44番 中宮彰子の母の母の父朝忠 人をも身をも

43番敦忠に続くは44番朝忠。アツタダとアサタダ。どちらも中納言、ちょっと紛らわしい。朝忠も嫡流ではないものの藤原北家の御曹司。歌も笛(笙)も上手だった。敦忠とはほぼ同年代、お互いライバルとして意識し合ってたのでしょう。
 →43番・44番の並びは意図的なものでしょう。

44.逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

訳詩:    あの人と逢う
       そんなことがただの一度もなかったなら
       いっそこんなに恨むこともなかったろうに
       あの人のこのつれなさをも
       わが身のこのつらさをも

作者:中納言朝忠(藤原朝忠)910-966 57才 25定方の五男 三位 三十六歌仙
出典:拾遺集 恋一678
詞書:「天暦の御時の歌合に」

①25定方の五男、、、、ということは待てよと考えました。
・定方の姉胤子が宇多帝妃だから朝忠にとって宇多帝は義理の伯父。醍醐帝は従兄弟。
 定方は紫式部の曽祖父だから朝忠は紫式部の大伯父(朝忠の異母姉が紫式部の祖母)。
 さらに今度は下ると、
 朝忠の娘(穆子=ぼくし)が源雅信に嫁ぎ源倫子を生む。倫子は道長の正室となり彰子を生む。
 →朝忠は倫子の母方の祖父で彰子の曽祖父。これってけっこうすごい!
 →紫式部と中宮彰子は定方家系で繋がっている(定方は紫式部の曽祖父で中宮彰子の高祖父)

・上記の血筋だが世の中は藤原時平→忠平の時代。出世は43敦忠(時平の子)に比べ遅い。中央では武官畑、地方での受領勤務を経て晩年にやっと従三位中納言。

②歌人としての朝忠 
・後撰集に4首 勅撰集に21首 笙の笛を能くした。
 →管(笙の笛)の朝忠 vs 弦(琵琶)の敦忠  これも面白い。

・晴れの歌人であり慶祝歌、屏風歌を多く詠んでいる。

・天徳内裏歌合(960)への出詠
 朝忠は左方のエース。7番に出て6勝1敗。抜群の成績で左方の勝利(11勝4敗5分)に貢献(wikiより)
 →文句なし天徳歌合でのMVP(最高殊勲選手)であろう。 

 では天徳内裏歌合の朝忠の歌、どんなものだったのでしょう。
 倉橋の山のかひより春霞としをつみてやたちわらるらむ
 →歌合第一番の歌で見事勝利。右方相手は平兼盛だった。
 わが宿の梅がえになく鶯は風のたよりに香をやとめこし(勝ち 相手平兼盛)
 あだなりと常は知りにき桜花をしむほどだにのどけからなむ(勝ち 相手清原元輔)
 紫ににほふ藤なみうちはえて松にぞ千代の色はかゝれる(負け 相手平兼盛)
 花だにも散らでわかるゝ春ならばいとかく今日はをしまましやは(勝ち 相手藤原博古)
 人づてに知らせてしがな隠れ沼のみごもりにのみ恋ひやわたらむ(勝ち 相手中務)

 20番中ラス前の19番に登場したのが44番歌(逢うことの)、、、後述。
 
【付記】
  天徳内裏歌合が行われた960年は聖代と目される村上朝の最盛時で華やかに歌合が行われたのだが同年末内裏は火事で焼失。世をあげてすぐに再建され、その時初めて紫宸殿前に左近の桜が植えられた(右近の橘は以前からあった)。

③朝忠の女性遍歴より
・大和物語第6段 (田辺聖子の小倉百人一首に解説あり)
 朝忠は人妻に恋して通っていた。夫が地方勤務になり離れて行く人妻に詠んだ歌。
 たぐへやるわが魂をいかにしてはかなき空にもて離るらむ
 →まあいいですが、これってちょっと許せない不倫じゃないでしょうか。
 →江戸の世なら果し合いでしょうに。。

 この歌から田辺は斎宮となった娘(後の秋好中宮)に同道して伊勢に下る六条御息所に贈った光源氏の歌を思い起こしている。
  ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや
  →源氏と六条御息所との恋はどうあるべきだったのか、、源氏読みのポイントであります。

・他に大輔(醍醐帝の皇太子保明親王の乳母の娘)、本院侍従(朱雀院女御の女房、天徳歌合にも登場してる歌人)、それに38右近とも何やらあったとのこと。
 →そんな遍歴はあっても娘穆子が道長の妻となった倫子を生んでるのだから家庭はちゃんとしてたということでしょう。

④44番歌 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
・天徳内裏歌合のラス前(19番)に登場
 相手は藤原元真で朝忠の勝利だった。
  君恋ふとかつは消えつつ経るものをかくても生ける身とやみるらむ(元真)

・「未だ逢わざる恋」か「逢ってその後逢わざる恋か」
 歌合せの題目は「未だ逢わざる恋」だったが定家は解釈を変えて「逢ってその後逢わざる恋」としている。
 →その方が自然だと思う。リズムもいいし。43番歌とよく繋がっている。

・「絶えてしなくば」→やはり業平の歌が想起される。
  世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし(古今集春上53)

・定家の派生歌
  憂くつらき人をも身をもよし知らじただ時のまの逢ふこともがな
  →「人をも身をも」これも常套句。自分も相手も、、、恋は二人でするものである。

・「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)はこの朝忠の歌を未練たっぷりの恋歌として次のように評している。
 「朝忠には業平や元良親王のような灼熱の情念はない。「人をも身をも恨み」かこつ、女々しい情緒がくすぶる。それは斜陽の運命に生きた朝忠の血の衰弱といったものなのであろうか」

  →確かに摂関家嫡流ではないが別に斜陽の運命でもないでしょう。歌合せで脚光を浴び、笛を能くし、歌人たちとも交流し、平均寿命以上生きた。そして孫娘(源倫子)は道長の正妻となり一条帝中宮になる彰子を生む。。。輝いて見える男だと思うのですが。

⑤源氏物語との関連
「逢って逢わざる恋」 最たるものは源氏の藤壷への恋でしょう。
 改めて43番歌と44番歌を読むと源氏の藤壷への想いというより藤壷の源氏への想いが述べられているように感じます。

  逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
  逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

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44番 中宮彰子の母の母の父朝忠 人をも身をも への19件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    44番の歌人も右近との噂があった貴公子ですね。
    百々爺さんの解説から彼も結構女性遍歴が多い事がわかります。
    朝忠の人物関係、余りにも複雑すぎて私には段々とわかりづらくなっています。
    それぞれの人物の系図を記憶にとどめてその都度脳裏に描くのも大変になって来ました。
    百々爺さんの様に「待てよ」と考えてもそう簡単にすらすらとはいきません。
    朝忠は倫子(道長の北の方)の母方の祖父で彰子の曽祖父。
    これだけをなんとか頭の隅にとどめておきましょう
    「定方」繋がりが結構百人一首を賑わしていますね。
    天徳内裏歌合では左方のエースで兼盛、元輔そうそうたる歌人たち相手に抜群の成績ですね。
    この歌、前の43番歌と意味が似通っています。
    大雑把にいえば逢う前よりも逢ってからの方が物思いが多いという点です。
    逢ってその後逢わざる恋の典型のように思います。
    源氏と藤壺の恋は最もそのいい例かも知れませんね。
    おっしゃる通り藤壺の忍ぶ想いのほうが源氏よりもずっと深く辛いものだったに違いありません。
    逢わねば思いが募る、逢えば逢ったでああでもない、こうでもないと余計な悩みや物思いが募る、恋とは誠に厄介なもの、苦しいものです。
    これも素人にわかりやすく身を持って経験された御仁も多いかと思います。
    もしも仮に○○であったならば●●にはならなかっただろうに・・・
    こういうもしもの過程は世の中には万とありますよね。
    人の一生の中で大なり小なり運命の分かれ道的なものは誰しも遭遇します。

    もしも源氏と藤壺の密通がなければ源氏物語はこの世に生れなかった・・・
    誠に運命の巡り合わせとは・・・皮肉なものですね~。

    • 百々爺 のコメント:

      ・人間関係、狭い社会だけに何やかやと関係があり整理するのが大変ですよね。朝忠の場合おっしゃる通り「定方の息子で倫子の祖父」、それだけ抑えておけばいいと思います。倫子は道長の正妻(倫子あっての道長と言われる程の重要人物)でこれからも何度か登場すると思いますので。

      ・43番と44番はペアーですよね。逢ってその後逢わざる恋、四六時中意志の疎通が可能な現代からするとちょっと実感が湧きませんが、大変だったと思います。敦忠にとっては雅子内親王への想い、朝忠にとっては大和物語第6段にある人妻への想いあたりが「逢ってその後逢わざる恋」だったのでしょうか。

      ・もし源氏と藤壷の密通がなかったら、、、。不義の子冷泉帝はいない。桐壷帝は朱雀帝に譲位した後誰を東宮にしたか。源氏の弟蛍兵部卿宮ではどうも頼りないし、ひょっとしたら愚図の八の宮あたりにお鉢が回っていたのかも。弘徽殿大后も八の宮ならコントロールが効くと賛成したでしょうし。
       →何れにせよ源氏物語は成り立ちません。ウルトラCで源氏が皇族復帰して朱雀院の後をやるというなら別ですが。。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    38番から45番まで恋の歌が続きますが、この時代を念頭に源氏物語は書かれたといわれている。38から44番歌までの各歌に、百々爺が源氏物語との関連を書いてくれているが、それらを引用し、以下どおり整理してみた。
    そうすると、恋物語、源氏物語がいかに、これらの歌の影響を受け、物語の創作に繋がって行ったかが見えてくるようで、面白い。

    38.忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

    ④源氏物語との関連
     紫式部は先輩女房として右近を強烈に意識していたのではないか。
    ・明石19 明石から帰った源氏が明石の君のことを紫の上に打ち明ける。紫の上はショックを受けるがさりげない風を装う。
        
     その人(明石の君)のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でたる御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたまふらん、わざとならず、(紫の上)「身をば思はず」などほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。
     
     源氏は紫の上に永遠の愛を誓った筈、それなのに明石の君が登場し、後には女三の宮が正妻として降嫁してくる。自分への愛の誓いを破った源氏、源氏には神の天罰が下るかもしれない。紫の上は我が身のことはうちおき源氏の身の上を思いやった。
     →紫の上の切ない思いに胸がつまります。ホンに源氏はお阿呆さんであります。

    39.浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

    ④源氏物語との関連
    ・荒れた屋敷と言えば源氏が須磨明石に謫居となり3年近く訪れることのなかった末摘花邸、この屋敷の叙述がすごい。

     かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢ籠めたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめざましき。蓬生3 
     →これでもかの表現である。この荒れ屋敷を源氏が忠臣惟光を従えて訪れる。
     →「国宝源氏物語絵巻 蓬生」の有名場面である。

    40.忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで

    ④源氏物語との関連
    ・「忍ぶ恋」源氏物語では一に藤壷との恋、次いで朧月夜との恋でしょうか。

     源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
     藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ
      →寝所に忍び入る源氏、必死に逃れる藤壷(官能シーンです)(賢木16)

     朧月夜 木枯の吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのころもへにけり
     源氏 あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨とや見る
      →源氏の訪れを促す朧月夜からの歌。積極的だった朧月夜。

    41.恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

    ④源氏物語との関連
    ・紫式部は天徳歌合をモデルとして絵合(歌に代え古今の名画を左右二方に分けて勝負を競う合戦)を作り上げた。
     第17巻「絵合」冷泉帝の後宮争い 源氏・藤壷・前斎宮vs頭中・弘徽殿女御

     その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。女房のさぶらひに御座よそはせて、北南方々分かれてさぶらふ。殿上人は後涼殿の簀子におのおの心寄せつつさぶらふ。左は紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、、、、、右は沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、華足の心ばへなどいまめかし。童、青色に柳の汗衫、、、、

     →冷泉帝御前での歌合、これに源氏方が勝って前斎宮は秋好中宮になる。重要なイベント

    42.契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

    ④源氏物語との関連
    ・38番歌「忘らるる」と同様紫の上の心境に思い至る。紫の上との永遠の愛を誓った源氏なのに晩年(源氏40才、紫の上32才)になって女三の宮(14才)が正妻として降嫁してくる。第一夫人の座を譲り寝所も移りさりげない風を装う紫の上。「二人で契ったのに末の松山を波が越えた、、、」と感じたのではないか。

     目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな 紫の上@若菜上14

    ・「末の松山波こさじ」も宇治十帖の重要場面で引用されています。
     薫が浮舟に匂宮との関係を糾弾する文を送りつける場面

      波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな
       人に笑はせたまふな
     薫@浮舟25

     →これは冷たい。恨むというより浮舟を逃げ場もない所に追い込んでいる。
     →42番歌は恨みもあるがなんとなくあたたかい訴えるような感じがする。

      「この歌(薫の波こゆる)にこもる、しんねりむっつりした深刻な憎悪とあてこすりは、元輔の歌(42番歌)とは全く雰囲気がちがう。―――――それはまるで、紫式部と清少納言の気質のちがいを見るようである」(田辺聖子)

      →面白いですねぇ。弟惟規も登場するし、、紫式部と清少納言、話が尽きません。

    43.逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり

    ④源氏物語との関連
     この43番歌の心はやはり藤壷との逢瀬の後の源氏の心ではないでしょうか。
     逢ってよかった。やっと想いを遂げられた。歓喜の絶頂とともに忍び寄る不安。万が一にもバレたら自分も藤壷も身の破滅。
     →事前と事後では全く世界が異なって見える。
     →恋も(特に肉欲)そうだろうが何でも長年の目標を達成しえた後では歓びと同時に虚脱感を覚えるものだろう。

     源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
     藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ

     里下がりの藤壷の寝所に源氏が侵入するが藤壷は塗籠に逃れて二度とは許そうとしなかった。(賢木16)

    44.逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

     この歌から田辺は斎宮となった娘(後の秋好中宮)に同道して伊勢に下る六条御息所に贈った光源氏の歌を思い起こしている。
      ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや
      →源氏と六条御息所との恋はどうあるべきだったのか、、源氏読みのポイントであります。

    ⑤源氏物語との関連
    「逢って逢わざる恋」 最たるものは源氏の藤壷への恋でしょう。
     改めて43番歌と44番歌を読むと源氏の藤壷への想いというより藤壷の源氏への想いが述べられているように感じます。

      逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
      逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

    それと、もう一つ、爺が書いてくれた人間関係、線がうまく描けないので、解りづらいですが、参考に整理してみました。

       |――長良――基経――時平――敦忠
       |       |―――忠平――師輔――兼家――道長
       |                      |
    冬嗣―|        宇多天皇           |―――彰子
       |         |――醍醐天皇       |   
       |       |――姉胤子          |      
       |    |-高藤――定方――朝忠――穆子      |
       |    |             |――――  倫子
       |――良門―|           源雅信
            |    
            |-利基――兼輔――雅正――為時――紫式部

    コメントでなく、整理だけですが、以上です。

    |

    • 百々爺 のコメント:

      ・その通り38~45番(46番も加えてもいいかもしれない)は源氏物語の舞台となった醍醐~朱雀~村上朝の恋歌で源氏物語のつながりが顕著だと思います。私もその辺意識してピックアップしたつもりなのでこうして並べていただけると成程なあと改めて納得しています。ありがとうございます。

       これに加えて45番は柏木、46番は浮舟へと続く感じで今予習しているところです。

      ・系図ありがとうございます。私もうまく線が引けませんが修正トライしてみます。 
       →まあこんなところですがいかがでしょう。
        お蔭で大分整理できたと思います。

      • 小町姐 のコメント:

        おかげ様で大分頭の中がスッキリ整理出来てきました。
        系図は特にこんがらがっていましたので有り難いです。

        改めて紫式部 定家の力量、偉業に感心しひれ伏す思いです。
        「源氏物語」を学んでいる時に見えなかったものが少しづつ深まりつつあります。

        • 百々爺 のコメント:

          百人一首を通して源氏物語を思い起こしてみよう、、そう思って試みているのですがまずまずうまく行っているようで嬉しいです。おっしゃる通り改めて紫式部と藤原定家に感謝感謝の日々であります。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    東京女子大 今井先生の源氏物語講座にて、紫の上の出家願望に関連し、先週≪女性の出家≫について、簡単な説明がありましたので、参考まで。

    奈良時代
     
     国分寺と国分尼寺があった。
     職業聖職者が存在、国家によって受戒の管理が行われ、官僧が出現。
     衣食住は、寺――国家が面倒をみるシステム、女性も出家すると寺に入った。

    平安時代
     
     尼寺が廃れ、女性は出家すると家尼(調べたが詳しくは解らず)となる。
     衣食住はこれまでどおり、家の面倒になる。このためもあり、女性の出家には 
     夫または父親の承諾が必要だった(紫の上も源氏の承諾を得られず、出家できない)。
     出家すると、家事・育児・夫婦関係から、卒業となる。

    平安末から鎌倉時代
     
     尼寺が復活、女性も寺に入る。

    • 百々爺 のコメント:

      女性の出家に対する説明ありがとうございます。

      平安時代は国分尼寺がなくなり家尼なんですか。そう言えば源氏物語でも女性の出家者はみな家にいますね。藤壷も明石の尼君も女三の宮もそして宇治十帖の妹尼も浮舟も、、みな在宅ですね。一方男性は寺に入る。明石の入道はちょっと微妙でしたけどね。
       →何故平安時代では女性の寺僧がなかったのでしょう。宗教の歴史的理由からでしょうか。

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    蝉丸さん

    NHK趣味どっき 恋する百人一首 
    紹介ありがとうございます。
    小生も、43番歌;ベッド インは、風情がなさすぎに思えますが、
    ともかくテキストを買って、見てみます。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    源氏物語に疎い多寡秀ではありますが、浜寺八麻呂氏はじめ百々爺他、諸氏の源氏物語関連コメントで、多少、つぎはぎながらイメージを積み重ねております。

    今回、思い切って尾張徳川美術館の源氏物語絵巻を鑑賞してきました。まず入館者の多いのにびっくり。帰りがけの出入り口で半券を見せ「はい!、三回目よ」なんてご婦人がのたまわってらっしゃる。なるほど一度では充分に鑑賞できないからと、館のいきな計らいにも感激。小町姐の”一人ご満悦されている”分厚い冊子も拝見してきました。なお飽き足らず地元の図書館で絵巻本を借りてきて、多寡秀も余韻を楽しんでおります。

    さて、ここんところ、恋の歌が続きますね。百々爺指摘のように43、44番歌の並びは定家の意図的なものでしょうね。歌の意味するところも、ほぼ同じですもんね。

      逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
      逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

    私思うんですが、どうしてこうも悩める歌が多いんでしょうな。王朝文学の美学なのかもしれません。中には一つや二つ、恋の絶頂にありて感極まるような歌があってもいいように思うんでありますが。

     18番 藤原敏行朝臣 住の江の~
     40番 平兼盛    忍ぶれど~
     41番 壬生忠見   恋すてふ~

    この後に続く歌も、概ねこの傾向は続くようです(48、51など)。

    加山雄三の歌う「君といつまでも」
     ♪ふたりを夕やみが、つつむこの窓辺に~♪

    良いですねえ。何がいいかって?この歌ほど恋の素晴らしさを高らかに、きらきらと歌ってる歌は珍しいですね。太陽の輝き、海のたゆたい、風の匂い、いっさいが恋の喜びを謳歌し、ことほいでいます。たとえ誤解でも、今日ひとときだけでも、疑念一つ浮かばない恋の喜びに、とことん浸れる時は素晴らしい。一生に一度あるかないかの瞬間を味わうことが出来たら望外の幸せ。鼻筋くらい書いてもいいじゃありませんか。
     「僕はしあわせだなあ」

    ないんですな。この手の能天気なまでに恋の喜びを歌ったものが。
    遠い昔にもそれを歌った歌はあるんですよ。他の歌集・文献にはたくさんね。

    古事記の中のすさのをのみことの御詠
     八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
    万葉集の安倍のいらつめ
     我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに
    大伴坂上郎女
     恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば

    そこへ行くと百人一首の歌人は、辛い恋、満たされない恋を歌わなきゃ文学なんかじゃないですよ、という風潮があったに違いないですね。

    しかし時代がすすめば、保元、平治の乱であり、源平の対立、院政へと、戦う武将の時代となれば男らしい威勢の良い歌が、きっと台頭してくるようにも思っています。
    (今回も概ね阿刀田高「恋する小倉百人一首」ベース)

    • 百々爺 のコメント:

      ・源氏物語へのマグマが大分溜まってきたようでここは大噴火、源氏へと突進してくださいよ。国宝の絵巻を全部見た、、、絶好のチャンス、これを逃せばもう機会はありませんぞ。「道しるべ」もあるしこのブログもあるので読み進めながら感じた事、考えた事など投稿してください。

       【余談】先日NHKBSの「国宝源氏物語 絵巻」、寂聴さんや日本画家、源氏絵画家と徳川美術館の人の話が面白かったです。絵巻は誰が画かせたのか。スポンサーがいた筈でそれは権力と財力があった人。時代は12世紀初め。そして何と文献にも白河法皇と待賢門院璋子の名前があると聞いて興奮しました。

      ・恋歌の分析ありがとうございます。確かに「愛の讃歌」「恋の讃歌」はないですねぇ。私もあってもいいと思うんですが。僅かに燃える想いを訴えたのは13「筑波嶺の~~」くらいかもしれません。やはり歓びの歌では文学にならないんでしょうね。
       (そうだ、年末の「喜びの歌」頑張ってくださいね)

       そう言えば源氏物語795首の中にも「恋の讃歌」はなかったように思います。「逢えばすぐ憂いが始まる」そんな話ばっかりですから仕方がないのかもしれませんが。

  6. 枇杷の実 のコメント:

    「恨みざらまし」は反実仮想の助動詞で、現実とは反対のことを思い浮かべる事と文法説明にあった。どうも恋の歌は現代語訳を読んでさえも分かり辛い。
    未逢恋か逢不逢恋か。「眠れないほどおもしろい百人一首」(板野博行)ではそもそも「逢う」とは男女の契りを結ぶ(夜を共にする)ことで、当然、逢不逢歌とか。
    ◇未逢恋(いまだ合わざる恋)
    「あの人を知ることさえなければ、あの人のつれなさや、自分のふがいなさを恨んだりすることもなかったろうに」⇒男が一方的に片思いをしている段階での恨み節
    ◇逢不逢恋(何度かあっているが今は会えない恋)
    「あの人と逢瀬を重ねることができなかったなら、それからの彼女の冷たさや、自分の運命を恨むような物思いの種が生まれることもなかったはずなのに」⇒深い仲になった事を前提にすると、より厚みと湿り気のある「大人の恋」の嘆きとして読める。と説明する。

    敦忠の歌(#43)は後朝の歌で、ますます思いは募るばかりと追文する。これも「逢不逢恋」の部類に入る。「逢う前の恋煩いなんて、逢って結ばれた後、今こうしてあなたを思う切ない気持ちに比べたら取るに足らない。ますます思いは募るばかりだ」。単細胞、恋知らずの枇杷の実の先のコメントは頓珍漢のものだったようだ。もっとも百々爺さんは適切に対応して頂いていますが。

    これまでに、逢う(逢坂)のキーワードにした歌は、「逢坂の関(#10蝉丸)」、「逢わで此の世を(#19伊勢)」、「身を尽くして逢わむ(#20元良親王)」、そして「逢坂山のさねかずら(#25定方)」があり、百首の中では全部で8首あるとか。
    #10蝉丸の歌は会者定離を詠んで恋歌に部立されていない。#19伊勢は逢不逢恋+怨恋。#20元良親王の歌は明らかに未逢恋で、逢わずにおくものかと迫る。
    さて#25定方の歌は? 一度だけでも・・の未逢恋か、もう一度・・の逢不逢恋か。息子の#44朝忠ほどハッキリしないが逢不逢恋だろうか。
    こうして恋歌を読み返すと鬱陶しくさえ感じて来ますな。

    • 百々爺 のコメント:

      ・えっ、恋歌は鬱陶しく感じて来る? 枇杷の実さん、ちょっと疲れ気味じゃないですか。それとも恋歌に感情移入し過ぎでしょうか。確かにヤヤコシ、ヤヤコシで単純な私にはよく分からない世界ではありますが。。まあ「色々苦労しはりますなあ、、、」ということにしておきましょうや。

      やはり43番は勿論、44番も逢不逢恋でしょうね。逢う=契ることがあってこそ「大人の恋」の悩みが始まるわけで、未だ逢わざる恋なんてのは「少年の恋」なんでしょうね。

      ・「逢う」が入っている歌8首ですか、どういう数え方なんでしょう。地名なんかも入れると10首はあるようですが。

       10 逢坂の関
       19 逢はでこのよを過ぐしてよとや
       20 身をつくしても逢はむとぞ思ふ
       25 逢坂山のさねかづら
       43 逢ひ見ての
       44 逢ふことの
       56 いまひとたびの逢ふこともがな
       57 めぐり逢ひて
       62 逢坂の関はゆるさじ
       77 われても末に逢はむとぞ思ふ

       全部が逢う=契るの意味ではないでしょうが。それにしても多いですね。

  7. 百合局 のコメント:

     百々爺やみなさまが沢山書かれていて、追加することがほとんどありませんので、邸の相続の面から流れを追ってみます。
     中納言朝忠は土御門中納言ともよばれており、その娘穆子がまずその土御門殿を相続し、源雅信と結婚して倫子が生まれ、ついで倫子がその土御門殿を相続し、道長と結婚して彰子が生まれたということになります。
     一条天皇の中宮になった彰子は、この土御門殿に退下して、皇子の誕生となります。その時の土御門殿のさまは『紫式部日記』の最初のところに次のように描かれています。
     「秋の気はひ入りたつままに、土御門殿の有さま、いはむ方なくをかし。~
     紫式部もこの土御門殿で彰子に仕えたわけで、この邸の果たした役割は大きいものがありますね。

     この44番歌について、安東次男は「一首は、五十一歳晩年の作。これは老後の述懐と考えてもよい歌である。~ これは恋の遍歴の果の歌である。」としています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・土御門邸の相続経緯ご紹介ありがとうございます。実は昨日八麻呂さんに会ったとき(カラオケです)、この話聞いたのでそうなんだ、、と思ったのですが帰ってブログ開いてみると百合局さんからのご指摘、さすがと感心しました。昨年今ごろ土御門邸跡(現御所の西北か)に行きましたよね。

       土御門邸の相続歴でつながりがすっきりしますね。
        藤原朝忠→穆子(源雅信)→倫子(藤原道長)-彰子
       と覚えておきましょう。

       紫式部日記の主要舞台である土御門邸、感慨深いです。

      ・安藤次男の総括、さすがですね。51才晩年と言えばちょうど源氏が亡くなる直前の年令です。44番歌は自分の恋の遍歴を振り返った源氏の心境かもしれませんね。

        逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

  8. 源智平朝臣 のコメント:

    源智平は毎月末・月初の悩みの種である「ためいき句会」の投句と選評に加えて、本日12/2に行われたビリヤード・トーナメント準決勝に備えた練習のために時間的・精神的な余裕がなくて、百人一首談話室は覗くだけにしていました。その感想を記せば、談話室には本当に興味深くて有益な解説とコメントが溢れており、覗くだけでも平安時代歴史・文化についての知識が大いに深まり、歴史好きだけど、今は研究より運動優先の智平にとって、とても有難いブログであると再認識しました。

    今回のコメントの中で、特に智平にとって有益だったのは、八麻呂さんによる「38-44番歌と源氏物語との関連の整理」と「当時の人間関係を整理した系図」、そして百合局さんによる「土御門邸の相続経緯」です。この系図と相続経緯を見ると、平安時代の貴族社会がとても狭く、先祖を辿れば周りは親戚だらけということが良く分かります。その辺をうまく見せていただいたお二方並びに百々爺に感謝です。

    44番歌は「詞(ことば)清げ」かもしれませんが、内容は当たり前で希薄、恋に生きる智平からみれば、阿呆じゃないのといった感じの歌ですね。

    その作者の藤原朝忠、「とんでもない大食漢で、しまいには相撲取りのようになった」という話が宇治拾遺集や百人一首一夕話に出ていると複数の解説書が記しています(白洲、橋本、吉海)。でも、ネットで見ると、これは定方の五男である朝忠ではなく、六男である朝成の話であるという説もあります。智平は後者の説の方が正しいような気がしていますが、真相はどうでしょうか。百々爺、教えて下さい。

    余談ながら、最後に本日の準決勝は相手の不調にも助けられて、何とか勝つことができました。そして、決勝戦ですが、12月中旬に大事なゴルフ・コンペを2つも控えているので、早々と12/5(土)に行うということにしました。相手は凄く上手なようですが、精一杯頑張って、悔いのない試合をしたいと思っています。

    • 百々爺 のコメント:

      文武両道、素晴らしい! 老いて益々盛ん、かくありたいものです。

      ・ビリヤード、快進撃のようですね。決勝戦、是非頑張ってください。相手は強いんですか、強い方ほどプレッシャーがかかりますからね。気楽に奇襲作戦でも仕掛けてやったらどうでしょう。敵があせったらこっちのもん。応援しています。
       →勝負は最後まで分からない。昨日のJ1チャンピオンシップ、またまたロスタイムで大逆転劇。広島の執念、ガンバの油断。恐ろしいものです。

      ・そうですか、恋に生きる智平どのからすれば44番歌はいただけませんか。歌合の題目をもらって一ヶ月頭の中で考えた歌ですからね。ほとばしる恋情を訴えた歌というには切実感が欠けるのかもしれません。安藤次男の言う51才時点での老後の述懐というのが当たっているのでしょうか。

      ・朝忠の「大食漢、相撲取り」説、ご指摘ありがとうございます。気付いてはいたのですが百人一首列伝(特に貴公子敦忠の隣に列するには)にはちょっと似つかわしくないなと無視していたものです。「百人一首一夕話」には大和物語の人妻への恋に続いて宇治拾遺の説話が詳しく載せられています(挿絵も太っちょが山盛りの湯漬け椀を持って嬉しそうにしている図)。

       宇治拾遺には朝忠と書かれているようですが今昔物語では弟の朝成となっていますね(wiki藤原朝成参照)。実はこの朝成、次回45番歌(藤原伊尹)の所で登場します。色々伝説的な人物のようです。

       真相は分かりませんが「一夕話」は勘違いで肥満体は弟の朝成というのが現代の多数説とのことです。

       →光琳かるた見ると顔はふっくらしてますが肥満体ではなさそうですよ。「ふくよかタイプで女性にもグルメにも貪欲だった男」とでもしておきましょうか。。 

  9. 小町姐 のコメント:

    ビリヤードと言うのは映画「ハスラー2」を見ただけで実際にはどんなものか見たこともないしゲームなのかスポーツなのかもよくわかりません。
    若い友人(と言っても40代)にビリヤードが趣味だと言う人がいますが自分に興味がない為詳しくは聞いたこともありません。
    ビリヤードがどういった場所にあるのかも私にとっては全く未知の世界です。

    朝忠の大食漢、公家にしては珍しいですね。
    私がここで思い出したのは平家物語の「猫間」
    猫間中納言光高という貴族が木曽義仲を訪ねてきた時の場面は全体に悲哀に満ちた物語の中で唯一笑える場面でした。

    • 百々爺 のコメント:

      平家物語の「猫間」(巻八)、ありましたね。読み返してみました。京に上った田舎侍木曾義仲の無智無謀さを嘲笑する話でしたね。平家物語にはこういう小話が唐突に出てくる。それが平家のいい所でもあり脈絡のないところでもありますね。源氏物語は精密なジグゾーパズルですから脈絡のない話は一切ない。紫式部の頭はきっと理科系だったのだと思います。

      ところで、義仲に昼食を無理やり食べさせられて這う這うの体で逃げ帰った「猫間中納言光隆卿」(藤原光隆)、、、、この人は何と藤原兼輔の末裔で98藤原家隆(定家のライバル、新古今集編纂者の一人)の父なんですね。注を読んでてびっくりしました。つながっているんですね。

       98風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける

      義仲の武家の荒々しさとお公家さんの和歌の雅さを対比させると色々考えてしまいます。どっちもどっちでしょうかね

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