出典は勅撰集!

百人一首の100首は全て勅撰集から採られています。逆に言うと勅撰集に選ばれていない歌はどんな有名な歌でも対象とされていません。「出典は勅撰集!」そこがミソなのです。

何故定家は勅撰集からに拘ったのでしょう。それは勅撰集の重みだと思います。勅撰集とは天皇・上皇・法皇が勅により当代の和歌の達人を撰者として選ばせた公的和歌集でそれこそ権威の塊であった。撰者も名誉にかけて下手な歌は入れられない。選ぶ方も選ばれる方も歌人としての生命を賭けた一大事だったのでしょう。

 〇勅撰集に入ってないために選ばれてない筆頭としては古代史中最も華麗な宮廷才女と言われる額田王でしょうか。
  熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(万葉集)
  茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(万葉集)
  →天武の妃にして後に天智に寵愛される(源氏と朱雀帝に愛された朧月夜を思わせる)
  →額田王が入っていれば百人一首の華やかさはいや増していたものを。。

 〇勅撰集に載せるべく都落ちに際し俊成に必死の訴えをし千載集に詠み人知らずとして入れられた平忠度(平家物語巻七 忠度都落)
   
  其後世しづまって、千載集を撰ぜられけるに、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ「読人知らず」と入れられける。
    さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 

     
     →この段、歌人師弟としての俊成・忠度の思いに胸が詰まります。

ここからは百人一首の出典となった勅撰集のリストです(数字の羅列ですみません)
(鈴木知太郎「百人一首」による)

     成立  総数  百首  勅   撰者
古今集  905年 1100首 24首  醍醐  紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑   
後撰集  951年 1425首 7首   村上  能宜・元輔・源順他(梨壺の五人)    
拾遺集  1005年 1351首 11首  花山  花山院
後拾遺集 1087年 1218首 14首  白河  藤原通俊
金葉集  1126年 650首 5首  白河  源俊頼
詞花集  1151年 415首 5首  崇徳  藤原顕輔
千載集  1188年 1288首 14首  後白河  藤原俊成 
新古今集 1205年 1978首 14首  後鳥羽  藤原定家・飛鳥井雅経・寂蓮・他
新勅撰集 1235年 1374首 4首  後堀河  藤原定家
続後撰集 1251年 1371首 2首  後嵯峨  藤原為家
     合計 12170首 100首

 ①太字は百人一首に入っている歌人 崇徳・後鳥羽を入れて14人
 ②対象となった勅撰集の合計は12170首、ここから100首が選ばれた。
 ③何と言っても最初の勅撰集古今集の意味合いは高い。醍醐帝の延喜の治の象徴として和歌の重要性を定着させた。
 ④百人一首には古今集が一番多く24首(36番歌までは大半が古今集)、続いて後拾遺集・千載集・新古今集が14首(新古今は万葉集から各代のものを広く採っている)。
 ⑤勅撰集を作らせた天皇も醍醐・村上・花山・白河・後白河・後鳥羽と和歌を好んだ文人帝が並ぶ。

この表をじっと眺めていると和歌の持つ力、勅撰集の重みが伝わってくると思うのですがいかがでしょう。

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出典は勅撰集! への8件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    勅撰集、この意味あいは大きくて重いですね。
    如何に天皇・上皇・法皇の権威、重みが大きかったかを示すものと思われます。
    それにしても勅撰集の合計が12170首もあるとは驚きました。
    その中から100首、これは入首する方が難しいですね。

    何故か私の最も好きな万葉歌人の額田王、そして平家物語で有名な薩摩の守、平忠度の和歌が選ばれていません。
    額田王はもちろんのこと忠度の和歌、大好きです。
        さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 
    忠度の都落ちの哀歓が偲ばれて涙します。
    平家物語のファンでなくてもこの場面泣かせます。
    「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」 とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残をしうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ 

    伊勢の地が詠まれていないこと、この二人が選ばれなかったことが私の最大の不満と疑問で惜しまれます。
    定家に聞いてみるわけにもいかず今更どうしようもありません。

    選ばれた歌が必ずしも歌人の最高の和歌ではないし、選外の歌が劣るわけでもないのは周知の事です。
    そこが「百人一首」の謎としていろいろ語られる由縁でしょうね。
    この謎についても話し合ってみたいものです。

    • 百々爺 のコメント:

      勅撰集、選ぶ人、選ばれる人がそれぞれ必死だったのは当然ですが選ばせた人(天皇・上皇・法皇)、この顔ぶれがすごいですよね。最後の二人(後堀河・後嵯峨帝)のことはよく知りませんが、醍醐・村上帝は延喜・天暦の治(聖代)だし、花山院も一般的行状はともかく和歌を愛し自らも歌人であったし、続く白河・崇徳・後白河院もそれぞれ王朝文化を尊ぶ一流の文化人であった。そして後鳥羽院は和歌を愛したというより自ら和歌にのめり込み、新古今集編纂で定家と衝突するに至った。。。

      王朝の権威そのものである天皇・上皇・法皇が選ばせる公的和歌集、勅撰集が重い意味をもつのは当然なのでしょう。

      それにしても一条帝は何故勅撰集を編まなかったのでしょう。藤原公任あたりにやらせたらよかったのに。

  2. 文屋多寡秀 のコメント:

    「撰者も名誉にかけて下手な歌は入れられない。選ぶ方も選ばれる方も歌人としての生命を賭けた一大事だったのでしょう。」のはずなんでありますが,織田正吉著「絢爛たる暗号」を読んでおりますとあろうことか、贔屓にしております文屋康秀なんぞは小気味良いほどにこきおろされておりますね。いわく。藤原公任の標本集「和歌九品」の中で九段階中の七位「下品の上」に格付けしたのが文屋康秀の
     吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
    の歌である。「古今集」仮名序は、文屋康秀は、ことばたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人のよき衣きたらむがごとし。と厳しい批評を下しております。
     一方万葉集以来の代表的歌人で「百人一首」に漏れているものは数多いと指摘しています。先ほどの額田王を筆頭に 山上憶良 大伴旅人 源順 など。
     ことほど左様に古今東西 「選ぶ」「絞りこむ」作業は難しいんでしょうな。サッカー日本代表新監督ハリルホジッチも阪神和田監督も頭を痛めておるんでしょうなア。

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、「絢爛たる暗号」を読んでおられる! そりゃあ、頼もしい限りです。あの本、多分百人一首業界にとんでもない波紋を投げかけたのだと思います。よくもわるくも傑作には違いありません(私は「そうだ、よくぞ言ってくれた!」というところと「そりゃあ、考え過ぎだろう!」というところ相半ばでしたが)。

      誰が何と言おうと「吹くからに、、」いいじゃないですか。これを選んだのも定家のユーモアと言おうか遊び心と言おうか。。。だって六歌仙だし、古今集に選ばれてるんですよ。ご先祖さま、大したものですよ。

      定家の撰歌具合については色々言われますがそんなの「定家の勝手でしょう!」。いいんです、定家が選んだ歌はみな偉大なんです。。。そんな感じで自信を持ってハリルホッジ監督にもやってもらいたいものです。
       →和田ちゃんには「去年日本シリーズに行ったのはワイやで!原とちゃうで!」って意気込みを持ってやって欲しいですね。

  3. 源智平朝臣 のコメント:

    百人一首の出典となった10の和歌集の後に11の勅撰和歌集が編集され、合計すると21の勅撰和歌集が編集されたようですね。これらは総称して「二十一代集」と呼ばれ、歌の総数は35,067首に及びます。

    勅撰集に入る競争率はとても高かったでしょうから、撰に漏れた歌は山のようにあったのでしょうね。仮に競争率が100倍とすれば、漏れた歌の数は35,067首x99=3,471,633首、1,000倍とすれば同様の計算で35,031,933首となり、正に屍累々(しかばねるいるい)という状況です。これは飛鳥から鎌倉・室町時代までの日本においては歌を作ることが如何に盛んだったかを表しているとも言えるのでしょうね。

    ところで、二十一代集の中でも、古今から新古今までは八代集と呼ばれて、重要視されているようですが、その八代集を覚えるゴロ合わせをご存知ですか? それは「呼気に口臭 口臭禁止洗剤シュッ!で 深呼吸」(順に、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集、新古今集)というものです。「後」を「ご」でなく「こう」と読ませるといった苦しい部分もありますが、良くできたゴロ合わせと思うので、是非これで八代集の名を覚えられては如何でしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、数字できましたね。なるほど。二十一代集で約3万5千首ですか。結構多いですね。二十一代集でざっと500年間ですから1年あたりにすると70首。即ち毎年ベスト70が選出されてたって計算になりますね。詠まれた数は無数でしょうが一応の対象になったのはまあせいぜい100倍の年間7千首くらいなんでしょうかね。多分歌人たちの私家集なんかから選ばれたのでしょう。まさか公募なんかはなかったのでしょうね。色々想像すると面白いものです。

      八代集の覚え方ってそんなのですか。サンスターかライオンの宣伝みたいですね。ついでに後に続く十三代も考えてみてくださいよ。。

      • 在六少将 のコメント:

        公募はなくても自薦の運動はあったでしょうね。我々は結果だけしか知るよすがはありませんが、そこには悲喜交々な綾があったはずで、歌の雅の世界とは裏腹な人間くささもプンプンと匂ってきます。

        • 百々爺 のコメント:

          歌人として認められるか、認められたらどこまで上位に行けるか壮絶なバトルだったのでしょうね。

          中でも御前試合たる歌合せは応召された歌人たちも緊張したことでしょう。40番平兼盛と41番壬生忠見のところで詳しくやりたいと思っています。

          勅撰集ではないですが現代の「歌会始」もコンセプトは同じようなものでしょうか。毎年お題が決められ全国から応募し撰者によって10首選ばれ読み上げられる。そりゃあ名誉なことなんでしょう。天皇初め皇族方もそれぞれに歌を披露される。我が国において和歌が如何に大事に扱われてきたかが分かる気がします。

           →俳句はせいぜいNHK全国俳句大会くらいのものですもんね。

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