88番 忠通、崇徳院につながる皇嘉門院別当 難波江の

皇嘉門院別当、全く知らない人でした。でも色々調べてみると定家がこの歌人を入れたのには深い理由があった。当時の人からすれば皇嘉門院の名はなくてはならなかったものなのでしょう。待賢門院と同じです。

88.難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

訳詩:    難波江の仮寝の宿の一夜の契り
       蘆の刈り根の一節ほどのそんなはかない
       その行きずりの恋ゆえに 私はこうして
       身を尽し 捧げ尽して 波のまにまに
       恋いわたらねばならないということでしょうか

作者:皇嘉門院別当 生没年未詳 源俊隆の女 皇嘉門院(崇徳院皇后聖子)の女房
出典:千載集 恋三807
詞書:「摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」

①皇嘉門院別当 父源俊隆(村上源氏)ともに生没年が分からない。
・別当は1175兼実家の歌合に出詠、皇嘉門院が没した1181には存命であった。
 →まあ生年はご主人たる皇嘉門院(1121-1181)と同じとしておきましょう。
 →西行1118生、崇徳院1119と同年代。保元・平治の乱をまたいで生きた人であった。

・別当その人については何も分からない。恋をしたのか結婚したのかも不詳。
 ご主人として仕えた皇嘉門院が重要。
 (別当=家政を担当する部署の長、皇嘉門院の身の回りを取り仕切っていた女官長)

 皇嘉門院聖子=77崇徳院の皇后 76忠通の娘
 ずっと摂関家からの入内(立后)は途絶えていた。80年ぶりに摂関家から皇后が出た。
 →ここで聖子に皇子が生まれてれば歴史は変わっていた。残念ながら子ができなかった。
 →崇徳院の跡目に皇子がつき忠通が外祖父。保元の乱は起らなかっただろう。
 (この辺、76番・77番と重複している) 

 子ども(皇子)ができなかった聖子の悲痛な歌
  何とかや壁に生ふなる草の名よそれにもたぐふ我が身なりけり

②歌人としての皇嘉門院別当
・皇嘉門院聖子は忠通の娘、九条兼実の異母姉。即ち九条家が実家。
 別当は九条兼実家の歌合(1175、1179)に頻繁に出詠。
 →皇嘉門院後宮を代表して登場してたのであろう。

・千載集以下 勅撰集に9首
 →これは少ない。百人一首に入選する大歌人とは言えないだろう。

・何故88別当の難波の歌が入選したのか。
 「別当は、皇嘉門院という名が冠されていることによって、自動的に崇徳院の悲劇を蘇らせる仕掛けになっている。もしそうなら、かつて宮であった難波も、栄枯盛衰の象徴として浮上してくるし、澪標も身を滅ぼす意を内包していることになる」(吉海直人)

 →定家はとにかく「皇嘉門院」(崇徳院后)という名を百人一首に入れたかった。
 →繋がりとしては76番忠通-77番崇徳院-88番皇嘉門院である。

・皇嘉門院はさておいて別当の歌
 摂政右大臣(兼実)の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける
  忍び音の袂は色に出でにけり心にも似ぬわが涙かな
(千載集)
   →本歌 40忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)

 うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰集)
  →逢えなくて泣く、逢えて泣く。。。いいですねぇ。こんなのきいたら男は愛おしく思ってしまう。

・千人万首でも別当の歌は全て恋の歌。別当が実際どんな恋をしたのか分からないが、女房たちが艶を競い合った華やかな皇嘉門院後宮にあって歌の上手な別当にはさぞ貴公子たちが群がり集まったことであろう。

③88番歌 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
・「旅宿逢恋」 旅先での恋 一夜の情事
 兼実家歌合での歌、何年の歌合か不詳だが1175年の歌合とすると皇嘉門院聖子は53才。別当もそのくらいの年令だったのだろう。
 →若かりし昔を詠んだ歌である。

・短い旅での一夜の契り。これを背負って生きていかねばならないのか、自問
 答えは「そう、そうしよう」という決意。
 →旅先かどうかはともかく別当にも遠い昔忘れられない一夜の契りがあったのであろう。

・刈り根=仮寝、一節=一夜、澪標=身を尽し、恋ひ=乞ひ 掛詞のオンパレード
 技巧を尽した歌、定家はこの技巧を評価したのであろう。

・難波江 淀川の河口 京から瀬戸内海への出口 水上交通の要所
 百人一首には難波は3首出てくる(「18住の江の」を入れると4首)

 19 難波潟みじかき蘆のふしのまも逢はで此の世を過ぐしてよとや(伊勢)
    →私は伊勢のこの情熱的な歌が好き、88番歌よりいいと思っている。

 20 わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(元良親王)
    →88番歌の本歌ともされる。
    →「一夜めぐりの君」と言われた元良親王。御集には遊女も登場する。

・難波は交通の要所で旅宿は勿論、遊郭も建ち並んでいた(江口、神崎)。
 作者(別当)は自分を遊女に見立てて女の宿命を詠みこんだとの説も多い。
 →後宮の高級女房と下賤な遊女。面白い対比だと思う。

・「女は一夜の恋にも身を尽すほどの宿命を背負ってしまう」(大岡信)
 →空蝉や花散里のことを思い出す。

④源氏物語との関連
 20番歌「わびぬれば」でも触れたが源氏物語第十四巻「澪標」がそのまま思い起こされる。

・明石から帰京した源氏はお礼詣りに住吉大社に出かける。そこには偶然明石の君も来ており源氏の喜びの歌に身分違いの自分の行末を案じる歌を返す場面

 (澪標11)
 堀江のわたりを御覧じて、「いまはた同じ難波なる」(元良親王)と、御心にもあらでうち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと例にならひて懐に設けたる柄短き筆など、御車とどむる所にて奉れり。をかしと思して、畳紙に、
 (源氏)みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな

 (明石の君 返し)
     数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ

 →こまめで用意周到な惟光は筆と紙を差し出す。
 →源氏の子を生んだものの源氏は京へ帰ってしまいこれから自分はどうなるか分からない。明石の君の不安と決意は88番歌の歌意に通じるのではないか。 

・続いての京への帰りの描写には遊女も登場している。
 (澪標11)
 道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心にはなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と聞こゆれど若やかに事好ましげなるは、みな目とどめたまふべかめり。

  →源氏一行の華やかな帰路行列。声をかけてくる遊女たちにお供の若者たちが応じる。

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88番 忠通、崇徳院につながる皇嘉門院別当 難波江の への19件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    皇嘉門院別当、私もこの名前は初耳です。
    門院と言うから女性には違いないけど聞いたことないし皇嘉門院別当って何者?
    調べた事は皇嘉門院はあの崇徳院の皇后で別当はその後宮に仕えた女房とのこと。
    女院は藤原忠通の女で兼実とは異母兄弟。その別当女房として九条家の歌合に参加していたそうである。
    予備知識は全く無し、百々爺さんの解説を待つばかりであった。
    別当とは家政を担当する部署の長、皇嘉門院の身の回りを取り仕切っていた女官長との事、いつも門院の側にいた人なのですね。
    その別当の歌
       難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
    百人一首にいくつか「灘波」があったな~と思いつつもそれが何番で誰のどんな歌だったかも思い出せない。
    これも百々爺さんがちゃんと解説してくれていて更に皆さんからのコメントで新しい情報もどんどん増えていく有り難いブログである。
    掛詞、縁詞、技巧の限りを尽くした定家好みの歌。
    それよりも一夜限りの恋のアバンチュールっていうのがいいな~
    後も先もないと言う事ですよね。この時代にしてと言うかこの時代だからこそか?
    自分自身、経験のない事には一種憧れがある。
    源氏物語の空蝉や花散里、まさにそうですね。夕顔はどうだったかしら?
    「澪標」と言えばもう明石の君。
    塚本邦雄の澪標の題詠を紹介しておきましょう。
       身をつくさざりしはわれか鈍色の紙に明石としたためてける
    こうやって源氏物語に自然と繋がっていくのも文学の面白さであり「源氏物語」が源氏物語たる所以でしょうね。

    • 百々爺 のコメント:

      いつもいろんな所に目をつけコメントしていただきありがとうございます。周辺情報連絡もありがたいです。

      ・門院が付けられた人、百人一首には80待賢門院堀河、88皇嘉門院別当、90殷富門院大輔と三人が登場します。女院、門院についてまとめてみました。

       女院
       皇后ないしそれに準ずる身分(内親王を含む)の女性が出家したときに宣せられる称号。一条天皇の母詮子(兼家の娘、道長の姉)が最初(東三条院)
        →それまで出家すれば后妃の待遇は停止だったが女院とすることで后妃待遇を継続させた。
        →姉に世話になった道長が推し進めたのであろうか。

       門院
       女院の名称に内裏の門名が付けられたもの(門を称号としてない女院もいる。二条院・八条院など)。一条帝中宮彰子が上東門院と呼ばれたのが最初。大内裏の門は禁門と呼ばれ十四あった(待賢門・皇嘉門・殷富門ともに大内裏の門)。これだけでは足らなくなり内裏の外郭内郭の門名も付けられるようになった(建礼門・建春門など)。
        →上東門=土御門、道長の私邸、彰子の里弟。
        →門院、これも道長摂関政治の産物でしょうかね。

      (大内裏・内裏の門については「百人一首 今昔散歩」p182-183参照)

      ・一夜限りの恋のアバンチュール、いいですね。憧れますよね。でも現実にはそんな割り切れるもんじゃない。きっとこの時代だからでしょうね。
        →源氏は一度契った女性の面倒はきっちりみた。空蝉しかり、花散里しかり。
        →一夜限りの不良親王「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」なんてよく言えたもんですよね。

      ・塚本邦雄さんの題詠に対抗し勝手ながら青玉さんの題詠&清々爺のコメントも載せさせていただくことにしました。
        
        みをつくし浪路さすらふわが思ひ難波の潟に砕け散るかな
         →澪標の歌、見事です。ありがとうございます。
        そんな不安に苛まされながらも明石の君は源氏の懐へ飛び込むのですね。

  2. 松風有情 のコメント:

    そうですね。源氏物語十四帖『澪標』を思い出します。
    光源氏、願ほどきの住吉大社参詣。
    豪華な一行に折から来あわせた明石の君は圧倒されて引き返す場面でした。
    十四帖の歌絵に少し加筆し色彩を変えてみましたので投稿します。
    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/01/KIMG0062_20170123080937.jpg

    72候を感じながら、昔のベストセラー
    『からだにおいしい野菜の便利帳』を引き出し加えて釣り師直伝魚料理レシピ本を買いました。春夏秋冬の食も楽しみたいと思います。

    みをつくし おみおつけにも 春尽くし
    (実を土筆 御御御付にも 春尽くし)

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      ・水色が瑞々しくっていいですね。住吉大社、海沿いにあったのでしょうか。澪標の構造物、でかいんですね。船の安全にはかかせなかったのでしょう。難波がいかに多くの船の往き来で賑わったのかが分かりますね。

      ・七十二候を感じながら料理、いいですね。まあ俳句じゃなくって川柳でもいいじゃないですか。楽しんでください。

      • 小町姐 のコメント:

        松風有情さん
        澪標の絵ありがとうございます。
        前回のと比べてみました。全体に色使いが明るくなりましたね。
        巫女さんの衣裳の赤が映えていますし帆を張った船もいいですね。
        住吉さん、行ったことがありません。
        和歌の上達を願って住吉参りをしたのは道因法師でしたね。

        • 松風有情 のコメント:

          気付いて頂きありがとうございます。
          ご指摘全てその通りです。
          息子の嫁さんが新しい色鉛筆をプレゼントしてくれましたが、優れ物で水でなぞると水彩に変化します。前回の鹿から使っていますが今回の修正にも役立ちました。私の源氏物語絵本には光源氏&明石の君の歌にブラスして小町姐さんの歌

          みをつくし 浪路さすらふわが思ひ
          難波の潟に 砕け散るかな(青玉)

          もしっかり頂いていますよ。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

    88番歌 難波江の葦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

    何故88皇嘉門院別当の難波の歌が入選したのか。
    百々爺は吉海氏の記述から見事にその解を引き出してます。

     「別当は、皇嘉門院という名が冠されていることによって、自動的に崇徳院の悲劇を蘇らせる仕掛けになっている。もしそうなら、かつて宮であった難波も、栄枯盛衰の象徴として浮上してくるし、澪標も身を滅ぼす意を内包していることになる」(吉海直人)と。

    誠に持って明解です。

    もう少し引用してみます。
    皇嘉門院別当の歌は「千載集」以下の勅撰集にわずか九首しかとられていない。しかも百人一首成立以前では「千載集」に二首、「新勅撰集」に二首、計四首しかとられていないのだから、常識的に考えれば百人一首に撰ばれるような歌人ではないはずである。その別当の「難波江の」歌にしても、元良の「詫びぬれば」(20番)歌、及び伊勢の「難波潟」(19番)歌と類似している。特に元良歌は、古注(「米沢抄」・「頼常聞書」等)において本歌と認定されている。
     「難波江の」歌には序詞・掛詞・縁語が駆使されており、非常に技巧的な歌であった。定家はこの歌を、決して高く評価しているわけではなかったが、晩年の定家はこういった技巧を積極的に評価しているのであろう。
     それにしても、このわずか百首の中に、難波の類歌を三首も入れる必然性はあるのだろうか。そもそもこの歌は、「千載集」807番の詞書によれば九条(藤原)兼実の家で催された歌合の歌であった。その兼実は忠通(76番)の子であり、良経(91番)の父である。また崇徳院の皇后聖子(皇嘉門院)とは異母姉弟の関係であり、別当はその線で歌合に参加しているのである。
     こうしてみると「別当は、皇嘉門院という名が冠されることによって、自動的に崇徳院の悲劇を蘇らせる仕掛けになっている。もしそうなら、かつて宮であった難波も、栄枯盛衰の象徴として浮上してくるし、澪標も身を滅ぼす意を内包していることになる」、と。

    そして、いつもの阿刀田氏は
    皇嘉門院別当はせつない恋を詠んでいる。この歌人は皇嘉門院なる中宮に仕えて別当のポスト、つまり長となった人。偉いお局さま(女官)。
     歌は千載集にあって、歌合わせで「旅宿逢恋と言える心を詠める」とそえてある。ホテルで恋のひとときを過ごしたときの心を歌った、というわけだ。その意味内容は・・・大阪湾の入り江に葦がたくさんはえている。その荒涼とした風景にも似た旅の短い仮寝の恋、たった一夜のアバンチュールに身を尽くして思い続けて生きねばならないのでしょうか、と問いかけている。
     ふんだんに掛詞を使っている。「かりね」は刈根と仮寝、「ひとよ」は葦の一節と一夜、「みをつくし」は「身を尽くし」と澪標、これは航路を示す目印のことだ。せつない恋と入江の風景がよく呼応している。

    かように、「ふ~ん、そうなんだ」風の、ありきたりのコメントに終始しています。

    • 百々爺 のコメント:

      アカデミックな吉海先生と若者目線でくだけた調子の阿刀田氏。うまく使い分けて紹介いただいておりありがたく思っています。

      ・皇嘉門院の名を残すため別当の歌を入れるところまでは必然性もありいいと思うのですが、何故また「難波」なのか。くど過ぎますよね。別当の歌で勅撰集に入っているのは4首。限られた選択肢ですが解説欄に挙げた次の歌の方がいいと思うのですがいかがでしょう。

       うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰集)
       
       →悲恋や忍ぶ恋を詠むのをモットーとする王朝和歌でこのように恋の歓びを詠んだ歌は定家の選択肢にはなかったようですね。定家八代抄に入っている別当の歌は87番歌だけです。

      ・旅の夜と言うと一夜のアバンチュールが思い起こされる。いつの世でも変わらないのでしょう。私の昭和歌謡曲千曲リストからピックアップしても切りがないほどあるでしょうね。
       →青江三奈の歌なんか殆どそうでしょう。札幌ブルース・長崎ブルース・新宿サタディナイト、、、ようし、今度歌ってみよう!

  4. 百合局 のコメント:

    「旅宿逢恋」という題そのものがドラマチックですよね。
    いろいろのパターンを想像力を駆使して詠むのでしょうね。
    だから現代の読者もそれぞれ勝手気ままに88番歌を読むことになります。

    私は19番伊勢の歌、20番元良親王の歌あたりを思い浮かべて88番歌を作ったように感じます。
      難波潟みじかき芦のふしの間も逢はでこの世をすぐしてよとや   伊勢
      わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ  元良親王

      難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき  

    伊勢の情熱的な女心、切なさ、元良親王の一夜めぐりも響かせて、皇嘉門院別当は技巧のかぎりをつくして88番歌を詠じたのではないかと思います。
    難波という地名の持つ意味の推移、皇嘉門院別当という言葉からくる諸々の思いを掘り下げて深読みする解釈もできますが、私は普通に題詠の恋の歌だと思います。
    別当が読んできた書物、和歌などその集積に自身の恋の経験も少し入れて、この歌を詠じたことでしょう。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「旅宿逢恋」という題そのものがドラマチック
       全くその通りですね。こういう題が与えられたらどう対処するんでしょう。親しい友人とかお付きの人たちが集まってブレーンストーミングでもやったんですかね。旅の場所をどこにするかが一番の問題でしょう。場所によって縁語を考え適応する歌語を引っ張りだす。やはりこねくり回しの世界になりますね。
       
       →別当は難波くらいしか遠出したことがなかった。それで仕方なく難波を選んだ。難波を選んだ時点で縁語・歌語そして歌意も限定されてしまった、、、ということでしょうか。

      ・下七の「恋ひわたるべき」がいいなあと思ってます。別当には忘れられない恋があった。その恋は短くして終わってしまった。振り返って考えるとああすればこうすれば恋は続いていたのかと悔やまれる部分もある。そういう自分の気持ちを自問したのが「恋ひわたるべき」だと思います。

  5. 浜寺八麻呂 のコメント:

    この歌、よい歌なのかそうでもないのか、私自身に評価する力はなく、皆さんのコメントと諸先生方の解説を読ませていただきました。繋がりとしては76番忠通-77番崇徳院-88番皇嘉門院であり、面白いと納得ですが、歌自身の評価はまだなんとも解りかねています。
    だから、何故定家がこの歌を百人一首に選んだか、先生方の解説も必要なのだろうと、素直でない八麻呂は考えております。

    一方、松風さんの源氏物語十四帖『澪標』の画は、率直によいなと、感心して観ています。

    余談ですが、先週シネマ歌舞伎の阿古屋を観てきました。
    歌舞伎座での生の舞台は、目の前に舞台があり、打って響く距離で演じられ、玉三郎と一体化された感じで鑑賞でき、映画は、計算された角度から細部まで映し出され、踊り・演奏・歌の見せ所が客観的に観られ、それぞれすばらしかったと思います。でももう、阿古屋をちゃんと演じられる俳優さんなど出てこないのではと、入らぬ心配をしています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・歌自身の評価、計りかねてますか。確かに。でも気楽に行きましょう。「こんな歌はつまらん!」と大滝秀治風に叫べば気持ちよくなりますよ。

      私の読みは歌自身は二の次で時代背景と人物模様が中心なので87番歌はなくてはならないものと積極評価してるんですが。

      ・阿古屋、明日見に行ってきます。歌舞伎、舞台で見てないので比較のしようもありませんが、八麻呂さんのコメントを頭に入れて見てきます。玉三郎、楽しみです。

    • 百々爺 のコメント:

      昨日お勧めのシネマ歌舞伎「阿古屋」見てきました。

      ・一応ネットで予習して行ったとは言え、歌舞伎には殆ど馴染みがなく不安でしたが、シネマなので解説などもあり楽しむことができました。でも地方の語りの部分がよく分からず英語の映画を字幕なしで見るようなもどかしさを感じました。シネマなんだから字幕があってもいいかなと思いました(生で見るときは台本覚えていくんでしょうかね)。

      ・玉三郎、出てくるだけで圧倒的な存在感があるって聞いてましたがその通りだなあと思いました。年令的(体力的)にはもういっぱいいっぱいかもしれませんが、それでも醸し出される色香はすごい。阿古屋は難しい芝居のようでシネマに残せてよかったなと思いました。

      ・奇しくも阿古屋は源平時代の遊女の話。遊君阿古屋は難波の遊女ではなかったのでしょうが契った男(景清)の子を孕み一生を「身をつくして恋わたるべき」と心に決めている遊女。何だか繋がってるなあと思いました。

  6. 枇杷の実 のコメント:

     難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
    元良親王の20番歌の本歌取りとされる。
    三十一文字の中に技巧を限界まで駆使した歌、「新古今調」の真骨頂とも言える歌である。連想ゲームみたいなところがあり、難波江→葦→刈り根(仮寝)→一節(一夜)→澪標(身を尽くし)恋渡る、とつながる。風景を詠みつつ、一夜限りの男女の関係が永遠の恋に変わっていく様を見事にとらえた名歌だ。(板野博行)
    「難波江」というのは葦の名所であると同時に、荒涼茫漠たる海辺のイメージを喚起させ、また伊勢の歌(19番)にあるように儚い恋を象徴する歌枕になっていた。旅の宿での行きずりの関係のはずが、身を尽くして一生恋い慕うようになってしまった女性の思いを詠んでいる。一目逢ってから、今や「君の虜」となってしまった。
    摂政右大臣家の歌合において、題詠「旅宿逢恋」として、仮寝の一夜が要請されての歌作りとされる。「行きずりの恋」がテーマで公式行事を行うとは驚きというか、興味深い。母系社会で通い婚の当時は性に対してはこれほど開放的で、男女間の交際は大変におおらかであり、また仏教や儒教などの道徳規範がまだ浸透していなかった社会であったという事でしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・本当にこの歌、連想ゲームですね。技巧の極。その意味では名歌と言えるかもしれません。でもこの手法ってAIが一番得意とするところではないですかね。AIに先行歌を全部覚え込ませ、「難波」「行きずりの恋」ってキイワードを入れてポンとクリックすればスラスラスラっと出てきそうな気がします。
       →そういう意味では秀才の歌。天才の歌ではないんでしょうね。

      ・一目逢って君の虜となってしまう。その君に想いをかけて一生生きていく。それが女のさが・さだめ。なあんて女性蔑視もいいとこですね。男女平等主義者からすると許されないでしょう。まあ現実には女性もけっこうドライで割り切って生きていったんだと思いますけどね。

      ・「行きずりの恋」がテーマで公式行事を行うとは驚き
       そうですねぇ、そういうのが当たり前だった世の中だったってことですよね。題詠も行きつくところまで行くとありきたりの題ではつまらない。刺激を求めてどんどん過激になっていったんですかね。

       →「二人に愛された板挟みの恋」なんて題詠もあったのかも。

       なげきわび身をば棄つとも亡き影にうき名流さむことをこそ思へ
                           (浮舟@浮舟32)

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    皇嘉門院別当本人については、生没年未詳で何も分からない。恋をしたのか結婚したのかも不詳。この百々爺の解説どおり、ネットで探しても、別当本人については何の情報も見当たりませんでした。他方、「ご主人として仕えた皇嘉門院が重要」ということなので、皇嘉門院=藤原聖子について、ネット情報に基づく補足説明を加えたいと思います。

    百々爺の解説にあるように、聖子は「摂関家の姫」として生まれ、崇徳天皇に入内したものの皇子を生むことはできませんでした。しかし、鳥羽上皇の皇子を養子として迎え、その皇子が近衛天皇となったため、一応、父の藤原忠通に外戚の地位を与えることができました。ただし、摂関家の内紛と近衛天皇の早世のため、聖子に託された忠通の夢は十分には叶いませんでした。

    その一方で、聖子は忠通から譲り受けた全国各地に所在する荘園等を次代の摂関家一族に託すと言う重要な役割を担いました。とりわけ異母弟の九条兼実の子の九条良通に皇嘉門院領の大部分を伝えたことで、それらの荘園は九条家の主たる財政基盤となり、結果として、武家の時代における五摂家(嫡流の近衛家とそこから分かれる鷹司家、九条家とそこから分かれる二条家・一条家)成立の重要な要因として作用することとなりました。要するに、聖子は古代から中世における摂関家の新世代とも言うべき五摂家の萌芽を後世に伝えることで、まさに「摂関家の姫」としての役割を日本史上で果たしたようです。

    最後に、88番歌について、智平の見方を記せば、皇嘉門院別当はそれなりに立派な家のおお嬢様だから、自らの若い頃の体験を詠ったとは到底考えられず、自分を難波江の遊女に見立てて女の宿命を詠みこんだ歌という解釈が妥当ではないでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・近衛天皇(鳥羽帝皇子)は1155年17才で早逝。その後継をどうするか、崇徳院は自分の皇子重仁親王をと主張したが鳥羽上皇、それに忠通も反対。鳥羽上皇の皇子(母璋子、崇徳院の同母弟)が後白河帝として皇位を継いだ。
       
       確かに近衛天皇がもう少し、せめて鳥羽上皇より長生きしていたら忠通は義理の外祖父として権威をふるえたかもしれない。でも如何せん聖子に子が生まれず劣り腹とは言え重仁親王がいた。結局崇徳院と忠通は離反せざるを得なかったのではないか。

       →明石の姫君を紫の上が育てたように重仁親王を聖子の子として引き取り育てあげればよかったのに。

      ・そうですか、聖子は実子がなかった故に父忠通からの所領プラス皇嘉門院としてしこたまいただいた所領を大部分甥の良通に与えたのですか(良通は早逝したため次男の91良経が後を継ぎ九条家の嫡流となっていく)。同じように聖子から基実-基通の近衛家にも一部の所領が行ったのでしょう。

       →聖子が「摂関家の姫」としてその後600年も続く五摂家を作り上げる役目を果たした、、、、。ガッテンです。
       →でもそんなことよりやっぱり皇子が欲しかったでしょうねぇ。

  8. 小町姐 のコメント:

    今朝、読んだばかりの新しい見解を紹介します。
    例の中日新聞毎週火曜日、小林一彦の「王朝の歌人たち」です。
    なぜかこの連載、順番がどういう訳かめちゃくちゃなのです。
    時代順でもなく百人一首以外の歌もありどういう意図か良く解りませんが今日で70回めです。
    88 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき (皇嘉門院別当)
    旅の宿でのたった一夜の契りのために生涯にわたってこの身を捧げあなたを恋い続けなければならないのでしょうか。
    この歌の解釈はどの本をみても似たり寄ったり、おおねねこの通りである。
    定家好みの妖艶さ、切なさを漂わせた女の歌という読み解きもある。
    昭和の末年には男の歌とする異説が出されたものの顧みられることはなかった。
    だが題詠であれば当時のルールから男の立場で創作したとしてもなんら差し支えない。
    この頃は宿場も発達し旅先で遊女と行きずりの一夜を過ごす事は珍しくなかった。
    「ゆゑ」は発端はほんのささいな出来事なのに引き起こされる結果が思いがけず重大な時に用いられる言葉。軽い遊びのはずが、いやそれだからこそかえって忘れられずにこの身が尽きるまで一生涯恋い慕い続けなければならないのか、と運命の兆しにたじろぐ男の歌と見るのが自然ではないだろうか。
    恋に苦悩する切なさは女の専売特許ではない。むしろ男のものだと定家なら言いそうに思えるのだが。
    以上の新しい説でした。
    なるほどとは思いますがちょっと深読み過ぎるのではとも思います。
    歌の解釈は人それぞれ、いろいろあって当然です。
    それこそご本人もおっしゃっています。
    王朝末期の女流にはフィクションの世界に想像の翼を広げ題詠を精緻に詠みこなす職人がいたのである・・・と

    • 百々爺 のコメント:

      新説の紹介、ありがとうございます。面白いじゃないですか。

      「88番歌は男の立場で詠んだ歌」ですか。「別当が想像の翼を広げ詠んだ歌」と言うより、「小林先生が想像の翼を広げ読み解いた歌」と言う方が合ってるかも。おっしゃる通り歌の解釈は人それぞれでいいのだと思います。

       →ほんの軽い遊びのつもりが忘れられなくなってしまった男。それが昂じて商売金に手をつけて心中沙汰になる。近松の浄瑠璃にありそうな話ですね。

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