20番 好色無双 元良親王 わびぬれば

源融、在原業平と並ぶプレーボーイ御三家、元良親王の登場です。あの陽成帝の第一皇子です。プレーボーイぶりを拝見してみましょう。

(「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)はp70-82紙数を尽して元良親王論を展開している)

20.わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

訳詩:    噂がたってからというもの
       お逢いできず こころは怏怏
       お逢いしてもしなくとも今となっては同じこと
       難波の海の澪標ではありませんが
       この身を尽し 捨てはてても
       お逢いしたい 逢ってください

作者:元良親王 (890-943) 54才 13番陽成帝の第一皇子 兵部卿宮 歌人
出典:後撰集 恋五960
詞書:「事いできて後に京極の御息所につかはしける

①父は13番歌陽成帝(在位876-884)、退位後に第一皇子として生まれる。
 →帝の第一皇子と言えば普通なら皇位継承の最有力候補だろうが、元良親王の場合、最初からその目はない。父の在位は父自身も幼かった時のことで、元良親王にしてみれば「父は昔、天皇だったことがあるみたい、、、」くらいの認識だったのではないか。

 妻室としては醍醐帝・宇多院の皇女らが多数いた。
 それに止まらず元良親王は「好色無双」として後世に名を轟かせる。

②歌人でもあり元良親王御集があり160余首が載せられている。
 編纂は別人であるようだがこの御集、内容がすごい。

 冒頭 陽成院の一宮元良のみこ、いみじき色好みにおはしましければ、世にある女のよしと聞こゆるには、逢ふにも逢はぬにも、文遣り歌詠みつつ遣りたまふ
    →お見事、「あっぱれドン・フアンの心意気」といったものが感じられる(大岡信)

 御集に登場する女性たちは御息所・姫君・女房・人妻・遊女、、、
 ついたニックネームが「一夜めぐりの君」
 「元良親王五十余年の人生は、女に明け、女に暮れたといってよい」(目崎徳衛)

 →この好色ぶり何とコメントしましょうや。源氏物語が舞台となった時代は醍醐~村上朝くらいであろうから元良親王の五十余年ともダブっている。光源氏と元良親王の二人で「色好みとは何ぞや」なんてシンポジウムでも開いて欲しかったですねぇ。

 →匂宮の好色ぶりについて、「気に入った女房とあればどこまでも実家にまでもおしかけた」とあったのを思い出した。

 →数々の女性とのエピソードを読み感じるのは元良親王、実にマメだなってこと。「私が言い寄らないと世間は美人とは認めない。それでは不憫だから手紙くらいは出しておこう」的な義務感、プレッシャーがあったのかもしれない。

③肝心の20番歌 「事いできて後に京極の御息所につかはしける
 京極の御息所(藤原褒子)=宇多帝の女御 左大臣時平の娘・基経の孫
 宇多帝の女御になった経緯もすごい。息子醍醐帝に嫁ぐことになっていた褒子を父宇多院が横取りした。

 元良親王、宮中の御息所を襲ったのか、京極に里下がりしていたところにおしかけたのか。これが噂になってしまいその時詠んだのが20番歌。

 「わびぬれば」の解釈について
  通説  密通の噂が立ってしまったので、、、
  目崎説 「どうせ陽の当らぬ運命の私、今どうとがめられようと、同じこと」というふてぶてしい居直り
  →確かに元良親王の生き方には出生の蔭(若くして廃位となった父陽成帝のこと)がつきまとったことだろう。
  →同じ出生の蔭を背負った薫とは全く違った生き方だが。

 密通相手の京極御息所は父陽成帝を廃位させたにっくき基経の孫娘
 コキュの宇多帝は父陽成帝の後釜に納まった光孝帝の息子
  →たしかに因縁めいているがまあ大それた復讐劇と言うことではないのでは。
  →それより正に色好みの極致、源氏の藤壷・朧月夜との密通に通じるのであろう。

④「みをつくしても」 澪標=水脈をつ串 身を尽し→この身を犠牲にしても
 難波の澪標、源氏物語の巻名にもなっている。

 ・堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを、、、
  みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな(源氏@澪標)
  明石から帰った源氏が住吉大社にお礼参り、そこに偶然明石から明石の君も参りに来て鉢合わせ。明石の君は遠慮して源氏に逢わないよう帰ってしまう。
  →20番歌がそのまま引用されている。ここは元良親王の恋歌というより「難波の澪標」から引いてきたのか。ただ元良親王の激しい恋情を想起させることは計算済みであろう。

。。。20番、五分の一終了です。百人一首中でも指折りの恋歌、区切りになるかと思います。しばらく休暇をいただきます。休暇中は「何でも書き込み帖」をご利用ください。

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20番 好色無双 元良親王 わびぬれば への13件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    元良親王、百人一首関連本を読めば読むほど虚実共々に話題尽きない人のようです。
    光源氏も顔負けの好色ぶりです。
    20番までの和歌を振りかえればこれほど刺激に満ちた宮廷内のあれこれを少し詩心ある人ならば何らかの形で書きとめておきたいと思ったに違いありません。
    その筆頭が紫式部や女流歌人達だったのではないでしょうか?
    さて元良親王が宇多天皇の后(京極御息所)に横恋慕し密通した。
    それが噂に上り、「わびぬれば」ときて「いまはたおなじ」と投げやりで開き直りの歌のように思います。
    天皇にはなれない、こうなったら身の破滅になろうとも思い通りの人生を生きてみようとの覚悟のほどが見えます。、
    天皇の妻と密通するのは禁忌、その点女性のほうは天皇と恋しようが通ってくる多くの男性と(伊勢のように)浮名を流そうとフリーでおおらかな感じがします。
    男女共にある程度の制約はあれど意外と自由に恋愛のチャンスがあり楽しんでいたようですね。
    【余談6】
    母の月命日を(7日)前に母が恋しい。母が逝ってから初めて三重へ。
    いつもの見なれた故郷の山が見えてきた。
    途端に涙があふれる、少し方向転換、直には行けない、この気持ちなんだろう。
    そうだここまで来たのだ。斎宮へ行こう。先週読んだ「天上の虹」第7巻
    673年天武即位、飛鳥浄御原宮。皇室の守り神としての権威を示すために大切なものを神に捧げる
    神宮のそば近くに使える斎宮、清らかで高貴な乙女にふさわしい、選ばれたのは大伯。
    大伯は泊瀬の斎宮で身を清め伊勢へ。悲劇を予想させるような展開・・・
    伝承時代を除き正式に斎宮の制度が確立されたのは天武の時代から。
    大伯は成立後の初代斎宮である。
    天皇の即位に伴い選ばれた斎宮は都と別れ200人余りの侍従を従え5泊6日の旅により斎宮へ向かう。
    1038年(後朱雀天皇)内親王良子(ながこ)が斎宮として伊勢へ旅立った時(群行)同行した貴族、藤原資房による「春記」という日記が残されているそうです。
    群行と帰路は行程が異なり、どちらも都を去る時、戻る時、難波津で禊が行われたそうです。
    伊勢神宮から10キロ以上も離れた神宮領の入り口に作られたのがここ多気郡明和町の斎宮である。
    田んぼに囲まれた所に斎宮関連の建物が点在、「斎宮歴史博物館」はこの日「第33回斎王まつり」の前夜祭ということで賑わっておりました。普段はあまり訪れる人もなくのどかな所でしょう。先ほどNHKニュースで群行の様子が流れましたがきれいな絵巻行列でした。
    天武の頃から660年にわたり国の平安と繁栄のため都を離れ伊勢神宮の神に仕えた特別な皇族女性が余す所なくわかりやすい映像を含めた展示内容でした。
    特に興味深かったのは斎宮と王朝文学の関係です。
    伊勢物語69段
    むかし、おとこありけり。そのおとこ伊勢の國に狩の使いにいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親・・・
       君やこし我や行きけむおもほえず夢か現かねてか覚めてか
       かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとはこよひさだめよ

    有名なのは大伯皇女
       わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし(万葉集)
       二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ(万葉集)
    次の8巻「天上の虹」が楽しみです。
    沿道には西行など関連の歌碑が道しるべになっています。
    そして言うまでもなく源氏物語の六条御息所
    源氏との関係を絶つために娘(後の冷泉天皇妃秋好中宮)と共に伊勢へ下る。
    事実円融天皇の頃、娘に付き添い斎宮に赴いた后と内親王がいたとのこと。
    紫式部はこれをモデルにしたのでしょうか?
    帝が別れの御櫛を髪に挿された場面が思い出されます。
    賢木 「斎宮は十四にぞなりたまひける・・・いとゆゆしきまで見えたまふを別れの櫛奉りたまふほど、いとあはれにてしほたれさせたまひぬ
    他にも「大和物語」「更科日記」「栄華物語「大鏡」などの作品に斎宮が登場します。
    大伯を偲び源氏を懐かしみ漫画と物語と歴史の交差点で迷子になってしまったような一日でした。
    伊勢へ行かれる機会があれば是非、斎宮(近鉄山田線普通電車)迄足を延ばしてください。
    9月には斎宮復元建物竣工記念として「いつきの宮観月会」が、さいくう平安の社で開催されます。平安衣装の雅な舞などが予定されているそうです。
    来年のサミットが伊勢志摩に決まりました。きっと相乗効果があるのではないでしょうか。
    明和町の人は町おこしに熱心でとても親切でした。
    一呼吸おいて母の仏前に今日までの一カ月の様々な出来事を報告してやっと心が落ち着きました。(お忙しい所、長々とごめんなさい)

    「育爺休暇」いいじゃないですか。しっかりお勤めなさってくださいな。
    孫に囲まれてまごまごする期間はあっという間ですよ。
    そのうち振り向いてもくれなくなります。大いに遊んでください。
    毎回返信をいただくのはとても有難く嬉しいのですが大変な時はパスしてね。

    • 百々爺 のコメント:

      1.元良親王と京極御息所はどこでどう愛を交したのでしょう。宮中の御息所の寝所に誰か女房が手引きしたのでしょうか。

      (目崎p76 元良親王御集より)
        京極のみやす所を、まだ亭子院にをはしける時、懸想したまひて、九月九日にきこえたまひける

       世にあればありといふことを菊の花なをすぎぬべき心ちこそすれ(元良)

        夢のごと逢ひたまひてのち、帝につつみたまふとて、え逢ひたまはぬを、宮にさぶらひけるきよかぜがよみける

       ふもとさへあつくぞありける富士の山みねに思ひの燃ゆる時には

       →夢のごと逢ったはいいが帝にばれてはならないと御息所は以後元良親王を拒否する。

        源氏と藤壷の「もののまぎれ」、全くいっしょですねぇ。源氏はバレテもかまわないとまで思いつめてたが藤壷の方が冷静だった。

       見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな(源氏)
       世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢になしても(藤壷)
       
       →源氏物語最高の官能場面でした(若紫13)

      2.斎宮、斎宮歴史博物館の説明ありがとうございます。サミットで伊勢は注目されるし斎宮についても話題になるでしょうね。

       賢木での斎宮と朱雀帝の別れの場面、朱雀帝は幼き斎宮に一目で魅了され帰ってきたら側に召そうと心に決めたのだと思います。所が帰って来たら朱雀帝の意向を無視して藤壷と源氏が結託して不義の子冷泉帝の中宮にしてしまう、、、。藤壷のしたたかさを感じた場面でした。

       悔しさあふれる朱雀院の歌(絵合1)
       わかれ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき仲と神やいさめし

  2. 源智平朝臣 のコメント:

    元良親王は小生が憧れる源融、在原業平と並んで、百人一首作家プレーボーイ御三家の一人とされていますが、小生はどうも彼を好きになれません。その第1の理由は、元良親王は数多くの女性と寝ることだけに関心があり、源融のように風流を好んで贅を尽くした屋敷を作ったとか、在原業平のように伊勢物語に描かれたような美しい恋を重ねたという素敵なエピソードが残っていないからです。言い換えれば、彼は「女に明け女に暮れた人生」を送った単なるドンファン(漁色家、女狂いの放蕩者)に過ぎないと思うからです。

    第2の理由は、元良親王が相手とする女性は美形の女だったら人妻や遊女を含めて誰でも良く、その上、「一夜めぐりの君」の仇名のように一晩寝れば満足するという浮気者に過ぎないからです。小生は、真のプレーボーイ(色好み)なら、教養があって容貌・品性とも素敵な女性に魅かれて恋すべきであり、また、少なくとも恋している間は相手の女性に一人に対してのみ一所懸命に身も心も捧げるべきと思います。

    そんな元良親王だから、38番歌の右近に「昨年聞いた〈逢った〉ホトトギス〈右近〉の声を、何とかして今年も聞きたい〈逢いたい〉ものです」という歌を送ったところ、右近から「ホトトギスの声を別の女性の所で聞きたいとおっしゃるのですか」と彼の好色ぶりを皮肉る歌を返されたという贈答歌が元良親王集に載っているようです(神田p60)。

    さて、20番歌ですが、目崎氏はこの歌の贈り先である京極御息所(藤原褒子、宇多法皇の寵妃)との禁断の恋ゆえに、元良親王に興味を持ち、この恋は「時めく権力者に対して失意の蕩児が叩きつけた挑戦状でなくて何であろう」とまで言い、20番歌は「破滅を賭けてもう一度逢いたいと訴えた歌」と高く評価しています(目崎p78-79)。確かに20番歌は悲愴感が漂い、激情の叫びが聞こえてくるような感動的な歌ですが、元良親王の日頃の行状を熟知して小生はついつい「ふん。また、言ってら」と思ってしまいます。この見方はあまりにも厳しいでしょうか。

    最後に、百々爺さん、育爺務め、ご苦労様です。孫の相手は短い時間なら楽しいのですが、長時間となると疲れますね。お孫さんが何歳か知りませんが、一時は老後を子供の教育に費やそうと考えていた百々爺ですから、百人一首はともかく、やさしい算数・国語・英会話・英語の歌などを教えられては、如何でしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      1.プレーボーイの行状・評価についての整理お見事です。智平朝臣の見解もご尤もだと思います。元良親王、いくらなんでもやり放題に過ぎますね。まあここはやっぱり「親王さん」だからでしょうか。源融も在原業平も賜姓源氏(在原)ですからね。世間に対する感覚の違いかもしれません。

       尊貴な女性に対する大それたことのしでかし度という点では在原業平と元良親王いい勝負でしょうか。

       業平:高子とのことは入内前だし大それたことには入らない。
          斎宮の恬子内親王と通じたのは禁忌度重大

       元良親王:伊勢御息所(宇多帝女御)と通じる、禁忌度大

       →斎宮とやらかした業平の方がやや上かも

      2.38番歌右近とそんなやりとりがあったのですか。源氏物語花散里に源氏が昔一度通じた中川の女に通りすがりに消息したところ「お呼びじゃない」とにべもなく断られる場面がありました。これもホトトギスが詠まれている。紫式部は右近と元良親王のやりとりを参考にしたのかもしれません。

       ほととぎす言問ふ声はそれなれどあなおぼつかな五月雨の空
        (中川の女 花散里2)

      3.20番歌に対する目崎先生の見解は私もやや思い入れ過ぎではと思います。大それた復讐心などではなくむしろ御息所にトコトン惚れて「身のいたづらになる」ことも省みず詠みかけた純粋な歌でいいじゃないですかね。
        →柏木の女三の宮へ恋のような。

  3. 百合局 のコメント:

    父陽成院の⑬番歌と何となく似通った感情の激しさがある歌ですね。やはり血筋かなという気もします。名前が残っているだけでも30人以上との恋愛歌があるそうなので、本当の恋をしたのかが疑問です。

    『今昔物語集』や『大和物語』にも元良親王の話がでてきますが、面白いと思うのは、どれもフラレタ話なのです。もてない男のやっかみかとも思いますが、むしろ源智平朝臣の説のように、感心しない方の色好みだったため、笑い飛ばしたかったと考えたほうがよさそうですね。

    今昔、巻二十四、第五十四「陽成院之御子元良親王、讀和歌語」には、元良親王は仲平の女の童(形、有様美麗にして、心ばえ良し)に男有りとは知らず、度々歌を贈ったが「此ノ親王遂ニ会リト不聞エトナム語リ傳ヘタルトヤ。」

    「大和物語」九十 では修理の君に和歌で「いかに尊い御方でも、一夜二夜の出来心のお越しが何になりましょう」と、断られています。(故兵部卿の宮とでている)

    「ひとよめぐりの君」としてもう一人中務の宮が「大和物語」八 にありますが、これは別人のようです。相手の監の命婦の歌をあげておきます。
    あふことのかたはさのみぞふたがらむひとよめぐりの君となれれば

    お忙しい好色人は何人もいたようで・・

    • 百々爺 のコメント:

      なるほど、感心しない方の色好みですか。そうかもしれませんね。よく「千人斬り」とか言われる類の男という位置づけでしょうか。そんな女性の数だけ数え立てても何の自慢にもならない、逆に「色情狂」と斬り捨てられるのがオチでしょう。やはりちゃんと恋をしなくちゃいけませんよね。

       あふことのかたはさのみぞふたがらむひとよめぐりの君となれれば

       →面白い歌ですね。それこそお呼びじゃないって門前払いですね。

  4. 百合局 のコメント:

    百々爺は別のお忙しさですね。
    大勢の家族に囲まれて過ごすのもいいでしょうね。
    できるときにできることを精一杯やるのが一番です。
    あてにされている、頼りにされているうちが華ですよ。

    百人一首はお孫さん相手にゆっくりと考えてください。
    私はその間に今までの20首を①から順に諳んじておきましょう。

  5. 浜寺八麻呂 のコメント:

    在原業平、源融、元良親王、三者三様の色好み、彼らが3大プレイボーイとはこれまで全く知りませんでしたので、百人一首の歌だけでなく、それぞれの生きた時代背景、生き様、恋の仕方、人間関係などを知ると、面白くてたまりません。
    爺の解説、皆さんのコメントを拝見するのも、興味津々です。

    この20番歌、歌の響きは柔らかでのんびりした歌に聞こえますが、内容は激しい恋の歌、このアンバランスがすばらしいと思うのですが、小生には解らない、歌の響きにも激しいものがあるのでしょうか。

    さて、元良親王、かかる禁忌の恋をし、世間にも知れ渡ったにもかかわらず、流配もされず、其の地位に留まったのは、何故か興味があります。小生推測は以下です。
    宇多院は、京極の御息所(藤原褒子)が自分の元に戻ったので、事を荒立てようとはせず、むしろ沈静化を図った。
    藤原基経・時平は、摂関家政治の礎を築いたとはいえ、いまだ絶対的権力者ではなく、光孝天皇即位、宇多天皇即位でも、譲るところは譲りパーワーバランスを考える必要があり、元良親王にも断を下せなかった。

    育爺、今回はちょっとした長期戦でしょうが、小生もいまの生活、先ずは孫のことが優先ですので、がんばって楽しんでください。腰を大切に。

    なお、談話室を再開の折は、ブログは随時見ますが、別途メールで連絡いただけるとありがたいです。

    ≪雑談≫
    先々週に天草ー大分ー国東半島に旅したことを書きましたが、先週も関西に出かけていました。
    知人の方の偲ぶ会があり4日神戸へ、その後京都2泊、奈良に1泊して、昨晩帰って来ました。
    5日は、比叡山に行きました。これまで訪れたことがない”横川”に今回行きました。東塔・西塔よりもまだまだ山深く、横川中堂も立派で、修行の地と呼ぶにふさわしい聖地でした。源氏物語 手習に出てきた、横川の僧都を読んだ時から、一度行きたいと思っていたので、小雨模様でしたが新緑の木々に囲まれたすばらしいところでした。
    延暦寺根本中堂の外れに、紀貫之のお墓があるのも偶然発見。貫之は生前、琵琶湖を望む比叡山のこの地が好きで、死んだらここにお墓を作ってほしいと行っていた由。

    6日は、重森三玲が作庭した、東福寺 方丈 八相の庭と 同塔頭 光明院の庭を見てきました。以前、三玲旧宅と松尾神社の庭を見たことがありますが、今回の庭は、竜安寺の石庭にも負けぬほどすばらしかったです。
    NHKBSプレミアムで最近放映されたので、ご覧になった方もおられるかも知れませんが、お勧めです。

    7日は午前中のみですが、日本最古の街道、山辺の道を歩いてきました。柳本で降り、崇神天皇稜、景行天皇稜、檜原神社、日本最古の神社ともいわれる 大神神社(三輪明神)など、田んぼの畦道を歩き、お参りしてきました。
    先般爺も尋ねた大和路です。
    ちょうど二上山も見え、大伯皇女が亡き大津皇子を詠った

    現身の人なる吾や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾見む

    の歌が紹介されていました。
    小生も、小町姐さんが引用されている伊勢で2首

     わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし(万葉集)
     二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ(万葉集)

    が好きです。

    • 百々爺 のコメント:

      1.京極御息所との禁忌の恋で元良親王が何故裁断されなかったのか。八麻呂説拝読しました。私も大体はそんなところかと思います。宇多帝にしても関白基経にしてもかかる不祥事を表沙汰にすれば権威にかかわるし、恥をさらすだけのこと。御息所は過ちを自覚しこれ以上の発展はなさそうだし、そもそも女狂いの親王に一度噛まれたからといって騒ぎだてることもあるまい、、知らん顔してるのが一番の得策、、、と考えたのでしょうかね。

       →私が基経の立場でもそうします。一発ドスのきいた脅しでも入れてね。

      2.すっかり源氏旅、百人一首旅、万葉集旅が板についてきたようですね。昨日延暦寺と高野山のこと伺いました。まだどちらも行ってないんで是非行きたいと思っています。

       横川~小野で手習、浮舟のことを想うなんて素晴らしいじゃないですか。

  6. 百々爺 のコメント:

    みなさまに育爺休暇へのご理解あるコメントをいただきほっとしています。孫は7人目になりますがこんな機会は初めてで最後でしょう。そこでどうせやるならトコトン育爺に徹してみようと考えた次第です。

    今のところ2才児だけなので毎日どこか外へ連れ出して遊びの相手をしてやるのがメインですが一時帰国組(小6・4・1)が帰って来ると(一学期中は近所の小学校に一時入学させてもらうことになっているが)遅れた勉強なんかも教えてやらねばなりません。でも爺としては勉強よりももっとワイルドなものをいっしょにやって興味を持って欲しいなと思っています。昆虫(蝶々・トンボ・蝉・カブトムシ)、魚(フナ・メダカ・ドジョウ)、鳥、植物、、、、要は自然観察です(既に爺は子どもたちから「蝉捕りの天才」と崇められています)。後は外でのボールゲーム、室内でのカードゲームなどなど(マージャンはちょっと早いでしょうが)。とにかく色んなことをいっしょにやってやりたいと思っています。

    デッカイ工作をいっしょに作るなんてのもいいのでしょうが、残念ながら爺には図画工作の才能は全くないのでこれはできません。

    とにかく精神年齢を60才若返らせて子どもに戻った気持ちで接したいと思っています。
     →小学校高学年組には相手にしてもらえないかもしれませんが。。。

    • 文屋多寡秀 のコメント:

      ホホう!!孫来たりなばの覚悟のほどが溢れんばかりに伝わってきますな。育てるもよし。育てられるもよし。大家族の妙を存分に味わってください。

      元良親王は源融、在原業平と並んで、百人一首作家プレーボーイ御三家の一人とされているくらいですから、天は弐物を与えたもうたのはもちろんでしょうが、実は大変な美声の持ち主だったようですね。いわく。「元日に御所で祝賀を述べる声が、遠く鳥羽のあたりまで響いた」と。

      そういえば伊勢志摩サミットですね。一年先で日程はこれからでしょうが、40会の「古稀同窓会」が7月としますと、かなりニアミスしそうですね。マーケットでは朝から「近鉄」株が物色され「三重交通」にいたってはストップ高ですね。いずれにしましても折に触れ三重は話題になることでしょうね。

      わがタイガースが久しぶりに4連勝。苦手の交流戦とすれば上出来でしょう。復活のV打マートン曰く。「ノウミサン グッドジョブ オツカレサン」。本日は甲子園は中止とか。

      本論に入る前にお出かけの時間となりました。つづきはまた明日。

  7. 文屋多寡秀 のコメント:

    「遠く鳥羽のあたりまで響いた?」 

    そんなはずないでしょう。それは美声でなく蛮声ですな。
    では元の記述を探してみましょう。「徒然草」(第132段)に「鳥羽の作り道は鳥羽殿たてられて後の号にはあらず。昔よりの名なり。元良親王、元日の奉賀の声甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作り道まで聞こえけるよし、李部(りほう)王の記に侍るとかや」とあります。もちろん伊勢の鳥羽でないにしても、京の南端とは。正に「白髪三千丈」の世界ですな。

    この元良親王 なかなかの風流人ですな。恋に浮き身をやつしてはいても、明朗闊達な性格の御仁だったらしく、そういう点では好感が持てますね。先ほどの鳥羽の一件にしても、記事そのものは誇張されてるというほかないですが、如何にも音吐朗々という感じで、元良親王の一面を生き生きと伝えるエピソードですな。

    高貴なお方の配偶者候補に恋慕の情を抱けば、いくらフリーセックスの時代とはいえ道ならぬ恋として秘めざるを得ないものを、事が露見し非難の的となり、こうなった以上はヤケノヤンパチ、どうにでもなれという思いつめた恋心の燃焼を「難波なる」とはぐらかし、そうして「難波なるみおつくし」と、恋しい人との愛を貫くには、この身はどうなろうと構っちゃおれないという、激しい意思表示となってるようです。「恋は盲目」。自分も甘んじて盲目になろうとする息苦しいような一途さを「難波」という歌枕、「みおつくし」という掛け詞のベールに包んだところにこの歌のスマートさが見られ、平安貴公子の本性を垣間見るように思えます。(橋本武:解説百人一首)

    なんだか愛すべきキャラに見えてくるではありませんか。

    • 百々爺 のコメント:

      1.徒然草132段紹介ありがとうございます。さすが兼好法師、元良親王の逸話を紹介しても色好みのことなど一切触れず美声(大声?)を言ってるだけですね。地図見ると内裏大極殿から羅城門(鳥羽作道入口)までは南へ真っ直ぐ3Kmほど。まさに「美声三千米」の世界ですね。

      2.橋本先生の解説、面白いですね(京極御息所は配偶者候補でなく現役の配偶者、皇子をなした御息所の筈ですが)。確かに元良親王、名前どおり根明な男だったのかもしれません。世間のことなど考えない、マイペースで奔放に生きる。その結果が飽くなき女性遍歴であり勅撰集に20首も入った歌の達人であった。政治の表世界、権謀術数の世界よりは気楽でいいじゃないですか。元良親王に捨てられて不幸になったなんて大人気ない文句を言う女性もいなかったようですし。。

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