16番 中納言行平 いざ因幡国へ

16番・17番、在原行平・業平兄弟が並びます。この二人に12番遍昭・14番源融・15番光孝天皇を加えた5人は全く同世代(820-890くらい)を生きた人々です。もう一つ加えると藤原基経(836-891)も同世代です。

16.立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞けば今帰り来む

訳詩:    名残りは尽きない でもお別れです
       都をあとに私が行くのは因幡の国
       松で知られる稲羽山のあるところ
       でも あの峰の松ではないが
       あなたがたが待つとのみ言ってくれるなら
       そうです すぐにでも私は帰ってきます

作者:中納言行平(在原行平)(818-893) 76才 平城天皇の孫 在原業平の異母兄
出典:古今集 離別365
詞書:「題しらず」

①出自 父は平城天皇の第一皇子阿保親王 母は未詳(業平の母より劣る) 三男
 即ち天皇の孫です。それがなんで中納言どまりなのか。父阿保親王を考えねばなりませんん。

 阿保親王(792-842) 
 平城天皇の第一皇子だが皇位継承は弟の嵯峨天皇に決まっており天皇の目はなかった。
 810 薬子の乱(平城上皇と嵯峨天皇の争い、嵯峨の勝ち)に連座 太宰権師に左遷
 818 大宰府にて行平誕生 824 許されて京にもどる
    →父の左遷中に生まれ7才まで大宰府で育っている。
 826 行平・業平に在原姓を与えて臣下に落とす。行平9才 業平2才
    →光源氏が臣籍降下したのは7才だった。似ている。
 842 承和の変(伴・橘氏の反乱)巻き込まれなかったが消耗した形で死去
 →行平・業平兄弟にはこの父の生き様が深く影響していよう。
  行平の剛直と政治性・業平の放縦と非政治性(この辺「百人一首の作者たち」参照)

②行平は仁明・文徳・清和朝にて順調に出世する。
 →最終官位が三位中納言、まあ藤原全盛だから仕方ないところか。
 
 855 38才の時因幡守になり赴任の時詠んだのが16番歌。
 その後も受領として地方を歴任し中央でも民部卿まで勤めている。
 →剛直な良吏型官人であった。地方での善政の話が残されている。
 
 行平の文政
 ・学問所として奨学院を設立(藤原氏の勧学院と並ぶ学問所)
 ・在民部卿(行平)家歌合を主催
  →記録に残っている最古の歌合。これは偉い! 源融もやっていない。

③さて、16番歌
 ・因幡へ赴任の時か帰任の時か。
  →両説あるようですが多数説の赴任時でいいと思います。白洲正子は帰任説。
   赴任の歓送会、妻とか家族とかいうより同僚・部下との歓送会ではなかろうか。
   宴が盛上がり「へぇ~い、ユキちゃん、一首どうぞ!」と囃されて立ち上がった。
   (「立ち」は強意の接頭語の由だが「立ち上った」も掛けているのでは)

   掛詞を巧みに使った軽妙な一首で悲しい響きはしない。
   「元気に行って来ま~す。でもすぐに帰って来まっせ!」という感じか。

④「いなばの山」
 諸説あるようだが通説の因幡国(鳥取県)国府町の稲葉山(249M)でいいでしょう。
 →国府町だから行平は因幡守としてこの町へ行ったのでしょうから。
  (地図で見ると因幡国庁跡の近くに稲葉山249Mがあります)

⑤さて、ここから源氏物語関連
  
 古今集 巻十八 雑歌下 962
 「田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける    在原行平朝臣」
  
  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶとこたへよ

 続古今集 羈旅
 「津の国の須磨といふ所に侍りける時よみ侍りける 中納言行平}

  旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

 →行平は因幡守の後に播磨守(859-860)になっている。田村朝(文徳天皇)は850-858だから播磨守として明石に行く前に何かあって須磨に居たことになる。
 →須磨から明石へ、、、。正しく源氏物語ではないか。

 源氏物語で行平を引用したところをあげておきましょう。
 須磨の秋、源氏物語中でも屈指の名文と言われるところです。

 須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。。。。。

  恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん(源氏@須磨15)

 →「源氏物語道しるべ」で式部さん(百合局さん)の朗読を是非お聞きください。
  「源氏物語道しるべ」-朗読源氏物語(by式部)-須磨―須磨15 です。

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16番 中納言行平 いざ因幡国へ への19件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    おっしゃる通りこの16番歌
    因幡は「往なば」かあるいは「去なば」のどちらを掛けたのか、
    因幡へ赴任するときに詠んだのかそれとも因幡を去る時に詠まれたのか。
    取りようによってはどちらにも受け取れる歌のように思います。

    因幡と言えば私にとっては「因幡の白兎」のイメージが強烈です。
    在原業平、行平は異母兄弟ですがそろって有能で和歌にも長けていたのですね。
    都から須磨への蟄居はいったいどんな罪だったのでしょう?

    わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ
    この歌からはもう源氏を思い出さずにはいられません。
    源氏も確か自ら退いたのでしたね。
    紫式部はこの歌から大いにヒントを得て想像の翼を広げて源氏のイメージを作り上げたのではないでしょうか?

    普段便利に使っている調理用のゆきひら鍋が行平からきていると知った時は驚きでした。
    平安時代、海水を煮たひらなべが現在もゆきひら鍋として使われている、鍋を使うたびに行平を思い出しそうです。
    立ち別れとくれば行平、ここまではいいとしても3句めと結句が6文字の字余りでスムーズに流れないため覚えにくくかんでしまいそうです。

    この「百人一首談話室」は23日の神楽坂の夕べのように様々な角度から談話の内容、質、量共に果てしなく広がり楽しくて仕方ありません。
    知らなかった歴史の一端や歌の背景を知り様々なエピソードや説話を含めた人物像に踏みこんでいく面白さ、これは又源氏物語とは違った楽しみでもあります。

    さあ今日は式部さんの柔らかな朗読で再度「須磨」を偲んでみましょう。

    • 百々爺 のコメント:

      1.この16番歌確かに3句目字余りでひっかかりますね。「いなばの山の峰に生ふ」として唱えるのでいいでしょう。結句は7字ですよ。

      2.因幡・伯耆・出雲・石見、山陰地方は回ったことないので全く地理勘がありません。「因幡の白兎」~出雲大社、神話の舞台への行ってみたいと思っています。次の目標です。

      3.行平鍋、塩を作った(焼いた)のですね。朝の「まれ」ちゃんにも塩焼きが出て来ますね。製塩技術は貴重だったのでしょうね。

      • 小町姐 のコメント:

        そうですね、「る」を発音せずに飲み込めばスムーズに流れますね。結句は7字でした。
        こんな些細な所にも小町姐の数字の弱さをさらしています。
        認知症テストが怖いですね。100~マイナスしていくのが苦手です。

        ところで小町草(コマチソウ)と言う花があるのをご存知ですか?
        名前負けしない美しい花とありました。

        • 百々爺 のコメント:

          小町草、チェックしました。きれいな花ですね。よくみかけるのですが名前を聞いたのは初めてです。このような小花がかたまったナデシコ状の花沢山あってなかなか区別がつきません。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    一昨日は神楽坂の夕べに出席できず、残念です。盛会だったようですね。

    さて、兄弟で百人一首に載ったのは、この在原兄弟だけですか。親子はいくつかありますよね。

    昨年聴講した、三田 誠広先生の”古代ロマンの愉しみ”十回目が”在原業平と藤原高子”でしたが、其の中でこの16番歌の講義もなされました。
    結構厳しい評価ですが、書きます。

    ーーー皇室の人間、臣籍降下するときに名字をもらいます。大体は”平”なのです。奈良時代には”橘”という名字です。名門なんですけれど没落しています。この二人だけ”在原”という名字をもらうんです。”在原”というのは、ただの原っぱです。謀反人の子孫なんで、その辺にいろという意味です。だから名前からしても、平城天皇の孫だというだけで立ち上がれないくらいだめなのです。阿保親王は承和の変に巻き込まれて、流されて変死を遂げるということなので、二重の罪人の子供でもあるということです。一生うだつが上がらない。在原行平という人はそこそこ出世をして百人一首にも歌が残っています。”立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかば今かえりこむ”。いなばというのは日本海のことです。山陰地方です。これはくだらない歌です。今から分かれます、いなばの山の峰の松が茂っているんだとけれど、待ってるよと言ってくれたらすぐに帰るよという洒落なんです。山の松と待つというので、大したことないのですが、何故か百人一首に入っています。これは因幡守になったということ自体が左遷です。文官としてかなり出世していたんですが、帰るときに須磨に来たら、須磨よりこっちに来てはいけないと言われた。そこにしばらくいたので、退屈なんで一弦琴の須磨琴というのをやりまして、行平は一弦琴の達人という風に言われています。在原業平も和歌の達人で、二人とも芸術的な才能はあったひとです。

    折角聞いた講義なので引用しましたが、読んで気分を害する人も出てきそうなほど、酷評しています。三田先生は他の話もそうですが、白黒をつけたい性格の作家先生とお見受けしました。
    小生も勿論言い過ぎと思いますが、ちっと肩を持つと、因幡の帰りに須磨に行ったというのは、ありかも知れません。また行平の歌も、須磨の歌2首のほうが、小生は好きです。
    爺が引用してくれている、源氏物語 須磨の秋の名文、今読んでも流石にいいですね。行平のこの二つの歌をヒントに源氏物語の筋も考えられ、結果この名文が書かれたことは間違いなく、これだけでも行平の存在価値十二分ではないかと思います。
    式部さんの朗読も是非聞くようにします。

    • 百々爺 のコメント:

      1.兄弟入選は行平・業平だけですね。親子は17組でしたね。

      2.三田先生の講義引用ありがとうございます。「在原」というのは「ただの原っぱにいろ」と意味ですか。なるほど、面白いじゃないですか。私もその通りだと思います。権力闘争ですから負けた方が冷や飯を食わされるのは仕方ないところでしょう。ただそれと16番歌、或いは行平の人物そのものを否定的に言うのは違うでしょうね。まあ、何ごともセンセイショナルに言いたい先生なのでしょう。

       因幡から帰るときに須磨迄来たらそこから中へ入るなと言われて須磨に留まった。なるほど、時系列的にはありそうですね。他の解説書には載ってない、三田先生の新説でしょうかね。検証できると面白いかもしれません。

       「在原業平と藤原高子」先生がどう講義されたか興味津津です。次回17番歌の時是非披露してください。

      3.須磨の名文、いいですね。こういうのを時々読み返して(聞き返して)みる。シアワセな気分になりますね。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

    百合局さんにはいつも謡曲の御紹介をいただき、解らないながらも、今回の16番歌では「謡曲の立ち位置」が如何に重要かとの思いをいたしております。謡曲「松風」では「源氏物語」の文章と「古今集」の詞が巧みに総合され美しい絵巻物を繰り広げる。「古今集」の歌から「源氏物語」へ、そして能の幽玄へと発展していった伝統の力は大きいと白洲正子は書いています。
     大阪城で薪能を観たことはあるのですが、狂言の方はそれなりに覚えているのですが能のほう「立派な衣裳」・「偉くうつむき加減やな」くらいの理解しかありませんでした。次回はもう少し前向きに鑑賞できるものと思います。

    行平、業平にしても、兄弟(姉弟)ってどうしても比べられますよね。
    当方も息子二人ですが、小さいころの担任の先生から「息子さんはお兄さんをかなり意識しておられますね」と言われた時にはビックリしました。(家内に聞いた話)
    私自身は歳を重ねたこと、同性でないこともありますが、「ぬぬゥ!お主やりおるわい!」って感じです。(当方、皆様に恥をさらしておるわけで判断はお任せいたします。)

    さて次は白洲女史の「任終わって帰国するときの歌」とするのではなく、「赴任時の歌」派。橋本武氏は「解説 百人一首」で次のように述べています。

    この歌は多くの評者がいうように、因幡の国に任ぜられた行平が任地へ下向の折り、馬のはなむけの宴席で詠んだ別れの歌であろう。儀礼的な歌らしく掛け詞二つも用いた四角ばった感じの歌である。そして任地に出発するのに、決して張り切ってはいないし、新しい任地に対する意気込みも見られない。だからこの歌は、現地での任を終えて、都へ帰還するための送別の歌ではあるまい。都への帰心矢のごとき想いの中で「まつとし聞かばいま帰り来む」などという、空々しい作りごとを言っておればこれだけ哀感の漂うはずはないと。

    能の知識が無いだけに判断は難しいですが、やはり「赴任」派に軍配を上げたい

    • 百合局 のコメント:

      若い時はあちこち心が散って一本の道にはならなかったのですが、60歳を過ぎてから日本の古典文学、古典芸能に興味の対象が絞られてきたようです。 残り時間を考える歳のせいもあると思います。
       能は狂言と一緒に公演されますが、今も文屋多寡秀さんのおっしゃるとおり野村萬斎の狂言が終わったら帰ってしまう人がいますよ。
       狂言はわかりやすくて面白いですからね。
       能は動きが少なくて謡曲の言葉がわかりにくいと敬遠されますが、あらすじを知っておいて、その雰囲気のなかに身を置くと楽しめます。オペラと同じですよ。
       謡曲は能の台本みたいなものです。 台本にしたがって、 数人が舞台で演じ舞い、笛、小鼓、大鼓、太鼓、地謡がオーケストラのようなものと考えるのが、今ではわかりやすいかもね・・
       31日に能「碇潜」(いかりかづき)を観る予定です。 これは歌舞伎では義経千本桜の中の「碇知盛」です。 平家一門の入水の様をダイナミックに描いた動きのある演目なので、だれでも楽しめると思います。
       知っているお話から観るのが能に入り込みやすいと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      1.能・狂言への関心も出て来ましたか。いいですねぇ。百合局さんというガイドさんもおられることだし、ドンドン広げて行ってください。蝉丸さんも謡曲ガイドブック買って頑張っておられるようですし、私もその内もう少しづつ本を読んでみようと思っているのですが。。

      2.ご母堂との別れの際に姉弟して和歌・俳句を献じられたとお聞きしました。この姉にしてあの弟あり、「ぬぬゥ!お主たちやるのう!、、」と感じ入った神楽坂の夜でありました。

      3.赴任説でいいかと思います。八麻呂さんが引用してくれた三田先生は因幡への左遷だとのことですが、そうではないでしょう。受領階級に留まる限り諸国に守・介として赴任することは当然で因幡守赴任もお勤めの一環だったと思います。サラリーマンの転勤と同じです。当然「ご栄転おめでとうございます!」的に歓送会が行われる。そういう宴席での歌ということでいいと思っています。

  4. 百合局 のコメント:

    この歌は少し軽い感じの別れの名歌として、もてはやされたように思います。
     後世、願掛け、いなくなった猫がもどるまじないに16番歌が使われたという記述を見ても、日本人って面白いと感じます。

     謡曲『松風』には「あら頼もしの御歌や、立ち別れ稲葉の山の峯に生ふる、松とし聞かば今帰りこん、それは因幡の遠山松、これは懐かし君ここに」と使われています。
     おなじく『松風』に「かの行平の中納言、関吹き越ゆると詠み給ふ」とあり、これは行平の歌「旅人は袂涼しくなりにけり、関吹き越ゆる須磨の浦風」(続古今集、旅)からとられています。
     謡曲『恋重荷』には「思ひの煙立ち別れ、稲葉の山風吹き乱れ、恋路の闇に迷ふとも」とあります。
     謡曲『阿古屋松』には「翁さび、人な咎めそ理や、なほ物語り申せとよ」とあり、これは行平の歌「翁さび人な咎めそ狩衣今日ばかりとぞ鶴も鳴くなる」(後撰集、雑)からとられています。
     謡曲『敦盛』には「問はばこそひとり侘ぶとも答へまし。須磨の浦、藻塩たれとも知られなば、藻塩たれとも知られなば、われにも友のあるべきに」とあり、これは行平の歌「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」(古今集、雑下)からとられれています。
     謡曲『忠度』には「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」がそのまま使われています。。
     歌舞伎舞踊には『村松風二人汐汲』があります。

    • 百々爺 のコメント:

      1.猫がいなくなったときに唱える歌。面白いですね。なんで猫なんでしょう。犬でもいっしょだと思うのですが。

      2.「松風」、行平と松風・村雨二人の女性の話ですね。先年須磨に行ったとき「須磨村雨堂」ちょっと離れていたので行きそびれました。まあ今や須磨といっても神戸市で侘しさのかけらもありませんけどね。

  5. 枇杷の実 のコメント:

    藤原氏の台頭が始まったころ、行平は因幡の国の守に任ぜられる。任地に旅立つ行平を見送る人たちに対して、「すぐに帰って来るよ」と詠って、別れの悲しみはなく、平明さと陽気さがある。これが人々の好むとことなり、「別れた人や動物が戻って来るように」と願掛け、おまじないに使われるようになったらしい。
    因幡といえば6番解説にあるように大伴家持も因幡守として赴任していた。行平より100年ほど前のこと。正月の祝宴の席で披露された歌は
     新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)
    祝福に満ちた明るく優しい歌で、これが記録に残る大伴家持の最後の歌となる。
    家持はこの後、薩摩守、陸奥按察使を経て従三位・中納言となり、その人生で万葉集の編纂に重要な役割を果たした。
    行平は須磨の蟄居を経て最終官位は正三位・中納言。民政に手腕を発揮し歌合せ(現存最古)を主催するなど花壇の中心的存在として活躍し、又、藤原氏の勧学院にな対抗して、一門の学問所・奨学院を創設している。
    二人とも藤原氏との政争を生き延びながら、高級官吏として歴史に名を残した。
    すぐ帰る 行平呼びたし 送別会

    • 百々爺 のコメント:

      そうですか、家持と行平は「因幡つながり」ですか。 

      万葉集最後の歌「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」が因幡の国で詠まれたとは知りませんでした。詞書調べてみました。

         三年春正月一日に、因幡国に庁して、
        饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首

      なるほど。16番「立別れ」と万葉集最後の歌「新しき」が因幡で詠まれたこと覚えておきましょう。

  6. 昭和蝉丸 のコメント:

    三田先生の評は面白かったですね。

    わたしもこの歌、つまらないと思います。
    それなのに どうして源氏の須磨の巻のイメージを呼び起こし、
    更には、私でも知っている有名なお能の「松風」に
    行き着くのか不思議です。謡曲では松風と言う娘が物狂いとなり
    松を行平と見て寄り添い、恋慕の余り、狂乱の舞いを踊りまくる,
    と言う激しいお話。この狂気の世界が、このこじんまりまと
    まった歌から生まれたとは・・・。

    白洲正子は「それは”伝統の力”よ」と、いつもの様に、
    上から目線で説いていますが、行平、業平、阿保親王らの
    親子の生き様から醸成されていったのですかね。

    • 百々爺 のコメント:

      白黒をはっきりつける。黒いものは歯に衣着せずズケズケものを言う。三田先生と波長が合うようですね(サラリーマンには不向きかもね)。

      おっしゃる通り阿保親王の子であるというそれだけで行平・業平兄弟の生き様は(本人の自覚とは関係なく)悲劇性を帯びたものとして捉えられたのでしょう。

      紫式部は真面目な行平をモデル(モチーフ)に須磨・明石の物語を作り出し、放縦な業平をモデルに朧月夜・空蝉・末摘花の物語を作り出したのでしょうか。

      源氏物語第18帖「松風」は明石から大堰の邸に移り住んだ明石の君たちの期待と不安を描く場面でした。松風が象徴的に詠われています。

       身をかへてえひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
        (明石の尼君)

  7. 百々爺 のコメント:

    先日浜寺八麻呂さんから紹介あった放送大学「藤原定家の方法」を見ました。冷泉家や藤原定家の墓(相国寺)も出てきて分かりやすいユニークな講義ですね。しをんちゃん絶賛も宜なるかなと思いました。
     
     定家の代表歌
      春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空(新古今集)

     は本歌取り+漢詩+源氏物語から作られている。

     本歌 風ふけば峯にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か
        (古今集 恋 壬生忠岑)

     漢詩 朝雲暮雨 (「文選」宋玉「高唐の賦」)

     源氏物語 第五十四帖のタイトル「夢浮橋」と藤壷の死を描く「薄雲」での引歌&源氏が藤壷を悼む歌
      
     世の中は夢の渡りの浮橋かうちわたりつつものをこそ思へ(古歌)
     入日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる(光源氏)

    なるほど定家の方法とはそんなものかと思いました。いやはや詠む方も解釈する方も大変ですねぇ。。

  8. 小町姐 のコメント:

    何だかんだ言っても定家はすごい人ですね。
    一首の和歌に本歌、漢詩、源氏物語の二場面をさらりと挿入させるなんて!!
    それだけに百人一首の選定基準(和歌の良し悪し)本当の意図を聞いてみたい思いがしてなりません。

    放送大学のテレビBSの番組表見ましたが掲載されていません。
    BSの何チャンネルでしょうか?

    • 百々爺 のコメント:

      私も定家が「百人一首の産みの親、源氏物語の育ての親」たることを改めて感じました。

      放送大学はBS231 或いは地デジの121チャンネル、どちらも同じ内容で放送されてるようです。月曜日13:45-14:30 です。番組表チェックしてみてください。(私は地デジで見ました)

      • 小町姐 のコメント:

        ありがとうございました。さっそく試してみました、OKです。
        来週は見てみます。

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