94番 歌鞠両道の達人 飛鳥井雅経 衣うつなり

京生まれの鎌倉育ち、鎌倉幕府創成期に京と鎌倉の橋渡し役となった飛鳥井雅経。蹴鞠(スポーツ)と和歌(文芸)の上手。ゴルフ・テニスと古典・俳句・カラオケを愛する爺にはお手本みたいな人。どんな風に文武両立してたのでしょうか。見せていただきましょう。

94.み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり

訳詩:    みよしのの旅の宿り
       吹きおろす夜の秋風
       渡ってくる砧の音の寒さよ
       ふるさとは底まで澄んで
       いにしえびとも目に顕って

作者:参議雅経(藤原雅経)1170-1221 52才 従四位下頼経の二男 飛鳥井流
出典:新古今集 秋下483
詞書:「壔衣の心を」

①参議雅経
・父は刑部卿難波頼経(受領階級)(藤原の傍流か)
 平家滅亡後父頼経は義経方につき鎌倉(頼朝)に対抗したため安房~伊豆に配流される。
 →義経につくか頼朝につくか。難しい判断だったのだろう。

・そのあおりで子の雅経は1180(11才)~1197(28才)までの少年~青年時代18年間を鎌倉留め置きの身となる。この雅経、蹴鞠&和歌に余程優れていたのであろう、頼朝に認められ蹴鞠好きの二代将軍頼家の蹴鞠の師となり、果ては頼朝の信任を得て頼朝の猶子になる。妻には鎌倉幕府の政務筆頭であった大江広元の娘が娶せられる。

 →これだけ取りたてられたのは蹴鞠・和歌の才だけではなかろう。京から来たピカピカの若者で万事に光り輝いていたのであろう。
 →11才で鎌倉に連れて来られた前から蹴鞠・和歌は習得していたのか。
  どこで誰に教わったのであろう?
 →1180~97の鎌倉と言えば源平争乱~幕府作りで蹴鞠・和歌どころではなかったろうに。

・1197 雅経の蹴鞠上手が後鳥羽院の目に留まり後鳥羽院の蹴鞠の師として京に呼び戻される。
 以後後鳥羽院の近臣として和歌・蹴鞠を武器に重用される。
 →従三位参議にまで昇る。正に芸は身を助くの典型であろう。

・長年の鎌倉在住経験から上京後も京(後鳥羽院)と鎌倉幕府との橋渡し役になり何度も京~鎌倉を往復する。
 1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導

・熊野に通いつめた(28回も)後鳥羽院に随行ししばしば熊野にも行っている。

・蹴鞠の上手で後鳥羽院から「蹴鞠長者」の称号を与えられる。蹴鞠の飛鳥井家の始祖。
 【蹴鞠】
  中国古代から。鹿のなめし革製のボールを蹴り上げ回数を競う。
  四隅に桜・柳・松・楓の木を植えその高さを目途に蹴り上げる。
  広さは5~10M四方くらい、そんなに広くない。
  サッカーのリフティングみたいなもの。4・6・8人とかの団体戦と個人戦。
  →運動神経と体力が必要。平安貴族の服装ではやりにくかったろう。

・「歌鞠両道の誉れ高く」とされる。
 平安時代 文科系科目は管弦・漢詩・和歌・書・絵
      体育系科目は弓馬・鷹狩・蹴鞠

・1121 52才で死亡。直後の同年6月に承久の変が勃発する。
 →雅経が生きていたら後鳥羽院を諌めることができたのかも。

②歌人としての雅経
・新古今集(22首)以下勅撰集に132首。家集に「明日香井和歌集」

・後鳥羽院歌壇の重鎮
 1201 和歌所寄人になりその後、新古今集撰者に任用される。
 (新古今集撰者: 源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮)
  →但し後鳥羽院が自らふるいにかけ実際には後鳥羽院撰とも謂われる。

・「後鳥羽院御口伝」
 雅経はことに案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だりとみえき。
 →「案じかへりて」=あれこれ思いめぐらし

・本歌取りの名手、詞取りの名手とされる。一方では他人の歌の詞を盗用する悪い癖があったともされる。
 →詞取り、詞盗り。紙一重である。
 →テニスの自己判定では「疑わしきはセーフ」だが、詞取りではどうであろう。
 →蹴鞠の達人にしてはスポーツマンシップに欠ける気がするのだが。

・蹴鞠を詠んだ歌
 八重桜の枝に鞠をつけて内裏にさしあげた歌
  春を惜しみ折る一枝の八重桜九重にもと思ふあまりぞ

 景勝寺の蹴鞠場の老桜が倒れ新しく植えられたのを見て
  なれなれて見しは名残の春ぞともなど白河の花の下かげ

・千人万首より本歌取りとされる歌二首

 秋は今日くれなゐくくる立田川ゆくせの波も色かはるらむ(新勅撰集)
  ←17ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは(業平)

 大江山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(明日香井集)  ←60大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立(小式部内侍)

 →本歌取り。う〜ん、巧妙ですねぇ。

③94番歌 み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり 
・吉野の里 古の都 宮滝あたり。
 →もうこの時代には天皇・上皇の吉野御幸はなくなっているか。
 →雅経も熊野には何度も行ってるが吉野には行ってないのではなかろうか。

・衣うつ=砧(木槌)で布地を打ちやわらげ、つやを出す。
 →女性の秋の夜なべ仕事。
 →トーントーンと規則正しい音。さびしげに聞こえる。
 (youtubeで見たけど時間かかりそう、大変な作業である)

・1202年の百首歌の中の一首
 一つ一つの詞使いというより全体的な流れがいいとされる。
 →「小夜ふけてふるさと寒く」「さ」と「ふ」の響きがいい。

・本歌
 み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり(古今集 坂上是則)
  →「み吉野の」と「古里寒く」はいっしょだが「衣うつ」は新鮮。まあ及第点でしょう。

 衣打つ
 風寒みわがから衣うつ時ぞ萩のしたばもいろまさりける(古今集 紀貫之)

・94番歌を下敷きにした芭蕉の句
  砧打って我に聞かせよや坊が妻(芭蕉 野ざらし紀行@吉野の奥山の宿坊)
  →吉野に来たら砧打ちと期待していたのだろう。実感である。

④源氏物語との関連
・蹴鞠と言えば六条院春の町での「唐猫騒ぎ」であろう。
 我が講読会で印象場面ベスト5に入ってる名場面です。

 三月うららかな日、六条院で蹴鞠の遊び。唐猫が御簾を引き開け、柏木は女三の宮を見てしまう。

  几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物なるべし。(若菜上37)

 →柏木と女三の宮。源氏物語第二の禁忌の恋の幕開けであります。

・衣打つ砧の音
 17才恋の暴走止まらぬ源氏が五条あたりの下町の夕顔の宿で濃密な夜を過した翌朝の風景

  白栲(たへ)の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり。(夕顔10)

 →源氏物語には珍しい庶民的な下町描写。芭蕉の奥の細道福井(芭蕉が旧知の等栽を訪ねる場面)は源氏物語夕顔のこの段を下敷きにしている。

【余計なオマケ】
 昨日で70才になりました。周りのみんなに祝福されていい気分でした。本人はまだまだ爺さんではないと思ってるのですが、やはり確実に年老いてます。今まで取れたテニスの球が取れない。お酒に弱くなった。孫が危ないことしててもすぐ駆け出せない。固有名詞は勿論普通名詞も咄嗟に出て来ない。等々。まあ年相応なんでしょうね。先日東海テレビOBの友人に借りて見た「フルーツ人生」の爺婆をお手本にほどほどに実のある人生を生きていければと思っています。

 改めて生活信条を思い返しています。
  日々を明るく穏やかに!
  家族・仲間を大切に!
  ゴルフのやり過ぎ、酒の飲み過ぎ注意!

カテゴリー: 91~100番 パーマリンク

94番 歌鞠両道の達人 飛鳥井雅経 衣うつなり への23件のフィードバック

  1. 源智平朝臣 のコメント:

    飛鳥井雅経は鎌倉幕府と朝廷との橋渡し役を務めて何度も京と鎌倉を往復したために、多くの旅の歌を詠んでいます。次の歌は新古今和歌集に採られた雅経の歌で、何度も旅を重ねてきた自分自身の人生を詠んだ歌と思われます。
    白雲のいくへの峰を越えぬらむ 馴れぬあらしに袖をまかせて

    伊勢物語の東下り(九段の二)には、東海道の難所の一つであった駿河(静岡県)の「宇津ノ谷峠」を詠んだ次の歌が出てきます。
    駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり
    この歌は「宇津」を「現実(うつつ)」を引き出す序詞に使って、「現実にも夢にもあなたに逢わないけど、私のことをちゃんと思っているでしょうね」と詠った歌です。
    京に戻っていた時に、雅経は後鳥羽院から名所の歌を求められ、この伊勢物語の歌を念頭に次の歌を詠みました。
    ふみ分けしむかしは夢かうつの山 あととも見えぬ蔦の下道 (続古今和歌集)

    その200年ほど後の子孫である飛鳥井雅世は上記2首を念頭に次の歌を詠みました。
    昔だにむかしと言ひしうつの山 越えてぞしのぶ蔦の下道 (新続古今和歌集)
    この歌の昔は「昔の人」で雅経を意味します。ちなみに、雅世は室町時代に早くから足利義満に仕え、和歌と蹴鞠で重用された公家で、最後の勅撰集となった「新続古今和歌集」の選者です。

    さらに200年後の飛鳥井雅庸(まさつね)は徳川家康の歌道師範となり、「源氏物語」の奥義も伝授、後水尾・徳川秀忠・細川忠興・島津家久に蹴鞠を指導しました。以上、かつて談話室に登場した老舗あられの小倉山荘「小倉百人一首あ・ら・かるたメニュー」のブログをもとにまとめたコメントですが、初代の雅経から数えると約400年、日本の名門の息の長さに感銘を受ける思いです。ちなみに、飛鳥井家の現在の子孫は学者や宮司などをされており、和歌や蹴鞠で生計を立てておられるわけではなさそうです。

    飛鳥井家でもう一つ紹介したいのは京都の上京区にある「白峯神社」です。この神社は怨霊伝説を生んだ77崇徳院の霊を慰めるために明治天皇が1868年に創建したもので、神社の敷地には明治維新に伴い飛鳥井家が東京に移った跡地が使われました。地主社には蹴鞠の守護神である精大明神も祀られており、現在ではサッカーを初めとする球技全般およびスポーツ芸能上達の神とされて、関係者の参詣も多いようです。スポーツにちなんだお守りや「叶う輪」という縁起物もあるということなので、ゴルフ&ビリヤードの上達を目指している智平としては完読記念旅行の訪問先に加えることを検討してほしいと願う次第です。ゴルフ・テニスを愛する百々爺の賛成も期待します。

    94番歌は古都に響く砧の音に託して晩秋の寂しさを上手に詠んでおり、智平は雅経の歌作りの巧妙さに感心しつつ、吉野宮が重要な役割を果たす里中満智子作の漫画「天上の虹-持統天皇物語」を懐かしく思い出しています。

    • 百合局 のコメント:

      球技を愛する皆様のご要望にお応えし、「白峯神社」にも行きましょうか。
      77崇徳院(天皇)が祀られていますしね。
      旅の三日目、朝「東山三条」あたりのバス停から201系統のバスに乗り、(途中、熊野神社、百万遍、出町柳、同志社前など)「堀川今出川」下車すぐ。

      お参りしたら、堀川通りをバスで四条堀川まできて、阪急京都線に乗って東向日駅下車。大原野神社、勝持寺へ。

      おおよそ、こんな感じでしょうか。
      時間の都合等、タクシーも使うかも。

      • 百々爺 のコメント:

        「白峯神社」早速の下調べありがとうございます。是非行きましょう。77番歌の枇杷の実さんのコメントによると「まりの神さま」落さない、落ちないと言うことで学業成就・合格祈願などにもご利益がありそう。俳句がも少しうまくなるようお祈りしてきましょうよ。

        • 百合局 のコメント:

          俳句や謡やいろいろの上達をお祈りしてきましょう。お守りも可愛いですね。
          ところで、白峯神社から堀川通りを北へ1㎞ほど行ったところに、
          「57紫式部 11小野篁の墓」があります。時間はそれほどかからないので興味があれば行きましょう。(島津製作所の敷地? 奥まったところに並んでありますよ。愛好家たちの手で大切にされているようでした。花も線香も手向けられていました。数年前に行った時のことですが・・)

          • 百々爺 のコメント:

            百人一首ゆかりの地一覧、作りかけで中座してますがそのうち完成させます。それなんかも参考にして色々考えましょう。最後は百合局さんの調整にお任せです。

    • 百々爺 のコメント:

      早朝にコメントいただきました。ゴルフでしょうか。がんばってください。

      ・雅経は京と鎌倉何度往復したのでしょうね。それに熊野御幸への随行。雅経の一生は旅に明け旅に暮れていたのでしょうね。

       「馴れぬあらしに袖をまかせて
        旅の途中、遊郭など楽しいこともあったのでしょうが、心細いことも多かったことでしょう。「袖をまかせて」に旅慣れた雅経の達観を感じます。

      ・伊勢物語業平の「宇津ノ谷峠」の歌を飛鳥井家が代々詠み継いでいった話、素晴らしい。これぞ流儀の伝承でしょう。

        業平800 - 雅経1200(後鳥羽院・頼朝) -
        雅世1400(足利義満) - 雅庸1600(家康)

       それぞれ時の第一人者に歌を教えたり古典を伝授したり。これぞ公家のお役目なんでしょう。
        →「飛鳥井」この苗字がいい。藤原では安っぽいですもんね。

      ・「白峯神社」是非行きましょう。
       今でもそのあたり飛鳥井町と言うようですね。元々飛鳥井家の地主社として蹴鞠の神を祀ってたところに新社殿を建て崇徳院の御霊をお迎えしたという訳ですね。「われても末に逢はむとぞ思ふ」崇徳院にもお逢いしてきましょう。

      • 源智平朝臣 のコメント:

        今日は朝一番で事前に準備した原稿をもとにした談話室への投稿を済まし、所用のために朝食後すぐに外出し、先ほど帰宅して談話室を覗いたところ、白峯神社に訪問する方向で話が進んでいるようで喜んでいます。百合局さん、百々爺さん、小町姐さんからの力強いサポートに感謝します。叶う輪はともかく、崇徳院の霊をお慰めすることは百人一首完読旅行の趣旨にぴったりではないでしょうか。智平は京都の地理には疎いので、何卒、よろしくお願いします。

        • 百々爺 のコメント:

          ほんとウチのメンバー京都通が多いですね。心強い限りです。行きたいところドンドン増えてくるでしょうが、ちゃんとうまく整理してくれるでしょう。

           →膳所のかね吉で近江牛食べて白川庵にたどりつけるのかと心配してたのですが京阪とか地下鉄とかで早いんですね。びっくり。神楽坂で飲んで流山に帰るより近いみたいで安心しました。

  2. 小町姐 のコメント:

    文武両道の参議雅経の詳しい経歴、鎌倉、京とのつながり、蹴鞠のことなど良くわかりました。蹴鞠って映像で見ると服装のせいか何だか軟弱なイメージですが結構運動神経必要なんですね。参議雅経、飛鳥井家という蹴鞠の元祖で飛鳥井雅経と言った方がわかりやすい。長明の関東下向をお膳だてしたのも雅経で共に将軍実朝を訪ねている。その経緯は先の93 鎌倉右大臣で百々爺さんが詳しく解説してくれている。

    新古今集には長明の歌が10首撰ばれている。
    新古今集の作者名注記によれば長明の歌10首中6首が雅経の撰入という。
       石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ(長明)
    この歌も雅経、単独の撰入とのこと。

    なぜそれほどまでに長明を買っていたのだろうか?
    ちなみに長明よりも15歳ほど年下であるが身分はずっと高い。
    和歌仲間以上の親密さが感じられる。

       み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり 
    「衣うつなり」これはもう源氏物語の夕顔の一場面を思い出さずにはいられません。
    そうか、蹴鞠は唐猫騒ぎの場面でありましたね。
    そしてなぜか思い出すのは唱歌「冬の朝」
    ♪ともしび近く 衣縫う母は 春の遊びの楽しさ語る♪

    70歳おめでとうございます。70代の節目はいろいろ感じることが多いでしょう。
    しかし昔と違って70代は若い。
    「人生フルーツ」の津端ご夫妻は90代ですからね。
    昨年東海テレビが制作し今年映画化され樹木希林がナレーターを務めました。
    一本筋の通った見事な生き方、ちょっと真似できませんが参考にはなりますね。
    ますますのご活躍を!!

    • 小町姐 のコメント:

      おや、智平さんのコメントがありました。
      現在にまで脈々と続く名門、飛鳥井家の子孫の事よくわかりました。
      白峯神社は東山祇園甲部歌舞練場のすぐ裏手、多分白川庵に近いと思います。
      是非行きましょうよ。

      • 小町姐 のコメント:

        追記
        ここは崇徳天皇の御廟所があるところで白峯神宮とは別かもしれませんね。

        • 百々爺 のコメント:

          そうですね、祇園甲部歌舞練場の裏手の崇徳天皇御霊は崇徳天皇の寵愛が厚かった阿波内侍が御遺髪を持ち帰り祀った私的な塚だったようですね。崇徳天皇の御霊はここで700年息をひそめていた。やっと白峯神宮という新居ができ移ったということでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・YOUTUBEで蹴鞠見てみました。難しそうですね。あの服装と沓ではコントロールも大変。熱が入ってくるともろ肌脱いでやったのでしょうか。
       →それを御簾の中から女房たちが覗いて(声を押し殺して)キャーキャー言ったのでしょうね。

      ・そうですか新古今集に長明の歌が10首選ばれその6首までが雅経の単独推薦ですか。それはすごい。
       雅経は実朝の和歌の師を紹介してくれと頼まれ長明を連れていったが相性が合わなかったのか鎌倉への仕官はならなかった。雅経は年長者長明への申し訳なかったという気持ちから意図的に長明をひいきにしたんですかね。
       →雅経と長明は波長が合ってたのでしょうね。

      ・冬の夜の女性の夜なべ仕事。ひと昔前までどこの家でも内職というのやってたんですね。貧しかった。

       「冬の朝」~ともしび近く 衣縫う母は~  なるほど。
       「かあさんの歌」~かあさんが夜なべして 手袋編んでくれた~
        というのもありました。 

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

     古稀をお迎えの百々爺殿、誠におめでとうございます。
    これでゴルフ場の地方税も免除、レギュラーティより若干ハンディをもらって、ティグラウンドに立つこともできるわけです。但し紫陽花会(今週9日・一志ゴルフ)のように同期のコンペでは、本年4月までは4月生まれも3月生まれもレギュラーティです。

     さて文武両道の文。

     94番歌 み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり

    秋の歌はたくさんあるけれど、参議雅経こと飛鳥井雅経(1170~1221)の歌は、もう冬も近い。山の秋風はひとしお冷たいものだ。「衣を打つ」のは風が打つのではなく、これは砧、布地を槌で打って艶を出す。女性たちの夜なべの仕事だった。その音さえさむざむと聞こえてくる。雅経は俊成に学んで、新古今集の撰者にもなった歌人である。蹴鞠の名手で、
    「今ならサッカー選手で、歌を創らせてもうまい」
    「女性に人気がありそう」
    きっとそうだったでしょうね。(阿刀田氏)

     そして、
    雅経はすぐれた歌人であったが、「八雲御抄」によれば、百々爺も書いているように、他人の歌の詞を盗用する悪い癖があったらしい。「み吉野の」歌にしても、坂上是則の「み吉野の山の白雪積もるらし古里寒くなりまさるなり」(古今集325番)歌を本歌取りしているのだが、初句・四句の一致を含めて、本歌の表現とあまりにも似て、盗歌として非難の的になっている。しかしながら雅経歌は、これだけ本歌と言葉が近似しているにもかかわらず、本歌の冬の季節を秋に置き換え、さらに白雪という視覚のイメージを秋風と砧のかもしだす音のハーモニー(聴覚)に転移している点、巧みな本歌取りの成功例として高く評価すべきであろう。特に澄んだ砧の音はこの歌の眼目であり、それを故郷で聞くことにより、美的寂寥感を一層深いものにしている。
     砧を打つ情景は決して雅経の独創なのではなく、李白の「長安一片月、万戸打衣声、秋風吹不尽」(子夜呉歌)が踏まえられている(そのためか「擣衣」の歌には月と雁が多く詠まれてる)。それによって夫を兵役にとられた妻が、夫の帰りをじっと待つという漢詩の伝統的なイメージが、雅経歌に哀愁感を付与させている。つまりこの歌の特徴は古歌と漢詩という二重の引用になっている点にあった。(吉海直人)

     これから京都~伊勢と巡業してまいります。帰ってくれば大相撲春場所、そのあと宝塚場所(春巡業)。いよいよ忙しくなります。じゃがいもも植えなくっちゃ。

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、紫陽花会ですか。がんばってください。
      (70才以上の入場税免除がありがたいです)

      ・そうですか、雅経は俊成に師事していたのですか。11才にして京を離れ28才まで鎌倉に(謂わば囚われの身か)居た雅経は誰にいつ和歌を習ったのかと思っていました。幼少で俊成に手ほどきを受けその後鎌倉でも通信教育してもらってたのですかね。
       →俊成-寂蓮-定家ら御子左家と繋がっていたのでしょうね。

      ・「巧みな本歌取りの成功例として高く評価すべきであろう」
       吉海先生、えらくお気に入りですね。本歌と本歌取りした歌との関係。難しいのでしょうね。下手すると本歌+本歌取りした歌二つで一人前の歌ということにもなってしまう。是則歌があっての94番歌なのか、是則歌がなくても94番歌はそれ自身で立派なのか。

       先だって米アカデミー賞6部門受賞の「ラ・ラ・ランド」というミュージカル映画が「引用の美学」だとして話題になってます。往年のシネ・ミュージカルからの引用にあふれた作品で、それがいいのだとのこと。評価のポイントは「先行作品とそれらを作った先輩たちへの敬愛の念」があるかどうか。それが「伝統の継承」に繋がっていくのだという解説があった。

       →源氏物語でも人々のセリフや地の文に古歌が引用されているのは当たり前であるが古歌の盗作かと疑われるような歌は源氏795首にはなかったと記憶している。

       (一つ空蝉5にある空蝉の歌は伊勢集と全く同じであるが、これは紫式部の盗作でなく、伊勢集の増補に際し源氏物語の歌が紛れ込んだのだと爺は信じています)

        空蝉の羽におく露の木がくれてしのぶしのぶにぬるる袖かな
                       (空蝉@空蝉5)

  4. 百合局 のコメント:

    百々爺、70歳おめでとうございます。
    仲間のうちでは、おそらく一番あとでの古稀迎えでしょうね。
    これからも生活信条を日々唱えながら、元気に楽しくすごしましょう!

    百々爺も書いていますが、雅経についての悪い癖を少し詳しく述べます。
    八雲御抄「近き人の歌の詞をぬすみとる事」の条に「凡雅経はよき歌人にてありしを、御京極摂政の「人の歌をとる」といはれけるとききしを、「さしもやと思ひしに、建暦の詩歌合の時、有家が「すゑのまつやまやまずこととへ」とよみたりしを、評定の時、定家雅経などしきりに感じ申ししを、同年七月に五首の会の有りしに、「あしひきのやまず心にかかりても」とやがてよみたりしは如何なることにか。雅経、さしも有家を羨しく思ふべきほどの歌よみにてもなきだにかかり。まして巳下の人、われもわれもとおとらずとる、是第一のとがなり・・・」とある。
                      影印本 百人一首 (新典社)より

    歌道に精進しての古歌の本歌取と、つい先日の人の歌をとるのとは大きく異なりますよね。そのあたりのけじめがなかったのかな?

    吉野、秋風、ふける夜、砧の音、寒い、全部日本的抒情を表す言葉の羅列なのですが、やはり余情があっていいなと感じますね。

    安東次男氏は次のように書いています。
    百首もそろそろ終りになって雅経の歌を出しているところ、定家の心配りであろう。
    吉野の歌(秋)を以て起し、98家隆のならの小川の歌(夏)を以て起しているが、これは百首の冒頭に当って、天智の秋の歌と持統の夏の歌で起したのに首尾・風情を合わせたものらしく、天智に対する雅経の唱和、持統に対する家隆の唱和と替えて眺めれば、君臣和楽の情はそこに現れてくる。

    • 百々爺 のコメント:

      はい、遅ればせながらやっとオールド&レアの仲間入りをしました。当市からは慶賀の通知も何もないですがいいんでしょうかねぇ。

      ・八雲御抄「近き人の歌の詞をぬすみとる事
       そうですか、順徳院は雅経を盗人と断じているのですね。確かに同年の歌合で評価の高かった歌の詞を使うのはちょっと露骨ですよね。

       →「すゑのまつやまやまずこととへ」と「あしひきのやまず心にかかりても」がそっくり同じかはよく分かりませんがねぇ。「やまず」を盗用したということですかね。

      ・安藤次男説、これは1番の秋に94番の秋、2番の夏に98番の夏が照応しているのだということですね。まあそうかもしれません。百人一首90番台の人選は歌というより先ず人物。そして次が歌ということでしょう。即ち先ず鎌倉と京を結んだ人物として雅経があり、雅経の歌から何をとるかで秋の歌として94番が取られたという順序じゃないでしょうか。

  5. 浜寺八麻呂 のコメント:

    この94番歌の本歌は、爺が引用してくれた
    み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり(古今集 坂上是則)

    そして、坂上是則の31番歌が
    朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪
    みんな吉野の里のせつせつとした寒さが詠われいるいい歌である。

    吉野の里について、渡部泰明東大院教授が、NHK”和歌文学の世界”で興味深い解説をされているので、要約して紹介します。

    *古代
    吉野の歌は、”川”が中心で、吉野を称える歌が多い。
    よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見 
                         (天武天皇 万葉集巻1 27)
    見れど飽かぬ吉野の川の常滑のた絶ゆることなくまたかへり見む
                         (柿本人麻呂 万葉集巻1 37)

    *平安時代
    寂しげな吉野
    春霞たてるやいづこみ吉野の吉野の山に雪はふりつつ
                       (よみ人しらず 古今集 春上)
    み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり
                        (坂上是則 古今集 冬)
    越えぬ間は吉野の山のさくら花人づてにのみ聞きわたるかな 
                        (よみ人しらず 古今集 恋2)
    春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらん
                        (壬生忠岑 拾遺集 春)

    *西行 桜の名所となり、修行の場を詠った。
    吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき(山家集)
    吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらん(山家集)
    山人よ吉野の奥のしるべせよ花もたづねんまた思ひあり(山家集)
    吉野山去年の枝折りの道変へてまだ見ぬかたの花をたづねん(新古今集)

    *新古今集の吉野、古代吉野の再生を詠う
    み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にかり
                      (藤原良経 新古今集 春上)
       上記 忠岑の歌の本歌取り
    み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり 
                    (藤原雅経 新古今集 秋下 94番歌)
       これも是則の本歌取り
    み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐も白き春のあけぼの
                      (後鳥羽院 新古今集 春下)

    *南北朝の動乱 都を追われた南朝の人々の和歌が宮廷人の証であった。

    故郷は恋しくとてもみ吉野の花のさかりをいかが見捨てん
                      (宗良親王 新葉集 春下)
    み吉野は見し世にもあらず荒れにけりあだなる花はなほのこれども
                  (後醍醐天皇后 新待賢門院 新葉集 哀愁)

    吉野は有名な歌枕、時代と共にそれぞれの趣向をもって詠われてきた地、昨春初めて桜の吉野を訪れたが、違う季節にもう一度行ってみたい。

                              

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですね坂上是則の31番歌も吉野の雪(冬)を詠んだ歌でしたね。31番歌と94番歌はすごく繋がっていると思います(百人一首中、吉野を詠んだ歌はこの2首)。

      ・吉野を詠んだ歌の歴史と変遷の紹介ありがとうございます。
       古来吉野には恒久的な都があったことはなかった。ただ持統帝が30回以上も宮滝に行幸して以来、万葉の昔から奈良~平安時代を通じ特別な場所というイメージが出来あがってたということですかね。

       →西行の吉野の桜讃歌も大きいでしょうね。

      ・94番歌が詠まれたのは1202年。その15年ほど前頼朝に追われた義経は吉野で愛妾静御前と別れ静は吉野で捕えられ鎌倉へと送られる。頼朝は静に舞を舞わせ静は臆せず義経を慕う歌を詠いあげる。

        吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき(静御前)

       →31番歌復習していたら壬生忠岑の同じような歌があった。
        み吉野の山の白雪ふみ分けて入りにし人のおとづれもせぬ 
             (壬生忠岑 古今集冬)

        静御前の歌はこの忠岑の歌の本歌取り?OR本歌盗り?

  6. 枇杷の実 のコメント:

     み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり(新古今集483)
    かつては天皇の離宮があって栄えた吉野の里も今は古び、晩秋の夜に砧を打つ音が響き渡る。吉野の冬はもうそこまでやって来ている。なんとも言えない侘しさと詩情がしんみりと伝わる一首である。この歌は坂上是則の歌を本歌として、吉野山の寒さという状況を借りつつも、白雪を秋風に変え、また「衣打つ」という砧の音を付け足すことで、単なる本歌取りにとどまらない新境地を拓いているという。
     み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり(古今集325)
    平明だが、どことなく風韻があって良い歌だ。300年の時空を超えるが、両人とも多趣味な才人で、歌風も共通するものがある。雅経には本歌取り・詞取りの巧みも兼ね備えていた。師事した俊成の「言葉は古く、心は新しく」の詠歌スタイルを体現しているという事か。雅経は後鳥羽上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられたが、是則も蹴鞠の名人として有名で、醍醐天皇の御前で206回も連続で蹴り上げて褒美をもらったとか。百々爺のいう「歌鞠両道に誉れ高い」歌人なのだ。

    • 百々爺 のコメント:

      31番坂上是則と94番飛鳥井雅経との300年を隔てた通じ合い。これは実は蹴鞠つながりだった! ガッテン、納得です。

      「えっ、蹴鞠も名人?」って思い、31番読み返してたら智平朝臣のコメントにもありました。醍醐帝御前での206回。

      蹴鞠名人の雅経は是則が蹴鞠名人だったこと勿論知っておりその面から親近感(或いは尊敬の念)を抱いていたのでしょう。それで歌も是則の歌を徹底的に研究した。そして見つけたのが「み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり」。これを元に94番歌を作りあげた。

       →こんな指摘どこの解説書にもありませんでした。私はこんなのが大好きです。枇杷の実さん、ありがとう。

  7. 小町姐 のコメント:

    31番坂上是則と94番飛鳥井雅経との300年を隔てた通じ合い。面白いですね。
    改めて31番の解説、智平さんのコメントすべて詠みなおしました。
    そこで百合局さんの{謡曲『隅田川が坂上是則の歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かも」によっています。 源氏物語の帚木の巻の歌を思い出しますね}
    とコメントされているのを見つけて源氏物語の帚木の巻を又さかのぼってしまいました。
    清々爺さんと式部さんのコメントでは62番清少納言のところで私が疑問に感じていたことにも言及されていてすごいと思いました。
    今まで学んできた事がどこかで間接的に繋がっているのが面白い所ですね。
    そんな訳で私としてはこんな時間になってしまいました。
    明日もお稽古があるのでこの辺で、おやすみなさい。

    • 百々爺 のコメント:

      「源氏物語道しるべ」・「百人一首談話室」とやって来て、みなさんのコメントを合わせるととてつもなく膨大なコンテンツとなっています。色々に繋がっていますよね。書いてるとき読んでるときは分かってるのですが、何せ量が多すぎるんですぐに忘れてしまう。31坂上是則が蹴鞠の名人だったことも忘れてましたし、ましてや園原の帚木の歌を詠んでいたなど忘却のはるかかなたでした。でもこうして指摘いただいて読みなおしてみると懐かしいですよね。

       →「道しるべ」も「談話室」も都度過去ログを見るようにしています(私の場合寝る前にスマホで)。なかなか面白いですよ。折角頑張って作ってきた財産ですからせいぜい活用しなくっちゃね。。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です