82番 平安の後期高齢歌人道因 思ひわびて

百人一首中、坊主めくりの坊主に属するのは13人。大僧正が2人、僧正が1人、得体の分からぬ蝉丸。それを除く9人が「法師」。9喜撰、21素性、47恵慶、69能因、70良暹、82道因、85俊恵、86西行、87寂蓮。この内でも道因法師は知名度が低い。歌もピンと来ない。まあ我慢してお付き合いください。

82.思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

訳詩:    慕いつづけ むごくつれない人を恋して
       わびしさの限りをつくした
       それでも命をつないでいる
       それなのに涙のやつ 耐え性(こらえしょう)のない弱虫め
       はふり落ち 散りいそいで

作者:道因法師(俗名藤原敦頼)1090-1182頃 従五位上左馬助 1172 83才で出家
出典:千載集 恋三818
詞書:「題しらず」

①道因法師、俗名藤原敦頼 従五位上左馬助 官人である。
・祖先は藤原北家高藤流(25藤原定方の父藤原高藤を祖とする家流)

・官人としての事績は語られていない。まあ普通の役人(中流貴族)だったのだろう。
 歌人として歌合に登場するのは1160 70才を過ぎてから。
 1172 83才で出家 道因を名乗る。
 1182頃 93才で没か
 →えらい晩生の御仁である。
 →晩年出家した人は多数いるが百人一首に出家後の名前で出ていない。道因だけ、何故だろう?
 →「藤原敦頼」では歌人としての知名度が低かったからでしょうね。

・1160-1181年間 数々の歌合に参加(主催もあり)
 千載集以下勅撰集に41首 85俊恵歌林苑の会衆の一人
 →千載集に20首だから俊成に買われたのだろう。そして百人一首に入り大歌人となる。

・1160年の歌会からと言えば道因(まだ藤原敦頼だが)既に71才
 →いつから歌を詠みだしたのか分からぬがまあ六十の手習い的に始めたのかも。

 それからの歌に対する精進ぶり、神頼みぶりがすごい。
 和歌の神さま住吉大社に毎月(京から)徒歩で参詣、「秀歌を詠ませ給へ」と祈った。
 →和歌に対する執着ぶりがすごい。「歌こそわが命」
 →晩年の道因にとって歌は生活の全て、生きる糧だったのだろう。
  (ゴルフを生きがいとして長生きしている人と同じだろう)

・道因法師を和歌に執着心を抱き続けた和歌数奇者として46曽禰好忠、69能因法師と並び称していた解説書もあった。
 →これってすごい誉め言葉であろう。よかったねえ、道因老人!

・齢90になり耳が遠くなっても歌会で一番前に座り講師の話を一言も漏らさぬよう耳を傾けていた。
 →ちょっと困った老人だったのかも。でも認知症で訳も分からない老人ではない。人々も「まあ道因さんだから、、」と大目に見ていたのだろうか。

・その他にもケチだったとか偏屈だったとかエピソードは総じて道因さんに好意的でない。
 →でも年老いてなお秀歌を求め精進する姿に俊成-定家はほだされ道因法師として堂々百人一首の撰に入れたのだろう。

②道因法師の歌から。  
嵐ふく比良の高嶺のねわたしにあはれ時雨るる神無月かな(千載集)
 
 →定家の八代抄には道因の歌としてはこの一首のみで82番歌は入っていない。
 →八代抄に入れていない歌を百人一首に採用したのは公任の55番歌と本歌。
  (百人一首は八代抄の20年後。その間の定家の心境の変化と言われている)

・千人万首から
 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老いにけるかな(千載集)
 いつとても身のうきことはかはらねど昔は老をなげきやはせし(千載集)
 
 →どうも年寄り臭い歌が多い。そりゃあ後期高齢歌人だから仕方ないか。

③82番歌 思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
・千載集 恋の部 「題しらず」
 法師になってから詠んだ歌? それとも法師になる前?
 →何れにせよ実際の恋の場面ではない。老人の回顧の歌である。

・「思ひわび」 自分に冷淡な相手を思い嘆き、、、
 →藤原敦頼、若かりし時恋に嵌まり込み一途に思い悩んだことがあったのだろうか。

・「命」と「涙」
 どうも観念的・抽象的で実感に乏しい。「ピンと来ない歌」(田辺聖子)
 →道因法師の人物像が今ひとつ分からないので恋歌と言われても女性の姿が浮かんでこない。
 
 出家して仏道修行をしていく内に辿り着いた「生と死(寿命)は天命による」という境地を詠んだ人生の述懐歌との解説もあった。
 →私には正に「ピンと来ない歌」であります。

・「涙」が出てくるのは本歌と86西行「、、、かこち顔なるわが涙かな」
 →「42袖をしぼりつつ」「65ほさぬ袖だに」「72袖のぬれもこそすれ」
  「90袖だにも濡れにぞ濡れし」「92わが袖は」
  「涙」はちょっと直球過ぎるように思うがどうだろうか。

④源氏物語との関連
・思ひわび、もう死んでしまいたいのに天命は尽きず生きねばならない。
 父八の宮を亡くし宇治の大君・中の君姉妹は途方にくれる。父の後を追い死んでしまいたい。でも天は死を与えてくれない。

 総角6.
 御服などはてて、脱ぎ棄てたまへるにつけても、片時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひの外なる身のうさと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。

 →薫が大君に二度目のアタックをかける場面です。

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82番 平安の後期高齢歌人道因 思ひわびて への12件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    面白い!!解説書から想像する道因法師の姿、まさに「後期高齢歌人」ですね。
       思ひわびてさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
    よぼよぼの呆け老人のイメージが強烈なため歌と人物が重ならない。

    道因法師の数々の逸話のほうが面白い。
    吝嗇のあまり斎王の行列に加わった折、場丁に装束を与える約束をしながら反故にし、彼らに襲われて身ぐるみはぎ取られ裸で逃げ出したという。
    それ以後道因は彼の役職が左馬助だったことから「ハダカノ馬助」と呼ばれたらしい。
    説話や逸話はどの程度信じられるのだろう?
    ほんとかいな?と思われるものが結構多いからである。
    その他歌合わせで負けたことに腹を立て陳情した所、無視された逸話(清輔に)
    歌の上達を願い住吉詣でをしたのも有名で百々爺さん解説の通りである。
    歌の上手下手が出世に関わるのだからその執念は見上げたものである。
    貧乏、吝嗇、数奇心の度が過ぎ失笑を買う「鳴呼の者」
    何やら年老いたみすぼらしい坊様がイメージされ可哀そうと可愛いがないまぜの心境である。
    無明抄には「秀歌詠まさせ給へ」とそして「道因、歌にこころざし深き事」と言う逸話がある。

    • 百々爺 のコメント:

      ・道因法師のこの歌、いつ(出家以前か以後か)詠まれたのでしょうね。道因法師が詠んだ恋歌だと思うから違和感がぬぐえない。ピンと来ない。でも詠み人の名前を伏せて、或いは和泉式部とか道綱母の歌として読んだらどうでしょう。つれなくされてもあの人を恋焦がれた昔、つらかった昔、そのことを思うと涙が止まらない、、、、、けっこういい感じの恋歌になりませんかね。

      ・「ハダカノ馬助」ですか。ケチ老人だったのでしょうが、これはイジメですね。色々エピソードがあった老人でしょうが可哀そうと可愛いが混じりますね。おっしゃる通りだと思います。

      思えば老いて敬われるか老醜をさらすことになるのか、これも紙一重だと思います。老いたる者自重しなきゃいけないと自戒しています。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    平安の後期高齢歌人とは、うまいタイトルをつけましたね。
    71歳から歌会に出始め、83歳で出家し、それでも歌が命とがんばり93歳で亡くなった、いろいろ笑われた逸話が残りますが、人生2回生きたようなもの、かなり充実した人生を送れたのでは。

    それにしても82番歌は評判が悪い。小生の胸にも響いてこない歌。

    80番台、82、85、86、87番と法師の歌が続き、かつ87番以外は恋の歌。
    定家がどうしてこのような構成にしたのか?
    彼らの生きた年をみてみると
    82番 道因法師 1090-1182年
    85番 俊恵法師 1113-1191
    86番 西行法師 1118-1190
    87番 寂蓮法師 1139-1202

    時代背景を考えれば、世は末法(1052年より)、法師がはびこり、いや活躍した時代。今少々本を読み始めている”法然”上人は、1133-1212年の人、仏教が庶民のものになっていった時代である。
    これから出てくる他の法師さんたちの歌は、果たしてどんなものか、爺の解説を聴きながら、考えて行きたい。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「人生2回生きたようなもの」
       本当にそうですね。若かりし頃やりたかったことを老いてからやる。
       伊能忠敬を思い出しました。佐原の商家・事業家を切り盛りし50才で隠居、江戸へ行って以前からやりたかった暦学を勉強し、天体観測、測量・地図の作成。56才から亡くなる74才まで全国を歩き回る。4千万歩の男。
       →八麻呂さんも1日1.5万歩とかいってましたね。7年で4千万歩は行けますよ。

      ・挙げていただいた4人の法師(道因・俊恵・西行・寂蓮)。出家してどれだけ仏行に励んだのでしょうかねぇ。どうも仏道修行の話は聞こえてこない。こういっちゃ何ですが、出家すると極楽に行けるってちょっと安易に考えてたのじゃないですかね。

       →宇治十帖での八の宮・薫(出家はしてないが)の仏道修行のこと思い出します。 

  3. 百合局 のコメント:

    この人、若い時どんなだったか、全然見えてきません。
    老いてからの逸話ばかりですよね。
    長命で元気で本当の歌好きだった、それだけで良いですよね。

    道因法師には「涙」を入れた歌、他にもあります。

     紅に涙の色のなりゆくをいくしほまでと君にとはばや(新古今1123)

    歌壇での活動は晩年からで、俊恵の歌林苑の会衆の一人でした。

    道因法師が住吉社歌合を主催した時、81番の後徳大寺左大臣が

     ふりにける松ものいはば問ひてましむかしもかくや住之江の月

    と詠み判者俊成は格別に感じ入った。

    百人一首、81後徳大寺左大臣、82道因法師、83俊成の繋がりの順番です。私の無理やりのこじつけです・・

    安東次男は次のように書いています。
     命と生理の矛盾するところをいくぶんコミックに詠んだ歌である。じっさいは出るものが洟水であってもよいわけだが、そこを「涙なりけり」ということによって、いかにも王朝の歌らしく作っているから陳腐といえばそこが陳腐である。
    いっそ、題しらずの恋の歌などとせずに、「涙を詠める」とでもして雑の部に置けば、かえって精彩を放つ歌にもなったのだろう。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「長命で元気で本当の歌好きだった、それだけで良い」
       その通りだと思います。多少呆けてマイペースの所があるくらいはいいじゃないですか。独り善がりで空気を読めない暴走老人、、、これはマズイ。大事なのは明るさとユーモアだと思っています。
        →道因さんもこの物差しからすると許容範囲だと思います。

      紅に涙の色のなりゆくをいくしほまでと君にとはばや(新古今1123)
       
      「紅の涙」六位からスタートさせられた夕霧の嘆きの歌を思い出しました。
        くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき
           (夕霧 @少女)

      ・81実定、82道因、83俊成。三者が一堂に会してるのですね。なるほど。
       実定は俊成の甥(25才下)。俊成も甥っ子を勇気づけるべくエールを送ったのでしょうか。

      ・安藤次男説、「涙を詠める」とした方がよかろう。
       賛成です。恋の歌では何ともピンと来ません。

       

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

     世に気象予報士はごまんといますが、山の気象予報士は数少ない。しかも現役の山荘経営者で、自らデータ観測をする気象予報士はこの人をおいてほかにはいない。北アルプス西穂山荘の常務取締役兼支配人、粟澤徹氏。一昨夜は彼を大阪、中之島プラザに招いて同窓会の記念講演をしていただきました。彼の自書「やさしい山のお天気教室」同様、笑いと涙と、ウィット、ひらめき一杯の感動の講演でした.。
    (御参考:www.nishiho.com)
    (Facebookページ/やさしい山のお天気教室/人のため 自然のために)

    さて本論。
    日本人の哲学的思案の根底に仏教の影響があったのは当然のこと。出家の身であれば、詠む歌にもそれは顕著に表れる。仏の教えを究め、学問にも精を出し、そのほかこの人の楽しみはと言えば、歌を詠むことくらい。歌は軟弱なたしなみであるから、「僧侶なのに花鳥風月の道になんか夢中になって、いいのかね」とけちをつける人もいたらしい。
    それも無理からぬところがあって、花鳥風月ならまだしも和歌は色恋の道とも関わりが深く、まさに「僧侶なのに」というケースも皆無ではない。たとえば道因法師(1090~?年)の

    82番歌 思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり

    千載集では恋の部に分類されており、したがってこの「思ひわび」は恋に思い煩っているのだ。誠に誠に、「僧侶なのに」である。それほど恋に苦しんでいるのに命の方はずーっとあるものだから、毎日毎日嘆きに堪えられないほど涙がこぼれることよ、とめめしい。命の方は堪えているのに涙の方は堪えられない、という事情である。
    この人、没年は不詳だが、長生きをしたことは確からしく、九十余歳まで、「さても命」だけは有り続けたらしい。(抜粋:阿刀田高)

     そして吉海直人氏は、百々爺指摘のごとく、次のように述べておられます。
    この歌は「八代集」をはじめとして定家の秀歌撰にはまったく採られておらず、定家自身はこの歌をあまり評価していなかったと思われる。ところが最晩年に百人一首を選定するにあたり、この歌を撰びとったのである。なぜか?道因の場合も曽禰好忠(48番)や能因法師(69番)に匹敵する程和歌に執心した異色の歌人であり、和歌数寄者の典型として撰ばれたのかもしれない。それを認めたのが他ならぬ俊成であり、道因の「千載集」入撰歌は二〇首にも及んでいる。しかしながら「八代集」にはその中から「嵐吹くひらの高ねのねわたしにあはれしぐるる神無月かな」歌が撰入されている点、やはり代表歌の撰定問題は解決していないのである。
     いづれにせよ定家は、晩年にいたって突然この歌を高く評価したわけだが、それは決して父俊成の評価をそのまま継承したのではなかった。この歌が恋歌のままであれば、おそらく定家は見向きもしなかったであろう。恋歌であることを考慮すれば、法師になる以前の詠なのかもしれない。あるいは老愁の恋を描いた述懐歌とすると、過去を苦々しく思い出して涙しているのかもしれない。
     しかしこれを百人一首の歌として再解釈すると、むしろ恋の述懐を超越し、人生の述懐として再生する。涙は恋の苦しさにのみ流れるのではない。老いということが老齢に達した定家に大きな問題となって迫った時、はじめて道因の述懐歌が定家の胸に迫り、強く訴えかけてきたのではないだろうか。(吉海直人)

    • 百々爺 のコメント:

      ・山の気象予報士ですか。素晴らしいですね。どちらが趣味でどちらが生業か。仕事と趣味の一体化。充実した人生ですねぇ。さぞいいお話が聞けたことでしょう。

      ・僧侶としての仏道修行と花鳥風月を詠む作歌活動。相容れるものなんでしょうかねぇ。どうも矛盾するように思えてなりません。特に女色を断つ。これぞ出家の第一戒でしょうに。法師が現役として詠む恋の歌はあり得ないだろうし、昔を回顧しての恋の歌も邪道だと思うのですがいかがでしょう。

       →道因さん、作家活動を本格的に始めたのは70才ころから、この時はまだ藤原敦頼。出家して道因法師になったのは83才の時。法師になる前に詠んだ歌も沢山ある筈でそれは「藤原敦頼」とした方が正当ではないでしょうかねぇ。
        

  5. 源智平朝臣 のコメント:

    道因法師は和歌に対する強過ぎる執着心、生来の吝嗇振り、周囲への配慮を欠く偏屈さなど、評判が悪くて人望のない人物だったようですね。スマートな生き方をモットーとしていた昔の智平なら好きになれそうもないタイプの人物ですが、古希になった今では六十の手習い的に入った歌の道で精進と長命により勅撰集に41首も撰ばれるほどの歌人になったことを褒め称えたい気がします。

    古今著聞集巻5には、道因の歌に対する意気込みを示す次の逸話が載せられています。
    「道因法師が出家した直後に藤原実國を訪れたところ、次の歌を書いた扇を渡された。
    紫の雲にちかづくはし鷹は そりて若葉に見ゆるなりけり
    これに対して、道因法師は次のように返した。
    はし鷹の若葉に見ゆと聞くにこそ そりはてつるは嬉しかりけり
    この逸話は「実國が道因をはし鷹(高藤の端)に譬え、阿弥陀仏が紫雲に乗って迎えに来る人生の終盤というのに、反って(剃って)若葉のように見えるね(若くて歌心も枯れない&極楽浄土を願う心からも反っている)と冷やかしたのに対して、道因が動じることなく、雑事を離れて歌に専念できるのは嬉しいと答えた」ものです。

    同じく古今著聞集巻5に藤原清輔が7人の老人を招いて和歌の尚歯会(高齢者を祝う会)を開いた逸話が載せられています(以下は抜粋のみ)。
    「この会では、まず、先人の藤原敏行朝臣の詠んだ次の歌が詠み上げられました。
    数ふれど止まらぬ物を歳と言ひて 今年はいたく老いぞしにける
    藤原清輔朝臣(69歳)は次の歌を詠み上げました。
    散る花は後の春ともまたれけり 又も来まじき我が盛りはも
    最高齢の道因法師(84歳)は次の歌を詠み上げました。
    待てしばし老い木の花に言問はむ 経にける年は誰かまされる

    「長生きするのも芸のうち」という言葉がありますが、道因法師は60歳になって歌と言う大好きなもの見付けたので、長生きできたのでしょう。誠に幸せな人生だったと思います。そう考えると、84番歌の評価なんてあまり問題ではない。「長命で元気で本当の歌好きだった、それだけで良い」という百合局さんの言葉どおりであるという気がします。

    • 百々爺 のコメント:

      ・藤原実國と法師になって益々盛んな道因とのやり取り面白いですねぇ。
       高藤流の末裔ということは誇りでもあったけどそれなのに従五位上にまでしか出世できなかったという引け目もあったのでしょうか。

       →道因の歌からはこれで俗名を捨てて(高藤流の束縛からも逃れ)若返ってノビノビやりまっせという歓びが伝わってきます。
       →この時、83才ですよ。古稀なんてまだまだ若いものでっせ。

      ・藤原清輔の尚歯会、84番歌予習中に出てきました。年長歌人を集めての敬老歌会。多分に清輔の六条藤家PRが目的かもしれませんが中々面白い催しですね。

       待てしばし老い木の花に言問はむ 経にける年は誰かまされる

       →老いを謳歌して益々盛ん。道因さん、カッコいいじゃないですか。

       

  6. 枇杷の実 のコメント:

    思いわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
    源平合戦直前の治承3年(1197)、九条兼実が催した歌合に90歳の時に出詠した。(目崎徳江)己の涙を疎んじて何になる・・と言いたいところだが、何故か涙がでて・・と老いらくの恋を詠む心境は90歳まで生きてみないと分からない。「俊成の夢に現れ涙を流して喜んだ」、「清輔の判定に涙して恨み言をいい」などは実際に涙腺のゆるい御仁だったのかも。
    遁世したのも80歳を過ぎてからで、それまでは五位の官人で、さぞかし周りの後輩たちには煙たがられたことだろう。出家は官位官職を離れて無収入の僧侶となり、俗世間を離れて寺に入って修行、または遊行すること。道因の場合は、こつこつ稼いで成した財産で歌の修行に専念した在宅出家ではないか。
    恋歌を詠むことは吝嗇で偏屈な老人、坊主でも許される。

    この歌は失恋しても「持ちこたえている命」と失恋の辛さに「耐え切れず流れる涙」を対比的に詠んだもので、技巧溢れる新古今調と異なり、ストレートな感情の吐露がある。老域にあって人生の憂愁(うれい)に身を浸し、なお諦めきれない老いらくの恋に身を焦がすという矛盾を歌おうともがいていた。(板野博行)

     我が後に生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ(万葉集)
     恋しきに命を替ふるものならば死には易くぞあるべかりける(古今集)
     慣れてのち死なむ別れのかなしさに命に替えぬ逢うこともがな(道因)
    昔の恋歌はすべて「恋は死ぬほど苦し」がテーマで、恋はたのしと祝福する歌はあり得ない。「恋は苦し」と「恋はたのし」のどちらが恋愛観として真実であるかは、いつか真面目に考えなくてはならない。(小西甚一)

    • 百々爺 のコメント:

      ・90才でもまだ華やかな公式の歌合に出詠する。すごいですねぇ。爺も後20年呆けずにまともな生活を送れるか全く自信がありません。それだけで尊敬に値します。道因と俊成(釈阿)。双璧でしょうね。

      ・そうですね、出家すると収入の手立てが途絶える。道因さんは83才の出家ですからいいでしょうが西行なんか23才で出家ですからねぇ。どうやって暮らしを立てたのでしょう。

       →在宅出家なんてのもいい加減ですね。恋の歌も詠み放題ですか。
       →寺に入りひたすらに念仏修行に終始する僧侶といっしょに考えるのは野暮というものでしょうか。

      ・「恋は苦し」か「恋はたのし」か。文学としては「恋は苦し」なんでしょうね。王朝和歌も「恋はたのし」を詠んだものは評価されない。従って誰も詠まないってことでしょう。
       →所詮「苦し」と「たのし」はコインの裏表。苦しいばかりでも楽しいばかりでもない。「苦し」と「たのし」を行きつ戻りつするのが恋だと思うのですがいかがでしょう。

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