えるのですがいかがでしょうか?

    作者は後徳大寺左大臣(藤原実定)なる人、全く聞いたことがないと思っていたが調べて見れば百々爺さんも触れており後白河院の大原御幸に随行したとありびっくり。
    改めて平家物語を開いてみるとありました。
    一生懸命勉強したつもりでも忘れていることが多くてショック!!
    その時の女院(健礼門院)の歌
       いざさらば涙くらべむほととぎすわれも憂き世に音をのみぞなく
    しのびの御幸なりけれ共、供奉の人々徳大寺・花山院・土御門以下公卿六人、殿上人八人、北面少々侍けり。
    う~ん、いろんな所で繋がっていて興味深い。
    ほととぎす、まだまだいっぱいありそうですね。
    清少納言もホトトギスが大好きだったと言うし。
      ほととぎすまだうちとけぬ忍び音は来ぬ人を待つわれのみぞ聞く(新古今集)白河院
    そして本歌
      山がつと人はいへどもほととぎすまづ初声はわれのみぞ聞く(拾遺集)坂上是則
    何故古来ホトトギスがこうも歌に詠まれたのでしょうね。
    そうそう忘れてはなりません、源氏物語にもありました。
       橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
    良暹法師もほととぎすを詠んでいる。
    山里のかひもあるかなほととぎす今年も待たで初音ききつる(袋草紙)
    「夏は来ぬ」そして水前寺清子の、さわりの「ひと声鳴いては」も強烈ですね。 

    ちなみに植物のホトトギス、これはあまり好きな花ではありませんが花ことばは「永遠の若さ」 「秘めた意思」とあり夏から晩秋まで花持ちが長いです。
    紫色のまだら模様がホトトギスに似ているそうです。
    濃い紫色の斑点が入った白く小さな花で園芸種よりも山野草の趣があります。
    庭のほととぎす、まだ生き残っていて生命力の強い花です。

    漱石が「吾輩は猫である」「 坊っちゃん」を発表した俳句雑誌「ホトトギス」も忘れてはならない。
    ことほど左様に私のホトトギスに対する思い入れは「啼いて血をはく不如帰」(昔は結核の象徴だったにも関わらず)強いのである。
    今日は歌の鑑賞もそっちのけ、作者にも心あらず、ほととぎすオンリーになってしまいました。
    百々爺さんの解説で徳大寺家のこと勉強させていただきました。

    • 百々爺 のコメント:

      ・81番歌にまつわるお祖母さんとお孫さんの話、感動的ですね。でもそんな話を切り抜いておいて思い出す小町姐さんもすごいですよ。確かに一文字札だし先ず確保する人多いんでしょうね。

      ・この81番歌は人物撰(定家は後徳大寺実定を百人一首歌人として載せたかった)だと思いますが、選んだ歌というのが「ほととぎす」というのが絶妙ですね。「ほととぎす」だけでこれだけ話題が沸騰するのですから。

      ・植物のホトトギスもいいですね。分かりやすいし一発で覚えます。公園や庭先にけっこうありますもんね。そう言えば先日筑波山でもみかけました。

      ・序でに誰でも知っているホトトギス
        鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 信長
        鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス 秀吉
        鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 家康

       真偽のほどはともかく(当然後世の作だろうが)よくできてると思います。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    百々爺、小町姐さんの共に格調高い解説とコメントを読んだ後、続けて書くのは気が引けますが、いつもどおり書かせていただきます。

    貴族から武士へと移る激動の時代に生きた人物、時代に教えられながら、和歌など文学にも支えられ、それなりにうまく生きた人生、爺の解説を読めば、まさにそうだと納得です。

    ほととぎす

    主に鶯の巣に卵を産み、雛を育ててもらうという”托卵”をすると(百人一首 今昔散歩)

    童謡
    卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ
      1896年 作曲 小山作之助  作詞はかの 佐々木信綱

    目には青葉山ほととぎす初鰹
      山口素栄 作  芭蕉の弟子ではなく友人と
      ”目には”が正しいと、小生は”目に”と覚えていたが
      季節感満載の歌ですが、こんなに季語を三つも詠って、俳句で正しいのでしょう  か。

    千人万首から一つ

    文治六年女御入内屏風に (二首)

    いつもきく麓の里とおもへども昨日にかはる山おろしの風(新古288)

    【語釈】◇文治六年女御入内屏風 九条兼実のむすめ任子が後鳥羽天皇に入内した時の祝いの屏風。◇昨日にかはる 暦の上で夏であった昨日と、秋になった今日とでは、違って聞える。

    まとまりがありませんが、これにて

    • 百々爺 のコメント:

      ・そう、カッコー・ホトトギスと言えば托卵でしたね。托卵率はどんなものなんでしょう。まさか百パーセント他人(他鳥)まかせで自分で子育てするホトトギスはいないということでもないでしょうに。何故かずるい感じがしますね。育てさせられるのは鶯とかメジロとか。小さい鳥ですもんね。

      目には青葉山ほととぎす初鰹
       そうですか、「目には」ですか。「目に青葉」の方がおさまりがいいように思いますけどねぇ。
       季語の3連発。まあこれも有名人が詠んだとならば秀句と呼ばれるのでしょう。凡人の作なら「季語ばっか並べてこんなの俳句じゃない!」って一喝されるでしょうけどね。まあ何ごとも勝てば官軍でありまして。。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

     鶯、ホトトギスには及びませんが、今年も我が「第九を歌う会」のさえずりの季節がめぐってきました。12月26日、地元のベガホールにて1年の成果を披露いたします。組曲「蔵王」、時代、涙そうそう、花の街メドレーを前座に、ソリストのアンサンブル、フルート、バイオリンのコラボ。最後に第九第4楽章「歓喜の歌」で締めくくります。今年は夜の部ですが開演を前倒ししましたので、遠方からも来ていただけそうです。あと4回、特訓を経て臨みます。
     
     さて本論。百人一首には定型を守りながら自然と人の心の関わりを詠んだものが多い。
     52番 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
    いわゆる後朝(きぬぎぬ)歌。
    そして、一帖の絵のように人と自然の関わりを歌っているのは、

     81番 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

    女のもとで一夜を過ごし、あれこれ思っているとき急に鳥の声で思案を破られ、はてと思って眺めれば、声は消え、月だけが残っている。生きとし生けるものの営みは消え、月だけが残っている。秀歌である。
    後徳大寺左大臣こと藤原実定(1139~1191)の歌である。千載集からのセレクションで、そえ書きには「暁に郭公を聞く、という心を詠んだ」とあり。郭公は「カッコウ鳥」を意味するのが普通だろうが、往時はホトトギスと読み、ホトトギスもカッコウもごちゃ混ぜにされていたふしがある。
    作者自身は源平の盛衰のときを生きた有力な貴族で、歌も巧みな教養人であった。
    大原御幸、すなわち後白河院(1127~1192)が大原に隠居する建礼門院(1155~1213)を訪ねた時、この人も隋行したはず。平家物語には「しのびの御幸なりけれども、供奉の人々、徳大寺、花山院、土御門以下公卿6人、殿上人8人、北面少々・・・」と記されていて、冒頭の徳大寺が、この歌人である。
    「この間、大原の寂光院に行ったらホトトギスの声が聞こえたなあ」
    「えっ、本当に?」
     なんて会話があったかどうか。多分にイマジネーションの賜物でしょう。(阿刀田さん)

     そして百々爺指摘のように、実定歌について
    上句(聴覚)から下句(視覚)へのスムーズな転換の中で、一声を待つ夜の時間の長さと、一瞬にして飛び去ってしまったほととぎすとの対照が面白い。一晩起き明かして、明け方に聞いたほととぎすの声。その一瞬の驚きと喜びが素直に表出されている。もちろん視覚世界といっても実際に視覚でほととぎすを捉えているわけではない。逆にそこにあるべきほととぎすの姿は見られないのである。実定には「ながむれば有明の月にかげ見えていづちゆくらん山郭公」(林下集)という同じ趣向の歌がある。「ほととぎす」歌の新鮮さは、かげすら見えない点に存するのではないだろうか。(吉海直人)

    • 百々爺 のコメント:

      ・「第九を歌う会」、すごいことやってるのですね。さえずりだなんてご謙遜を。さぞ整然・荘厳、大合唱なんでしょう。どうせDVD取られるでしょうから機会あったら見せて(聞かせて)くださいよ。

      ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
       そうか、これを後朝の歌と読みますか。なるほど面白い。女のもとで夜を明かした男の歌とするのもいいかも知れませんが、恋しい男が帰った後の女の歌と考えればどうでしょう。

       情熱的な一夜を過ごした後、男は後ろ髪を引かれる思いながら帰ってしまった。みだれ髪に手をやり男を思い出していたとき、「テッペンカケタカ!」ほととぎすの一声。女はあわてて外へ飛び出す。ああ、あの人の姿はないものか、、でも男の姿などなくあったのは有明の空に浮かぶお月さまのみ、、、。

       →80番歌、みだれ黒髪に繫がるじゃないですか。

      ・ほととぎす、声はすれども姿が見えないのがいい。しかも声に強烈な特徴あり。一度聞いたら忘れられない。何とか姿を見たいと思うのだが、里に下りてくるときは飛び回っているときで一か所に留まっていないので目には見えない。それがいいのでしょう。

       →私も毎年家の回りでホトトギスを聞きますし、ゴルフ場でもしばしば。去る6月那須でのゴルフのときは朝寝覚め時に山荘で聞きました。でも一度も姿を見たことはありません。

  4. 百合局 のコメント:

    藤原実定は激動の時代を生き抜いた公家ですよね。
    政治家として、苦難の時は耐え、要領の良さも発揮しながら、なんとか時節到来を待っていたのでしょうね。もう少し長く生きられたらよかったのに・・

    自然も文化も愛した風流人だと思うのですが、徒然草第十段を読むと別の面も垣間見えます。
    ~~ 後徳大寺大臣の寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると~~

    西行は徳大寺家の随身であったこともあり、実能、公能、実定三代は優れた歌人であったから、徳大寺家を流れる文学的な雰囲気の恩恵を西行も受けたことはあったでしょうにね。それなのにこんなこと言うかな? と、思いますが・・
    徳大寺家は美人の家系でもあったようですね。

    実定は説話に取り上げられやすい人物だったようです。

    安東次男は次のように書いています。
    歌はとくに執するということもない平淡率直な詠みぶりだが、その邸には西行ら当代歌人の出入りも多かったから、実作者というよりはむしろパトロンといった方がふさわしい。
    81番うたも、つくり歌の一つだが、じっさいに鳴き声をきいたかきかなかったか、そんなことにはさして頓着もせぬふうに、下句を淡々と言ってのけたところが、見遣る目の遠さと、そこに作者が見出した二重映しの残像、つまり残月と化した想像の鳥の風情をよく捉えている。

    今様好きの後白河法皇は、1174年に半月にわたる今様合の催しを行っています。
    その時のメンバーのなかにも実定の名が見えます。
    藤原成親、藤原(徳大寺)実定、藤原隆房、藤原実宗、藤原隆信など

    公家は天皇や法皇の好みに合わせて何でもできることが必要だったようですね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・実定、56才で没。ちょっと早いですねぇ。もう少し長生きしてれば世も鎌倉時代に変り、京都の公家として活躍できてたのかもしれません。定家の従兄弟(23才上)で歌道についても定家のパトロンとして存在感を示せたのではないでしょうかねぇ。

      ・徒然草第十段 紹介ありがとうございます。
       これで実定がどうこう言われる筋合いもないでしょうにねぇ。西行と実定&西行と兼好、それぞれ何か思惑でもあったのでしょうか。

       →カラスとかムクドリとか(トビでも)の群れを追い払う一番の手はオオタカに見張らせることです。鷹匠とオオタカ一羽でオーケーです。

      ・後白河法皇の今様好きは大変なものだったようですね。和歌なんぞに目もくれず今様ひと筋。半月に及ぶ今様合ってすごいですね。

       →紅白歌合戦を12月16日~31日、連日連夜行うみたいなものでしょうか。さすがに歌手も楽団も観客もクタクタになるでしょうね。

      • 百合局 のコメント:

        近くのマンションに住む友達もそう言ってました。
        松戸に鷹匠と鷹を派遣する会社があって、そこに依頼するのだそうです。
        鷹二羽だったそうですが、見事、カラスは寄り付かなくなったとか。
        案内があって、実技?をみたそうですが、面白かったとか。
        私も見ておきたかったです。
        カラスにとって大鷹は恐ろしい天敵でしょうね。

  5. 源智平朝臣 のコメント:

    徳大寺家なんて日本史で習った記憶がないけど、凄い一族ですね。3代目公成から7代目公能までの間に、茂子・苡子・璋子・成子・忻子・多子の6人の娘を天皇の後宮に入れて4人の天皇を生ませている。その内3人(白河・鳥羽・後白河)は上皇となって院政を行い、3人の院政期間を合わせると106年にも及ぶ。徳大寺家は天皇や上皇の外戚として摂関家並の強い影響力を持ったのではないでしょうか。

    徳大寺家8代目の当主となる実定は貴族が政治的権力を喪失していく平安末期から鎌倉初期の時代に一生を送ることとなり、フラストレーションも少なくなかったと思います。でも、そうした激動の時代を巧みなバランス感覚で生き抜いて、徳大寺家を後世に存続させたのは政治家&名家の跡継ぎとして「あっぱれであった」と言えるでしょう。その上、詩歌・管弦に秀でた教養深い文化人としても名高いのは、生まれながらの豊かな才能に加えて、芸術的な環境に恵まれた家庭に育ったからでしょうね。

    百々爺の解説にあるように、実定は平家物語に何度も登場します。その中でも、巻五の月見や最後の灌頂の巻は感動的で、涙を誘います。正に、平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」の名文が示唆する「人の世のはかない定め」を描いた哀しい名場面と言えるでしょう。実定は当時の有名人でもあったためか、平家物語以外でも、彼が登場する次のような話をネットで見付けましたので、その要旨を紹介しておきます。

    1)後徳大寺左大臣住吉歌合に秀歌を詠み、明神感応し給うこと(古今著聞集巻五)
     ある時、住吉の社の歌合せで、後徳大寺の左大臣が、「社頭の月」という題であるのを次のように詠んだ。
     ふりにける松ものいはば問いてまし むかしもかくや住之江の月(意味:年を経た老松がもし物を言うのであれば、尋ねてみたいものだ。昔の住之江の月は今夜のように美しく輝いていたのかと。)
     この歌には、判者であった藤原俊成も感心し、世の人々の誉めて評判になった。また、その頃、実定の所領の年貢を積んだ船が摂津の国に入ろうした時に、暴風にあって沈没しそうになったが、歌に感心した住吉大明神が老人に化けて何処からともなく表れて船を救った。

    2)徒然草第10段
    後徳大寺大臣の家の屋根に、鳶(鳥のとんび)が止まれないように縄をはっていたのを、西行法師が見かけて『トンビが屋根にとまると、何か問題がありますか?この家の主人の心はそのように狭いものなのか』と言って、その後は、二度とその家を訪れることがなかったと聞いている。綾小路宮が住んでいる小坂殿の屋根にも、いつからかカラスを避ける縄が張られていたので、西行の逸話を思い出したのだが、『実はカラスが池の蛙を捕まえるのを見て、綾小路様が悲しまれていた』と人が言っているのを聞いた。そうであれば、素晴らしい心がけだと思う。(西行に敬遠された)後徳大寺殿にも、何か縄を張った理由があったのではないだろうか。

    最後に、81番歌は作者が著名人だから評価が高いような気もしますが、“Simple is Best”(注)と割り切れば、分かりやすくて良い歌であると思います。一字札なので、智平は子供時代のカルタ取りでは得意札にしていました。
    (注)英和辞書によれば、simpleは「単純な物or人」という意味の名詞でもあり、必ずしもJapanese Englishではないようです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・私も閑院流~徳大寺家のこと知りびっくりでした。摂関は師通-忠実-忠通の家系が占めていたのでしょうが外戚祖父となると徳大寺家ですもんね。このまま平家がしゃしゃり出てくることがなければきっと徳大寺家が摂関家になり代わっていたでしょうね。

      ・実定の逸話の紹介ありがとうございます。世の人々も天皇・上皇の母方外戚として徳大寺家、とりわけ当主の実定のことはよく知っていたのでしょう。

       和歌の神、住吉大社にまつわる話、面白いですね。先日次週82番歌の予習していたら道因さんも住吉っさんに和歌上達の祈願をかけており、繋がってるなあと思いました。

       徳大寺家と西行の話、ちょっと解せませんねぇ。「この家の主人の心はそのように狭いものなのか」と言って徳大寺家に寄りつかなくなった西行の心の方が狭いように感じますけど、いかがでしょう。

  6. 枇杷の実 のコメント:

     ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
    第一印象はシンプルな叙景歌で鳥の名で始まるこの歌は覚えやすい。
    既にコメントされているように、聴覚、視覚の両方で、その一瞬を巧みに切り取った歌になっている。声はすれども姿は見えない、故にますます気をひかれるところが風流だとか。テクニックに頼らず、一気呵成に詠んだこの歌は古来、ほととぎすを詠んだ秀句とされている。
    だが、この歌は後朝の恋歌と解説されているのもある。有明の月は恋人との惜別の象徴であるゆえに。小倉百人一首で数多く読まれているのは「月」(11首)と「もの思う」(10首)。ホトトギスを詠むのはこの歌だけだが、月に特に思い入れのある定家撰、そうなると作者の情感を捉えなくてはならない。
    作者は藤原実定なる人物。激動の時代を巧みなバランス感覚で生き抜き、その中で多くの歌を後世に残した。天与の才能があったから、度胸の据わった生き方ができた人物ように思われる。

    ホトトギスの生態の特徴は、1点目は鳴き声、2点目は自分で子育てをせずにウグイス等に托卵する習性にある。「うぐいすの卵の中に ほととぎす ひとり生まれて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず・・・」(万葉集 高橋虫麻呂)
    野鳥のさえずりを人の言葉に置き換えて覚えやすくしたものを「聞きなし」というらしいが、ホトトギスは身近になく、実際に体験した記憶にない。YouTubeで視聴するとその姿は美しく、確かに「特許許可局」と言ってます。

     郭公 大竹藪を 漏る月夜 (芭蕉)
    大竹藪がしんかんと更け、そこに月光が少し漏れてくる。その静寂が鋭いを郭公の一声に裂かれる。その静寂はいっそうに大きくなる。
    いつか、嵯峨野を訪れた時には平日にも拘らず老若男女、多国籍に人々でいっぱいで無残な観光地に。こうなるとホトトギスも落柿舎あたりからは姿を消し、深山の陰で人知れず鳴いているのか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですか、文屋さんのコメントにも本歌を後朝の歌とする説の紹介がありました。私もなるほどと思った次第です。

       何か物思いに耽っていた時、ふと何か(ここではホトトギスの声)に触発されて外に出てみる。でも何もない、期待していたものは見えない、夜明け前まだ真っ暗闇、ただお月さまだけが煌々と照っている。
       
       沈思→驚き→歓び→期待→外れ→諦め→沈思

       こういうサイクルで恋心は募っていくのでありましょうか。

      ・そうですか、ホトトギスの托卵は既に万葉集に詠まれているのですか。詠んだ人が虫麻呂というのも面白いですね。

      ・これだけホトトギスの声を聞くのが風物詩になるとホトトギスのものまね芸をする人なんかもいたのかも。
       →ほんもののホトトギスかにせものか当てる催しなんてあったら面白かったかも。

      ・そうか、芭蕉の句は京都嵯峨野の大竹藪(竹林)かもしれませんね。落柿舎あたり、まだ明け方の頃は観光客もいないでしょうし、一声鳴いて嵐山方面へ帰るのかもねぇ。
       

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