52番 やさしき後朝の歌 道信朝臣 恨めしき朝ぼらけ

「ああ、夜が待てないんだ、、、」と狂おしいまでに女性を慕う名歌を残した道信朝臣、彼もまた23才で夭折。つくづく疫病が恨めしくなります。

52.明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな

訳詩:    夜が明けてゆけば やがてまた
       次の夜がやってくるとは知っていても
       この一瞬がたとえようもなく貴重なのだ
       ああ なぜしらじらと明けてしまうのか
       心のこりな 口惜しい この朝ぼらけよ

作者:藤原道信朝臣 972-994 @23才 太政大臣為光の三男 従四位上左近中将
出典:後拾遺集 恋二672
詞書:「女のもとより雪降り侍りける日帰りて遣はしける」

①藤原道信 
・父為光942-992は師輔の九男、伊尹・兼通・兼家の弟。花山帝に娘を入れ花山朝では重きをなしたが兼家の策略で花山朝→一条朝に変り名誉職的太政大臣で終わった。法住寺を建立
 →権門だが最高位には上れなかったのが父為光であった。
 →為光の母は雅子内親王(43敦忠の想い通じず師輔がしとめたあの内親王である)

・母は伊尹の娘。即ち為光は姪を妻に迎えた訳である。

・為光の次男(=道信の兄)がかの有名な藤原済信(ただのぶ)967-1035 一条朝で道長の信任重く藤原公任、藤原行成、源俊賢とともに四納言と称された。
 →済信は権力志向だったが兼家流には敵わず道長に随うことで正二位大納言を全うした。
 →枕草子で清少納言が持て囃した若公達である。

・そんな父、兄を持った道信。何故か伯父兼家の養子となり左近衛中将 従四位上に。
 光琳かるたでは武者姿。
 兄済信と異なり温厚な性格で皆に愛された、、、、が23才で天然痘で亡くなる。
 →何となく50義孝に通じるものがある。
 →道信と義孝は従兄弟(父同士が兄弟)道信の母と義孝は兄妹。(ヤヤコシイ)
 
・道信は女性への歌も詠み妻も娶っていたが子どものことは伝わっていない。行成を残した義孝と比べそこが残念である。

②歌人としての道信
・拾遺集2首 勅撰集計49首 道信朝臣集
 大鏡には短い叙述のみ
  いみじき和歌の上手、心にくきものにいはれたまひしほどに、うせたまひにき

・公任、実方らと親しかった。
 実方は道信より13才ほど年上だが二人は近衛中将の同僚で公私にわたり親しい間柄であった。 実方が道信の死を悼み詠んだ歌
  道信の朝臣、もろともに紅葉見むなど契りて侍りけるに、かの人身まかりての秋、よみ侍りける
  見むといひし人ははかなく消えにしをひとり露けき秋の花かな
(後拾遺集570) 

・道信は婉子女王(村上帝の孫娘)に恋をしかけ歌を贈ったが大資産家で道長も一目をおいた藤原実資に敗れ婉子女王(かくや姫)は実資の妻となった(大鏡より)
 道信が贈った歌
 嬉しきはいかばかりかはおもふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ 詞花集
 →若者らしい率直な歌である。

・父為光の一周忌に父を想い詠んだ道信の代表歌
  恒徳公の服脱ぎ侍るとて
  限りあれば今日ぬぎ捨てつ藤衣はてなきものは涙なりけり(拾遺集1293)
  →年譜から考えるとこの歌を詠んだ翌年に道信は父のもとに旅立ったことになる。その方が哀しい。

③52番歌 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
・「明けるけどまた必ず夜が来る」理屈である。でもこの理屈がいい!
 →そんなことわかっちゃいるけど、でも夜が待てないんだ! 
 
・「あさぼらけ」夜が白々と明ける頃
 →「あさぼらけ」で帰るのは遅い。濃密な時間を過しすぎて起き上がれなかったのかもしれない。

・30番 同じ後朝の歌だが「あかつき」を詠っている。こちらの方が早い。
  有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし(壬生忠岑)

・百人一首の後朝の歌は他に
 43番 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり(敦忠)
 50番 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(義孝)
 →享年は43番敦忠38才、50番義孝22才、52番道信23才 若すぎますねぇ。。

・後拾遺集では同じ詞書で道信の後朝の歌2首が並ぶ。52番歌の前の歌は
  帰るさの道やはかはるかはらねど解くるに惑ふ今朝のあわ雪(後拾遺集671)
  →後朝の歌、何首詠んでもよかったのだろうか。多いほど想いを訴えられたということか。
  →雪道を帰りながら歌を考える、王朝の男も大変であります。

・派生歌
  明けぬれば暮るるはやすくしぐるれどなほうらめしき神無月かな(家隆)
  おほかたの月もつれなき鐘の音に猶うらめしき在明の空(定家)
  →「なほ恨めしき」女心にじ~んとくるフレーズかもしれない。

④源氏物語との関連
「夜を待てない」ありましたねぇ。
・17才、六条御息所との息苦しい恋に疲れ癒しの夕顔に溺れる源氏
  今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、、夕顔9
  →この後夕顔のすばらしさが語られる。
   人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから世をまだ知らぬにもあらじ、、、

・18才、本命はやはり藤壷、ついに禁忌を犯してしまう源氏 若紫13
  かかるをりだにと心もあくがれまどひて、いづくにもいづくにもまうでたまはず、内裏にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば王命婦を責め歩きたまふ
  →もうボオーっとしてしまって何事も手につかない、さながら狂っている感じ、、この表現すごいですね。

  そしてついに藤壷の寝所に入り込み想いを遂げる
   くらぶの山に宿もとらまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり
   →時は五月短夜、「ずっと夜で明けてくれなければいいのに」

【52番歌とは直接関係ありませんが、各天皇に対し誰が外祖父として君臨したのか。道長の三后鼎立とはどういうことかまとめてみました。53番から続く一条朝の女性たちの歌を読むのにも参考になるかと思います】

天皇(在位)     后(后の父) 息子        
59宇多(887-897)    胤子(高藤) 60醍醐
60醍醐(897-930)    穏子(基経) 61朱雀 62村上
61朱雀(930-946)    特におらず
62村上(946-967)    安子(師輔) 63冷泉 64円融
63冷泉(967-969)    懐子(伊尹) 65花山
            超子(兼家) 67三条
64円融(969-984)    詮子(兼家) 66一条
65花山(984-986)    忯子(寵愛してたが死亡)   
66一条(986-1011)    定子(道隆) 敦康親王 (道長の画策でなれず)
            彰子(道長) 68後一条 69御朱雀
67三条(1011-1016)   娍子(済時) 敦明親王(道長の圧力で辞退)
68後一条(1016-1036)  威子(道長) 内親王のみ
69御朱雀(1036-1045)  嬉子(道長) 70後冷泉
70後冷泉(1045-1068)  寛子(頼長)

60代醍醐帝から70代後冷泉帝まで見事にお祖父さんは藤原氏でありました。
 →源氏物語が如何に異端のストーリーであったかが分かります。

摂関家の流れが基経→師輔→兼家→道長へと行ったのかがよく分かります。

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52番 やさしき後朝の歌 道信朝臣 恨めしき朝ぼらけ への19件のフィードバック

  1. 小町姐 のコメント:

    明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
    名残り尽きぬ明け方の別れ、又暮るれば逢えるとわかっていても恨めしい夜明けよ。
    若者らしい率直ないい歌ですね。
    あかつきではなく朝ぼらけまでついつい時を過ごしてしまったのでしょうね。
    何だか可愛らしく双方想い想われ幸せカップルに見受けられ微笑ましいです。

    道信は太政大臣藤原為光の三男で母は伊尹の娘。
    父を早く亡くして自らも早逝とは運のないこと・・・
    百々爺さんの解説には伯父兼家の養子となったとありますが田辺本では内大臣、道兼の猶子となり道兼夫人の妹姫と結婚したとありますがいかがでしょう?
    50番の義孝は叔父で行成の従兄弟にあたる。
    寛和の女御と呼ばれた婉子女王との間に悲恋物語があったという。
    美女の誉れ高い名門の姫君であるが実資の妻となる。
    ライバル、藤原実資はすべてに恵まれた政治家で到底若き道信に勝ち目はなく悲恋に終わる。
    道信にはこれまでの人に見られるような強烈な個性と言うものが感じられずイメージとしては印象が薄い気がします。
    前述の51番実方の親友で道信は23歳という若さで死んでいる。
    勅撰集に49首も採られているという若き青年の早すぎる死が惜しまれます。
    それにしてもこの所、若き才能ある宮廷の貴公子たちの夭折が続き心が痛みます。
    もしも彼らが長命であったならばその人生も変わっていたやも知れずあるいは恋も成就し官位も上がり活躍の場もあったことでしょう。
    誠に人の一生の運命は計りしれず何が起きるかは誰にもわからなくただただ儚さと憐れを感じます。

    そう言えばこの歌、源氏物語「夕顔」を思い出させますね。
    今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく・・・
    源氏17歳、エネルギーもてあます若さ、夜が待てない、男の性のほとばしり、狂おしさが感じられます。

    外祖父と摂関家の流れ、この辺もこんがらがっていましたので整理していただきよくわかり有り難いです。
    冬嗣がいて基経が良房の養子になったと言う事が勝者の始まりなのですね。
    熾烈な宮廷内の争いにしのぎを削った藤原氏、一体何者?

    • 百々爺 のコメント:

      珍しく金曜日から4日間も風邪でダウンしていました。やっと机に座れるようになりました。折角のゴルフもキャンセル、勿体ないことしました。やはり回復力が遅い、気をつけねばいけませんね。もう大丈夫です。。

      ・道信の養子遍歴については智平朝臣が解決してくれました。この時代見込みのある若者(女性もそうでしょうが)は一族の有力者が放っておかなかったのでしょう。兼家には息子が多数いたのにそれでも道信を養子に迎えた。持ち駒は何枚あっても困らないということなんでしょうね。

      ・藤原実資、「散華」にも大きな役割を果たす男として出てきましたね。道信にはちょっと相手が悪かったようですね。実資、今後の歌人たちの語らいの中にまた出て来そうです。

      ・道信、ちょっと印象が薄いイメージですか。なるほど、私もそう思います。でもこの52番歌そのものは結構インパクトある歌だと思っています。

  2. 百合局 のコメント:

     52番歌は率直で一途で初々しい歌ですね。道信が夭折しただけに、よけい若さと愛の素晴らしさを読者に感じさせるのかもしれません。

     「今昔物語」四の二十四の38「藤原道信朝臣送父読和歌語」の概略は次のようです。 
     道信は父を失うにつけ、女に会えぬにつけ、桂・壺坂・極楽寺に遊ぶにつけ、歌を詠じて心を遣ったということです。父を失った時の歌は百々爺があげていますので、もう一つの「~亦、世中ノハカナキ事共ヲ云テ、牽牛子ノ花ヲ見ルト云心ヲ、
     アサガホヲナニハカナシト思ヒケム人ヲモ花ハサコソミルラメ

    夭折した作者の人生に重ね合わせて、つい読んでしまいます。

     道信と藤原実資との関係には、あはれ柏木と源氏との関係を思い出します。

    安東次男は「俊頼髄脳」の次のような説話をあげています。
     道信の中将の山吹の花をもちて上の御局といへる所をすぎけるに、女房たち数多ゐこぼれて、さるめでたき物をもちてただに過ぐるやうやあるといひかけたりければ、もとよりやまうけたりけむ、
     くちなしにちしほやちしほ染めてけり
    といひて差し入れたりければ、若き人々え取らざりければ、おくに伊勢大輔がさぶらひけるを、あれ取れと宮(中宮彰子)の仰せられければ、うけ給ひて一間が程をゐざりていでけるに、思ひよりて、
     こはえもいはぬはなのいろかな
    とこそつけたりけれ。是を上(一条天皇)きこしめして、大輔なからましかば恥がましける事かなとぞ仰せられける。

     小町説話の中にも道信のでてくる話があります。深草少将の百夜通いの説話は有名でいくつかの説話集にでています。
     小町のドクロの目から薄が生えて、風が吹くと痛い、それを道信中将があはれに思って薄を抜いた。その夜の夢に「小野小町と申す者のどくろです。~ お礼に歌の上手に詠ませて~ 」とあります。 それで道信は歌の上手となった?(説話です)
     謡曲『通小町』や『卒塔婆小町(の最後の方だけ)』は、この話の前半部分だけで道信はの話はでてきません。

    • 百々爺 のコメント:

      ・道信と藤原実資はあはれ柏木と源氏との関係を思わせる、、、

       なるほど、ピッタリですね。道信は実資に決まってた婉子女王を猶あきらめきれずついに婉子女王の寝所に忍び込み契りを結んでしまう。それが実資にバレて実資は道信を宴席に呼び出し酒を無理強いしいびりぬく。それ以来道信は重篤に陥りついには亡くなってしまう。「あはれ、左近衛中将!」道信の死因は天然痘などではなかった、、、、、なんてね。

       →実資の権力・財力・態度風格は源氏を思わせるものがありますね。

      ・安藤次男の「俊頼髄脳」説話の紹介ありがとうございます。
       伊勢大輔が下句をつけたというこの話どこかで読んだ気がしたのですが道信なんですか。ちょっと年代が合いませんが道信があと10年ほど長生きしていればこういうこともあったろうにということなんでしょうか。いい話だと思います。

  3. 枇杷の実 のコメント:

    あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさぼらけかな
    そのままストレートに読める歌で、ややこしい技法はなく、覚え易い。意味も一読して分る。しかしながら「くるるものとは知りながら・・」を「来るる」と判断すると本来の意味が崩れる。二人で素敵な夜を過ごしたが、時の経つの早すぎてもうすぐ夜明けになる。「かえらなくちゃ」あゝ、押し寄せ来る朝ぼらけが恨めしい。おまけに外は雪がしとしとと・・。
    そうではなく、「暮るる」と読めば、恋する男の気持ちがシンプルに込められた、後朝の名歌となる。
    一見、淡々とした歌であるが、夜が明けてから次の朝までの、時間の経過が詠んであるところに、後朝の別れの未練がにじみ出ている。(白洲正子)

    天然痘で惜しくも夭折した道信、まさに「いみじき和歌の上手」で、短い人生の内に拾遺集に2首、勅撰集に49首を遺す。
    中でも、百合局さんが取り上げている道信の次の歌は良いですね。あわれを誘う。
    朝顔の花を、人の許につかはすとて
    朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」(拾遺1283)
    朝顔の花は早朝咲いて陽が高くなると萎んでしまうので、果敢無いものの譬えとされた。夭折した作者の人生に重ね合わされ鑑賞されてきた歌である。(千人万首補記

       浅からぬ 因縁試合 二得点

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですね、私も初めは「来るる」と思って「夜が明けると別れの時が来るものとは分かっているが、、、」と考えていました。でもよく考えると後朝の歌、別れてきてから詠んだ歌なんですから「暮るる」じゃないと意味が通らないしこちらの方がピッタリ来ます。今では好きな歌の一つです。

      ・百合局さんにも取り上げていただいた朝顔の歌いいですね。これは恋人に贈ったというより純粋に朝顔の儚さを心の友と共有し合ったという歌なんでしょうね。

       ついには実らなかった朝顔の姫君との贈答歌を思い出しておきましょう(朝顔3)。
       源氏 見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん
       朝顔 秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔
       →歯車が噛みあわないと歌まで噛みあわない。紫式部の力作でしょう。

      ・浅野琢磨、四日市中央工業、やりましたね。録画で朝見たんですが興奮してまた熱が出ました。シンジ(岡崎)の後継者はジャガー琢磨でしょう。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原道信は23歳の若さでこの世を去りました。道信は15歳で元服したので、成人としての活動期間はわずか9年に過ぎません。しかし、生まれも育ちも良く、いみじき和歌の上手であったため、彼の短い生涯は当時を代表する貴顕や歌人たちとの華やかな交流に彩られています。このため、その一生は国文学者等による伝記研究の対象となっているようであり、ネットに妹尾好信広島大学教授が作成した「藤原道信年譜稿」と題する道信の生涯を描いた年表が掲載されていました。以下のコメントはこの年譜稿を基にしたものです。

    1.百々爺は「道信は何故か兼家の養子となり云々」と記していますが、15歳で元服した年に氏の長者である兼家に見込まれて養子となったとのことなので、見所のある少年だったからと思われます。「道信」という名はおそらく元服時に付けられたもので、養父である兼家の子が共有する「道」の字と、実父である為光の子が共有する「信」の字を併せ持った名としたようです。

    2.小町姐さんから「田辺本では道信は内大臣、道兼の猶子となり道兼夫人の妹姫と結婚したとありますがいかがか」という質問がありますが、これは道信が19歳の時に養父兼家が薨去したため、兼家の子である内大臣道兼の養子となり、道兼夫人の妹(藤原遠量女)と結婚したからです。従って、田辺本の記述も事実です。

    3.道信は16歳の時に、石清水の臨時の祭りで、藤原実方とともに舞人を務めました。これが年譜稿に登場する道信と実方の最初の交流ですが、実方とはその後も、比叡山で修業する花山院を思い出して一緒に歌を詠んだり、円融院を偲んで歌を贈答したりした等の交流があり、実方が道信亡き後に追慕の歌を詠んだことも考え合わすと、極めて親しい間柄だったと思われます。

    4.道信は近江介、但馬権守、美濃権守といった地方の官職も拝命していますが、全て兼任なので、地方には行かなかったと思われます。ところで、こういうのも任国に赴かない国司の場合と同様、「遥任」と呼ばれ、また、収入だけはもらえるものなのでしょうか。百々爺or百合局さん、教えて下さい。

    5.年譜稿では、道信が恋慕していた婉子女王が藤原実資と結婚したのは、道信23歳の年の7月初めと推定されており、卒去したのは7月11日とあります。これが事実なら、「憂きは身にしむ心地こそすれ」という傷心の歌を婉子女王に届けてから10日経つか経たないかの内に卒去したことになり、死因は天然痘のみならず失恋による痛手もあったのではないかとすら考えてしまいます。でも、そうした突然の卒去にもかかわらず、臨終に際し、北の方に向けて、次の辞世の歌を詠んだというから、さすがに和歌の上手は違うと感心する次第です。
    ・・・北の方の御もとへ山吹のきぬたてまつり給ふとて、「くちなしの園にわが身入りにけむ 思うことをも言はでやみぬる

    長くなりましたので、この辺で止めます。いずれにせよ、52番歌は率直で素敵な後朝の歌であるという見方に賛成です。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「藤原道信年譜稿」の紹介ありがとうございます。学術論文があるのですね。兼家その後通兼の養子となった経緯よく分かりました。納得です。

      ・実資の「小右記」にも頻繁に出て来ているようで実資との交流も結構あったのでしょうね。婉子女王を張り合った仲とは言え実資にしてみれば負ける筈のない相手だったでしょうし、道信が長生きしていれば「見所のあるヤツ」と一目おいて目をかけていたかもしれませんね。

      ・余りにも突然の死で関係者は呆然としたのでしょう。取り残された北の方が哀れです。「くちなしの」歌には涙が出て来ますね。

      ・「遥任」の際の手当、興味あるところですね。またこれも百合局さんのご意見を聞きたいのですが、当然何らかの手当はもらってたのでしょう。ただフルなのか半分なのか。トップの「守」が遥任なのは分かりますが介とか権とかトップでもないのに行かない(行かなくていい)なんてのはどうもよく分かりませんね。まあ分からない所が平安王朝なのでしょう。
       →まあ何らかの意味でのお手盛り人事なんでしょうね。

  5. 小町姐 のコメント:

    源智平朝臣殿、百々爺さんに代わり質問に答えて下さりありがとうございます。
    「道信は19歳の時に養父、兼家が薨去したため、兼家の子である内大臣道兼の養子となった」
    実父、最初の養父共に早く死に別れていると言う事ですね。
    自らも早逝、考えてみれば陰謀、策略うずまく政争に巻き込まれることなく世を去ったことは一面、幸せだったと言えるかもしれません。
    そんな中での婉子女王への恋慕は失恋に終わったとしても短い人生を彩る思い出になったと信じたいです。
    北の方への辞世の歌、道信の思いが伝わる良い歌ですね。
       くちなしの 園にわが身 入りにけむ 思うことをも 言はでやみぬる

    • 小町姐 のコメント:

      百々爺さん、4日間も風邪でダウンされていたとの事もう大丈夫ですか?
      無理しないでくださいね。
      私は半年ほど前からジムに通うようになり今年は一度も風邪を引いていません。
      余り自慢するとすぐにつけ込まれそうなので止めます。
      運動嫌いの私がジムに通うなんて夢のような話。
      お月謝を無駄にしない為頑張っているようなものですが結果良ければOKです。

      • 百々爺 のコメント:

        ありがとうございます。結構気をつけてたのですけどねぇ、いややっぱりちょっと油断しましたかね。もう大丈夫でしょう。

        ジムの効果出てるようですね。身体を動かすのはいいですよ。益々元気になってください。

  6. 小町姐 のコメント:

    【余談20】 邦楽第二弾
    お正月の能にして能にあらず、「翁」に続いて琵琶の演奏を聴いてきました。
    野村万作氏曰く、一生に一度でいいので「翁」を見てくださいと言われています。

    琵琶の演奏を聴くのは今日が二度目、以前聞いたのは何の琵琶だったか忘れましたがひょっとして薩摩琵琶だったかも。
    今日のは筑前琵琶。前回よりも優雅で優しい音色でした。
    琵琶にもいろいろ種類そして流派があるとの事。
    以前に奈良博物館の正倉院展で中国から伝わったという螺鈿づくりの琵琶を目にしたことがある。
    その点から言えば筑前琵琶は割合新しいものといえる。
    今日の演奏者は男性一人と女性(老若)二人で男性の持つ琵琶はやや大ぶりのもの。
    演目は平家物語から 「祇園精舎」「敦盛と次郎直実」「那須与一」「壇ノ浦」の4曲。
    平家物語の名場面ばかりで二年余り学習した私にもなじみ深くてこちらは能楽よりもわかりやすく楽しめた。
    特に壇ノ浦
    主なき船の淋しげに 揺られ揺られていにし後 白波ならで白旗の時めく世とはなりにけり
    二位の尼御の辞世の歌を偲び哀惜の涙を禁じ得ません。
       今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは

    近頃日本の伝統芸能に少し興味がわき「文楽や歌舞伎の50選」とか「長唄の世界へようこそ」なんて本を読み始めている。
    今日の「敦盛と次郎直実」の語りは歌舞伎で見た「熊谷陣屋」とは全く違うストーリー。
    ここが私にはよくわからない、歌舞伎は相当脚色してあるし史実とも異なる。
    一体どうなっているんだろうと不思議でならない。
    百合局さんに今度お会いしたら是非教えていただきいと思います。

    枇杷中納言と呼ばれ琵琶の名手で究極の貴公子、宮廷の寵児として一世を風靡した敦忠。
    源氏物語では琵琶の名手、明石の君、そして枇杷の実さんをそれぞれに思いだしながらの楽しい一日でした。

    • 百々爺 のコメント:

      琵琶の演奏見聞記ありがとうございます。いい世界に遊んでおられますね。古典(書物)から発し伝統芸能の世界へと興味を発展させる、素晴らしいと思います。絵とか書とかもありますしねぇ。

      琵琶演奏での平家物語の語りは平家物語の文をそのまま語るんでしょうか、それとも違った(脚色された)文を語るんでしょうか。

      壇ノ浦、8才の安徳帝を奉じて二位の尼御(時子)が入水する。。これはいけませんねぇ。天皇は平家のものではないんですから。その辺、「国体」というものが分かってない新興勢力のなせるところなんでしょうか。藤原氏なら決してそんなことはしないでしょうに。。

      • 小町姐 のコメント:

        琵琶の演奏は平家物語を軸に作詞、作曲者が別にいて演奏者が語りながら琵琶を弾きます。
        私がテキストとして使用した岩波文庫「平家物語」全4巻と比べてみましたが語り言葉は違うものです。
        おそらくは語りやすく琵琶の旋律とも合う様に脚色されていると思います。
        ですから壇ノ浦の最後の引用部分も原文とは違いますし短くもなりつつ要所を押さえたものとなっていました。

        追伸
        壇ノ浦、8才の安徳帝を奉じて二位の尼御(時子)が入水する。
        歌舞伎では安徳天皇が生きていたり宮尾本「平家物語」では入水したのは安徳帝の身代わりだったとかいろいろありますよね。
        もしも安徳天皇がおわしますれば後鳥羽はどういう立場だったのでしょうね。
        歴史にもしもはないですが色々考えさせられますよね。

        • 百々爺 のコメント:

          YOUTUBE見てみました。色んな流儀スタイルがあるようですね。音曲ですからやはり五七調七五調が基本になってるのでしょうか。平家物語は一大叙事詩であるものの場面場面が切れているのでとっつき易いのでしょうね。琵琶の音の哀調がピッタリなんだと思います。

  7. 在六少将 のコメント:

    帰るさの道やはかはるかはらねど解くるに惑ふ今朝のあわ雪(後拾遺集671)
    独創的で好きですね。
    秀を贈りたいと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。
      「解くるに惑ふ」が何とも官能的ですね。頼りないあわ雪がふわふわと腕の中で解けていった感触を思い出しているのでしょうか。

  8. 文屋多寡秀 のコメント:

    風に誘われるまま、月初よりふわふわと風来坊を決め込んでいましたが、談話室はマグマの吹き出る如く論壇風発、奔放なまでの拡がりを見せておりますね。これらを拝見しておる間に早や週末と相成りました。

    足跡を残さんとキーを叩き始めましたものの、高尚且つ深い話題に少々ビビっております。

    本年初めての三重行です。何?あの浅野君が四日市中央工の出身?これはまた誉れですなあ。山口蛍君以来の三重つながりですなあ。願わくばリオでのご活躍を!!

    三重への土産に小倉山荘へ。山荘といったって「おかきや」さんです。小倉と銘するだけあって百人一首関連の冊子が付いています。その「初春の号」より。

    日本が世界に誇る文化や芸術。その礎には、この国ならではの季節感やら自然観があるといわれています。四季が豊かな国に生きることで育まれ、受け継がれてきた独特の感性を御紹介する「花鳥風月雨雪」。初春は雪にまつわるお話。雪月花の風雅を初めて三十一文字に綴ったのは、三十六歌仙の一人、大伴家持。

     雪の上に照れる月夜に梅の花祈りて贈らむ愛しき児もがも
    (明かりが雪面を照らす宵には、梅の花を折って愛しい人のもとに贈りたいものだ。そんな人がいればよいのだが。)

    三重で読む新聞は御存じ中日新聞。そこには小林一彦氏の百人一首・紹介記事が。二日付けは59番歌の赤染衛門。シリーズならば小町姐に一肌脱いでもらわねば。ここではさわりだけ。赤染さんはなかなかの良妻賢母であったとか。並び称された和泉式部は「されど和泉はけしからぬこそあれ」(紫式部日記)との乱倫ぶりとは好対照。あなたはどちら好みですかな?

    こうしてみると、私の日常生活に深く影響している百人一首の世界。やはり注意はそちらの方に行ってるんでしょうな。

    さて52番歌、藤原道信朝臣。雪の朝方、女のもとから帰っての後朝の文の一首。寒々とした都通りを、今宵の逢う瀬を心待ちにして帰らねばならない心を、未練を込めて贈るんです。相手も宵を待ちかねる。二人の若い情熱が、何と素直に表現されていることか。二十三歳で没したとはいえ、やるべきことはちゃんとおやりになったことよなあ。

    • 百々爺 のコメント:

      お忙しい中、コメントありがとうございます。何でも日記代わりに使っていただけばいいと思いますよ。

      ・雪中花の歌の紹介ありがとうございます。家持の万葉集なんですね。未逢恋でしょうか。率直でいいと思います。

      ・中日新聞、懐かしいなあ。私の実家も中日新聞でした。ずっと山岡壮八の徳川家康でしたね(読んでませんでしたが)。次週からずらり女性歌人たちが登場します。個性的な人ばかりなので談話室が沸騰するのではないかと楽しみです。
       →赤染衛門(良妻賢母)vs和泉式部(乱倫夫人)ですか。じっくり考えてみましょう。

      ・雪の朝、さぞ寒かったろうと思うのですが意外と昔の人は平気だったのかもしれません。暖房とヒートテックやフリースでひ弱くなってる我らとは鍛え方が違うのでしょうから。そうでなきゃ冬の「男女の語らい」などできないじゃありませんか。道信も火照った身体を冷ましながら帰ったのだと思います。

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