42番 ひょうきん爺さん 元輔 山は、、、末の松山

清少納言のお父さまの登場です。西国への地方勤務あり宮中梨壺での後撰集選定勤めあり、頼まれれば恋文の代書もいとわない。権門の人たちとも同僚、下級の歌人たちとも幅広く交遊し愛される。ユーモラスでひょうきんな人柄。83才の長寿を謳歌した果報者、、、とお見受けしましたがいかがでしょう。

42.契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

訳詩:    覚えておいでですか たがいに泣き濡れ
       かたくかたく誓い合ったあのときのことを――――
       末の松山を浪が越える
       そんな恐ろしい おぞましいこと
       けっして けっして 私にかぎって・・・・
       あなたの言葉が今も耳にはりついています

作者:清原元輔 908-990 83才 36深養父の孫 62清少納言の父 従五位上 肥後守
出典:後拾遺集 恋四770
詞書:「心変り侍りける女に、人に代りて」

①清原氏については36清原深養父の項参照
 天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族

・地方勤務は河内権守→周防守→肥後守 受領階級である。
 なかなか官位にめぐまれずご多分に漏れず不遇を訴える歌を詠っている。
  年ごとにたえぬ涙やつもりつついとど深くや身を沈むらむ

 その甲斐あってか67才で周防守に。娘清少納言も帯同している。
 →清少納言は59才くらいの時の子どもとのこと。この時10才ちょっとだったか。

 そして何と79才で肥後守に。4年後任地で没す。熊本に清原神社あり。
 老友源満仲に別れに際し贈った歌
  いかばかり思ふらんとか思ふらむ老いてわかるる遠き別れを

 →いやあ、すごい。79才で九州(当時は地の果てであろう)。左遷されていくならともかく請い願って行きますかね。正に生涯現役を全うしたアッパレな男。とても真似ができません。

・中央勤めにあっては梨壺の五人として後撰集の撰者となったのが華々しい。
 後撰集を951年とすると元輔は44才。男盛りの時であった。

・権門の家に出入りしそのあつらえに応じて歌を詠んでいる。
 お祝いのため、長寿のため、無病息災のため、、、法師が祈祷するように目的に応じて歌を詠んだのであろうか。
 →天才的な即興歌人、サービス歌人であったようだ。

②歌人としての清原元輔
・勅撰集に100首余 三十六歌仙
 公任が三十六歌仙として買っていた歌
  秋の野の萩の錦を我が宿に鹿の音ながら移してしがな 

・960年天徳内裏歌合に右方として一番出ている。
 題 桜
 左:44藤原朝忠(勝)あだなりとつねは知りにき桜花をしむほどだにのどけからなむ
 右:清原元輔(負)  よとともに散らずもあらなむ桜花あかぬ心はいつかたゆべき
 →相手は権門の人朝忠、結果は仕方がないか。でも出詠は誇らしかったことだろう。

・歌人たちとの交流、幅広く伝わっているが取分け40平兼盛とは大親友だったもよう。
 生まれ年も没した年もほぼ同じ。80数年いっしょの時代に生きた同志だった。
 官位も従五位上駿河守(兼盛)と従五位上肥後守(元輔)と同等。
 →後撰集撰者としては元輔が上、天徳内裏歌合での関与度では兼盛が上だったか。

③42番歌 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
・契りきな=約束しましたね。永遠の愛を誓い合った二人
・それなのに心変わりをしたあなた、相手の心変わりを恨みとがめる歌。
 →38番歌と構造がよく似ている。とがめつつすねて甘える余韻も残る。

・本歌は有名な東北地方に伝わった民謡とされる古歌(女の歌であろうか)
  君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ 古今集東歌陸奥歌1093

 藤原興風にも先行歌あり
  浦ちかくふりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る 古今集冬

 定家の派生歌
  思ひ出でよ末の松山すゑまでも波こさじとは契らざりきや

 →事程左様に「末の松山波こさじ」はあり得ないことの象徴として歌の常套句となっていた。

・末の松山 宮城県多賀城市 現在も宝国寺の上の丘に二本の松が植えられている。
 枕草子11段
  山は小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末の松山

・芭蕉は奥の細道で歌枕末の松山を訪ねている。
  末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと、悲しさ増さりて、塩がまの浦に入相のかねを聞く
  →連理の枝 二本の松が植えられている。この二本の松を分け放つような波は襲ってくるはずがない。変らぬ愛の象徴であった。

 派生して奥の細道象潟の項で曽良の句を載せている。
  波こえぬ契ありてやみさごの巣 曽良 @象潟

・詞書 「心変り侍りける女に、人に代りて」
 元輔は誰に代ってこの歌を詠んだのか。
 ネットより
  この歌は「惟規集」に「をんなに」の詞書を添えて載っており、元輔が藤原惟規(?-1011)のために代作したものかと思われる。因みに惟規は紫式部の弟である。

  →あっと、驚くタメゴロー! 惟規とは父為時が姉式部ぐらいできたらいいのにと嘆いた男である。
  →紫式部の弟が清少納言のお父さんに恋文の代作を頼む!これを聞いたら式部は怒ったでしょうね。「恥を知りなさい。私なら何でも作れるわよ、何せ源氏物語で795首も詠んだのだから」

④源氏物語との関連
・38番歌「忘らるる」と同様紫の上の心境に思い至る。紫の上との永遠の愛を誓った源氏なのに晩年(源氏40才、紫の上32才)になって女三の宮(14才)が正妻として降嫁してくる。第一夫人の座を譲り寝所も移りさりげない風を装う紫の上。「二人で契ったのに末の松山を波が越えた、、、」と感じたのではないか。

 目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな 紫の上@若菜上14

・「末の松山波こさじ」も宇治十帖の重要場面で引用されています。
 薫が浮舟に匂宮との関係を糾弾する文を送りつける場面

  波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
   人に笑はせたまふな
 薫@浮舟25

 →これは冷たい。恨むというより浮舟を逃げ場もない所に追い込んでいる。
 →42番歌は恨みもあるがなんとなくあたたかい訴えるような感じがする。

  「この歌(薫の波こゆる)にこもる、しんねりむっつりした深刻な憎悪とあてこすりは、元輔の歌(42番歌)とは全く雰囲気がちがう。―――――それはまるで、紫式部と清少納言の気質のちがいを見るようである」(田辺聖子)

  →面白いですねぇ。弟惟規も登場するし、、紫式部と清少納言、話が尽きません。

また、それぞれの歌の所で議論しましょう。

松風有情さんから42番歌の絵をいただきました。ありがとうございます。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/10/KIMG0227.jpg

 →なかなか奇抜なアイデアでいいんじゃないでしょうか。
  (指と指の間にあるのは何なんでしょう)

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42番 ひょうきん爺さん 元輔 山は、、、末の松山 への21件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    清少納言のお父上、右近とも恋愛関係であったとか、どんな人なんでしょうね。
    百人一首に三代が名を連ねる押しも押されもせぬ清原家。
    元輔もご多聞に漏れず官位に執着したとの事、よくわかります。
    先般百々爺さんはじめ貴族の収入に対するコメントを見て驚きました。
    現代の貨幣価値に換算したその年収の多さから想像すればさもありなんと思います。
    一位と従六位の差を見れば歴然ですね。
    効あり79歳で肥後守に、精力的な爺さんですね。
    歌人としての活躍、歌壇での交流共に名を残しアッパレです。

    「末の松山波越さじとは」
    東北の震災以来あり得ないことの象徴が現実に起こりこの言葉も虚妄になりつつあります。
    まあここは当時の比喩としてはなくてはならない言葉、良しとしましょう。
    そのあり得ないと思えることも恋の世界で心変わりするのはよくある話。
    さほど深刻さはなく大切な誓いを破った女性をなじっているように見受けます。
    確かに38番歌と似てはいます。
    38番の右近の「誓いてし」そして42番の「契りきな」共に契り誓い合ったのが共通ですが違うのは恨みを直接訴えるのではなくそれとなく相手を責めている所ですかね。
    男女の違いこそあれ共に皮肉たっぷりなのも共通項です。

    悲しいかな、永遠と誓った愛もやはり時に波は越えるのです・・・
    紫の上の健気さ、切ない心情甦ります。
    薫の「人に笑はせたまふな」この言葉は忘れられません。
    浮舟を死の淵にまで追い詰めた薫・・・

    松風有情さん
    42番歌絵、拝見しました。
    大胆な構図ですね。男女の袖から伸びる手からはハート?それとも火花?
    顔を隠しただ袖が大胆に描かれている所が気に入りました。
    やはり才能有りですね。 

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうだ、38右近とも関係があったらしいと書きましたね。恨み節も繋がってるってことでしょうかね。

      ・猟官運動をして79才で肥後守の職を得て嬉々として任地に赴き4年後任地で死亡。まさにピンピンコロリ、周りからは「お爺ちゃん、大往生や!」って褒められたのでしょうね。
       
       →この時代年金制度もなかったろうし子どもが面倒をみてくれるようなシステムでもなさそう。貴族といえど年寄りには住みにくい世の中だったのでしょうか。
       →貴族の収入は官位で大きく変わるので一ランクでも上も目指すのは当然でしょうが、官位って一旦上がれば下がることはなかったのでしょうかね。一つ上がれば終身その給与をもらえるのならそりゃあ出世に目の色変えるでしょうね。やはり年棒制くらいが妥当なところでしょうが。

      ・男女の恋における心変わりのこと考えてみました。
       当時は結婚の形態も結婚の制度もゆるやかで(おおらか、オープン)二人にとって結婚を担保するものはお互いの愛情しかなかった。どちらかの愛が覚めれば結婚は自然解消となってしまう。自ずと二人は愛を誓い合い、少しでも疑いが生じると恨んだりすねたりして相手の心を繋ぎとめようとした、、、。

       時代が下って現代では結婚(夫婦制度)は法的社会的に守られており(互いに制約を受けており)愛が覚めたからと言ってすぐ離れる訳にはいかない。我慢し合い惚れた腫れたのアツアツの頃は思い出としてお互い空気のような存在になって暮らしていく。。。

       →現実主義者の爺はやはり現代の方がいいように思います。

  2. 松風有情 のコメント:

    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/10/KIMG0227.jpg

    次は42番歌と決め、二本松をスケッチするもあまりに味気なく悩んでいたら流行語大賞候補五郎丸の組み手をあれこれ真似た揚げ句に生まれた構図です。
    確かに少し大胆奇抜だったかもですが、偶に遊び心の歌絵があってもいいかなと思い投稿しました。源氏香も袖に入れてみました。

    川柳は上の句、下の句を使い

    契りきな
    遺伝子交換
    ET もどき

    なみなみの
    カレーにスプーン
    こさじとは

    • 百合局 のコメント:

       源氏香の「松風」図 をさりげなく袖下に入れ、ご自身の「松風有情」の号にもしているとこる、素晴らしいですね。
       何事にも遊び心があると、面白く感じられます。

    • 百々爺 のコメント:

      そうか指を合わせているのは五郎丸の呪文からの構図でしたか。ナウいじゃないですか。何ともユニーク。松風オリジナルですよ。素晴らしい。

      源氏香は「松風」ですか。百合局さんから指摘されるまで気づきませんでした。折しも源氏香の組み合わせ数を考えていたときでびっくりしました。

  3. 百合局 のコメント:

     五位の官職や職業歌人としての収入だけでは暮らし向きは満足いくものではなかったのでしょうね。ですから79歳になっても九州に受領として赴く。おそらく79歳でも家族の長、一番の生活の担い手だったのだろうと想像しています。

     42番歌は代作のためか、元輔自身の性格によるのか、恨みがましくもないし、情緒を出さずに醒めた感じで詠まれていますね。そこがこの歌の良さでしょうか。

     今昔物語巻第28に「歌讀元輔、賀茂ノ祭ニ渡一条大路語第六」があります。よく知られた話ですが、元輔の人柄を知るにはもってこいの話です。

     謡曲『邯鄲』にある「わが宿の菊の白露けふごとにいく代積もりて淵となるらん」は拾遺集、秋、清原元輔の歌を使っています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・今昔物語の元輔の話は面白いですね。
       賀茂祭で奉幣使を務めた際落馬して頭にかぶった冠が落ちて禿げ頭が露呈した。人々が笑うのを元輔は堂々と弁解して歩いた。
       →今昔物語にこういうトーンで書かれるのはむしろ誉め言葉でしょう。性悪陰険な男なら徹底的に揶揄されるでしょうから。

      ・名だたる歌詠みとして中宮定子からも一目をおかれてた元輔(それだから清少納言も委縮して歌を自由に詠めなかった)。奔放に人生を全うしたアッパレ男と言っていいでしょう。

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    爺が既に要所を書いてくれていますが、元輔の官暦がWIKIによくまとまっていましたので、参考まで。

    官歴[編集]
    951年(天暦5年)、河内権少掾(従七位上相当)に任官。
    961年(応和元年)、少監物(正七位下相当)に任官。
    962年(応和2年)、中監物(従六位上相当)に任官。
    966年(康保3年)、大蔵少丞(従六位上相当)に任官。
    967年(康保4年)、民部少丞(従六位上相当)に任官。
    967年(康保4年)、民部大丞(正六位下相当)に任官。
    969年(安和2年)、従五位下に昇叙し河内守に任官。
    974年(天延2年)、周防守に任官し鋳銭長官を兼任。
    980年(天元3年)、薬師寺造営の功績により従五位上に昇叙。
    986年(寛和2年)、肥後守に任官。
    990年(永祚2年)、任地にて没す。

    さて、この歌の爺のコメント、非常にまとまりよくまた面白いです。僭越ながら、あっぱれです。

    特に

    ” この歌は「惟規集」に「をんなに」の詞書を添えて載っており、元輔が藤原惟規(?-1011)のために代作したものかと思われる。因みに惟規は紫式部の弟である。

      →あっと、驚くタメゴロー!”

    もひとつ おまけに、ほんまかいなそうかいな??です。

    源氏物語からの引用も、面白いです。今東女の講義は漸く若菜(下)にはいりましたが、

    目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな 紫の上 @若菜上14

    いいですね。講義を聴き、読み直し、紫の上の気持ちが、数段良くわかるようになってきました。

    また、

    波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
       人に笑はせたまふな
     薫@浮舟25

    煮えきらぬ薫を思い出しました。

    さて、ひょうきんな元輔翁、”百人一首の作者たち”によれば、

    1)兼盛が毎度”沈思”して和歌を詠むのを非難し、”予は口に任せてこれを詠む”といったとか

    2)加茂祭りの使いとなったとき、馬がつまずいて落馬し、冠を落としてみごとな禿頭を露出したが、思慮に欠けた畜生がつまずくのも、禿頭から冠がすべり落ちるのも理の当然と、大演説をうったとか、

    なかなか面白い豪傑肌の翁ですね。これも、あっぱれです。

    最後に松風有情さんの絵、構図が決まってますよ。あっぱれです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・元輔の官暦、ありがとうございます。
       地方勤務は河内権守→周防守→肥後守、と西国派なんですね。周防守(山口県防府市)の時は清少納言も連れて行っており幼い清少納言はここで4年を過した。瀬戸内海に面した風光明媚な土地、清少納言の人格形成にも少なからず影響を与えたのではないでしょうか。

       →この西国派の元輔が詠んだのが「末の松山」ってのも皮肉なものですね。私が朝廷の人事担当だったら元輔の最後は肥後守でなく陸奥守(多賀城)に任命しますけどね。

      ・代作の相手が「惟規」と聞いてホントびっくりしました。惟規って賢姉紫式部の愚弟って誰も知ってますからね。
       →この話如何にもウソっぽいですね。でもウソにしてもよくできた話だと思いませんか。

      ・「若菜下」に入りましたか。源氏物語もクライマックスですね。じっくり楽しんでください。

       →思いもよらぬ「女三の宮」の降嫁によって、源氏も朱雀院も柏木も頭中も夕霧もそして女性も紫の上、女三の宮、落葉の宮、雲居雁と全員が残らず不幸に陥る。正にオセロゲームの白が全て黒に置き換わる見事なストーリー。思い出しても身震いがします。

  5. 小町姐 のコメント:

    私の独断で東日本大震災でてっきりさすがの末の松山も波を越えたのだとばかり思っていましたが何気なくネットで調べていたらやはり「末の松山波越さじとは」は本当だったようです。
    以下 歌枕調査研究報告(片岡 智子)によれば
     東日本大震災いらい災害伝承としての地名や地域の教訓などの重要性が見直されている。歌枕「末の松山」こそ、まさしく貞観大津波の情報をもたらすものであった。それをいち早く指摘したのは地震学者のロバート・ゲラー氏である。氏が根拠にした歌は淸原元輔の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(『後撰和歌集』『百人一首』)であったが、それには元歌がある。すなわち『古今和歌集』巻二十の「東歌(あずまうた)」で、詞書きに「陸奥歌(みちのくうた)」と称されている「きみをおきてあだし心をわが持たば末の松山波もこえなん」である。まずはこの歌に着目しなければならない。末の松山はけっして波が越えることがないという前提で詠まれている。その波が貞観の大津波であるという根拠を探るために本年2月に現地踏査を実施、多賀城市を中心に仙台市、塩竃市周辺で行なった。

     最初に仙台湾岸の荒浜から仙台港へと北上し、多賀城市八幡の「末の松山」にいたる約8kmの仙台平野における平成大津波の現状を調査。その結果すでに復元されている貞観大津波(「仙台平野における貞観11年(869年)三陸津波の痕跡高の推定」『地震』第43巻所収)の痕跡跡とほぼ一致することを確認した。さらに「末の松山」の丘陵の麓の八幡二丁目には3m以上の波が押し寄せたが、松山には津波が及ぶことがなかったことが判明した。「末の松山」が丸く突き出た小山であり、みごとに津波を免れていることは『東日本大震災 津波詳細地図』によっても確認できる。近くに歌枕「沖の石」があるので、かつては「末の松山」の近くまで海であったことが推測できた。

    そして「末の松山」の奥、北西1kmの広陵に多賀城址がある。この地点は「末の松山」より内陸なので津波は到達していない。貞観大津波は『日本三代実録』に記録されており、おそらく多賀城から都に報告されたものと思われる。東歌であり陸奥歌である「末の松山」の歌も貞観大地震の後、多賀城からもたらされたものにちがいない。

     以上のように現地踏査とその考察によって、「末の松山波越さじ」は貞観大津波の災害情報だったことが明らかとなった。今後、もう一度現地踏査をしたいと思う。民謡として伝承されていないかを探査し、また絵図や古地図などを参照してさらに研究を進めつつある。

    以上のようにありましたので私のコメント、「東北の震災以来あり得ないことの象徴が現実に起こりこの言葉も虚妄になりつつあります」と言うのはそれこそ虚妄でありました。

                                          

    • 百々爺 のコメント:

       歌枕調査研究報告(片岡 智子)、ありがとうございます。興味深く読ませていただきました。

      ・地図で見てみました。八幡2丁目に3m以上の波が押し寄せたということは松山の松は小高い丘にあるのでかろうじて大丈夫だった。でも松山からちょっと下ったところにある「沖の石」は沈没したということですね。改めて「末の松山波越さじ」があり得ないことの象徴であることを痛感しました。ギリギリのところですもんね。

      ・貞観大地震869年 この時我らが馴染みの人たち、どんな人がいて何才だったか調べてみました。

        869年
        僧正遍昭 54才
        源融   48才
        在原業平 45才
        藤原基経 34才
        菅原道真 25才   です。

        wiki見てると当時の陸奥守は「良岑経世」とあったので聞いたことあるなあと思い返してみると僧正遍昭の出家前の名前が「良岑 宗貞」でした。近い血縁ではなさそうですが同じ良岑姓、何か関係があったのかもしれません。遍昭も現地のことを思い遣り心配だったことでしょう。

  6. 源智平朝臣 のコメント:

    昨日は朝からバタバタしていたので出遅れましたが、いくつか断片的なコメントをしたいと思います。

    最初は、東日本大震災で末の松山を波が越したかどうかの話です。小生がかつて調べた時の記憶では「越さなかった」筈だが、小町姐さんの最初のコメントは「越した」とあるし、ネットを見ると少数ながら「越した」説もあるので、どちらが正しいのか再度調べる必要があると感じました。ネットに両説あるので思案の上、昨日午後に多賀城市の文化財課に電話したところ、小町姐さんの訂正コメントのとおり「越さなかった」というのが正解と分かりました。他方で、「末の松山波越さじ」と言われる元となった貞観大地震(869年)のマグニチュードは8.3~8.6と推定されているのに対して、東日本大震災のマグニチュードは9.0。この数字だけ見ると、直観的には「越さなかった」のが不思議なような気もします。

    第2は、元輔も嘆いていた貴族の収入の話です。百合局さんに教えてもらった「おさるの日本史豆知識」によると、位階に応じた年収を現在の金額に換算した推定値は次の通りです(但し、律令制が導入された奈良時代の数字で平安時代にはいろいろ変貌している模様)。

    一位:3億7455万円、二位:1億2484万円、三位:7490万円、正四位:4119万円、従四位:3506万円、正五位:2801万円、従五位:1540万円、正六位:704万円、・・・従八位:318万円

    これを見ると、①位階による収入の差は相当激しい(報酬表の勾配は極めて急)、②五位以上を貴族と呼んだが、五位と六位では収入の大きなギャップがある等が分かります。 官人が少なくとも五位になりたいと必死になったり、徴税権を持ち役得も多い受領になって富を蓄えたくなる気持ちも理解できます。

    最後は、元輔の人柄です。今昔物語にある落馬の話はちょっとやり過ぎという気はするものの、彼のようにユーモラスでひょうきんな人物は世の中を明るくするので、好感が持てます。小生は、元輔は教養溢れるお笑い芸人のような人物で、人間関係を円滑にする潤滑油のような役割を果たしていたのではないかと想像しています。彼と娘である清少納言との関係や清少納言と紫式部との比較についても話題にしたいのですが、それはまた57番歌や62番歌のところで、皆さんと意見交換できることを楽しみにしています。

    (注)源氏物語の和歌の数を975から795に訂正下さい。

    • 百々爺 のコメント:

      ・さすが智平どの、疑問点は直接現場に聞いて確かめてみる、ありがとうございました。多賀城市文化財課も電話を受けて「びっくりぽん」だったかもしれません。

       小町姐さんご紹介のレポートにあるように末の松山の松の所までは波は来なかったのが正解だと思います。爺は2年前に現場に行きましたが宝国寺があってその裏にお墓、そして大分上った所(宝国寺のレベルからは5m以上は高いか)に松があるのでここまでは来ないだろうなと思ったことを覚えています。逆に沖の石はそこから50m先ですが坂道を下ったところにあるので来たんじゃないかと思ったものです。

       →古歌から続く「あり得ないことの象徴」が安泰でよかったと思います。

      ・元輔、面白そうな人ですね。はげ頭でちょっと肥満体、甲高い声でちょっと早口、運動神経は鈍く蹴鞠やらしたら転がり回るタイプ、、、想像は膨らみます。娘の清少納言はそんなイメージでもないんですけどねぇ。

      (源氏物語の和歌の数、ご指摘ありがとうございました)

  7. 文屋多寡秀 のコメント:

    「今回の東日本大震災で末の松山を波は越えたのか?」

    「末の松山波越さじとは」は本当だったようで、すっきりしましたね。阿刀田本を読んでいますと、「この部分貴方はきっと考えるでしょうが、東日本大震災のことは忘れてください」と、あるのみで事の真相には触れずじまいでした。

    この秋、松島を訪れてお世話になった東松島の民宿のおかみさんの言うことには、情報が遮断されいったい今何が起こっているのかしばらくは理解できませんでしたとのこと。ただ目に入ってくる目の前の景色はこの世のものとも思えませんでしたと。東松島は半島で競り出した地形です。前は太平洋から直撃。後は打ち戻された津波で挟み撃ちになりました。小高い丘の上に立つ当民宿は御蔭さまで助かりましたが、しばらくは陸の孤島でしたと。生々しい話は今も心に深く残っています。

    さてひょうきん爺さんの元輔さん、百々爺紹介の如く愛すべき性格だったようですね。このキャラは娘・清少納言にも引き継がれるわけですね。「砂子の中より青き草」(宮木あや子著)によると紫式部とは対照的に描かれていますよね。

    同じく元輔爺さんも同時代を生きた兼盛さんと好対照で比較されていますね。曰く。
    「予は口に任せてこれを詠み、詠まんと思うときは深く沈思す」と毎度沈思して詠む兼盛を難じています。苦吟型・生活享楽派の兼盛と速詠型・生活専心派の元輔というところでしょうか。元輔は所謂専門歌人として、藤原実頼・師輔・源高明ら権門の邸に出入りし、そのあつらえに応じて歌を詠んだのでしょう。この歌が代作であるにもかかわらず、いつまでも人々の心を引き付けるのは、いわば元輔さんの修練の賜物ということができますでしょうか。

    「あら、こんなに濡れちゃったわ」
    「よし、しぼろう」
    「貴方のも絞ってあ・げ・るゥ~」
    と、しぼりあい、
    「有り難う」
    「いつまでも愛し合いましょうね」
    「うん。みちのくの末の松山・・・・」
    「なんのこと?」
    「どんな大波が来ても絶対に松山をこさないんだってサ」
    「あ、そうなの」
    「おれたちの愛も“絶対に“かわらないぞ」
    「そうね」
    と。
    「こんな睦言の世界に没頭しているときには、暫らく東日本大震災のことは忘れてください」と我が阿刀田高さんはおっしゃっているのでしょうね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・おっ、阿刀田高さんも登場しましたね。ご紹介ありがとうございます。軽妙な会話で煙にまくスタイルみたいですが百人一首に興味を持つきっかけになってもらえればいいですよね。

       「袖濡れる」、、泣いた涙を袖でぬぐう。王朝人の悲しみの表現です。

       この表現、阿刀田本に並べられてますが、
        42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ→末の松山(多賀城)
        90 見せばやな雄島のあまの袖だにも→雄島(松島)
        92 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の→沖の石(多賀城)

       何れも松島近辺、これって何かの偶然でしょうか。

      ・東松島の民宿のおかみさんのお話しリアルですねぇ。松島は松島湾と多数の島お蔭で軽微だったがすぐ北の東松島には惨劇が襲った。ちょっとの差が大きいのですね。

  8. 枇杷の実 のコメント:

    869年の貞観地震で10メートルを超える津波が襲ったとされるが、末の松山は越さなかった。それに驚嘆した人々の言い伝えが都に聞こえ、どんなことが起ころうとも有り得ない事を示唆する常套句、歌枕として残る。
    3月の談話室解説「詠まれた舞台、歌枕」を読み返すと山を詠む歌枕は多く、香久山、三笠山、大江山・・、近畿以外でも富士山、筑波山、稲葉山などがあります。末の松山は標高こそ最低でも、古来、歌に詠まれた数では他の山に引けはとらない。
    この歌、初句切れで「契りきな」とはじめに掲げてあるところは強いが、それは下の句へ行くにつれて、優しい愚痴にになり、反発を誘い出すような憤怒や恫喝や怨嗟はない。むしろ、仲良かった頃の甘美な思い出を示唆する。(田辺聖子)
    清原元輔の性格からか、この歌にはほのかな哀願の口調すら漂うという。
    心変わりした女に、人の代作をして詠んで贈った歌とか。
    自分の大事に、代筆をたのむとは情けない男とは思うが、恋の終わりに、出来るだけ巧い歌で三下り半をたたきつけてやろうとした男の心境は理解できる。
    頼んだのは紫式部の弟、藤原惟規かも・・ですか。面白いですね~。
    だけどお姉さまに代作は頼めませんよ。「なにウジウジしているの、シャキッとしなさい」で却下されます。
    しかし、この場面でも次の歌は効果的だったのかも。甘美な思い出はなくなるが。
    波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
    惟規には「人に笑はせたまふな」の一言を書き加えるほどの怒り、プライドはなかったでしょうに。大恋愛スペクタクルの中の薫の浮舟と、惟規の不明の女とは比べようがありませんが。

    • 百々爺 のコメント:

      いやぁ~面白いコメントありがとうございます。笑ってしまいました。

      ・初句切れの「契りきな」は強いですか、なるほど。「おい、お前!まさか忘れてるんじゃねぇだろうな。約束したよな!!」って強い調子で始めたもののついつい生来の優しさが出て最後は泣き節、「末の松山は波も越えないんじゃないの、、ねぇ~、越えないでしょう」ってすがるような調子になったってことですか。元輔の人柄ですね。

      ・紫式部の登場もいいですね。そうか惟規は先ずお姉ちゃんに代作を頼んだ。そしたらお姉ちゃん「こんなのでもたたきつけてやりなさい。『人に笑はせたまふな』これがミソよ。ひょっとしてあんたの彼女自殺するかもよ」って「波こゆる」の歌を渡した。優しい惟規は恐ろしくなってひょうきん代作爺さんの元輔の所へ駆け込んだ。。。。そうだそれに違いない。

       お姉ちゃん:波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
              人に笑はせたまふな

       元輔爺ちゃん:契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

       【爺のつぶやき】
        我が敬愛する紫式部さま。すっかり貴女を性悪女のように論評していますが、ちょっとした筆のすべり、決して他意はありませんので、どうぞお怒りになりませんように。。。

  9. 小町姐 のコメント:

    【余談16】 国宝 源氏物語絵巻
    秋の一日、王朝の美の世界へいざなわれ徳川美術館の「国宝 源氏物語絵巻」を見てきました。
    今回は尾張徳川家伝来の9帖15段分の詞書と絵、絵が失われ詞書のみ残る絵合の1段(徳川美術館蔵) 阿波 蜂須賀家伝来の3帖4段分(五島美術館蔵)
    これらを合わせた13帖と諸家に分蔵される若紫・末摘花・松風・薄雲・少女・蛍・常夏・柏木詞書の数行の断簡および国立博物館蔵の若紫の絵の断簡を含めた20帖分が一挙公開されています。
    特に徳川美術館所蔵の15場面は保存修理が行われてから初めての展示だそうです
    詞書の中には和歌や登場人物の贈答歌なども行間に書かれていることがわかります。
    しかし如何せん、読めません。これらが読めればどんなに素晴らしいことでしょう。
    説明によれば伝統を継ぐ連綿体という流麗な書風や藤原忠通に始まる法性寺流など新旧の書の様式が見られるそうです。
    特に料紙には今見ても美しい装飾が凝らされて文字は読めなくても雅な雰囲気は伝わります。
    絵と書が一体となり王朝人の美意識、源氏物語の世界が余すところなく伝わります。
    900年近い年月を経て特に絵は箔落が目立ちますが徳川美術館所蔵の15場面は保存修理が行われてから初めての展示との事。
    それでも原本の絵だけでは説明がないと理解できない場面が多くあります。
    平成の復元模写を含め江戸から現代にいたる源氏物語絵巻の模写と合わせて比べながら見ると人物、背景、道具等細々とした所までがよくわかるように展示されています。
    中には一一目瞭然であの場面だなとわかるものがありそんな時はうれしくなります。
    これも「源氏物語道しるべ」で学んだ二年間があったればこそです。
    中でも一番華やかだったのは竹河二 桜の所有権を賭けて姉妹が碁を争う場面です。
    蓬生の傘をさした源氏と露払いの惟光。柏木一の朱雀院と女三宮。 柏木二の瀕死の柏木を見舞う夕霧。柏木三の薫を抱く源氏。横笛では雲居雁が髪を耳挟みしている姿も見られます。宿木三の中の君と匂宮。
    五島美術館の鈴虫二 冷泉帝と源氏の対座に横笛を吹く夕霧。
    夕霧の文を奪おうとする雲居雁。 御法の病み衰えた紫の上。
    私の印象に残った場面です。

    修理により判明した赤外線写真での下絵など今回の展示は今までにない珍しいものもあり私は午前、午後と合計4時間も見ていたことになります。
    とにかく凄い人で遅々として前へ進まないのです。
    それだけ今回の展示が10年に一度有るかないか、私などにはもしかして次はないかも知れないと思えば貴重な時間でした。
    今日は「源氏物語道しるべ」を勉強した日々をまざまざと鮮やかに甦らせてくれる一日でした。

    • 百々爺 のコメント:

      「国宝 源氏物語絵巻」詳しい見聞記ありがとうございます。いいもの御覧になりましたね。羨ましいです。小町姐さんの興奮の程が伝わってきます。例年は少しづつ小出しにされる絵巻が五島美術館のものも含め全点一挙に公開される。すごかったでしょうね。大混雑になるのも無理はありません。

      赤外線写真での下絵の展示、面白かったでしょうね。
      源氏物語絵巻は白河法皇-待賢門院璋子のラインが画かせたとする(途方もない)説があるようですが、源氏が薫を抱く場面(柏木三)、絵師が愛くるしい薫の手を描いた下絵を見た璋子はギョッとして「手はやめて」と画きなおさせたのかもしれません。

      →源氏が万感の想いで薫を抱いたように白河法皇も璋子が生んだ顕仁親王(後の崇徳帝)を万感の想いで抱いたことがあったのかもしれません。

  10. 昭和蝉丸 のコメント:

    週一になって、百々爺の語りが益々冴え渡り、特に、この42番などは、
    紫式部と清少納言が出て来て、俄然、話が面白くなりました。
    この二人、テニス界で言えばフェデラーとナダル、
    登場するだけで、況や、対決絡みだともうワクワクしますね。
      (それにしても昨夜の圭は惜しかった。
       第三セットでbreakして4-4になった時は、
       やったっ!と思いましたが・・・)
    しかし、式部の弟・惟規が少納言の親父さんに代作を頼んだ、なんて、
    嘘でも面白過ぎます。
    そもそも時代考証は合っているんですかね。
    実は、恥ずかしながら、式部に史実に残る兄妹が居たなんて
    談話室を読むまでツユ知らず、急いでwikipediaをぐぐる一幕が。
    まず、何て読むのか?
     のぶのり なんですねぇ。

    もひとつ嘆息するほど感心したのが小町姐さんの「歌枕調査研究報告」の紹介。
    歌枕の場所の検証から、かの東日本大震災の津波等を見据えた
    災害伝承をreviewする研究者が居たなんて、もうビックリポンです。
      (→ yahooで、”片岡智子/歌枕調査研究報告”で検索したら、
         何と、談話室が二番目に出てきましたヨ!!)

    以上、感想ばかりで恐縮です。
    何か、投稿諸氏をグッと言わせるようなネタが無いか、
    考えるのですが、その前に感心してしまい・・・・。

    PS 松風風情さんの歌絵ですが、
      今までの(源氏も含め)歌絵をアルバム化
      されているんでしたっけ? (前のを、見たい!)

    蝉丸

    • 百々爺 のコメント:

      ・なるほど、紫式部と清少納言、フェデラーとナダルですか。確かにこの二人がコートに立つとそれだけで火花が散りますもんね。フェデラー対ナダルATPファイナルで見てみたいですね(ナダルが1位通過だとジョコビッチと当ってしまう)。

       昨夜のニシコリ、本当に惜しかった。私も4-4に追いついた時は勝ったと思いました。まさかの「ドームの悲劇」の後、頭来て寝つかれずに見てました。。

      ・元輔908-990 式部(推定)970-1014 惟規?-1011 ですからあってもおかしくない話ではあります。。

      ・小町姐さんの「歌枕調査研究報告」、確かに研究者の方もエライですがそんな論文見つけてくる小町姐さんの執念がすごいですね。市役所に電話する智平朝臣も相当なものですが。。

      ・松風有情 rpt 有情さんの歌絵 
       百人一首談話室のものは各段に載せています。
       (今まで4.9.17.26.35.42です。最後にはアルバムにしましょうかね)

       源氏絵は「道しるべ」には載せていません。これもアルバムにしましょうかね。有情さんと相談します。

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