87番 さりげなく定家に御子左家を譲った寂蓮 村雨の

さて、西行法師に続くは一枚札「むすめふさほせ」の「む」。百人一首カルタでは三本の指に入る人気札。寂蓮法師「むらさめの」の登場です。寂蓮さん、定家の兄というか、従兄弟というか、ライバルというか、御子左家の同僚というか、、、。何故出家して寂蓮と名乗ったのかなかなか興味深いご仁であります。

87.村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮

訳詩:    ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
       まだ真木の葉に光っているのに
       はや霧が 万象をしっとり包んで
       立ちのぼる さわやかに・・・・・
       秋の夕暮れ

作者:寂蓮法師 生年未詳-1202 60余才 俊成の兄弟の子、俊成の猶子
出典:新古今集 秋下491
詞書:「五十首歌奉りし時」

①寂蓮法師 俗名藤原定長 父は俊成の弟僧俊海(何時何故僧になったか不詳)
・生年不詳だが1138頃との説あり、これに従っておきましょう。没年1202 65才
・13才頃伯父俊成(この頃はまだ葉室顕広)の養子になる。
 →父が出家してしまったこと。俊成に歌才のある息子がいなかったこと。
 →それで俊成は歌にも才能のありそうな定長を養子に迎えたのだろう。

・俊成の押しもあったか、官位も進み従五位上中務少輔に至る。
 →まあ順当な出世コースだったのだろう。
 その間、妻を迎え男子4人女子1人の子どもができる。
 ところが1172 35才で妻子を残し出家してしまう!
 →ここがポイント。

・俊成は艶福家で多くの妻を娶り子どもも多数なしたが、御子左家を継がせる才のある息子に恵まれなかった。それで甥の定長を養子にし彼に家督をと考えていた。ところが美福門院加賀を妻に迎えて二番目にできた息子(定家)が利発にして歌才あり。行末御子左家の跡目争いになりかねない。そんな状況下、定長は考える。このままでは俊成も自分も定家も不幸になってしまう。自分が身を引くのが一番。それには妻子には悪いが出家しかない。
 →定長が寂蓮になったのはそんな具合だったのではなかろうか。
 →定長は分を弁え争いを好まぬ温厚な性格であったのだろう。正解だと思う。
 (この時、俊成59才、定長35才、定家11才)

 (オマケ)一粒種鶴松を亡くし甥の秀次を養子にし関白にしたら秀頼が生まれた。
      秀次の悲劇を思い出してしまう。

・定長が出家したのは35才の時。以降諸国行脚(高野、河内、大和、出雲、東国)、その後洛北嵯峨に居を構える。
 →半僧半俗。西行を慕い、西行に憧れての出家・諸国行脚だったのかも。
 →経済的には御子左家が定長の妻子も含めバックアップしたのだろう。

②歌人としての寂蓮
・養父俊成が英才教育を施したのだろう、出家前から宮中・貴族の歌合に出詠。
 →そりゃあ御子左家の後継ぎにと考えていた俊成も力が入ったことだろう。

・千載集、新古今集初め勅撰集に117首 私家集に寂蓮法師集

・1201後鳥羽院の勅を受け新古今集の撰者になるが翌1202新古今集成立前に死去
 →これは悲しい。続詞花集を撰進するも二条帝の死で撰者になれなかった清輔を思い出す。

・85俊恵主宰の歌林苑の常連メンバー
 →形としては御子左家と一線を画しているから気軽に集い談論に興じることができたのだろうか。

・九条兼実(摂政関白太政大臣)―91良経親子の九条家歌壇を支える。
 九条家歌壇メンバー 83俊成、87寂蓮、91良経、95慈円、97定家、98家隆
 →五摂家の一つ九条家。有職故実の公家。和歌も重要な項目一つであった。

・後鳥羽院は寂蓮の歌を誉めている(後鳥羽院口伝)。
 寂連はなをざりならず歌詠みし物なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき。
 →後鳥羽院は寂蓮を買っていて新古今集撰者にも入れたし、五十首歌合にも召集している。

・人柄は温厚であったが歌論については譲らず六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争は有名
 六百番歌合 1193年 91良経が主催 歌人12名x100首=1200首 六百番
 →とてつもない歌合。歌もさぞ玉石混淆、議論噴出大変だったことだろう。

 この歌合で顕昭が独鈷(とっこ)(密教僧が持つ法具)を振りかざし、寂蓮が蛇の鎌首のように首を伸ばし延々議論したことから「独鈷鎌首」と呼ばれる。
 →寂蓮の和歌への執念が感じられる。90才にして歌合で講師近くに陣取った82道因法師を思い出す。

・新古今集三夕の歌の一人
  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
  見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

・寂蓮の有名歌から
  葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古今集)

③87番歌 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
・1201年後鳥羽院主催の歌合で寂蓮が詠んだ歌
 「老若五十首歌合」春夏秋冬雑 各人十首づつ詠み合う
 (老)忠良、95慈円、97定家、98家隆、87寂蓮
 (若)99後鳥羽院、91良経、宮内卿、越前、94雅経
  →すごい歌合。世は鎌倉時代。京の公家は歌でも詠んでおとなしくしてる他なかったのか。

 *忠良=藤原忠良、76忠通の孫、95慈円の甥、91良経の従兄弟。勅撰集69首

・村雨(にわか雨)、雨の露、夕霧
 真木(杉、槇、檜など常緑大木の総称)
 秋の夕暮
 →墨絵の世界 静かな風景
 →寂蓮は諸国行脚もし嵯峨にも住んだ。実生活体験に基く歌であろう。

・歌としても名歌との評判で新古今集中の秀歌の一つとされる。
 田辺聖子も若い時は自然諷詠に興味がなかったが、年を重ねていかにも新古今風な、奥ふかいそれでいて優艶なところが汲みとれるようになったと書いている。
 →分かりやすい歌で昔から知っていた。
 →寂しさ、侘しさを強調した三夕の歌よりさらりとしてて気持ちがいいのではないか。

・「むすめふさほせ」一字決まり。覚えやすいしカルタでは人気札であろう。
 因みに「す」=18住の江の、「め」=57めぐり逢ひて、「ふ」=22吹くからに、
 「さ」=70さびしさに、「ほ」=81ほととぎす、「せ」=77瀬を早み

・本歌
  消え帰り露もまだひぬ袖の上に今朝は時雨るる空もわりなし(道綱母 後拾遺集)

・類想歌
  いつしかと降りそふけさの時雨かな露もまだひぬ秋の名残に(俊成)
  かきくらし空も秋をや惜しむらん露もまだひぬ袖に時雨て(忠良)

・京では嵯峨の時雨が特有とされる。
 定家が百人一首を編んだのが小倉山荘「時雨亭」、百人一首の殿堂が「時雨殿」
 (オマケ)
 「京のにわか雨」 小柳ルミ子 詞:なかにし礼
   雨だれがひとつぶ頬に 見あげればお寺の屋根や
   細い道ぬらして にわか雨がふる ~~

④源氏物語との関連
 あまり思いつきませんが無理矢理こじつけで(真木が出てきたので)。

 明石13 仲秋の八月十二三日 源氏が初めて明石の君を訪れる場面
(明石の入道が娘のために粋を凝らして造った岡辺の宿の素晴らしい描写)
 、、、、三昧堂近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口けしきことにおし開けたり。

 源氏を迎えるように戸口はさりげなく開けられている。
 「この月入れたる真木の戸口は、源氏第一の詞と定家卿は申侍るとかや」(花鳥余情)
  →定家は「月入れたる真木の戸口」を気に入っていたようだ。新古今調の趣を感じたのであろうか。

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87番 さりげなく定家に御子左家を譲った寂蓮 村雨の への20件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    そうなんです、おっしゃる通り何もわからずとも子ども心に一枚札と言う事もあり好きな歌でした。歌の流れもよく覚えやすい。
    「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ・」それぞれ一枚札の筆頭に来るのがこの87番歌。
       村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
    誰にもとられたくない子供っぽい負けん気であった。
    なるべく自分の目の届く範囲に札を並べたものである。

    俊成の甥で猶子になるも定家が生まれたことにより身を引き出家したとの事。
    これは寂蓮らしい選択で賢明だったと百々爺さん同様に私もそう思う。

    俊恵法師の歌林苑に集った一人でもあり三夕の歌の一人である。
    この三夕の歌、いずれもさすがでどれが一番か好みにもよりますが選べないほど素晴らしいと思います。ここで驚いたのが三夕は87番歌だとばかり思っていましたが違うのですね。
       さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
    私もこの歌よりより87番のほうが好きです。

    この87番歌は後鳥羽院主催の「老若五十首歌合」 春夏秋冬雑 各人十首づつ詠んだ時の歌とのこと。老若の取り合わせが面白い試みですね。
    後鳥羽院は風雅の人で人を見る目も優れていますね。
    ただ政局を見る目はなかったのか?

    私がこの歌から想像する源氏物語の場面は真木柱に笄を入れた髭黒大将の姫君です。
       今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな

    • 百々爺 のコメント:

      ・「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ・」
       百人一首やる人なら誰もが知ってるフレーズですね。「娘、房干せ」ですかね。この語呂合わせのお陰で「む」の87番歌は一字決まりの筆頭の地位を得たんですものね。面白いものです。

       ところで一字決まりはこの7首ですが「始まってない字」(ゼロ字決まり)は幾つあるかご存知ですか。数えてみたら実に十二字(え・く・け・そ・て・と・に・ぬ・ね・の・へ・ま)もありました。一方始まりの字トップは「あ」で実に17首、次が「な」で8首です。片寄ってますねぇ。

      ・三夕の歌、有名ですね。高校の教科書に載ってますもの。ただ高校生の鑑賞には難しいでしょうね。いや季節感も夜昼感も乏しい現代の都会人にとってもなかなかピンと来ないというのが実感じゃないでしょうか。そこを頭で補って秋の夕暮の寂寥感を追体験した気分になる。でもそれが大事なんでしょうね。
       →どの歌が好きか、それこそ読者が自由に決めればいいのでしょう。

      ・「後鳥羽院は風雅の人で人を見る目も優れてた。ただ政局を見る目はなかったのか」
       全くねぇ。77崇徳院の暴挙(保元の乱)ともども承久の変の自爆には大いなる疑問を感じます。
       →99番、ご本人が登場されるところでまたお話しましょうか。

      ・そうか、「真木柱の姫」のこと忘れてました。ご指摘ありがとうございます。六条院の宝石「玉鬘」を誰が手に入れるのか、読者をやきもきさせておいて結果は「アッと驚く~~ひげくろぅ~~!」。紫式部の術中にはまりましたよね。そして髭黒家は崩壊し「真木柱の姫」が母の実家に引き取られるときに残した歌がご紹介いただいたもの。思い出しました。

       今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
                         (真木柱12)

  2. 百合局 のコメント:

    御子左家を継ぐなど俗なることには恬淡としていた寂連も歌道には執着したようで、それを顕著にあらわしているのが六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争です。顕昭が独鈷をふりかざし、寂連が蛇の鎌首のように首を伸ばし延々議論したなんてね。本人たちが大真面目であればあるほど、それを想像する後世の私など面白く感じてしまいます。
    影印本「百人一首」(新典社)の注を記します。
     この歌は(六百番)歌合の125番左として、右越前の「いづくにもさこそは月をながむともいとかく人の袖はしほれじ」に勝っている。兼載雑談に「顕昭は大才の人なり。寂連は無才覚の人なり。顕昭は歌の下手なり。寂連は上手なり。顕昭云、歌はやすきものなりけるよ。寂連程無才覚なれども、歌をばよくよむと云へりければ、又寂連云、歌は大事のものなりけるよ。あれほど大才なれども歌は下手なりけると云ひければ、我程歌をよめ。よまむこと、我等などは難かるべしといひしなり。実にも寂連は器用なればこそ、俊成の嫡子に兵部卿成家といふ人ありしかど、不器用なるにより、寂連を歌道の養子にせられしなり。」と見える。

    いわゆる「三夕の歌」は、侘茶が興る東山末、桃山時代にとりわけ心の拠りどころとされるようになるが、「むらさめの ~ 」もまた紹鴎好みの「すすぎあげてさはやかなる体」(無住抄)の歌とされていると安東次男は書いています。

    寂連がすすめて、それまで歌壇にあまり縁のなかった西行も63歳の時自身百首歌を詠じています。
    京都国立博物館にある「一品経和歌懐紙」(国宝)には西行、寂連の自筆があります。他の展覧会にも貸し出すことがあるので、機会があったら目にしたいです。

    寂連の人柄の片鱗がうかがえるかな、と思う歌

      牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば頼みそ

    謡曲『藤戸』にある「春の湊の行く末や 藤戸の渡りなるなん」は、新古今集、春下、寂連の歌「暮れて行く春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟」によっています。
    謡曲『朝長』にある「花の跡訪ふ松風や雪にも恨みなるらん」は、新古今集、春下、寂連の歌「散りにけりあはれ恨みの誰なれば花の跡訪ふ春の山風」からきています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「独鈷鎌首」論争の解説ありがとうございます。
       この論争は91良経主催の六百番歌合でのことだから1193年。顕昭は64才、寂蓮56才(くらい)の時。両者とも頭を丸めた歌僧。慈愛の仏に成仏を願うべく穏やかである筈の僧侶二人が坊主頭を突き合わせて侃侃諤諤の大議論。居合わせた九条家の女房たちはやいのやいの囃したとのことですが、どうでしょうね。「いい年をしてお二人さん! いい加減にしてよ!」というのが本音だったのかもしれません。
       →真面目であるほど滑稽、おっしゃる通りだと思います。

      ・三夕の歌は室町以降に評価を得ていくわけですか、なるほど。侘び寂びの世界を表象するキャッチフレーズみたいなものになっていったわけでしょうか。
       →やはり「三夕」というのがいい。一首だけだと突出してしまうが三つあると多数ということでもうその概念はくつがえらない。
       →「四夕」になると散漫になってぼやける。覚えるのもシンドクなるし。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    田辺聖子女史も爺も言っているように、まさに秋の終わりが水墨画の世界で描かれた、いや詠われた歌で、寂しさよりもシンシンとした静寂さが伝わり、空気を冷えてきて気持ちがよい。

    笑われそうだが、今年になり、「広辞苑」を漸く買った。依然持っていたが、売ってしまい、手持ちがなかったので、AMAZONの中古で買ったしだい。
    早速、引いてみた:

    村雨:(群になって降る雨の意) 一しきり強く降って来る雨。にわか雨
    時雨:(過ぐるから出た語で、通り雨の意) 秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする雨 

    小生が幼稚園に行くまで育ったのが、泉州 泉佐野。そこの銘菓が、“むか新”の「村雨」。上質の小豆に米の粉と砂糖を加え、蒸しあげた棹物のお菓子。羊羹のようだが、ぼろぼろと崩れやすく、あっさりした上品な味のお菓子で、羊羹とは全くの別物。広辞苑にあるとおり、群になって降る雨のような崩れやすいお菓子である。当時は高価なもので、なかなか買ってもらえず、食べれたときは幸せであった、懐かしいお菓子。

    従い、小生にとって、村雨といえば、87番歌でなく、まずはこのお菓子、皆さんはご存知ないですよね。自分にしか解らない旧地元のことを書いて恐縮です。今回調べてみると、「村雨」は、貝塚(泉佐野の隣市)の村雨本舗の”塩五”の商標登録品で、むか新はこの名を使えず、「むらしぐれ」が正式名称と。でも、地元では皆「村雨」と呼んでいた。

    秋の歌といえば、
    秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行
    が一番好きだと以前も書いたが、この87番歌もいい歌だと思う。

    千人万首を見ると、寂蓮法師、どうも夕暮がお好きと見え、以下6首も載っていた。いずれもいい歌と思う。


    千五百番歌合に
    思ひたつ鳥はふる巣もたのむらんなれぬる花のあとの夕暮(新古154)


    題しらず
    なぐさむる友なき宿の夕暮にあはれは残せ荻の上風(三百六十番歌合)

    題しらず
    さびしさはその色としもなかりけり槙まき立つ山の秋の夕暮(新古361)

    五十首歌奉りし時
    むら雨の露もまだひぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(新古491)


    入道前関白、右大臣に侍りける時、家の歌合に雪をよめる
    ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮(新古663)


    建仁元年三月歌合に、遇不遇恋の心を
    うらみわび待たじ今はの身なれども思ひなれにし夕暮の空(新古1302)

    そして、一茶を彷彿とさせる歌も見つけたので、思わず、ニンマリ、この歌を紹介して、投稿を終わりにします。


    左大臣家十題百首内
    牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば頼みそ(寂蓮法師集)

    • 百々爺 のコメント:

      ・広辞苑、再買いしましたか。若い時は使う余裕ないですもんね。「六十過ぎたら広辞苑」、、岩波書店の広告コピーにどうでしょう。
       →私はカシオの電子手帳です。必携です。
       →それにしても広辞苑、いかに源氏物語からの引用が多いことか。

      ・村雨は群れ、時雨は過ぐるですか。なるほど。村雨、村に降る雨じゃない。「村」の字は当て字ってことですね。
       →「村雨」と聞くと剣術士の刀のイメージがあります。
       
       幼い頃親しんだお菓子を思い出しましたか、いいですね。本家「村雨」と「むらしぐれ」ですか。赤福と御福みたいなものですかね。
       →伊勢の津のお菓子といえば当然「井村屋の羊羹」であります。

      ・寂蓮は夕暮がお好きでしたか。まあ夕暮マニアみたいなもので日々「平安町の夕日」を眺めていたのでしょうね。
       →さすがに「夏の夕暮」はありませんね。「夏は夜」、夕暮じゃまだ暑くってたまりませんものね。

      牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば頼みそ
       百合局さんからも紹介ありましたが、この歌一茶ですね。
       →「牛に蝸牛、馬に雀」と覚えておきましょう。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    百々爺の解説にあるように、寂蓮法師は温厚で配慮深い人物だったようですが、鴨長明の無名抄69話に出てくる「三体和歌会」のエピソードも寂蓮のそうした好ましい人柄を裏付けています。三体和歌会というのは、99後鳥羽院が1202年に87寂蓮、91良経、95慈円、97定家、98家隆、長明という凄いメンバーを集めて和歌所で催した歌会です。長明が事前に寂蓮に見せた三体和歌会への出詠歌の中に「雲さそう天つ春風かをるなり 高間の山の花ざかりかも」という歌がありました。この歌について、寂蓮は「よし」として合格点を与えたのですが、実は寂蓮も「高間の桜」を詠んだ「かづらきやたかまの桜さきにけり たつたのおくにかかる白雲」という歌を出詠していました。三体和歌会で出詠歌が詠み上げられて、これを知った長明は「『わが歌に似たらば違へん』など思ふ心もなく、ありのままにことはられける、いとありがたき心なりかし」と記し、寂蓮の寛大な心を高く評価しています。

    六条藤家の顕昭と御子左家出身の寂蓮との六百番歌合における有名な「独鈷鎌首」論争。登場する二人は友人だったようですが、タイプや人柄は対照的だったようです。顕昭は歌学書も著し博学をもって世に知られていたのに対して、寂蓮はとりたてて学問がなく直観の才智で動くタイプでした。しかし、歌を詠むと直感型の寂蓮の方が良い歌を詠んだりしていました。顕昭は「和歌の道はそう難しいものではない。なぜなら、学問のない寂蓮でも良い歌が詠めるじゃないか」と言い、他方で、寂蓮は「天下の芸道のうち、和歌の道がもっとも難しい。なぜなら、学問のある顕昭でさえ、ろくな歌が詠めないじゃないか」言っていたようです。そして、二人が論争を始めると、見ている女房たちは「またいつもの独鈷鎌首じゃ」と笑いあったとのことです。←ネットで見付けたこのパラの話は、投稿時に百合局さんのコメントの現代語意訳版であることに気付きましたが、両者を読み比べるのも一興ではと考えて、あえて削除しないで投稿しました。

    最後に87番歌は次の2点がユニークという見方もあるので、紹介しておきます。①秋の歌は紅葉や月が詠まれ、色のイメージは赤や黄色あるいは青であるのに対して、87番歌は霧と真木が詠まれ、色は白と緑である、②雨、露、霧という水の三態を詠んだ化学的な歌である。この見方はともかく、「むすめふさほせ」の最初の一枚札であり、分かり易くて、静かな余情を感じさせる歌なので、智平も子供の頃から好きな歌の一つです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・三体和歌会のエピソード紹介ありがとうございます。
       1202年ですか。後鳥羽院23才、和歌に情熱を燃やし始めた新進気鋭の頃ですかね。寂蓮は最晩年、というより亡くなる半年ほど前のことのようです。さすが後鳥羽院のお召しとあってメンバーは凄いですね。翌年宮中で九十の賀を後鳥羽院にしてもらった大御所俊成は入ってませんか。まあ御大にはご遠慮願ったというとこでしょうか。

       寂蓮と長明。二人の出詠歌がダブってたのですか。大先輩である寂蓮なら長明(45才)に「ダブってるぞ、遠慮しろ」と一言言えば済んだ。そこを何も言わずいいんじゃないのと合格点を与えた。いいですねぇ。
       →どちらの歌がいいのか分かりませんが、話としてはいいんじゃないでしょうか。無明抄に残してもらったおかげで寂蓮さんの評価も上がったことですし。

      ・「独鈷鎌首」論争の顕昭と寂蓮は友だちだったのですか。六条藤家と御子左家と所属チームは違っても同じ和歌の道を歩むライバル同士として互いに一目置き合ってたということですかね。世代もほぼ同じですしね。

       「和歌 vs 学問」どこかで同じような話ありましたね。74俊頼と75基俊、いや違うかな。思い出せません。
       →和歌のような文藝(感覚・閃き)と学問(知識・分析)とは得手不得手が違うんでしょうね。
       →将棋の米原さんが「自分は将棋指しになったが兄貴たちは頭が悪いので東大に行った」と言ったとかいう逸話を思い出しました。→関係ないか。

      ・「雨、露、霧という水の三態」ですか。なるほど。
       「87番歌はどんな気象状態を詠んだものか地学的に答えよ」
        って中高の理科のテストに出したら面白いかも。
        →もっとも87番歌の「露」は雨粒の意味でちょっと違うかもしれませんが。 

  5. 百合局 のコメント:

    余談です。
    国立劇場から面白い知らせがありましたので、以下にコピーします。
    見てください。楽しめると思います。

    あぜくら会会員 様

    このたび、世界的に流行している、「ピコ太郎」の動画「PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen)」の国立劇場版「PNSP(Pen-Nurisampo-Sampo-Pen)」を作成し、動画投稿サイト YouTube に公開しました。

    長唄囃子連中によるアレンジで、出演は、唄:杵屋佐喜、三味線:東音塚原勝利・東音山口聡、笛:藤舎推峰、小鼓:藤舎呂英、大鼓:望月太津之、太鼓:藤舎呂凰のみなさんです。
    ぜひこちらをご覧ください。(動画投稿サイト YouTube へのリンク)

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。国立劇場もやりますねぇ。見せてもらいました。面白い。こうしてドンドン色んな層に営業攻勢をかけるのがいいと思います。何せ何か月か前全く無名だったピコ太郎が今や誰もが知ってる有名人ですからねぇ。ネットの力は凄いのです。
       →まあ1年前は「トランプ?フー?」だったお方が今や米大統領ですけどね。

      (このPNSPのこと今朝の読売新聞でも紹介されていました)

  6. 文屋多寡秀 のコメント:

    87番歌 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ

    これも作者はお坊さん、寂蓮法師(?~1202)。この人は名人・藤原俊成の甥にして、養子になった。この歌は新古今集にあって、夕べの歌ベストスリーに入るという評価もある。が、それとは別にかるた競技ではとても大切な一枚。すなわち「むすめふさほせ」の一番最初の札である。

     秋は寂しい。この寂しさが平安歌人の好みに逢っていたのだろう。が、かならずしも寂しくは無い秋の歌の一例である。

     村雨は秋から冬にかけて降る激しい雨だ。村にだけ降るはずもないが、この歌は田園風景。雨後に日が射し、濡れた槇の葉からムクムクと霧が立ちのぼっている。一服の絵画ですね。ここまでが阿刀田氏の見解。

     一方、吉海氏は以下の通り。
    勅撰集に百十七首入集している寂連の代表歌としては「新古今集」において「三夕の歌」と絶賛された有名な「寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」(361番)歌があるにもかかわらず、定家はそれを撰んでいない。(三夕の歌はすべて不採用)。そのかわりにやや類似表現を有する「村雨の」(新古今集)歌が撰ばれている。定家は、最初この「村雨の」歌をあまり高く評価していなかったらしく、「八代抄」以外の秀歌撰には採用していない。一方の「三夕の歌」も同様に評価は低いのだが、それでも「秀歌体大略」に撰入されている分だけ「寂しさは」歌の方が有意であった。
     結局この「村雨の」歌は、色彩のない一幅の墨絵のような美を具現した歌として中世において再評価されたのであろう。
     そして寂連歌は「村雨・露・霧」という景物を通して、大自然の刻々と変化する瞬間の美を見事に詠出しており、歌の背後に寂連の悲哀を読み取ることもできる。
     このように表現史をたどっていくと「村雨の」歌はほとんど非歌語の組み合わせによって成り立っていることが明らかになってくる。しかも「秋の夕暮」という提示があるにもかかわらず、秋の景物たる「村雨・露・霧」を使用しており、下手をすると初心者の歌病ともなりかねない危険な詠みぶりなのであるが、かえってその点に寂連歌の新鮮さが読み取れる。
     
     早い話が我々がよくやる俳句での「季重なり」ということでしょうかね。

    • 百々爺 のコメント:

      阿刀田さん「かならずしも寂しくは無い秋の歌の一例」 
      吉海先生「色彩のない一幅の墨絵のような美を具現した歌」

      お二人の見解を総合すると見えてきますかね。
      寂蓮の三夕の歌
       さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮

      ここでは「さびしさ」ともろに表現し「色もない」との表現で色のことを述べている。これじゃあ説明過多ではないか。そこで寂蓮さんは、もっとシンプルに普通の言葉でさらりと秋の夕暮を詠ってみようとの境地に至り、詠んだのが87番歌。そう考えると俄然この87番歌が新鮮な歌に思えてきます。
       →説明過多はダメ、省略こそ命、、、宗匠の声が聞こえてきます。

  7. 枇杷の実 のコメント:

     村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ
    この歌の結句「秋の夕暮れ」は好んで本歌取りされ、数多くの派生歌が詠まれた。なかでも、新古今集にある三夕の歌は名高い。その一つ寂蓮自身の歌「さびしさ・・」
    よりも実際の秋の夕暮れ時の景色が、より実感を伴って感じられる。「村雨」や「霧立ちのぼる」という表現には情緒が漂っているし、そこには杉・桧の美称である「真木の葉」からの香りという嗅覚までを交えて見事に詠み切っている。(板野博行)
    百人一首で一枚札となったキーワード「村雨」を調べてみると、強く降ってすぐ止む雨、にわか雨とある。
     急がずば濡れまじものを旅人の後より晴るる野路のむらさめ (太田道灌)
    日本語には実に様々な「雨」表現する言葉がありますね。
    季節から見た雨に、春雨、麦雨、梅雨、五月雨、秋雨、秋霖、時雨、氷雨。
    また、降り方から見た雨には、糠雨、霧雨、細雨、煙雨、涙雨、慈雨、多雨、豪雨、雷雨、長雨、地雨、俄雨、通り雨、村雨、夕立、白雨、驟雨。
    村雨が日本文学に登場するのは
    平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の海女の名「松風・村雨」(在原行平の#16、立ち別れ・・はこの姉妹との離別の際に詠んだもの)、南総八犬伝に登場する架空の刀「村雨」、大日本帝国海軍所属の駆逐艦「村雨」、上方落語「七度狐」にでてくる銘酒「むら雨」。その煮売屋でのあらすじをコピペすると、
    あのなぁ、酒はあるか? 何々、「村さめ」と「庭さめ」と「じきさめ」?「村さめ」は村を出た辺りですぐ醒める、「庭さめ」は店を出た途端にすぐ醒める、「じきさめ」は飲んだ傍からすぐ醒める・・。呑まん方がましや、そんな酒。ぎょ~さん酒ん中へ水回すんやろ?そんなことはしませんで、水ん中へ酒回します。
    ところで、広重の東海道五十三次に描かれたにわか雨(白雨)の庄野は吾が郷、亀山の前泊地であります。(殆ど余談でした)

    • 百々爺 のコメント:

      ・「真木の葉」からの香りが嗅ぎとれる。
       そうか、香りが漂ってくる歌って素敵ですね。昔は槇の木が庭木としてよく使われてましたよね。黒い実がなって、それを採って遊んだりしたものでした。最近はついぞ見かけません。庭木にも流行すたりがあるんでしょうね。
       →先日話が出た鶴岡八幡宮の巨大な槇(柏槇)、ネットで見てみました。大銀杏なき後これが鶴岡八幡宮のシンボルツリーになっていくのでしょうか。

      満載の余談、ありがとうございます。こんなのが楽しくていいですね。
      ・「雨」の表現、すごいですね。でも大体は何となくでも分かりますよね。これら多数の雨の中で一番難しいのが「村雨」じゃないでしょうか。
       →私はこのブログ書くまではボンヤリと「村落に降る雨」だと思ってました。「群になって降るにわか雨」とは知りませんでした。

      ・駆逐艦に「村雨」ですか。何ででしょう。あんまり勇ましくないですよね。八犬伝の刀からですかね。

      ・五十三次見てみました。
       桑名-四日市-石薬師-庄野-亀山-関-坂の下(三重県は7か所)

       庄野の白雨は大分横なぐりですね。傘が傾いている。早く亀山へと急いでる感じですね。

       坂の下から鈴鹿峠を越えると滋賀県の土山。広重絵はここも雨(春の雨)。五十三次で雨が描かれてるのは庄野と土山の2ヶ所。やはりこの辺り雨が多いイメージなのでしょうか。

       →(鈴鹿馬子唄)「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

  8. 小町姐 のコメント:

    「村雨」はどこかで聞いたか読んだ刀剣の名前だとの記憶がありましたが思い出せずにいました。
    枇杷の実さんのコメントで納得、南総里見八犬伝でした。スッキリしました。

    それと百合局さん紹介の国立劇場、「ピコ太郎」の動画「PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen)」拝見しました。
    お堅い伝統芸能もこう言った試みで門戸を開いて欲しいですね。

  9. 百々爺 のコメント:

      【お知らせ】

     小町姐さんが言っておられた三重テレビ制作の「斎王~幻の宮の皇女~」シリーズ、明日1月22日(15:00~15:55)からBSフジで放映されます(毎週)。まだの方は毎週録画、お忘れなく。。

  10. 小町姐 のコメント:

    [お知らせ]
    お知らせついでにもう一つ。
    一連の放送大学再放送「和歌文学の世界」から{「源氏物語」の和歌}で講師、島内景二氏から紹介された本である。
    塚本邦雄 「源氏五十四帖題詠」 ちくま学芸文庫
    塚本邦雄は現代前衛歌人、島内景二は国文学者で源氏物語の研究者。
    塚本が54帖の歌を詠み解説している。
    巻末にはその二人の対談がありこれが面白かった。
    中でも醜女と老女のところで源典侍に触れ彼女が「伊勢物語」でいうところのツクモガミの老女になぞらえているとのこと。
    伊勢物語の主人公の業平は三七三三人の女性と恋愛したとのことで(ミナサンザン)だったと覚えられその中から12人を選抜したのが伊勢物語だとの島内氏の解説。
    こういう本があるとは知らなかったので今更のように興味津々でご紹介しておきます。

    • 百々爺 のコメント:

      ご紹介ありがとうございます。

      五十四帖題詠、青玉さんだけじゃなかったのですね。
      面白そう、読んでみます。
      (つくも髪 伊勢物語第六十三段 は今91番歌を予習してたら出てきたので読み直したところです。色々つながってますねぇ。)

      • 小町姐 のコメント:

        塚本、島内対談の途中で投稿、先ほど対談を読み終え今夜解説に入ります。
        対談の終わりの方で面白い記事を発見。
        91番、後京極摂政太政大臣(藤原良経)のきりぎりす・・・について塚本氏が自著で「こんな歌を取り上げた定家に怒りだけでなく殺意まで感じると過激な発言、また後鳥羽院の審美眼はかなり支離滅裂だと・・・
        島内氏は百人一首は玉石混淆のアンソロジーとも。
        これ以上書くと楽しみを奪うのでこの辺でおきますがとにかく「源氏物語を読むと言う事の本当の意味は粗筋を知ることではなく物語に書かれた和歌や散文の一言一句を自分の心に刻み込みそれを他の作品や芸術と響き合わせることなのだ」との島内氏の言葉に共感。まさに百々爺さんの実践そのものと重なり合います。

        • 百々爺 のコメント:

          ありがとうございます。益々興味津津です。

          えっ、作者の91良経にでなく選んだ定家に殺意まで感じるんですか。えらく思い込みの激しいお方ですね。どこかの新大統領みたい。

          明日91番歌の原稿書こうと思ってたのですが過激派先生の本読んでからにします。
           →私はいつも冷静、、、というか鈍感なので染まりませんけどね。

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